NO.5
光君が大学に入学した年に、僕は十三歳になった。この家に迎えられて十三年になったのだ。
思えば、この時から、僕の周囲で何かが崩れ始めたのだった。
最初に自己紹介をする。僕は犬だ。名前はシロという。僕が真っ白い毛色の秋田犬だから、光君にそう名づけられた。
家族の話をする。まず、「お父さん」がいる。ある大学の生物化学の研究所で働いている研究者らしく、ある分野でとても権威があるらしい。次に、「お母さん」は、当たり前だがお父さんの奥さんで、専業主婦だ。とても穏やかな人で、少し心配性で、深い思いやりの持ち主だ。僕の気持ちもよく考えてくれる。
そして最後に、二人の間の子供であり、僕にとって「お兄ちゃん」である光君。賢くて優しく、僕を本当の弟のように大事にしてくれる一番の仲良しだ。そして、僕の命の恩人でもあった。
僕は、もともと殺される運命だったらしい。
僕の生まれはある化学研究所で、新たに開発される薬の被験体になる予定だったのだ。死ぬ運命に気づかない僕と兄弟たちは、ある日突然、選ばれて連れて行かれた。そして二度と帰ってこなかった。死への順番がどう決められているか知る由も無く、世話係の人は均等に僕等を可愛がってくれて、幸せだった。僕は犬だから、自分の一生は、幸せであると信じて疑わなかった。
ある日、ケージの中で兄弟たちとまどろんでいたとき、ふと、一人の男の子が、こちらを覗き込んでいるのに気づいた。まだ小学生にもならないだろう、幼い男の子は、僕をじっと見ていた。僕も、彼をじっと見た。
「この子がいい」
男の子はそう言って僕を指差した。すると男の子の隣にいた大人に抱き上げられ、そっと男の子に渡された。まだ小さい僕は、幼い男の子の腕の中にもすっぽり包まれた。彼がいっぱいに笑った。その瞬間、今までに無い幸福感に満たされた。乾いたスポンジが水を吸い上げるように、喜びが血脈を通って全身を強く満たした。思わずその顔を舐めると、彼はさらに嬉しそうに笑った。これが僕と光君の出会いだった。
あとから知ったが、その研究所でお父さんが働いており、「息子が犬を飼いたがっているから、実験用の中から一匹、貰えないかな」ということで、僕がその息子―光君に選ばれたのだった。聞くに、僕は兄弟たちの中で一番器量良しだったらしい。なんにせよ、僕は光君に命を救われたのだ。
僕らはいい友達だった。光君は可愛がってくれた。僕が最早赤ん坊でなく、外に出られるようになってからは、早朝お母さんも一緒に、二人と一匹で散歩に出かけるのが日課だった。休日は公園で、ボール遊びをするのが楽しみだった。光君は中学生になるとサッカー部に入ったので、お母さんと一緒に試合をよく見に行った。残念なことに、お父さんは仕事が忙しく大抵来ることができなかった。光君はお父さんに、試合を見て欲しかったに違いない。時々「またお父さんは駄目なんだ」と呟いていたからだ。ならばせめて僕は、と誰よりも光君の頑張っている姿を追い続けた。光君が幼児から少年に、少年から青年へと成長していくのを一番傍で見ていたのは僕だと自負している。
しかし光君が高校生になると、状況は変わってきた。彼は成績が良く、地域でも偏差値トップの高校に合格したので、勉強で忙しくなったのだ。最初はサッカー部で頑張っていたけど、高校二年生の春に辞め、来るべき大学受験に向けて、予備校に通うようになった。
それに伴い、僕の実生活的な世話をしてくれるのは主にお母さんになった。光君はたまに散歩をしてくれたが、触れ合う機会は激減した。寂しかった。昔のように遊んで欲しかった。しかし僕らの関係は変わりつつあり、無邪気にじゃれあうことはなくなった。
それでも度々光君は、学校から帰ってから、僕を話し相手にした。庭の僕の家―光君とお父さんが作ってくれた木製の小屋―の傍に濡縁があった。そこに腰掛けた光君は、僕の頭を撫でながら
「シロ。お前は、わかってくれるよな」
と、よく言うのだった。正直あまり光君が求めることをわかっていなかったのだけど、彼がそばにいてくれることが嬉しかったから、精一杯尻尾を振った
そして光君は大学に合格した。冒頭で語った、僕が十三歳になった年だ。
東京にある、有名な難関私立大学だった。合格に向けての光君の一生懸命な姿を僕も家族も見ていたから、とても嬉しかった。素晴らしい兄貴を持ったと、誇らしかった。
僕の誕生日が丁度合格発表のあった三月だったので、光君の合格祝いをメインに、誕生日パーティーも一緒に開催された。誕生日だからと、普段着ない窮屈な洋服を着せられ、ピエロのような三角帽も被せられた。そんな格好の僕に大はしゃぎのお母さんは、光君と僕のツーショットをデジタルカメラで沢山撮った。嬉しくて仕方ないといった様子で、僕も幸福だった。
けれど、たった一つ、気がかりだったのは、
「シロは、いいよな……」
光君が、僕の頭を撫でながら、ふとそう呟いたのだった。この時の光君の表情の陰りに気づいたが、幸福感がそれを流してしまった。実際、犬の僕に何ができたかわからないけど、流してしまったことは、後悔している。
入学と同時に彼は家を出た。実家から大学までの通学時間が三時間弱かかってしまうため、一人暮らしが自動的に決まったのだ。寂しくてたまらなかったけど、そのかわりお母さんが一生懸命世話をしてくれるから、嬉しかった。光君は年末年始や、長いお休みのときに帰ってきたけど、あまり実家に滞在せずに一泊程度してすぐに自分の暮らしているアパートに戻ってしまった。僕ともあまり遊んでくれなくなった。残念に思ったけど、大学生は忙しいのだろうと、我慢しているうちにあまり気にならなくなっていった。
一年が過ぎ、光君が大学に合格してから次の、春が訪れた。僕は十四歳になった。
今年の春は、強い雨が沢山降ったので、桜が今までに無いくらい早く散ってしまった。泥まみれになったピンク色の花びらが塊になって、道路に貼りついているのを見て、何か表現し難い嫌な予感がしていた。
最近、あまりにも家が静かだった。しかし、かと思えば時折怒鳴り声や、激しい言い合いが聞こえるのだ。言い合っているのは、お父さんとお母さんだ。それ以外にも、誰かと電話で話しているらしい会話も、聞こえた。泣き叫ぶような声だった。
「ふざけるな……!」
聞き取れたのは、これだけだ。お母さんの声だった。何を意味するかも分からないが、異常な雰囲気だけは感じ取った。お母さんはそんな乱暴な言葉を使う人ではないはずだ。この春休み、光君は帰ってこなかった。その事実と最近の家の様子が結びついて、言い知れぬ不安を感じていた。僕自身の体調も、良くなかった。もう若くなく、特に今年の春から体力の衰えがあった。
ある日の夕暮れ時、お母さんがいつもの散歩のために僕の傍に来た。首輪に紐をかけながら、彼女は言った。
「シロは……分かってくれるよね……ううん、シロは犬だから……何も分からないよね……」
何も分からなかった。ただ、お父さんもお母さんも光君も、愛しているよと、……僕に言葉があれば、そう言ったと思う。お母さんの表情は悲しみに満ちていて、そこには迷路に迷い込んだような逃げ場の無い絶望感があった。どうしていいかわからない……と途方にくれているようだった。力なく紐を引かれ、僕とお母さんはいつものように散歩に出かけた。何にしても散歩は嬉しいので、はしゃいだけれども、お母さんは楽しくなさそうだった。それでは僕もつまらないので、彼女を楽しませようと、いつも寄る草原で紐を外されたとき、その脚にじゃれついてみた。そうして気づいたが、お母さんはいつの間にか、目いっぱいに涙を溜めていた。そして、僕を見下ろしたまま、笑った。涙が滑り落ちて僕の額を濡らした。お母さんを笑わせたくて、必死に飛び跳ねた。お母さんは、顔を歪めて笑い続けた。
「シロは、いいね……」
光君があの時言ったことと同じことを、お母さんは言った。何がいいんだろう?分からないまま草原をかけまわり、誰が捨てていったか知らないが、泥まみれのネクタイを見つけた。それを咥えて振り回し、持っていったけど、「そんなものは捨てなさい」ときつく叱られてしまった。
その後も、日常は続いていた。怒鳴り声や言い合い、それとは裏腹な気味の悪い沈黙、静寂…それは変わらず繰り返された。何を言い争っているかもう僕には聞き取れなかった。言い争いの頻度は上がっていき、激しい声が聞こえるたび、身を縮め、小屋の奥に逃げ込んだ。そして静けさが訪れると、見えない不安がより一層不安を掻き立てるのだった。
ある日の午後だった。昼寝をしていた僕は、門扉の外に人の気配を認め、目覚めた。来客だろうか?それとも危険な人物だろうか?吠えようと口を開いたが、すぐに閉じた。
光君だった。
まず驚いたのは、髪色だった。黒髪だった彼の髪は、真っ白になっていたのだ。ずいぶん痩せて顔色もあまりよくなく、不健康な感じがした。だから一瞬、そうだと分からずに、ただじっと彼を見つめた。本当に光君だろうか。
「シロ!」
突き抜けるような、あかるい、声で呼ばれた。
それは間違いない、懐かしい声だった。一気に嬉しさと、愛情がこみ上げる。
「シロ、ただいま」
それに応えて吠えると、彼は笑った。光君、おかえり。
彼は門扉を開けて庭に入ると、僕の頭を撫でてくれた。嬉しさに飛び跳ねる。
その時、家のドアが開いてお母さんが出てきた。光君を見たお母さんの身体は、凍りつくように固まった。せっかく息子が帰ってきたのにどうしたのだろう、と不思議に思ったが、彼女が小刻みに震えているのが分かった。それ以上は愕然として動けないようだった。白い髪に驚いているのかもしれない。無理も無い、僕も最初はそうだったのだから。
光君を見ると、さっきの笑顔はなくなっていた。お母さんを見る目は、冷たく……いや、むしろ激しいというべきで、表現するならば「攻撃的」だったかもしれない。しかし光君がお母さんを攻撃するわけがないから、僕の見間違いかもしれない。彼らは大した言葉も交わさず、家に入っていった。帰ってきた人間が家に入っただけなのに、何か言い知れぬ違和感があったが……僕は庭に残された。
それから、また日常が流れ始めた。光君が家にいてくれて、嬉しかった。またすぐアパートへ帰ってしまうのではないかと不安だったが、ずっといてくれた。嬉しくてたまらなかった。
一週間……二週間……一ヶ月が過ぎ……光君はずっと家にいた。学校は大丈夫なのだろうか。でも、できるだけ一緒にいたい。光君はたまに僕を散歩に連れて行き、一緒に遊んだ。昔を思い出し、また今一緒にいられることが、嬉しかった。
しかし、それ以外彼はほとんど外に出ないようだった。家には頻繁に宅急便で荷物が届くようになり、中身は主に光君がネットショップで注文した本らしかった。お金はお母さんが払っていた。聞くに真っ白くなった光君の髪は「ストレス」らしかったが「ただ染めた」とも聞き、実際は分からなかった。白髪は異様だったがすぐに見慣れた。似合っていないことも無いと思った。
何も生活は変わらなかったが、おかしいのは、せっかく光君が帰ってきたに関わらず、例の言い争いの頻度は減るどころかむしろ増えるばかりということだ。時には、明け方まで明かりがついて、誰かと誰かが言い争っている。おそらく光君とお父さんであることは間違いなかったが……。
ある夕方、退屈していると光君が庭に出てきた。その手に引き紐があったので、散歩と悟って嬉しくなった。いつもの散歩の時間に比べると少し遅かった。彼は僕の頭をやさしく撫で、僕も尻尾を振る。一緒に外に出ようとしたところで、近所に住んでいるおばさんが家の前を通りかかり、ちらりとこちらに目をやった。自然な視線の投げ方ではなく、ばつが悪そうで、それでいて面白そうな、伺うような視線だった。
「何か用か!」
光君が怒鳴ったので、何もそこまでしなくてもいいのではないかと驚いた。おばさんは「ひっ」と小さく叫んで走っていった。彼は鋭く舌打ちし、黙ったまま乱暴に紐を引いた。あまりに強い力だったので、首が苦しく、咳き込んでしまった。
いつもの草原まで連れていかれ、引き紐を外されると、好きに駆け回った。光君はベンチに腰かけて煙草を吸っている。一緒に遊んでくれなさそうだ。でも一人遊びでも十分楽しい。走り回っているだけで幸福と自由を感じる。そうやってひとしきり遊んで満足したので、そろそろ帰る時間かと思い、光君の傍に戻った。紐をつないでくれるのを待ったが、彼はこちらを見たまま、動かない。煙草の煙を吐き出し、吸殻を捨て、火を消す。ふと思い出したように、彼は僕の右耳に触れ、つまむように撫ぜた。
「シロのここさ、番号がふってあるんだよな。……その、生まれた研究所で、誰かにつけられたんだな。五番か……」
初めて聞いた。自分の耳を見ることはできないし、そもそも自分の生まれがどこであったかも忘れていた。五番。何の順番だろう。死ぬ順番だろうか、それとも生まれた順番だったのだろうか。なんにしても、誰かに番号をふられ、予定では薬を飲まされるか打たれるかで死ぬはずだった。しかし、そこから連れ出してくれたのは、光君なのだ。
「きめてくれよ……なぁ」
頭を抱えて、か細い声で言った。彼は誰に対し、何を決めて欲しいのだろうか。分からなかった。
「シロはいいな」
そしていつかの言葉をまた、俯いたまま、呟いた。
そのまま季節は梅雨へ突入し、何日もの間、雨が降り続けた。このまま晴れは訪れないのではないかと想像するくらい、長く降った。雨の日は散歩にも行けないので、身体がなまり、気分もよくなかった。腐ってしまいそうだった。
ある朝、一週間ぶりに素晴らしい晴天が訪れた。
真っ青な空が頭上に広がり、初夏の日差しが眩しく、熱く降り注いでいた。風が生温い。夏日だった。少し暑いが、今日は散歩が気持ちいいに違いない。嬉しくなった。
その時、家の中から引き裂くような悲鳴が聞こえた。
飛び上がって窓の傍に寄ったが、カーテンが閉まっていて中が見えない。また悲鳴だ。叫び声、怒鳴り声……最初の悲鳴はお母さんのものだった。物が倒れ、ガラスが割れるような音がする。ドタドタと人が組み合っているような音もした。その異様さに僕の身体はこわばって、動けなくなってしまった。日差しが熱い。
どれぐらい物音が続いていただろう。やがて、静かになった。いつも、言い争いの後に静寂が訪れるように……しかし、今度の静寂は、もっと容赦の無い、まるでそこに誰もいなくなってしまったような気味の悪いものだった。何があったのだろう……。
その時、家のドアが開いた。ほっとして、金縛りから解き放たれる。家から出てきた人物を見た。
光君だった。
しかし、本能的に、「これは光君ではない」と感じ取った。
彼は、ゆっくりと外に出ると、僕の前までやってきた。夏日の光に射された顔色はくすんでいて、どこか虚ろな表情が漂っている。それなのに目は油をさしたように、力強く光っているのだ。そのねばつくような力強さに、身構えた。表し難い異様な攻撃性を感じ取ったのだ。まるで彼は別人のようだった。彼のにおいは、僕の知っているものではなく、……生臭い、生ぬるい、肉のにおいがした。彼は白地に真っ赤な模様の服を着ており、手には赤く濡れた包丁が握られていた。その服と刃物から、嫌な匂いがするのだった。白い光が白い刃に反射して、その赤いものが血であることがわかった。緊張感が走った。
「シロ、殺した」
光君は言った。殺した。誰を。言わなくても分かった。
彼は口の端を上げて、笑った。
僕は吠えた。生まれて初めて、光君に吠えた。彼は絶望したように目を見開いた。僕は吠え続けた。彼は顔を憎しみに歪め、次の瞬間には脚を振り上げ、僕のわき腹を蹴り上げた。悲鳴を上げた。また蹴られた。今度は頭だ。意識が飛びかけた。僕も光君に殺されるのだろうか。
そのとき庭の外から悲鳴がした。この前家をのぞきこんだ近所のおばさんだった。「誰か!人殺し!」おばさんは腰をぬかしながらも、よろめくように助けを求めに行った。
光君は僕を蹴るのをやめ、走っていくおばさんの背中を見ながら、突っ立っていた。手から包丁が落ちた。季節はずれの暑さと光は、じりじりと僕等を照らしていた。影の色が、真っ黒だった。
救急車に運ばれたお父さんとお母さんの傷は深かった。が、幸い命を落とすまでにはいたらなかった。光君は警察に捕まり、取調べを受けたあと、病院に入れられた。
いろんな人がたくさん家にやってきて、彼等の話を聞いていると、「親子関係の歪み」とか「優等生の鬱屈」とか「毒になる親」とかいう言葉が頻繁に出てきた。繋ぎ合わせると、優等生で優しすぎた光君は、親の期待を一身にうけ、何でも我慢してしまい、人一倍孤独で、誰にも自分の悩みを話すことが出来なかった…ということらしい。お父さんとお母さんが望む大学に入ったものの、「何をしたいか分からない」とよく言っていたそうだ。大学の友達とも疎遠になってしまったようで、やがて授業にも出なくなった。
僕は光君の側にいたのに、彼のことはなにも分かっていなかったのかもしれない。光君が僕によく言った、「シロはいい」を思い出した。彼は僕をうらやましがったのは、僕が運命の決まった犬だからだろうか。お母さんも同じことを言った。皆、そんなに僕がうらやましかったのだろうか。確かに僕は幸福だった。でも、それはみんなが僕を愛してくれたからだ。十四年一緒に暮らし、そばにいた。
彼は自分の運命を、こんなふうにしか、決められなかったのだろうか。いや、僕は光君が自分で自分の運命を逃げずに決めることが出来るはずだと信じている。お父さんもお母さんも、そして誰より光君を、僕は愛している。
一ヶ月して、お父さんとお母さんが退院した。二人と一匹で、一緒にまた、暮らし始めた。光君は、まだ、いない。
僕は、光君が帰ってくるのを待っている。