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アメリアがハリソン・ハウスに来たばかりで、まだ一週間の試用期間中であること。何度も小さなミスをしており、ついにはお皿を割ってしまったこと。そして自分がまるで役に立っていないと感じることを、アメリアはつらつらと説明した。
日々のパンやケーキやお茶を作っていても、アメリアは自分がいてもいなくても、ほとんど影響がないのだということを実感していた。なぜなら元々はジェーン一人でできることを、アメリアがジェーンに傍に付いていてもらってやっているからだ。
時々彼女はキッチンに戻ってそちらの仕事をこなしているが、アメリアがいることで助けになっているようには見えない。
役に立たないことがアメリアの不安を更に大きくしていた。
これでは本採用されなくても仕方がない。
「いや、仕方がなくはないだろう」
カエルはいろんな感情が混じり合ったような声を出した。呆れを押さえ込もうという意思も少しばかり窺える。
「君が割った皿は大事なものではなかったのだろう。それもまだ一回だけだ。もし二回目があったとしても、それが理由で辞めさせられることはないし、仕事を初めてまだ一週間も経っていないのなら、即戦力にならないことくらい、誰だってわかっている」
「でも今度は旦那様の高いカップを割ってしまうかもしれないんです」
「割ればクビになるような大事なカップをミセス・キャボットが……ハウスキーパーが新人に触らせるわけがないだろう。陶器類を管理している彼女の責任にもなるのだから」
カエルの言い分は最もではあった。屋敷の内情も驚くことによく知っているらしい。しかしアメリアは安心できなかった。
パン皿を割った時にすぐに駆けつけたキャボットのあの反応を見ていれば、たとえ鍵付の陶器室に入っているティーカップではなくても、割れば一大事になるものはあるのだろうと思える。
「そう、でしょうか?」
アメリアが納得しないと、カエルは小さく口を開いてため息を吐いた。
「では君は実はよく仕事をサボっていたりするのか?」
「え? まさか! 一度だってサボったことはありません!」
思いもよらぬことを言われて、アメリアはぶんぶんと首を振った。
「では実は重度のアルコール依存症だったりするのか?」
「ええ? 違います!」
「だったら何も問題はない」
「え?」
「よほどのことがなければ本採用だと言われたのだろう。よほどのことっていうのは、そういうことを指すんだ。だから問題ない」
カエルに常識を諭されたアメリアは言葉を詰まらせた。
「…………そうなのですか?」
「仮にでも採用されているのだから、その時点でほぼ採用基準は満たしているんだ。それなのにそんな些細なことでクビになるなんてあり得ない」
まるで長年屋敷の人事に関わってきたかのようにはっきりと言い切られる。アメリアは段々とカエルの言う通りかもしれないと思えてきた。
それならば少しは安心していいのかもしれない。
まだ自分がここにいてもいい人間なのだという自信が湧かない以上、気を緩めることはできないが、失敗一つ一つに怯えるのは、確かに過剰反応だと言えそうだった。
少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。ジェーンが言っていたように、アメリアに必要なのは力を抜いて仕事をすることだったのだが、そうすることでミスが増える可能性を怖れて気を張り詰め、睡眠不足という泥沼に嵌まっていたのだ。
それはアメリアがキャボットやジェーンの許容範囲をずれた基準で考えていたからでもある。そこを間違いだと指摘されれば、身動きの取れない状態から、片足だけでも抜け出せた気分だった。
「仕方ないな」
「え?」
アメリアが考えごとをしていたせいか、カエルはまだ納得できていないのだと判断したらしい。
「明日、同じ時間にもう一度ここに来なさい。そうしたらもっとちゃんと話をしてあげられるから」
「明日? 来てくださるのですか?」
心配をさせていることが申し訳なくはあったが、またカエルが会ってくれるというその提案は、アメリアにはとても魅力的であった。
「ああ、だから今日はもう帰りなさい。いつまでもそんな格好でいるのはよくないし、それに疲れているのだろう。眠れなくても横になって、体を休ませなくてはいけない」
とても自然に気遣われて、アメリアはくすぐったくなった。この屋敷の人たちは優しい人ばかりだが、一番に優しいのはこのカエルかもしれない。急激な環境の変化に疲弊していた心がジンと温かくなる。
「はい、休みます。話を聞いてくださってありがとうございます」
アメリアの顔からこのところ消えていた自然な笑顔が浮かんだ。
「これくらい構わない。では建物の入り口まで送ろう」
そう言ってカエルがベンチから飛び降りたので、アメリアはびっくりした。
「いえ、すぐそこですから大丈夫です。一人で帰れます」
「私がカエルであろうと、ここが屋敷の敷地内であろうと、夜中に女性を一人で歩かせるわけにはいかない。私が勝手にそうしたいだけだ。まあ、何ができるわけでもないカエルに付いてこられても迷惑だろうが」
後のほうの言葉が自嘲するような響きを持っていたので、アメリアは慌てて否定した。
「迷惑だなんて、とんでもないです。嬉しいです。お願いします」
しゃきっと立ち上がったアメリアにカエルは表情を緩める。
「では、行こう」
そしてアメリアが先に歩き出すのをカエルは待っていたのだが、彼女は動かなかった。
アメリアは衝撃を受けていた。あることに唐突に思い至ったからだ。
「わたしとても大事なことをお聞きするのを忘れていました」
しゃがみ込んでできる限り目線を合わせながら言う。どうしてこんな大事なことを失念していたのだろうとアメリアは落ち込んだ。
「何だ?」
やや警戒心を滲ませながらもカエルが尋ねる。
「お名前を教えてください」
「…………は?」
「初めにお聞きしなくてはいけないのに、失念してしまいました。失礼なことをしてしまって申し訳ありません。わたしはアメリアと言います」
「ああ、エ、ディ…………だ」
茫然としながらカエルが答える。
「エディさんですね」
アメリアが確認すると、カエルことエディは仰け反るようにして遠い目で天を見上げた。
つられてアメリアも見上げてみれば、空にはいくつもの星が瞬いている。今日は霧もなく綺麗な星空だった。
有名なマザー・グースの歌の一節が脳裏を流れていく。
「……もう遅い。行こう」
「あっ、はい」
促されてアメリアはようやく歩き出した。
送られている間は人目につく恐れがあるために、ほとんど言葉は交わさなかった。ただ自分以外の土を踏む足音がすぐ近くにあることが、心地よくて心強かった。
この静かな時間の中でアメリアはふとあることに気がついた。
エディの声は誰かに似ている。
それが誰かと考えればこの屋敷の当主である伯爵だった。彼とはたった一回、少しだけ会話をしただけだ。だから勘違いかもしれない。それに伯爵のほうがいくらか声が高くて丁寧な話し方をしていたようにも思える。
どちらにせよ似ているだけだ。アメリアはこのことには特に気に止めなかった。それよりもさっきまで確実に現実だと思っていたこの庭園でのことが、今頃になって夢かもしれないという疑念を芽生えさせていて、とにかくエディという存在が本当に在ることを、アメリアは緑色の背中を見つめながら願っていた。
その後、与えられた部屋に戻り、体を清めてから寝台にもぐったアメリアは、三日ぶりの安眠を手に入れることができた。