6
三日目にしてアメリアはとうとうやらかしてしまった。
パン皿を落として割ってしまったのだ。
背筋にひやりとしたものが走って動けないでいるところへ、スティルルームの扉が開いてキャボットが現れた。
「何を割ったのですか?」
隣のハウスキーパーズルームにいた彼女は陶器が割れる音が聞こえたらしかった。咄嗟には何も言えないアメリアに変わってジェーンが答える。
「パン皿です。ベージュの」
使用人用の安物の皿だったせいか、キャボットはほっと息を吐いた。
「それならば今回は構いません。以後気をつけなさい」
「……はい。申し訳ありません」
茫然としたままアメリアは謝った。その姿があまりにも打ちひしがれていたからか、ジェーンが心配そうに声をかける。
「ちょっと、大丈夫よ、これくらい。あたしだって新入りの頃は、よく皿洗いの時に割ってたんだから」
「……ええ」
慰めてくれる彼女の心遣いは嬉しかったが、アメリアの気持ちは沈んだままだった。
完全に油断していたのだ。今日も主人のお茶をちゃんと運べたことで、この一週間の間に大きな失敗をせずに過ごすこともそう難しくはないのかもしれないと思ってしまった。
まだ三日目なのに、なんてことだろう。
「ねぇ、ミセス・キャボットだって今回は構わないって言ってたじゃない」
「そうね……」
もしこのお皿を割ったのが七日目だったなら、アメリアもここまで気にしなかっただろう。
しかしまだ四日もあるのだ。キャボットも今回は、と言っていた。一週間が過ぎれば何をやっても平気だというわけではないが、とにかくこの試用期間中が重要だった。
これ以上はもう本当に失敗できない。しばらく項垂れていたが、アメリアは何とか仕事に集中した。
口数が少なくなって、休憩中もあまり笑わなくなったアメリアに、既に彼女の失態を忘れていたジェーンは気づいていなかったが、デーヴィットだけは眉根を寄せた。
「アメリア、どうかしたのか?」
はっとしたアメリアは何もないと笑って答えたが、自然な笑顔を作れたかどうかはわからなかった。デーヴィットにだけは不安を抱かせるわけにはいかない。
その日の夜はほとんど眠れなかった。
慣れない長時間の労働に疲れ果てて、倒れ込むように眠った初日とは違い、もともと二日目も寝つきは悪かったのだが、四日目の朝は明らかに寝不足だった。
こんな状態で仕事をすれば、ますますミスが増えるかもしれない。アメリアは苦くなるまで蒸らした濃い紅茶を飲んで、どうにか鈍くなりそうな頭の中をすっきりさせようとした。
そしてごく小さな失敗だけで仕事を終えられた四日目の夜は、精神的にも体力的にもふらふらになっていた。
ジェーンの言うように、きっとアメリアは気にしすぎなのだろう。
主人のブランド物の陶器を割ったわけでもない。働き初めたばかりの人間がよくやる失敗をしているだけなのかもしれない。
だがこれはアメリアにとってあまりにも重要な問題だった。弟と二人でも暮らせる場所を得られるかどうかということは。
家に戻ることだけは絶対に有り得ないのだから。
疲れているのに今夜も眠れそうにないアメリアは、本邸を出た時にしばらく夜風に当たっていようと考えた。
女性の使用人部屋は本邸の屋根裏と、キッチンやランドリールームなどがある西側の赤レンガの建物二階とに分かれている。新入りや年若いメイドは西棟と決まっていて、アメリアはこちらになるので、ジェーンと別れた後には本邸を出て中庭の短い通路を渡ることになる。
日中は天井が低めの半地下にこもっていることが多いので、外にいれば気分を変えられて眠れるのではないかと思った。
いくつもの花壇や四阿や迷路などがある中庭は、夕方以降の労働時間外ならば、使用人でも散歩をすることが許されている。
こんな時間では庭師が腕によりをかけて創り上げた景観美を眺めることはできないが、花壇に近寄れば花を愛でるぐらいはできる。
アメリアは芳香高い淡い色の花が植えてある花壇に足を向けた。
月の明るい夜で、本邸からも近い場所にある花壇だったから、灯りがなくても平気だと思ったのだが。
「危ない!」
小さな幻聴のような叫び声が聞こえたような気がしたのと、アメリアの足に何かがぶつかったのはほとんど同時だった。
「きゃっ」
驚きの声を上げてその何かを蹴倒したアメリアは、自分自身も転がる。
バシャッと水音がした。
ワンピースの裾が濡れたような感触がする。しかしそのことに慌てるよりも、アメリアは目の前にいる存在に釘付けになった。
アマガエルと目が合った。
それはまさしく目が合うという現象だった。
不思議な出来事のように思えて、ただ凝視する。
家の庭などによく現れるホワイトアマガエルだろうか。しかしそれにしては大きいのではないだろうか。アメリアが目にしたことがあるのはだいたい三インチくらいの大きさだった。五インチ近くありそうなこのカエルのようなホワイトアマガエルは見たことがない。
更に不思議だったのは、このカエルが固まっているように見えたことだった。人間で言うならば、息を止めて硬直しているかのような。
カエルにも表情というものがあったのかとアメリアは感心した。
特に何か明確な意思があったわけではない。ただ吸い寄せられるかのようにアメリアはそのカエルに手を伸ばした。
しかしカエルにとってはかなり予想外の行動であったらしい。
「うわっ」
悲鳴を上げてぴょんと後ろへ飛び退いた。
「あっ、ごめんなさい」
怖がらせたと思ったアメリアは即座に謝った。いくらこのカエルが大きくても、人間のほうが遥かに大きい。手を伸ばされれば捕まえられて何をされるかわからないという考えに至るだろう。悪いことをしたと反省する。
疲れていたせいもあるのだろうが、この時点ですでにアメリアの思考は常識からずれていた。
もっと注目すべきところがあると気づいた彼女は、目を丸くして呟いた。
「しゃべった……?」
疑問として口にするが、確信があった。今のは断じて鳴き声などではなかった。人間の声だ。人間の男性が驚いた時に上げる声そのものだった。
カエルの表情が変わる。「しまった」というものに。
くるり、というよりはぴょんと背を向けて逃げられそうになり、アメリアは慌てて止めた。
「ちょっと待って……きゃあっ」
ずるっと音がしてアメリアは再び転んだ。起き上がろうとした足が泥濘に滑ったのだ。見れば足元に倒れたバケツがある。庭師の忘れ物だろうか、これを蹴倒していたらしい。
アメリアはすぐにカエルがいるほうへ視線を戻した。
カエルはまだそこにいた。顔をこちらに向けて、今度は瞼を少し下ろした気まずそうな表情になっていた。
あまりにも人間らしい態度だ。もしこのカエルがスカートの裾を泥だらけにして倒れている女性を見捨てることに、良心の呵責を覚えているのならば。カエルに何ができるわけでもないだろうが。
アメリアはみっともない姿をしている自覚はあったが、この数日間で服の汚れに対してあまり頓着しなくなっている。仕事をしていれば服は汚れるものだ。それに暗くてあまり見えないだろうし、泥汚れなんてそのまま乾かして砂を払ってから、いつものようにランドリールームに持って行けばいいだけだ。
それよりもこのカエルが人のような言葉をしゃべるのかが知りたかった。もしかしたら、アメリアが転ける時にどこからか聞こえてきた、危ないという言葉はこのカエルが発したものではないだろうかと思えてきたのだ。
しかしカエルは去りはしなかったものの、無表情になり、ただじっとしている。遠くを見ているような瞳も、大きさを除けばどこにでもいるカエルだった。
一瞬、さっきの出来事は気のせいだったのかという錯覚に囚われたが、それはないと思い直す。
「しゃべりましたよね?」
もう一度確認してみたが、無反応だった。置物のように動かない。
「カエルさん?」
目の前で手を振ってみても同様だった。
あまりに動かないので、ちょっと心配になってくる。もしかして水場にでも連れて行ってあげたほうがいいのだろうか。調子が悪いのかもしれない。
アメリアは親切心のつもりで、再びカエルに手を伸ばした。今度は怖がらせないように、下から掬い上げるようにして手のひらに乗せる。
カエルがパチパチと瞬きをした。
手のひらにギリギリ収まったカエルに、目線を合わせてアメリアは話しかけた。
「この辺りに池や川はなかったわよね。ひとまずキッチンの蛇口から水をもらいましょうか。このバケツを借りればいいわよね。まだ誰かいたかしら」
「いや、待て」
カエルの口が開いて言葉が紡がれた。
先程の悲鳴と同じ声だった。アメリアはびっくりして目を丸くする。
「やっぱりしゃべったわ」
「いや、カエルがしゃべるわけないだろう」
打てば響くような早さで返ってきた答えはあまりに理不尽で、アメリアはますます目を見開いた。