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使用人のティータイムが終われば、今度は主人たちのティータイムとなる。
現在は伯爵の母親がロンドンに滞在中なので、用意するのは伯爵一人分だけだ。
紅茶はこれまでキャボットが淹れていたようで、昨日もそうだったので、アメリアは今日もそうなるだろうと思っていた。
しかしキャボットが突然、静かに告げた。
「今日はあなたが淹れなさい」
「……はい」
アメリアは体を固まらせながらも、何とか返事だけはした。内心では泣きそうになっていたが。
紅茶を淹れるだけならば大したことではない。ただ主人たちが使うティーカップというのは、もちろんブランド物であり、工場で量産されている物とは価値が違う。
客人を招いてのお茶ではないので、鍵付きの陶器室に置いてある物ほど高価ではなく、普段使いのカップなのだが、それでも割ってしまえばアメリアの給料の何日分で弁償できるのかわからないし、何よりお払い箱にされる可能性が高そうだ。
アメリアは全神経をカップを扱う手に集中させた。
温めたティーポットに茶葉とお湯を入れて、温めたカップやお茶うけと一緒にそうっとお盆に乗せる。それからゆっくりと歩きたいという気持ちを押さえつけて、やや早足で階段を一階分上った。
茶葉の大きさと、スティルルームから主人のいる部屋までの距離とを考慮して、紅茶をカップに注ぐ時に、ちょうどいい蒸らし時間になるように計算しているのだ。カップを割りたくないからといって、濃くなった紅茶を提供するわけにはいかない。
一階まで来れば、後は各階に常備してあるワゴンに乗せて押せばいい。部屋に着くまでの僅かな間に、アメリアは激しく跳ねる心臓を少しだけ落ち着かせた。
深呼吸をしてから、執務室の扉をノックする。
返事があったので、ワゴンが入るギリギリの幅まで扉を開けて中へ入った。
伏し目がちに部屋の様子を窺ったアメリアは、そこにいるばずの人物の姿が見えないことで、頭がまっ白になった。
ここでワゴンをショウに引き渡して、こっそり部屋を退出すれば、主人のお茶を用意するというアメリアの役目は終了であるはずだった。しかしそのショウがいない。
アメリアは他にどうしようもないので、なるべく視界に入れないようにしていた部屋の奥の執務机の椅子に座る人を見た。
アッシュブロンドに青みがかったグレイの瞳と端正な顔立ちという、いかにも貴族に似合いそうな容姿をしたその人は、不思議そうにアメリアを見ていた。
呆気に取られそうになったアメリアは、必死で無表情を貫く。
整った顔にも驚いたが、二十歳をいくらか過ぎたようにしか見えないことにも驚いた。若いとは聞いていたがせいぜい三十歳過ぎくらいだろうと思っていたのだ。生前相続がない貴族の当主とは大抵、老人か壮年の男性なのだ。
「ああ、ショウなら急用でさっき出て行ったよ」
アメリアがじっとしている理由に思い至ったのか、彼はわざわざそう説明した。
「お茶ならここに置いておいてくれないか」
広い執務机の上を指で示す。
何気ない指示だが、これにもアメリアは固まってしまった。
キャボットにあんなことを言った以上、主人にはなるべく近づかないほうがいいだろうと考えていたのたが、まさかそんな理由で彼の言葉を無視するわけにもいかない。
アメリアは男爵令嬢であった頃でさえ、身分の隔たりに恐縮していたに違いない人物の前まで来て、震えそうになる手でポットやお茶うけを机に移動させた。
カップに紅茶を注いでおくべきか迷ったが、無難に何もしないほうを選ぶ。
「ありがとう」
礼を言った彼が、手に持っていた書類を脇へ置いて、ポットを持ち上げて傾ける。アメリアは驚いて口を小さく開いた。
「あっ……」
伯爵の実際の声と、アメリアの心の声が重なった。
紅茶と一緒に茶葉まで入ってしまったカップと、その近くにある茶漉しを見た彼は、何事もなかったかのような顔でポットを置いた。それからミルクを垂らしてカップを口へと持っていく。
(飲むの?!)
予想外の行動にアメリアは思わず凝視した。
恐らく彼はうっかり茶漉しを使うことを失念していたはずだ。別にわざと茶葉を入れて紅茶占いをしたかったわけではないだろう。
「あの……淹れなおして参りましょうか?」
アメリアはビクビクしながら尋ねた。
余計なお世話だと怒られるかもしれない。彼が失態を誤魔化そうとしたのなら、アメリアの気遣いは逆に彼を傷つけることになる。言ってしまってから気づいたが。
「え? いや、構わないよ、これくらい」
あっけらかんと答えられた。
どうやら誤魔化すために何もなかったふりをしたわけではなく、気にしなかっただけらしい。
この伯爵様は見た目に反して、かなり大雑把なようだった。勝手な想像ではあるが、どちらかというと味の好みなどに細かそうな印象を受けるのだが。
彼はようやくまともに言葉を発したアメリアをじっと見ていた。
「君は新しく入った人かな?」
「あっ、はい。昨日から働かせていただいています。アメリアと申します」
お辞儀をしながら、メイドが新入りかどうかわかるものなのだろうかと疑問に思う。この屋敷のように執事やフットマンがいる場合、メイドはほとんど裏方の仕事しかしないのに。
「へえ、あまりメイドっぽくないね。侍女か家庭教師みたいだ」
「すみません……」
アメリアはメイドにしては取り澄ましていると言われたように感じて、縮こまって謝った。
「ん? いや、侍女や家庭教師がほしかったという意味じゃないよ。母さんにはちゃんと侍女がいるし、ウチには家庭教師が必要な子供もいないから」
「はい、ちゃんとメイドらしく見えるようにがんばります」
「ん?」
緊張状態にあったアメリアは伯爵の言葉をしっかり聞けていなかった。
お互いに会話が噛み合っていないことに気づいた二人の間に微妙な空気が流れる。
冷汗が浮き出てきたアメリアとは裏腹に、伯爵はふっと相好を崩した。
「はは、メイドにしては上品だって褒めたつもりなのに」
可笑しそうに笑っているのに、嫌味な感じがない。
「メイドらしくなるようにがんばっちゃうんだ。変なこと言う娘だね」
(ええっ?!)
アメリアのほうこそ変わった貴族様だと思っていたところにそれを言われてショックを受ける。それに何も変なことなど言っていないはずだ。
「うん、がんばってくれ。あ、仕事をね。メイドらしくなるためにがんばる必要はないよ」
笑顔のまま激励されて、アメリアはなぜか恥ずかしくなり顔を赤らめた。
「はい。あの……失礼致します」
これ以上ここにいるのはまずい気がして、失礼にならないようにそそくさと退出する。
執務室を出たアメリアは早足で廊下を歩いた。
そして飛び込むようにスティルルームに入ると、無意識のうちに止めていた息をはーっと吐き出す。
数分前まで頭の中を占めていた高価なカップのことなど、どこかへ消え去っていた。
まさかあんな人だとは思わなかった。
ここに着いた日にキャボットから言われた言葉が思い出される。
彼女はあれをこの屋敷で働くことになる若い娘全員に聞いているのだと言っていた。とても納得できることだ。
あんなに若くて整った顔立ちで、しかも気さくで優しそうな人だ。若い娘が恋人になることを夢見たっておかしくはない。
それに貴族なんて使用人と自分は別種の人間なのだと、常に態度で示しているものなのだ。対等に接してくれる彼に夢見た少女が勘違いをする恐れは充分ある。
アメリアも彼に会うまでは、キャボットが心配していたようなことには絶対にならないと思っていた。何よりもまずこの環境に慣れることが重要であり、屋敷を追い出されるかもしれないようなことを自ら進んでやるはずがないのだと。
ただ他人に少しでも疑惑を抱かせないために、なるべく避けているのがいいだろうと考えただけだ。
その判断は間違っていなかった。しかし認識は甘かった。
あんな完璧な貴族の当主が、アメリアのような見目麗しいわけでもないメイドに恋をするだなんて、露ほども思わない。
それでもやはり、なるべくなどではなく、極力避けているべきだとアメリアは思った。