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 アメリアはとても落ち込んでいた。

 ハリソン・ハウスで働くようになって二日目。休憩にあたるティータイムで、使用人ホールの椅子に座り、どんよりと重い空気を纏わせながら肩を落とす。


「まあ、こんなものじゃない?」


 向かいでジェーンが慰めのようなものを口にした。

 深刻に落ち込んでいるアメリアに対して、ジェーンの口調は軽い。


「ごめんなさい。何度も……」


 それでもアメリア自身が軽く考えるわけにはいかないから、身を縮ませて謝った。

 アメリアはこの短い期間にいくつかの失敗をやらかしてしまっている。大きなことではないが、やたらと物を落とすし、動作が遅くて決められた時間までに仕事を終えられないのだ。そしてとても力が弱い。パンを焼くための石炭を運ぼうとすると、ジェーンならば一回で済む量を、アメリアは二回に分けて運ばなくてはいけない。これではいけないと思い、無理をして量を増やしてみれば、半分近くを床にぶちまけてしまうという有様だった。


 しかしダフネに仕事を教わっている時はここまで酷くはなかった。

 動作が遅いのは慣れない仕事場だからということもあるのだが、気をつけているのにいつの間にか手元が疎かになっていて、何かを落としている。

 今朝だって焼き上がったばかりのパンを二つ落としてしまった。ジェーンが素早く拾い上げて、土埃を払ってから元に戻したのは、アメリアにとってちょっと衝撃的であったが。旦那様たちに出すものでなければ何の問題もないらしい。

 他にも今日の内に、洗えばいいだけの調理器具なら三回落として、その内の一つは歪な形にしてしまったし、使用人用の安物とはいえカップを転がして割りそうにもなった。高価な陶器類を触らせてもらえないのは、アメリアにとって幸運といえる。


「緊張しているからでしょうねぇ」


 ジェーンが誰の目にも明らかな原因を指摘した。

 だがいくら緊張していても、気をつけていればこんなミスはなくなるはずなのにとアメリアは思う。


「もっと、ちゃんと気をつけるわ」

「だから、初めはこんなものなんだって。肩に力入れてたってしょうがないの。慣れなきゃどうしようもないのよ」


 ジェーンの言い方が叱るようなものに変わるが、怒っているわけではないことは表情でわかった。

 彼女が指導係になってくれたことだけ取っても、アメリアは恵まれた環境で仕事ができているのだと感じる。

 これまでこの屋敷ではスティルルームメイドがしばらくの間いなかったので、パンもティータイムのお菓子もキッチンメイドの仕事だったらしく、新たにアメリアに引き継ぐための役目をジェーンが担ったのだった。

 彼女が傍についていてくれている、この一週間の間にアメリアは主人一家だけではなく、使用人全員の分のパンとお菓子を作って、更にはその合間に細々とした仕事もできるようになっていなくてはならない。

 ジェーンは仕事中にたまに怒ることはあっても、今はまだできなくても仕方がないと考えているのがわかるので、アメリアは打ちひしかれずにすんでいる。ただその態度をいつまで続けてくれるのかわからなくて不安だった。


「大丈夫だって。あんたの作るケーキおいしいわよ。あたしほどじゃないけれど」


 ジェーンはそう言ってアメリアの作ったケーキを口に放り込んだ。

 彼女が優しいので、アメリアは思わず弱音を溢してしまった。


「どうしよう……。本採用されなかったら」

「えぇ?! こんなことくらいでクビになったりしないわよ」


 何を大袈裟なとでも言うようにジェーンは手を振った。

 しかし試用期間が終わるまでに、決定的なミスをせずにいられる自信がアメリアにはない。それにジェーンにとってはこんなことであっても、キャボットにとっては違うかもしれないのだ。

 だがそれをここでジェーンに言うと、いくら何でも鬱陶しい人間だと思われるに違いないので、心の内に止めておく。アメリアはむくむくと膨らんでいく不安を誰にも言わないことにした。ただこれ以上のミスをせず、役に立つ人間だと示さなくてはいけない。


「おっ、今日はドライフルーツケーキか」


 密かに決意を固めていると、頭上から男の人の声が降ってきて、アメリアは驚いた。

 振り返れば鳶色の髪に薄いブラウンの瞳の、見目のいい青年が立っている。彼はアメリアを見てニヤリと笑った。


「ジェーンのケーキにはそろそろ飽きてきたし、ちょうどいい時期に新入りが入ってくれたよな」


 冗談だろうと思ったので、アメリアは曖昧に笑った。

 しかしジェーンは違う印象を受けたらしい。


「ええ、あたしも同じ意見です。ミスター・ショウ」


 無表情で澄ました声を出しているところが、却って怒りを表現している。

 面と向かって抗議しないのは、彼のことを嫌っているからというわけではなく、単にメイドが執事に口答えなどできないからだろう。

 執事兼、従者ヴァレットである彼は、男性使用人の中で執事頭のブランソンの次に立場が上だ。


「怒るな、ジェーン。ケーキは飽きたが、君のパイは絶品だ。パリの一流ホテルのパティシエ五人を負かせただけはある」

「えっ、そうなんですか?」

「信じるなよ、アメリア……」


 びっくりしてジェーンを見たアメリアに呆れた声が投げかけられた。

 いつの間にかデーヴィットがいた。どうやらショウと一緒に部屋に入って来ていたらしい。


「子供でもわかるだろ。大丈夫かよ」


 何に対しての大丈夫なのか、デーヴィットはわざとらしく心配そうな声音を出しながら、顔は笑っていた。

 アメリアは黙ってデーヴィットの鼻をぎゅっと摘まみ、仕返しを行った。


「痛い! 痛いって!」


 実際はアメリアはほとんど力を加えてはいない。それなのに大袈裟な反応をしながらも顔はますます笑っている弟を見て、本当に痛がらせてあげるべきかと考える。

 するとショウが突然、笑い出した。


「ははは、なんだボウズ、お前も姉ちゃんには甘えるんだな」

「は?!」


 デーヴィットはそんなわけがない、とでもいうように憤慨した。


「何言ってるんですか! 甘えてなんていませんよ!」


 執事にそんな口の聞き方をしていいのだろうかと、アメリアはヒヤリとしたが、ショウは全く気にしていない。


「うんうん、大人ぶってても、やっぱり子供だもんな」

「そ、そりゃあ、子供ですけど、甘えてません。俺よりもアメリアのほうが余程鈍くさいんですよ」

「余程は言いすぎよ」


 アメリアは小さく反論したが、グサリと言葉が胸に突き刺さっていた。

 それにデーヴィットはアメリアに比べると、ちゃんと上手くやっているように見える。

 自分の不甲斐なさに落ち込むと同時に、ますますここを辞めさせられるわけにはいかないという思いが強くなった。


 使用人というのは働き口が多く、再就職先に困ることはほとんどないが、労働条件は職場によって大きく変わるのだ。

 このハリソン・ハウスはかなり労働条件も職場環境もいい部類に入っていて、例えばデーヴィットのような子供が、賃金を安くできるからといって、一日中誰もやりたがらないようなキツイ労働を強いられることがない。仕事は夕方までにしてくれるし、上司から理不尽な扱いを受けたりもしない。

 デーヴィットは直接仕事の指導をしてくれているショウに懐いているようだった。アメリア自身は彼がどういう人間なのかはまだよくわからないが。


 それにこの屋敷の人は誰もアメリアやデーヴィットに辛く当たらない。メイドやボーイであるにも関わらず、下町なまりを一度も出さない二人は、本人たちの目から見ても、少し浮いた存在なのだが、まだ二日目なので遠巻きに様子を窺われることはあっても、悪感情を向けられたことはなかった。

 ジェーンやショウだけでなく、ここの人間は皆、根が穏やかで公平であるらしかった。

 それはそれぞれの使用人のトップである、ハウスキーパーや執事やコックから受け継がれているらしいが、彼らは主人一家の影響により、そうなったのだということだった。

 まだ姿を見たこともないが、ジェーンによるとこの屋敷の当主である伯爵とその母親は、誰もが穏やかないい人たちだと評するらしい。

 アメリアにとっては正に理想の職場だ。何としてもここで働き続けたかった。

 

 

 

 


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