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本邸の半地下にある部屋の前まで案内してもらった後、アメリアは中で待っているようにと彼女から指示を受けた。
「じゃあ、また後でね。あ、あたしはキッチンメイドのジェーンっていうの、よろしくね」
役目を終えて言いたいことを言った彼女は、急いで来た道を戻って行った。
「なんか、騒がしそうな人だな……」
「楽しそうな人じゃない。そんな言い方失礼よ、デーヴィット」
早くもジェーンに好感を持ち始めていたアメリアは弟を諌めた。
「悪口じゃないよ。おしゃべりが好きそうっていう意味だよ」
デーヴィットは姉の小言から逃れるように、扉を開けて部屋の中に入った。
「待ちなさい、デーヴィット。誰もいなくてもノックはするの」
「どうして誰もいないのにしなくちゃいけないんだよ」
「いるのかもしれないからよ」
弟を追いかけて部屋に入ったアメリアは、中が無人であることにほっとして扉を閉めた。
壁に暖炉が備え付けてある小さな居間か客間のような部屋だった。木製の座面にクッションの付いていない椅子と、ブラウンのテーブルクロスに小さな白いバラが活けられた花瓶の置いてあるテーブルがある。
掃除が行き届いていて、居心地がよさそうだが、家具は高価なものではない。
アメリアはこことよく似た雰囲気の部屋をよく知っていた。恐らくここはハウスキーパーズルームだ。主人の客人が連れてきた上級使用人をもてなす用途もある部屋なので、居間のようになっているのだ。
「座っていいの?」
デーヴィットが暖炉の前に置いてある椅子を見ながら言った。
「駄目だと思うわ」
アメリアが答えた時、扉の外側すぐ近くから、誰かの足音が聞こえてきた。
素早くアメリアはデーヴィットに黙っているようにと、目で合図を送る。
カチャリと音がして紺色の詰襟ワンピースを着た女性が入って来た。淡い金髪を数本の乱れもなくしっかりと纏めて、服装も髪形も地味だが安っぽさはない。そして腰に鍵束を引っ掛けていた。
間違いなく彼女がハウスキーパーのミセス・キャボットだろう。
アメリアは挨拶をしようとして、慌てて言葉を飲み込んだ。立場が上の人間には、基本的に声を掛けられるまで待っていなくてはいけない。自分から話しかけては礼儀知らずだと思われる。
彼女は並んで直立している姉弟の正面で立ち止まった。
冷静で有能そうな顔立ちからは、感情どころか年齢さえも読み取れない。ダフネの姉ということは少なくとも四十歳は過ぎているのだろうが、三十代だと言われてもおかしくはないし、五十代だと言われてもアメリアは納得するだろう。
「アメリア・モーガンとデーヴィット・モーガンですね」
二人は同時にはい、と答えた。
彼女は正解を出せた生徒に対して教師がするような仕草で頷いた。
「私はハウスキーパーのキャボットです。ダフネから何か預かっているものはありますか?」
「はい。手紙をお預かりしています」
アメリアは鞄の取り出しやすい場所にしまっておいた手紙をキャボットに渡す。
黙って彼女がそれを読んでいる間、アメリアはずっと緊張していた。あの手紙にはアメリアとデーヴィットにどんな能力があるのか、どんな仕事なら問題なくこなせるのかということも書かれているはずだ。初めての職場なので紹介状は必要ないが、ダフネはできるだけ有利な条件で雇ってもらえるように働きかけてくれているはずだ。
「あなたはパンやお菓子作りならダフネから一通り教わっているそうですね。あとはドリンク作りも。裁縫や掃除については?」
「はい。裁縫は複雑なものでなければできます。掃除も……何度かやったことはあります」
「そう。ダフネはあなたをスティルルームメイドにしたいようですね。よろしい。ちょうどキッチンメイドかスティルルームメイドを一人雇おうと思っていたところです。スティルルームメイドなら私の管轄になるし、いいでしょう」
アメリアはほっと安堵のため息を漏らした。
キャボットの言う通り、ダフネはお嬢様育ちであるアメリアは重労働に耐えられないだろうと思っていたようだった。キッチンメイドや掃除ばかりのハウスメイドに比べれば、力仕事の少ないスティルルームメイドの仕事を重点的に教えてくれていた。
ダフネ自身がハウスキーパーであるために、その補佐役でもあるスティルルームメイドの仕事が教えやすかったということもある。
パンとお菓子作りについてはアメリアは筋がいいと言われているので、その仕事につけて嬉しかった。
「それとデーヴィット。当家ではただ雑用をさせるための子供は雇いません。あなたは将来、従僕や執事になるための仕事を覚えるつもりがありますか?」
「はい、もちろんです。ミセス・キャボット」
デーヴィットは弾かれたように元気よく返事をした。
「よろしい。あなたはホール・ボーイとなりますが、執事の手伝いが主な仕事です。ただし、そのように大きな声で返事をする必要はありません。我々は主人の生活の邪魔にならないように、常に静かに仕事をこなさなくてはいけませんから」
「はい、申し訳ありません」
キャボットから淡々とした声で注意を受けたデーヴィットは、しゅんと項垂れた。
「それではあなたたちは今日からこの屋敷の使用人となります。ただし、慣例として一週間の試用期間を設けます。余程のことがなければそのまま本採用となりますから、そのつもりでいなさい」
「はい、わかりました」
アメリアは気を引き締めて答えた。
やはり試用期間はあるのだ。もしかしたら免除してもらえるかもしれないと、甘いことを考えていたのだが。
「それと一番重要なことを言っておかなくてはなりません」
目付きを厳しくしたキャボットがアメリアとデーヴィットを順に見た。
「あなたたちの事情は聞いています」
アメリアはハッとして、微動だにしないキャボットの顔色を窺った。
彼女が表向きの事情のことを言っているのか、本当の事情のことを言っているのかわからなかったからだ。今更ながらにダフネが姉にどこまで教えていたのかをしっかり聞いていなかったことに思い至った。
「しかしあなたたちの元の身分がなんであれ、使用人として働く以上は、これからは使われる側の人間です。屋敷の〈階下〉の人間であり、〈階上〉の人間ではありません。同じ屋敷に住んでいても、この二つの世界には大きな隔たりがあります。きらびやかな世界が間近にあれど、己の身をわきまえる。このことを決して忘れてはなりません。あなたたちが本当に労働者になるつもりであるのならば」
キャボットは試すように二人を観察していた。世間知らずで苦労知らずの子供が、軽い気持ちで家を出て働く、などと言っているのではないかと疑っていたのだ。すぐに根を上げて、元の世界に戻ると言い出すのではないのかと。
それはキャボットの立場からすれば、当然の疑惑だった。
でもそうではない。何度も悩んで、厳しいことだと諭す声に足踏みして、それでも絶対に戻ることはないと決意してここにいるのだ。アメリアはそう伝えようとした。
しかしそれよりも前にデーヴィットが口を開く。
「ちゃんと弁えます。それにどんなにきつい仕事でも逃げたりしません」
キャボットの言葉の意味を彼はちゃんと理解していた。相手の目を見据えてキッパリと告げる。それがどれほどの覚悟なのか探るように、彼女もまた見つめ返す。
僅かの間、沈黙が落ちる。
しかしそれはノックの音ですぐに破られた。
「どうぞ」
部屋の主が返事をすると、燕尾服姿の背の高い男性が入って来た。五十歳ぐらいであろう彼は、一見すると身分ある紳士のようにも見える。
「呼んだかね? ミセス・キャボット」
「ええ、この間話していたホール・ボーイが到着したので」
彼はチラリとデーヴィットに視線を向けた。
「高等教育を受けていた子供です。あなたがたの手助けができると思いますが」
「それならば問題ない。ショウに面倒を見させよう。来なさい」
デーヴィットが問いかけるような顔を向けたので、キャボットは頷いた。
「彼は執事頭のミスター・ブランソンです。主人を除いては、第一に彼の指示に従いなさい」
「わかりました」
二人が話している間もブランソンはすでに歩き出している。そのあまりにあっさりとした態度に、アメリアは彼がずっと前から扉の前にいたのではないかと思った。
「さて、アメリア。あなたにはもう一つ質問があります」
「は、はい!」
デーヴィットの後ろ姿を見送っていたアメリアは慌てて正面に向き直った。
「あなたたちが簡単に家に戻るつもりがないことは理解しました。ですが、別の方法で元の身分に戻る……もしくはそれ以上の身分を手にいれるつもりでいるわけではありませんね?」
アメリアは答えに窮した。言われた意味がわからなかったからだ。
「つまり、身分ある男性に近づいて、結婚することを画策しているわけではありませんね」
「ち、違います!」
目を剥いてアメリアは否定した。
「こんな大きなお屋敷ですから、メイドが表に出ることなどほとんどないとわかっています。それにわたしだってちゃんと身を弁えます。旦那様たちにご迷惑は決しておかけしません」
キャボットは眉根を寄せた。
「旦那様のご子息に目をつけるのではないかと言っているわけではありません。この屋敷にはご当主と母君しかいらっしゃいません。聞いていないのですか?」
「あ、すみません。知りませんでした……」
要するに未婚の当主がいると知ってこの屋敷に来たのではないかと疑われたのだ。初対面とはいえ、そんな風に思われていたと知って、アメリアはショックを受けた。
それが如実に顔に出ていたからか、キャボットはため息を吐く。
「念のための確認をしただけです。あなたたちがどんな人間なのかはダフネが手紙で知らせてくれています。そう身構えなくても結構。これはこの屋敷で働くことになる若い娘全員に聞いていることです。最近は身分差恋愛を売りにした浮わついたロマンス小説が流行っているようですから」
表情がほとんど動かなかった彼女が、困ったような顔をしていた。そこからほんの少し優しさが滲み出ている気がして、アメリアは肩の力を抜く。特別に疑いを持たれていたわけではないのだ。
「はい。あの、わたしたちを受け入れてくださってありがとうございます」
アメリアが礼を言うと、キャボットはまた無表情に戻った。
「ダフネがこの屋敷に迷惑をかけるようなことにはならないと再三言うものですからね。それに彼女が悪環境といえる職場を、長年辞めずに勤めあげた理由である子供たちを見捨てるわけにはいきません」
その言葉にアメリアは泣きそうになった。いろんな感情が沸き上がるが、一番大きかったのはキャボットとダフネに対する罪悪感だった。ダフネが休みもなく薄給で働き続けていたのは、アメリアたちを見捨てられなかったからに他ならない。
「……ありがとうございます」
アメリアは謝罪の代わりのようにもう一度礼を言った。