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廊下を走る足音が聞こえてきた。
誰だろうかと考えたが、この屋敷で階上の廊下を、ここまで足音を気にせずに走れる人物は一人しかいないとアメリアは思い至る。
「あら」
シンシアがおかしそうな声を出した。そして迎え入れる準備のように体を扉に向けて、じっと見つめる。アメリアはどうしたらいいのかわからずにまごまごした。
心の準備ができないまま足音が途切れずに扉が開き、慌てた様子のエドワードが姿を現す。
「母さん!」
「まあ、エドワード、ノックくらいしなさい」
シンシアは息子を嗜めたが、彼は全く聞いていない。部屋の中にアメリアを見つけて硬直している。
アメリアは先程シンシアから聞いた話のせいで、恥ずかしくて目を合わせられなかった。ふいと顔を逸らす。
ゼンマイ仕掛けのおもちゃのような動きでエドワードは、母親のほうへ首を巡らせた。
「母さん……アメリアに何か余計なことを言いましたか?」
「失礼ね。わたくしは味方だという話をしていただけよ」
「それが余計なことなんです!」
エドワードの口振りは、まるでとんでもないことをやらかしてくれたとでも言いたげだった。彼はアメリアを見据える。
「アメリア、来てくれ」
「えっ、ちょっと、まだわたくしと話している途中よ」
「後にしてください。いえ、当分話しなんかしなくていいです」
「まあ、酷い。わたくしだってアメリアと仲良くなりたいのよ」
一番身近な存在だから遠慮がなくなっているというよりは、多少取り乱しているらしきエドワードは、シンシアの抗議が聞こえていないのか、無視をしてアメリアに近づく。
自分からは動くことができなかったアメリアは、エドワードに手を取られて立ちあがり、そのまま部屋から連れ出された。
「ちょっと待ちなさい! エディ!」
背後からシンシアのむくれた声が追いかけて来るが、エドワードは止まるどころか早足になる。
「あの……」
どこに行くのだろうかとアメリアは呼び掛けた。言葉は返ってこなかったものの、答えはすぐに知れる。エドワードが書斎に入ったからだ。
扉を閉めたエドワードはため息を吐いて壁にもたれ掛かり項垂れた。いつになく打ち拉がれている様子にアメリアは慌てる。
「申し訳ありません……。まさかレディ・シンシアに呼ばれるなんて思わなくて」
アメリアが回避できた事態ではないのだが、彼の母親と無断で会ったことがよくなかったのだと思った。
「いや、君は悪くない。私がこれくらいのことは予測していなくてはいけなかったんだ」
やっぱり会ってはいけなかったのか。少なからずショックを受けていると、エドワードは恐る恐るアメリアを窺うような視線を向けてきた。
「その、母さんに何か変なことを言われた?」
アメリアは首を傾げた。
「いえ、とても優しい言葉を掛けていただきました。えっ……と、メイドでも構わないと。味方だから大丈夫だと仰っていただきました」
さすがにエドワードを愛しているのかと聞かれたことや、息子の選んだ娘を信じていると言われたことなどは口にするのが恥ずかしい。だから結論の部分だけを言ったのだが、エドワードは絞り出されたような小さな呻き声を上げた。
「……アメリア」
「はい」
「あの人が言ったことは気にしないでくれ。よく早とちりをするんだ。君はまず自分の意思を尊重してほしい。私は諦めるつもりはないし、君が頷いてくれるまで努力するけど、周りから固めるつもりはないんだ。母さんが乗り気だからってそれに従う必要なんかない」
エドワードは母親の性格をよく理解していた。
だからメイドであるアメリアを排除しようとするかもしれないという心配はしない。むしろ二人が恋人同士であると思い込んで、すぐに結婚式を挙げるようにけしかけるのではないかと危ぶんだ。
そうなればアメリアは断れないだろう。しかしそんな理由で結婚を決めてほしくはない。こだわりすぎなのかもしれないが、感情的に嫌だ。それに世間から歓迎されるわけではない婚姻だからこそ、後に彼女が後悔する原因になりそうな要素は、少しでも払拭しておきたいのだ。
だが、母親の帰還に気づくのが少し遅かった。既にアメリアがエドワードのプロポーズを受け入れているかのような扱いをされているらしいと知って、どう挽回しようかと頭を悩ませる。
「あの、わたしはあの方から何も強制されてはいません」
エドワードが真剣に焦っているので、アメリアは勢いよく首を振った。
「初めはちょっと勘違いされているようでしたけど、レディ・シンシアはちゃんとわたしの気持ちと考えを聞いてくださいました。押し切られてなんかいませんから、そんな心配しないでください」
「……本当に?」
「はい。嘘なんか吐きません」
アメリアはきっぱりと答える。しかしエドワードはまだ疑っていた。
「じゃあ、なんでさっきからこっちを見てくれないんだ?」
「っ……!」
痛いところを突かれてアメリアはかなり動揺した。
「それは、その」
「やっぱり何か言われたのだろう?」
何かは言われた。アメリアがこんな態度を取っているのも、そこに原因がある。しかしそれを気軽に説明するのは躊躇われた。
「ちょっとここで待っててくれ」
「いえ、違うんです! そういうこととは違うんです」
エドワードが書斎を出て行こうとしたので、母親に問い質すつもりなのだと気づいたアメリアは、腕を掴んで止めた。
自分からは言いたくないことだった。でもここで止めなければ、どの道エドワードはシンシアから聞き出すだろうし、それなら彼の誤解はアメリアが正すべきだ。
「……魔法を解く方法について、教えていただいたんです」
「魔法?」
あまりに突拍子もない単語が出てきたからか、エドワードはぽかんとした。
「カエルになってしまう魔法が解けるかもしれない方法です」
それが魔法であるのかどうかはわからないはずなのだが、とにかくシンシアはそんな言い方をした。
「そんな方法、聞いたことがないよ」
困ったようにエドワードは眉間に皺を寄せる。
「私が知らないのはおかしいし、そんな方法があるなら、皆がもっと早くに試しているはずだろう」
「もしかしたら解けるかもしれないというだけなんです。可能性があるだけですから」
それにしたって自分が知らないのはおかしいとエドワードは思ったが、ともかく先を促した。
「どんな方法なんだ?」
「……おとぎ話にある、あの方法です」
とても言い難そうだった。
「あの?」
「あの……キスを……」
ここまで言われればエドワードにもわかった。
「愛する人のキスで魔法が解けるというやつ?」
ボッと火が付いたようにアメリアの顔が赤くなった。
「かもしれないという話です。レディ・シンシアが……先代がカエルに変身しなくなった時期が、レディ・シンシアと婚約してすぐだったので、もしかすると効果があるのかもしれないと……教えてくださって」
恥ずかしくて仕方がなかった。こんなの自分とキスをすれば、魔法が解けるかもしれないと言っているようなものだ。実際に解けるかどうかはともかく、エドワードがアメリアに愛していると言ってくれたのだから、要約すればそういうことになる。
後で試してご覧なさい、と楽しそうに言ったシンシアの声が脳裏に過った。
「や、やっぱりわたし、レディ・シンシアにからかわれたのかもしれません」
非常に居た堪れなくなって、アメリアは俯いた。
「いや、そんなことより、アメリア」
エドワードは話の真偽よりも重要なことがあると言わんばかりに、アメリアに詰め寄って顔を覗き込もうとした。
「それって、キスをしてもいいということ?」
「え?」
「そう言っているように聞こえてしまう」
頭が沸騰しそうになった。
「そんなわけでは! いえ、駄目だというわけではありませんが、魔法を解く方法であって!」
「駄目じゃないんだ」
拒否したのだと思われたくなくて言った部分だけを拾われて、アメリアは絶句した。
駄目ではない。嫌でもない。当たり前だ。でもそんな、優しく見つめられただけで動悸が激しくなってしまう人に、ただキスをしたいみたいなことを言われたら、どうすればいいのかわからない。
黙って見つめ返すことしか、アメリアにはできない。
エドワードがまた少し距離を縮めて、アメリアの頬に両手を添えた。
それでも動かないことを確認すると、彼はこぼれるように頬笑む。直視できなくなって、アメリアは目を閉じた。まるで合図みたいな動作だと気づいたけど、後戻りなんかできない。
更に居た堪れなくなっていると、唇に柔らかいものが触れた。
優しく啄むような動きをしたそれは、アメリアが動揺する前にそっと離れる。
すぐに瞼を開けてしまってアメリアは後悔した。すぐ目の前でエドワードが笑っている。
「解けたと思う?」
「……わかりません」
「そうだね。夜にならないとわからないな」
同意するくせにエドワードはとても嬉しそうだ。彼は屈んでいた体勢を戻したかと思うと、さっとアメリアの額にキスを落とした。驚いたアメリアはびくりと肩を揺らせる。
仕草と、言葉と、表情の一つ一つに、アメリアへの想いが宿っているかのようで、胸が熱いものに圧迫されて切なくなる。
アメリアは目を伏せてエドワードの手のひらを掴んだ。
「エドワード様」
初めて、人の姿の時に名前を呼んだ。
息を飲む気配がする。
アメリアは緊張で爆発しそうな心臓を宥めるために深呼吸をした。
これを言うのはとても勇気がいる。でもせめて、アメリアは自分から告げなくてはいけない。引き出されるのでもなく、ただ返事をするだけでもなく、自分が言わなくてはいけないのだ。
決意を固めて、顔を上げる。
「わたし、あなたの奥さんになりたいです」
繋がっている手が震えた。エドワードは時が止まったように目を丸くして、アメリアを見返す。
何か言ってほしい。そう心の中で懇願してしまうくらいの時間が過ぎたあと、エドワードは触れ合っていないほうの手で口元を覆った。頬が赤くなっている。
「……なって、ください」
ポツリと消え入りそうな声は、どうしようもないくらい照れているのだとわかったから、アメリアは伝染したかのように、緊張よりも恥ずかしさが勝っていく。
「はい」
小さく返事をして、目が合った。
照れ隠しの笑みを同時に浮かべて、それがおかしくてまた笑った。
この日のことを、アメリアとエドワードは何年、何十年と経っても、昨日の出来事のように繰り返し話すようになる。




