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意味は全くない。
にも関わらず、アメリアは使用人用の裏口の扉を、極力音を出さないようにそうっと開いた。
見つかれば怒られるだろうという心理からだが、隠れておけばいいわけでもない。むしろすぐさまキャボットの元へ自ら赴き、事情を説明した上でしっかり怒られるという行動がベストだ。
ろくな説明もせずに、仕事を放り出して屋敷を出たのだから、怒られないわけがない。エドワードと一緒だったことは彼女には知られているはずなので、クビだと言われることはないだろうが、それにしたって周りの人間に迷惑を掛けすぎだった。
ものすごく恐い。
だがアメリアは覚悟を決めて、ハウスキーパーズルームへ向かった。
とその時に、小走りな足音と共にファニーが姿を現す。
「あ、アメリア帰ったのね。すぐに着替えてこちらに来なさいってミセス・キャボットが言っていたわよ。すぐにですって。急いでね」
言伝を終えるとファニーはさっと通り過ぎて行った。彼女は忙しそうな様子だったが、アメリアのせいだとは思っていなさそうで、ちゃんとした用事で出掛けていたのだと認識していそうだ。
ともかくアメリアはキャボットに急げと言われたら、全力で急がなくてはいけない。靴音が廊下に響かないくらいの速度で走り、自室に戻って洗濯されたばかりのメイド服に着替えて、本邸の裏口扉を開けた。
そこにキャボットが待ち構えていたものだから、アメリアは悲鳴を上げそうになる。
キャボットは眉一つ動かさずに、アメリアがきちんと汚れのない服に着替えてきたか確認してから、口を開いた。
「付いてきなさい」
それだけ言って歩き出す。彼女が普段通りなのか怒っているのか、アメリアには見当もつかない。しかしやはり、負い目があるせいなのか、普段よりも厳しい顔つきのような気はする。
黙って付いて行くと、キャボットはなぜか階段を上り始めた。アメリアが使用人エリアである半地下よりも上の階に上がるのは、主人にお茶を提供する時くらいしかない。
説教されるに違いないと思っていたアメリアは、階上にどんな用があるのかと困惑した。おまけにキャボットは二階まで登り、アメリアがその階で唯一踏み込んだことのある書斎さえ通り過ぎてしまった。この先にある部屋なんてかなり限られている。
疑問が深まると同時に、アメリアは屋敷内の微妙な違和感に気がついた。そういえば皆が慌ただしそうであった。キッチンの近くや半地下を歩いている時に聞こえてくる物音は、普段はもっと抑えられている。アメリア一人がいなくなったくらいで、あそこまで慌ただしくはならない。
それとこの先にある部屋。
まさか。
あり得ないと否定しようとした矢先に、キャボットは無情にもその部屋の前で立ち止まった。
「アメリアを連れて参りました」
ノックをしてからキャボットが声を張る。入室を促す返事が女性の声で聞こえてきた。
アメリアはキャボットに続いて部屋の中へ入る。明るい色調に覆われた部屋だった。絨毯や壁紙には繊細な模様が描かれ、使用人部屋では決して見ることのない、鮮やかな色が混ざっている。ソファーやテーブルはどれも細く優美な曲線を持つ脚に支えられ、使用するためというよりは観賞するために配置されているかのようだった。
そのソファーの一つに、部屋の雰囲気にそぐわない喪服を着た女性が座っている。
やっぱり。アメリアの心の呟きを肯定するように、キャボットが口を開く。
「彼女です。レディ・シンシア」
エドワードの母親にして、元ヘイステイン伯爵夫人。レディ・シンシア。夫を亡くしてまだ二年に満たないことから喪服に身を包み、社交の季節であるロンドンにおいて慈善活動のみに尽力する貴婦人。
彼女は穏やかな笑顔をアメリアに向けた。
「あなたがアメリアね。会いたかったわ」
「あ……初めまして、あの」
「さあ、こちらに来てちょうだい。もっとよく顔を見たいわ」
かろうじて挨拶ができたアメリアに、シンシアは上機嫌でソファーの空いたスペースをぽんぽんと叩く。
隣に座れと言っているのだ。動揺したアメリアはキャボットを見た。すると無表情で頷かれてしまったので、本当にいいのかとシンシアをチラチラと窺いながら腰を下ろす。彼女は笑顔のままアメリアをじっと見つめていた。
既に四十歳は過ぎているはずだが美しく、エドワードの母親だと教えられなくてもわかるくらいには似ている。可愛らしく笑う人だが、喪服のせいなのか、どことなく哀愁があった。
「ふふ、綺麗な子だわ。エドワードもやるわね」
「え……」
とんでもない言葉にアメリアは固まった。
まるでアメリアとエドワードの関係を知っているかのようだ。エドワードが言ったのだろうか。アメリアが着替えている間に。母親が帰ってきていると知って。
しかし違った。彼女は更にとんでもないことを言ったのだ。
「あなたに会いたくて、ロンドンから跳んで帰って来たのよ。ミセス・キャボットが大変な知らせを寄越すのだもの。エドワードと新入りのメイドが、夜の庭園で楽しくおしゃべりしているなんて」
今度こそ、アメリアの心臓は止まりそうになった。朝からもう何度もそんな目に遭っているが、今度こそ駄目だ。
こんな方法でこの方に知られるなんて。
アメリアはハリソン・ハウスに来たその日に、キャボットにはっきりと言ったのだ。身分ある男性に近づこうという思惑など、決して持ってはいないと。それなのに。
「も、申し訳……」
「あら、違うわよ。怒っているわけじゃないの。わたくし嬉しかったのよ」
シンシアは朗らかに否定すると、扉の近くに目を向けた。
「ミセス・キャボット。この子と二人だけで話しがしたいわ」
「かしこまりました」
お辞儀をしたキャボットは無情にも、アメリアには目もくれず出て行ってしまった。取り残されたアメリアは緊張で冷や汗が浮かんでくる。
「ふふ、彼女はあのことを知らないのよ。だからここからは内緒話ね」
少女のように秘密だという仕草をするシンシアに、少しだけ張り詰めていたものが解れて、アメリアは首を傾げた。
あのことというのは、きっとエドワードが夜になればカエルに変身してしまうことを指すはずだ。しかしキャボットはカエルのエディとアメリアが会話しているところを見て、シンシアに報告したのではないのだろうか。
「彼女は声を聞いただけで、姿は見ていないわ。今このハリソン・ハウスであのことを知っているのは、昔マークの従者をやっていたミスター・ブランソンとショウと長年わたくしの侍女をしてくれている女性だけよ。でもこれまであまり女性と関わろうとしてこなかったエドワードが、若い娘と密会していたものだから、わたくしに知らせなくてはいけないと思ったみたいね」
「密会というのは……」
何だかふしだらに聞こえる。
「声だけなら、そう思えてしまうということよ。でもミセス・キャボットは別にあなたをここから追い出すために、わたくしに知らせたわけではないわ。だってあなたのことを、メイドだけど元は男爵令嬢のちゃんとした娘だと手紙に書いていたもの。弟を守るために家出するような娘で、仕事にも真面目で、男性を誑かすようなことはしないはずだって、あのミセス・キャボットが庇ったのよ。義務として知らせたけど、わたくしが紹介状を持たせずにあなたを辞めさせることは、避けたかったのではないかしら」
アメリアは目を見開いた。キャボットが庇ってくれたことも驚きだが、それだけではない。
「……知っていたのですね」
自分たちの本当の事情をキャボットが把握しているのかどうか、アメリアは結局確認しなかった。できなかったというのが正しいが、全てを知っていることはないだろうと思っていたのだ。
「わたくしも初めは少し、大丈夫なのかしらって不安だったのよ。でもミセス・キャボットが庇うような娘だし、何よりエドワードが選んだ娘ですもの。反対なんかしないわ。貴族の娘として育ったのなら、苦労も少なくてすむでしょうし」
「いえ、違います。わたしは貴族の娘じゃないんです」
どんどん話を進めていくシンシアに、アメリアは焦って遮った。
意を決して、今朝からの出来事を隠さず説明する。父親のしてきたことを言うのは勇気がいったが、彼女がいい人だと思えるからこそ、騙すような真似はしたくない。
態度を変えられることを覚悟したのだが、シンシアは穏やかなままだった。
「それではお父様とは完全に縁が切れたのね?」
「はい……。ですから実質的にも、表面的にもわたしは貴族の娘ではありません」
「そう。それはよかったわ。縁続きになったからといって、援助の無心やらコネクションの利用をされてしまっては困るもの」
全く悪意のない顔でシンシアはアメリアの胸が痛くなることを言う。まさに父はそんなことをしてしまうような人間だった。しかしアメリアを前にして言うということは、親子といえども二人を完全に切り離して、個人として捉えてくれているからこそなのだろうか。
「別に貴族の娘じゃなくてもいいのよ。わたくしが言いたかったのは、教養がしっかりしているなら、周囲に侮られることも少ないのではないかということよ。だってあなたはどちらにしろ、お父様の元へ戻るつもりはなかったのでしょう?」
「はい。家を出た時に、二度と会うつもりはありませんでした。今後、関わりを持つこともありません」
「だったら貴族かどうかなんて意味がないことだわ。でも、そうね。弁護士の父親が行方不明だということにしているのだったかしら? それを通しましょう。メイドをしていたことは、なるべくなら隠しておいてね。嘘まで吐かなくてもいいけど、厄介事は避けたいもの。大丈夫よ。社交界なんてほとんど出ないから」
シンシアはまるでアメリアとエドワードが結婚することがすでに決まっているかのような言い方をする。
「待ってください。隠しておくにしても、わたしはメイドなんです。伯爵夫人になれるような人間ではありません」
なりたくないわけではない。しかしあまりにもシンシアがそのことを軽く考えているように思えて、そんなことを言ってしまった。
すると彼女は目を瞬いた。そして驚いたように両手を頬に当てる。
「まあ、わたくしったら気が急いて、肝心なことを聞くのを忘れていたわ」
シンシアはアメリアの目をじっと見た。
「ねぇ、あなたはエドワードのこと愛している?」
「え……」
不意討ちだった。
みるみる顔が赤くなるアメリアに答えを覚ったのだろう。シンシアは嬉しそうに笑う。
「では、エドワードはもうあなたにプロポーズをしたかしら?」
「う……」
これも答えは必要なかった。縮こまるアメリアはとてもわかりやすい。
「ふふ、ねぇ、アメリア。わたくしにとって一番大切なのはそこなのよ。あの子のことをちゃんと理解した上で愛している人に、あの子と結婚してもらいたいの。身分も大事だけれど、それは二の次でいいわ。こんな考え方を馬鹿にする人もいるけど、わたくしはそうは思わないわ。だってわたくしは今でもマークを愛しているもの」
喪服を着た女性は幸せそうに微笑んだ。
「大丈夫よ。わたくしは味方だわ。それにこんな家系ですもの。さっきも言ったけど、社交界なんてほとんど出ないのよ。代々そうだから、そういう家だと思われているの。それにメイドと結婚した貴族は他にもいるじゃない」
エドワードと同じことを彼女は言う。エドワードとそっくりの包み込むような優しさで。
緊張が解けて安心して、アメリアは泣きそうになった。
味方がほしかったというのもある。しかし自分のせいで、エドワードが家族から責められることはないのだとわかって安心した。
「あなたはわたしでもいいのですか?」
「息子の見る目を信じているもの。それに大抵のことはあの子が自分で何とかしてしまうわ。のんびりしているように見えて、結構しっかりしているでしょう?」
「はい」
アメリアが即答で肯定したので、シンシアはくすくす笑った。
「あなたは本当にエドワードのことが好きなのね」
恥ずかしい。でも今度はアメリアもはっきり答えた。
「はい」
「ふふ、じゃあねぇ、アメリア。アレはもう試したかしら?」
シンシアの目が悪戯っぽく輝いた。