33
アメリアとデーヴィットは駅を出てすぐの、人の流れから離れた場所でじっと立っていた。
初めて目にした時に圧倒された高くて近代的な建造物の連なりや、店の看板、通りの名前が記された標識を眺める。この景色をしっかり記憶しようとアメリアは思った。たとえば、この駅の近くに何があるのかと、バーキン夫妻に聞かれた時に、すぐに答えられるように。
「ねぇ、デーヴィット。今度ミセス・キャボットに休みを合わせてもらうようにお願いしてみようかしら。それで町で買い物をしましょうよ」
父親を警戒していたこともあり、二人はまだ休日に町に出たことはなかった。
「行きたい! 町の中を散歩して、チョコレート買って、推理小説買いたい!」
余程行きたかったのか、デーヴィットはすぐに反応する。アメリアはくすりと笑った。
「じゃあ、がんばってお願いしないとね」
「俺もミスター・ショウに言ってみる」
デーヴィットが彼らのほうに顔を向けた。エドワードとショウは少し離れた場所で立ち話をしている。
すぐに終わるから待っていてほしいと言われて、アメリアたちはここにいた。
するとそれまで小声で会話していたショウが、突然アメリアたちにまで聞こえる声を出す。
「では、行ってきますよ、エドワード様」
その後にまた何かを呟いたらしいが、今度は聞こえてこない。エドワードが顔をしかめたのと、ショウが驚いて痛みに耐えるようなちょっと情けない表情をしたのは見えた。
「今、旦那様がミスター・ショウの足を踏んずけていたよね?」
「……気のせいよ」
ショウはすぐに復活してこちらへ来ると、デーヴィットの腕を取って歩き出した。
「行くぞ、デーヴィット」
「え?」
置き去りにされる形となったアメリアが戸惑う。ついて行くべきなのか留まっているべきなのかわからない。
「アメリアはこっち」
いつの間にかエドワードがすぐ傍にいた。
「ついでに用事を頼んだんだ。だから私たちは先に帰ろう」
「……わかりました」
エドワードが先に立って歩き出す。その進行方向にあるのが辻馬車のたまり場だと気がついて、アメリアははっとした。
そういえば行きに乗ってきた伯爵家の馬車は彼が帰していた。いつ戻れるかわからなかったからだろう。となると屋敷まで届けてくれる乗り物は辻馬車しかない。オムニバスに乗って後は歩きなどと貴族はしない、というよりできない。
そして当然のごとく、エドワードはアメリアを同じ四輪の箱馬車に乗せようとした。
「ま、待ってください。わたしはオムニバスで帰ります」
実のところアメリアは仕事の使いでたまに町に来ていたデーヴィットよりも、オムニバスにどう乗ればいいのか理解していない。
しかし女性ではない主人と、ただのメイドが二人で同じ馬車に乗るのはおかしいし、別の意味でもそれはやるべきではないことだ。アメリアはそういったことに詳しくはないがそのはずである。
ところがエドワードはアメリアが非常識を言ったかのように驚いた。
「どうして? 町はずれからハリソン・ハウスまでは歩かなくてはいけなくなるよ。疲れているのにそんなことをしてはいけない」
「いえ、でも……」
「いいから。ほら、早く乗って」
エドワードがアメリアの手のひらを掴んだ。
強い力で引っ張られたわけではない。しかしアメリアは体の力が抜けたように、されるがままに馬車に乗り込まされていた。
急に思い出した。
いや、忘れていたわけではない。考えないようにしていて、実際に他に考えるべきことがあったさっきまでは、それが上手くいっていただけだ。
つい昨日のことなのだ。アメリアが彼に対して、とんでもなく愚かな反応をしてしまったのは。
あれがどんな結果を生むのかなんて、想像したくもなかった。でも。
エドワードは気づいてしまったのだろうか。アメリアの気持ちを。
「アメリア」
びくっと肩が震えた。呼ばれてアメリアは顔を上げる。馬車はすでに発車していた。
「バーキン夫妻が今度こちらに来ると言ってくれていたよね。はっきりしたことが決まりそうになったら教えてほしいんだ。私もお会いしたいから」
「あっ、はい。わかりました」
「彼らとはいつ頃からの付き合いなの? 確か日曜礼拝で親しくなったんだよね」
エドワードは拍子抜けするほど普通の会話を続けた。いつもと変わりなく穏やかだ。馬車に二人きりだからといって、意識してしまうアメリアがおかしいのかもしれない。
だが彼はもしかすると、アメリアの気持ちに気づいていて、敢えてうやむやにしようとしてくれているのかもしれなかった。優しさでもって。
胸がちくりと傷んだ。
それがアメリアにとってもエドワードにとっても一番いい。夜の庭園で過ごす時間を失わないためには、むしろそうするしかないだろう。冷静に考えればどうしたってその結論に行きつくし、アメリアの望みも同じなのだ。
だがこの気持ちが存在しないもののように扱われるのは、理屈を越えて悲しいと感じてしまう。それもまたアメリアの正直な感情の一つだった。
アメリアは気づかない。
エドワードの口数がいつもより多いことに。じっと様子を探られていることに。
やがて馬車は屋敷の姿が見え出したあたりで停車した。
いくらエドワードでもこのまま門をくぐるのはよくないと思ったのだろうと、アメリアはほっとする。辻馬車は軽快な音を立てて、来た道を戻って行った。
「ごめん。疲れているだろうけど、少し歩こう。……話があるんだ」
にわかに緊張した。なかったことにされるのが悲しくても、あのことについて話がしたいわけではない。
違う。話の流れからして昨日のことではなくて、今日のことだ。冷静にならなくては。
「私は……リヴォンジ男爵に私の屋敷のアメリアとデーヴィットが、彼の子供ではないと認めさせたよね」
「はい」
歩こうと言いながらエドワードは木陰で立ったまま話をする。彼はアメリアが続けて何かを言う前に、言葉を重ねた。
「だから君たちはずっと私の屋敷にいなくてはいけなくなった。私から離れるとあの人がまた君たちを連れ戻そうとするかもしれない」
「はい。精一杯仕えさせていただきます。よろしくお願いします」
まるで枷であるかのような言い方をされるが、どう見てもそれはアメリアたちに優しすぎる条件だ。だから真心を込めて、メイドらしく真摯に、エドワードの目を見て答えた。
笑ってもらえると思った。そんなに気負わなくていいよとかそんなことを言って。
なのに傷ついた瞳に見下ろされていて、どくんと心臓が締め付けられる。
「……こんな時に言うのは卑怯だと思う」
エドワードは辛そうに口を開く。
「でもこのまま日常に戻って、なかったことになってしまうのは嫌なんだ」
アメリアの心音が加速した。彼は何を言おうとしているのだろう。わからないのに、二人の関係を崩そうとしている予感だけがする。
ゆっくりと恐れるように手のひらが伸ばされた。
アメリアは動かない。昨日、書斎で触れ合うことなく離れていった手が、優しく頬を撫でた。何かを確かめるように動く手は、思っていたよりも大きくて。
アメリアの心臓がまた速くなる。視線を合わせていられなくて逸らした。
じっとしているくせに、そんなことをしないでと願う。彼はきっと、なかったことにしないために、昨日の続きのような行動をしているのだ。こうやってアメリアの反応すら上手に引き出して。
「アメリア」
耐えられなくて逃げ出したくなった頃に、エドワードはようやく満足したのか、手を止めて名前を呼ぶ。
アメリアは恐る恐る目線だけをエドワードに向けた。
「君が好きだ」
一言一言に熱が込められているみたいな言葉だった。
とても単純なその意味を理解できなくて、アメリアは正面からエドワードを見つめていた。
それでも理性はまだ微かに残っていて、早く「ありがとうございます」とでも言って笑いなさいと脳に命令する。あなたはメイドなのだから。貴族がメイドに恋をするなんて小説の中だけ。
そんな、心を守るためにアメリアが築いた最後の砦を、エドワードはあっさりと崩した。
「女性として愛している」
履き違えようもない真っ直ぐな言葉が、アメリアの胸にすとんと落ちた。
「……え、あ、」
ただでさえ赤かった頬が、頭にまで熱を伝えてくる。心臓が飛び出しそうなくらい高鳴った。好きになることを、どうしても止められなかった人に、愛していると言われている。
エドワードは、言葉よりとても雄弁なアメリアの態度に、照れたように微笑んだ。
「君は、私が好き?」
これ以上は赤くなりようがなかったからなのか、恥ずかしすぎたからなのか。アメリアは涙が出てきた。こんな聞き方をするのは、きっと答えを知っているからなのだ。
ずっと隠し通さなくてはいけないと思っていた。だから咄嗟には素直になれない。
でも笑っているエドワードの瞳が、こちらを窺うように揺れている。そこに不安と切望の色を見つけてしまった。
──もし、そうだと頷いたら、彼は喜んでくれるのだろうか。
そんな思考が舞い降りて、いつの間にか勝手に口が動いていた。
「好きです」
わかっていたくせに、エドワードは驚いたように目を瞬かせた。でもそれも一瞬のこと。アメリアが望んだよりも、もっとずっと幸せに満ちた笑顔が、アメリアに向けられている。
言葉にならない感情が身体中を駆け巡った。
触れ合っていた部分が離れて、すぐにもっと大きな感触を味わう。暖かい腕に抱きすくめられているのだと、アッシュブロンドの髪が間近にあることでようやく理解する。
「アメリア、結婚してくれ」
喜びと切なさが同じくらい混ざり合った声で、エドワードは決意の響きを滲ませて言った。
「……え?」
アメリアは混乱した。
しかし今度はエドワードも言い直さない。ただ返事を待っている。
「あの……わたし、メイドですよ?」
「知っている」
「元貴族の娘でもなかったんですよ?」
「それも知っている」
「み、身分が違います」
「そんなの法的には何の問題もない。メイドと結婚した貴族は他にもいる」
「…………」
エドワードはアメリアの体を離して、顔を覗き込んだ。
「君が躊躇するのは、私がカエルに変身するような人間だから?」
悲しみに翳った表情の中に諦観に似たものを見つけて、アメリアは慌てて首を振った。
「違います! そうではなくて、わたしが……!」
自分が相応しくない理由なら山ほどある。何度も迷惑をかけている世間知らずな、労働者階級の娘だ。広大な土地を持つ伯爵の妻なんて勤まるわけがない。おまけに縁が切れたとはいえ、父親はあんな人間だ。
「迷う理由が私にあるのではないなら、君が自分に引け目を感じているのなら、そんなものは私にとってどうでもいいことなんだ。君が思っているよりもずっと、私のような人間を好きになってくれる人が存在するというのは、奇跡みたいなものなんだ。それが私が愛した人ならば、私はその奇跡を手離したくない」
エドワードの言葉は、あまりにもアメリアの感覚とかけ離れていて戸惑う。
「あなたは優しくて頼りになるとても素敵な人です。あなたを好きになる人なんてたくさんいます」
困ったようにエドワードは笑った。
「本気で言ってくれているのなら嬉しいけど、それは間違いだよ。多分、君しかいない。それにどの道、私が好きなのは君なんだ」
繰り返し、エドワードは感情を伝えてくれる。
この人が喜んでくれるなら、あの笑顔をくれるならどんなことでもしたいと、アメリアはそんな衝動に襲われる。
しかし貴賎結婚はそんな単純な問題ではない。アメリアと結婚して辛い目に遭うのはきっと、アメリアよりもエドワードのほうだ。変わった人間だと社交界で冷たい目で見られて、家族や親戚とだって溝ができるかもしれない。
「すぐに答えられることではないよね。ごめん、急ぎすぎた」
アメリアの混乱を感じたのか、エドワードはいくらか冷静になっていた。
「でも君が躊躇う理由が私自身ではないのなら、私は諦めないから。それだけは覚えていて」
優しく熱のこもった眼差しを向けられて、アメリアの心臓がまた騒がしくなった。
「……はい」
恥ずかしさに顔を伏せて返事をする。
自分が彼のことを断るなんて想像もできない。でもこんな、とても平静とはいえない状態ではなく、もっとしっかり頭を悩ませて、覚悟して自信のある答えをエドワードに告げたかった。
流されて決めたのだと思いたくも、思わせたくもない。
だからほんの少しでいい。待っていてください。
申し訳なさに胸を痛めながら、アメリアは心の中で呟いた。