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 駅に戻ると、息を切らせて駆け寄ってくるバーキン医師の姿があった。

 どうやらアメリアの後を追ったバーキン夫人が、リヴォンジ男爵を目にして、慌てて駅の近くの診療所から夫を呼んできたらしい。

 彼はエドワードから事態が収束したことの説明を受けると、いたく感激して何度も礼を言った。それからアメリアとデーヴィットを順に抱き締めて、無事でよかったと涙ながらに安堵した。

 身内のように親身になって心配してくれる夫妻が暖かくて、アメリアもデーヴィットも少しだけ泣いた。

 リヴォンジ男爵については、もう財力がないに等しいので、今後は他人を貶めるようなことはできないだろうが、不審な動きがあればエドワードに知らせることを、バーキン医師が約束してくれた。

 しばらく駅で話をした後、列車がやって来ると、また会いに行くと言うバーキン夫妻と別れる。

 行きと同じ一等車両に腰を落ち着けると、アメリアはやらなくてはいけないことがあった。


「デーヴィット」


 厳しい顔で隣に座る弟に向き合う。

 アメリアがまだ怒っていたことに驚いて、デーヴィットは戸惑いながら何、と返事をした。


「今回は本当に旦那様がいなければどうなっていたかわからないのよ。もう絶対に黙って自分を犠牲にするような真似はしないで。それだけは絶対にしないで」


 でなければ何のためにアメリアは家出を決意したのかわからない。デーヴィットにとってはアメリアのためであろうと、アメリアにとっては第一にデーヴィットのためなのだ。弟の人生を踏み躙る人がいない場所へ行くために。

 こんな話はエドワードやショウの前でするべきではないが、うやむやにはしたくなかった。

 しかしデーヴィットは不満そうに口を歪ませる。


「……じゃあ、アメリアはいいのかよ」

「どういうこと? わたしはデーヴィットの代わりになるためにここに来たわけじゃないわ」

「そうじゃないよ。一緒に家を出て、同じ屋敷で働いたことだよ。アメリアは本当は俺がいないほうが幸せになれるはずだろ」


 アメリアはびっくりして怒りを忘れた。デーヴィットは下を向いて平静を保とうとしながらも思い詰めた口調になっている。


「何を言っているの? そんなわけないじゃない」

「嘘だよ。アメリアは元お嬢様なんだから、本当なら侍女や家庭教師ガヴァネスになれたはずなんだ。そしたらメイドみたいにきつい肉体労働をしなくてすんだし、人からの見られ方も違う。頼りがいのある男に見初められて、結婚だってすぐにできたかもしれないじゃないか。でも俺と一緒だからメイドにならなきゃいけなかったんだ。俺が世間知らずで一人にするのが心配だったんだろ」


 デーヴィットの声に自嘲が混じる。


「犠牲になってるのはどっちだよ。俺がいないほうがアメリアは幸せじゃないか」


 どんな思いでそんな考えに至ったのかだとか、本気でそう思っているのかとか、そんなことよりも。ただアメリアはデーヴィットが口にした言葉そのものに、例えようがなく腹が立った。頭が真っ白になるくらいに。

 弟にこんなにも激しい怒りを覚えたことはかつて一度だってない。喉の奥に熱いものが渦巻いた。


「……馬鹿なこと言わないで」


 目の裏や頭にまで熱が伝わっていく。


「そんなことが……たかが、そんなことが何だっていうの! どうして一緒にいたいと思っちゃいけないのよ! わたしに! デーヴィットよりも、大切なものなんてあるわけがないじゃないの!」


 デーヴィットがアメリアを見上げて目を丸くした。

 叫びながらアメリアは涙を溜めていた。悔しかった。デーヴィットのせいで慣れない労働をしているのだと、たとえ少しでもアメリアにそんな考えがあると思われていたことが。当たり前に必要な存在であるのに、いないほうがいいのではないかと思われていたことが。

 そんな思いがあの行動に結びついていたことが、悔しい。


「今度あんなことを言ったら許さない。あんなことをしたら、絶対に許さないから!」


 胸の中にある気持ちはほとんど形にならず、アメリアは許さないと繰り返す。

 初めて見る、大声を出して泣きながら怒る姉の姿が、デーヴィットの胸に突き刺さった。アメリアの怒りはそのまま彼女の愛情そのものなのだ。

 デーヴィットの心の隅で、張り詰めていたものがぷつんと切れた。


「ごめん……。ごめん、アメリア」


 ぽろぽろと涙が溢れる。

 怒られたことにひどく安心して、急に恥ずかしくなった。大切にされていたことくらい、ちゃんと知っていたはずなのに。

 ここ何年かずっと目にしていなかったデーヴィットの子供らしい泣き顔に、アメリアのほうは怒りの行き場がなくなってしまう。

 毒気を抜かれて握りしめていた拳を降ろす。

 デーヴィットは黙って泣いていた。そうしなくてはいけないような気がして、アメリアはそっとしておくことにする。

 正面に向き直ると、エドワードが優しい空気を纏って苦笑していた。

 ああ、同じなんだと思った。

 以前、デーヴィットにとって家出をしたことは本当にいいことだったのか思い悩んでいたアメリアと、いないほうがいいのではないかと考えていたデーヴィットは全く同じだった。

 姉弟二人で、相手にとってはとてもくだらないことで苦悩していたのだ。それはもう苦笑するしかない。

 アメリアは視線でごめんなさいとエドワードに謝った。主人の前で姉弟喧嘩をしてしまうとは、我ながら彼に甘えすぎている。エドワードは何でもないことのように小さく首を振った。

 誰も口を開かず、しばらく車内は車輪が回る音と、デーヴィットの鼻を啜る音をかき消す排気音だけが響いていた。

 頃合いを見計らってアメリアは座面の上にあるデーヴィット手に、手のひらを重ねるようにして繋いだ。

 デーヴィットが顔を上げたことを横目で確認する。

 すっきりとした表情をしていた。強がりではない照れ笑いに、アメリアもつられて笑顔になる。

 汽笛が鳴った。

 窓のむこう側に、アメリアの好きな町並みが広がっていた。

 

 

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