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「……そんなことをする必要はない」
顔を蒼白にさせながら男爵はかろうじて言い返した。
「あなたがそれを判断しても意味がありませんよ。それとも私が納得できるだけの理由があるのですか?」
「爵位のことは今は関係ないだろう! 私は歴としたリヴォンジ男爵だ!」
事実であるはずのことをわざわざ強調したせいで、アメリアはそれがどこか空々しく聞こえた。
まさかと思う。
この人はまさか爵位継承の際に何かをしたのだろうか。
「そんな言い方をされると調べないわけにはいきませんね」
「ふざけるな!」
男爵は追い詰められた者が見せる焦燥感を全身に滲ませていた。彼にとってこれはあまりにも不測の事態であり、対抗手段を考えることすらできないのだ。
通常であれば彼は警察の介入など、それほど気に止めない。いくらでも誤魔化せるからだ。警官は労働者階級がほとんどであり、権力にものを言わせることも容易い。貴族の犯罪が揉み消されやすいのもこの理由によるところが大きい。
しかし警察の後ろ楯としてより強力な貴族がいる場合は別だ。警察は捜査対象である貴族に下手に出る必要がなくなる。
リヴォンジ男爵はエドワードの指示で警察が動くことをとても恐れていた。
「ふざけていませんよ。もちろん本気です」
「…………」
真顔で返されたリヴォンジ男爵はもうどうしようもなく言葉を失った。阻止させようとすればするほど怪しさが増し、かといって許容するわけにもいかない。そして駆け引きができるほど頭は働いていなかった。
「しかし、そうですね。確かに必要ないかもしれません。あなたが彼女たちの父親ではないのなら」
エドワードは自分の考えに同意するように頷いてリヴォンジ男爵を見た。
「は……?」
「私は雇い主として彼女たちを守らなくてはいけませんから、あなたが父親だから彼女たちを引き渡せと言うなら、あなたのことを色々調べなくてはいけません。でも彼女たちの言っていることが正しくて、本当は父親じゃないのだとしたら、そんなことをする必要はありませんよね。ただの見間違いなんですから」
隠すように立っていた場所から横へ一歩退き、エドワードはアメリアとデーヴィットを手で示した。
「もっとちゃんと確認してください。彼女たちはあなたの子供ですか?」
穏やかな声でエドワードは究極の選択を突きつけた。
リヴォンジ男爵が自分の子供だと認めれば、彼の身辺は警察によって徹底的に洗われる。しかしそうではないと口にすれば避けられるのだ。アメリアとデーヴィットが彼の元に戻らないことを条件に。
大きく見開いた目をアメリアたちに向けながら、リヴォンジ男爵のその目は彼女たちを映していなかった。自分にとって、どうすることが一番保身へと繋がるのか、頭の中でめまぐるしく考えていることがアメリアにはわかった。
しばらくの沈黙が流れ、やがてリヴォンジ男爵がぽつりと呟く。
「……違う」
「違う?」
「あれは私の子供ではない」
喘ぐように吐き出された。
この時の感情をアメリアはどう表現すればいいのかわからない。悲しみではないことだけは確かだった。
「そうですか。それならいいんです。私がわざわざあなたを調べる理由はありません」
事務的にエドワードが告げる。
「ただ今後のためにはっきりさせておきましょう。私の家のメイドのアメリアとボーイのデーヴィットは、あなたのご息女とご子息ではありませんね?」
「ああ、違う!」
屈辱に耐えかねるようにリヴォンジ男爵は叫んだ。
「わかりました。それなら今後彼女たちには一切接触しないようにお願いします。そうしていただけるなら、私もあなたには関わりません」
今度は男爵は答えなかったがエドワードは気にしなかった。言いたいことは理解されたはずだ。
「では、私たちはこれで失礼します」
エドワードは展開に置き去りにされつつある三人を連れて、その場を離れようとした。と、すぐに立ち止まって振り返る。
「そういえばあの新聞の記事ですが、あれも聞くところによると、いろいろとおかしな部分があるようですね。主に誘拐犯にされているハウスキーパーですが、もし彼女があの記事に対して抗議したいと考えているのなら、私は全力で彼女を支援するつもりですが……」
「やめろ! あれは間違いだ。間違った内容が載っただけだ!」
やけくそ気味にリヴォンジ男爵が怒鳴る。
「それでは訂正記事を記載していただけますね?」
「……もちろんだ」
「速やかな対処を願いますよ。できれば明日にでも記載させてください」
それはさすがに無理だろうと思えるようなことをエドワードは口にする。
「わかった!」
しかし冷静ではないリヴォンジ男爵はすぐさま了承した。
そしてもうこれ以上は何も言われたくないとばかりに背を向けて、馬車に飛び乗ると、またも壊れそうな勢いで扉を閉める。
早く出せと叫ぶリヴォンジ男爵の声がアメリアたちにまで聞こえてきて、馬車は駆け去った。
アメリアとデーヴィットとショウはしばらく呆然とした。
「……で? 何だったんですか? あれは」
ショウが取り澄ました表情を崩してエドワードに尋ねた。
「それはなぜ彼が逃げ出したのかという意味?」
「そうです。まさかあの人、冗談じゃあ済まされない犯罪を犯していませんよね」
同じ不安を抱きながら、恐ろしくて口には出せなかったアメリアとデーヴィットが一斉にエドワードを見る。
没落を免れるための唯一の手段であるはずのアメリアを諦めるほど、彼が知られたくないこととは何なのだ。
「うーん、彼の罪は身元偽証だろうね」
あまりはっきりしない答えが帰ってくる。
「彼が名乗っていたジャック・ベイントンという名前は多分、彼の本名ではなくて、別人のものなんじゃないかな。彼は本当のリヴォンジ男爵ではないんだよ」
「……どういうことですか?」
恐々とした表情でデーヴィットが質問する。
「これはただの臆測だけど、前リヴォンジ男爵が亡くなった時に、正統な後継者がいなかったんじゃないかな。後継者がいなければ爵位は返還しなくてはいけない。それを阻止するために、本来は権利を持っていない者を後継者だと偽ることはごく稀にあることだよ。聞いたことがある。庶子を嫡子と偽ったりね。ジャック・ベイントンという後継者は既に亡くなっていて、その親戚だか他人だかはわからないけれど、彼によく似ていた今のリヴォンジ男爵がジャック・ベイントンに成り代わったんだろう。もしくは本当は存在しないジャック・ベイントンという人物を作り上げたのかもしれない」
ショウが納得いったようないかないような、何とも微妙な顔をした。
「どうしてそんなことがわかったんですか?」
「わかったわけじゃない。彼があまりにも貴族らしくなかったから、その原因をいろいろ考えてみて、実は貴族じゃないという結論が一番しっくりきたんだ。それでさっき言ったことの可能性を考えて、カマをかけてみたら、彼が見事に引っ掛かってくれただけだよ。他にも可能性は考えていたけどね。だから臆測であって、本当のところはわからない」
「……確かに見事に引っ掛かっていましたね。なるほど。没落よりも継承権を偽って爵位を継いだことが世間に知れ渡ることのほうが、よっぽど恐ろしいですよ」
ショウはすっきりした顔をしたが、エドワードは思い悩むように眉を寄せた。
「こういうことは見過ごすべきではないんだろうけどね。でもはっきりさせてしまえば、きっと彼は監獄送りになる」
情報を整理するのに精一杯だったアメリアがはっとした。
ただアメリアとデーヴィットの自由を勝ち取るためだけにエドワードが犯罪に目を瞑ったのかと思っていたが、それだけではないのだ。アメリアとデーヴィットを犯罪者の子供にしないために見過ごしたのだ、彼は。
それはやってはいけないことだ。しかしアメリアはエドワードの判断に心の底から安堵した。あんな、憎んだことすらある父親だが、どうなってもいいとまでは思えない。
「あの、あの人が本当のジャック・ベイントンに何かをしたということはありますか?」
不安気な顔をエドワードに向けて、デーヴィットが思いきったように尋ねた。
「ああ……。それはないよ。身元を偽って爵位を継承するなら、前男爵や本来の後継者とかなり親しい人の協力がなければ無理だ。身分を失うことを恐れた前男爵の妻や娘とかね。だから君が考えているようなことを彼がしていたら、その人たちが協力しているわけがないよ。もともと継承権がある人間なら、協力なんて必要じゃないけど、彼は違うみたいだしね」
エドワードはデーヴィットの不安を正確に理解して答えた。デーヴィットは全身の力が抜けたようにほっとする。アメリアよりもデーヴィットは父親に対してかなりシビアな見方をしている。
「でも、すまない。君たちにも父親にもあんなことを言わせてしまって」
申し訳なさそうなエドワードに、二人の姉弟は首を傾げた。
「子供じゃないと言わせてしまっただろう?」
「えっ?」
「へっ?」
思いもよらぬことで謝られて二人は慌てた。
「いえ、そんな、全く気にしていませんから!」
「そうですよ! むしろ清々しています。こっちはもう、元々父親だなんて思っていませんでしたし!」
少しは気にしたほうがいいのだろうが、二人ともあんな言葉で落ち込むような段階はとっくに過ぎていた。
「それよりも、ありがとうございます。わたしたちをあの人から解放してくださって。あなたがいなければ、どうなっていたかわかりません」
アメリアは姿勢を正して、真摯に礼を言った。
「あっ、そうだった。あの、ありがとうございました。旦那様、すごくかっこよかったです」
続いてデーヴィットも慌てて礼を言うと、エドワードはようやく柔らかく微笑んだ。
「約束しただろう? 必ず助けるって」
彼の目は真っ直ぐにアメリアを見ていて、デーヴィットは不思議そうに二人に視線を交互に向ける。
すると空気を読まないショウが、なぜか得意気に胸を張った。
「こう見えて、エドワード様はいざという時は口が上手くて、何とでもしちゃうんだよ。任せとけばいいって言っただろう?」
「いつ言ったんだ。それとこう見えては余計だ」
不満そうに抗議するエドワードの声が、緊張感のなくなったいつも通りの声で、それがアメリアにはもう何も心配いらないのだと言われているような気分にさせられた。
僅かに口元を綻ばせたアメリアをエドワードが見ていた。
「じゃあ、帰ろうか。──ハリソン・ハウスに」