30
先に我に返ったのはアメリアのほうだった。
逃げても無駄な距離だった。アメリアは咄嗟に向かってくる父から守るようにデーヴィットを抱える。あまりにも突発的な出来事で、それくらいのことしかできない。
そんなアメリアの反応と、馬車から出てきた男性の形相を見て、エドワードとショウは瞬時に状況を悟った。
二人はリヴォンジ男爵の進行方向に立ち塞がる。
周囲にまるで目を向けていなかった男爵は、彼らの存在にたった今気がついたように訝しげに顔をしかめた。
「何かご用ですか?」
先手を打つようにエドワードが穏やかな口調で尋ねる。怒りで頭に血が登っているリヴォンジ男爵に、それは何の効果もないように思えた。
「そこをっ……!」
しかし彼はエドワードを真正面から見据えると、口を開いたまま黙ってしまった。
リヴォンジ男爵は立場が下の人間には横暴に振る舞う。そして相対的に身分が上の人間には弱く、媚びへつらうのだ。二人は遠目には同じ紳士の格好であるフロックコートを着ているが、近くにいれば違いは一目瞭然だった。
皺だらけのくたびれた上着を着ているリヴォンジ男爵と、見るからに上質の、今朝にはなかったであろうと思われる皺のみで、艶のある上着を着ているエドワード。
綺麗に手入れされた衣服は、それが専門的な知識のある腕のいい使用人を雇っているという証明になり、それだけで一定の地位と財力を持っている証になる。おまけにエドワードは容姿が貴族らしい人間だった。
リヴォンジ男爵は怒りを消しきれていないながらも、態度を改めた。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことが?」
口元をひきつらせて、若者に対する侮りを隠しきれない様子で尋ねる。
「いいえ。ですがあなたが私の使用人に用があるようでしたので、どんな用件かと聞いたのです」
エドワードは丁寧ながらも全く下手に出ることなく答えた。
「使用人?」
なぜそんな単語が出てきたのかわからなかったのか、リヴォンジ男爵は眉根を寄せる。
「ええ、後ろの二人は私の家の使用人です」
「は?」
間の抜けた声を発した後、内心の憤りを持て余したままだったリヴォンジ男爵は、顔を真っ赤にさせた。
「下らないことを言うのはやめろ! その二人は私の子供だ!」
侮辱されたと捉えたのか、なけなしの冷静さを投げ捨てて怒鳴る。
アメリアはエドワードとショウの背中に庇われながらびくりと体を震わせた。混乱してどうすればいいのかわからなかった。このまま父に連れ戻されることは絶対に嫌だが、庇われたままでいいわけもない。
父親がエドワードに暴力を振るうとまでは思わないが、アメリアたちを庇い続けるなら、それを盾に取って利用されるかもしれない。由緒ある伯爵家の当主なのだ。繋がりを持てれば、貴族の末端である父には大きな利益がある。
そうなる前に止めるべきか。迷っているとショウが振り返り、神妙な顔でアメリアとデーヴィットを見た。
──余計なことを言ってはいけない。
そう、目で訴えられているような気がした。ショウはこの場をエドワードに任せろと言っている。
「それはおかしいですね。あなたのような紳士のご子息とご息女が、私の家で使用人などしているわけがない。見間違いでは?」
あくまでエドワードは表面上は穏やかに対応する。そのせいなのか、リヴォンジ男爵はその可能性をはっきり否定できなくなったらしい。目を眇めて二人の男性の隙間からアメリアとデーヴィットを覗き見る。
しかしいくら顔を合わせることの少なかった親子とはいえ、こんなことで誤魔化せるわけはない。
「見間違いなどではない! あれは私の子供のアメリアとデーヴィットだ!」
頭から湯気が出そうな勢いでエドワードに怒鳴る。
一方のエドワードはまるっきり態度を変えなかった。
「確かに名前は同じですが……。失礼ですが、あなたの名前をお伺いしても?」
「リヴォンジ男爵、ジャック・ベイントンだ。あんたこそ名乗れ!」
「これは失礼しました。私はヘイステイン伯爵、エドワード・フォークナーです」
伯爵という言葉にリヴォンジ男爵は僅かに怯むが、まだ油断をしていた。
「どこのご嫡子で?」
彼は爵位を複数持つ貴族の跡取りが便宜上に名乗る、実際には正式に継いでいない爵位を口にしたのだと思ったらしい。
「いいえ、私が爵位を持っているヘイステイン伯爵です」
「……あんたが?」
「ええ、しかしあなたがリヴォンジ男爵ですか? 本当に?」
男爵は顔を強張らせた。
「どういう意味ですか?」
「だとするとあなたの子供はハウスキーパーに誘拐されたはずですよね。今朝の新聞にそう載っていました。でも誘拐された貴族の子供が使用人になりたいと言って私の屋敷に姉弟二人だけでやって来るわけがありません。やはり人違いでしょう」
エドワードの言い分にアメリアは驚いた。まさか本当に彼は人違いで押し通すつもりだろうか。
「使用人だと……?」
だがリヴォンジ男爵が驚いたのは別のことだった。彼はそれまでエドワードが使用人と言っていたのは揶揄か何かだと思っていたらしい。
「ええ、彼女たちは私の家のメイドとボーイですよ。間違いなく」
「とても真面目でよく働いていますね」
事実だと証明するようにショウが続けて言った。
口を開いて唖然とした男爵は、より一層顔を真っ赤に染めた。
「このガキどもっ……!」
右手を大きく振り上げて、怒りが爆発したようにアメリアとデーヴィットに向かって来ようとする。
リヴォンジ男爵にとってメイドやボーイという身分は同じ人間とも思っていない。自分の子供がそのような仕事をしていたということは、つまり自分が他人から貶められる理由ができてしまったということなのだ。
デーヴィットがアメリアの腕から出て前に立とうとする。しかしその前にエドワードとショウが男爵を止めた。
「何をするのですか」
男爵の右腕を掴みながら、エドワードは初めて怒りを滲ませた目で彼を睨んだ。
「あんたこそ何をするんだ! あのガキどもはとんでもないことをしてくれたんだぞ!」
理性がどこかへ行ってしまったのか、エドワードの身分がわかったはずなのに、男爵の態度がもう一度改められることはなかった。エドワードのような若者のほうが立場が上だとは認めがたいのかもしれない。
「ですから、彼女たちがあなたの子供だということが信じられないのですよ。私は彼女たちの主人です。女性や子供に簡単に手を上げる人に確証もなく引き渡すわけにはいきません」
「そんなものはあいつらに聞けばいいだろう! お前ら、黙っていないで何か言わんか!」
エドワードが振り返った。
「アメリア、デーヴィット、この人はあなたたちの父親ですか?」
どんなつもりで聞かれたのかわからない。名前まで呼んでおいて白を切り通せるとは思えない。
ただアメリアがわかっていたのは、今この男を父親だと認めてしまえば、すぐにでも家に連れ戻されてしまうだろうということだけだった。
だからどんなに恐ろしくてもはっきりと言わなくてはいけない。
「……いいえ、違います。わたしたちの父はこの人ではありません」
「俺も知らないよ。こんな人」
「お前らっ! ふざけるな!」
体を押さえつけられたままの男爵は辺り一帯に響き渡るくらいの大声を出した。
「落ち着いてください。警察を呼ぶことになりますよ」
エドワードの目つきが険しくなる。だがこの一言は本当にリヴォンジ男爵を落ち着かせることになった。彼はハッと息を吐くと体から力を抜いた。手を下ろしてから衿を正し、馬鹿にするように言う。
「警察? どうぞ呼んでください。恥を掻くことになるのはあなたですよ。こいつらは間違いなく私の子供なんですから。この町の人間がいくらでも証言してくれます」
アメリアはぎくりとしてエドワードの背中を見た。父の言う通りだ。いくらほとんど家の中にいたのだといっても、アメリアもデーヴィットも日曜礼拝には行っていた。顔を見てリヴォンジ男爵の子供だとわかる人だってそれなりにいる。
「ではそうさせていただきましょうか? しかしそれで彼女たちがあなたの子供だとわかった場合、別の疑惑が浮かび上がってくるのですが」
どこか淡々と、アメリアが見たことのない冷たさでエドワードが言った。
「何の話だ?」
完全に自分が優位にいると思っている男爵は鬱陶しそうに聞いた。
「あなたが誘拐されたと言い張っている子供たちが、自らの足で使用人になりたいと言って私の屋敷に来たこと、そして尊敬すべき父親を、自分の父親ではないと言ったことについてですよ。彼女たちのような真面目な人間に、そんな行動を起こさせるなら、あなたは余程問題のある人間だということになる」
「それでどうして私に問題があることになる!? 問題があるのはこいつらのほうだろう! 父親に向かってあんなことを言いおって!」
「しかし私はこの二人をよく知っているのですよ。理由もなくそんなことをする人間ではありません。だがあなたはさっきから女性や子供に対して暴力を振るおうとしたり、大声で脅したりしているではありませんか」
「こいつらがそうさせているんだ! だいたいあんたはさっきから何が言いたいんだ。私が父親であることには変わりはない!」
それで全ての説明がつくかのように、リヴォンジ男爵は断言した。
「父親であれば何をしてもいいわけではありませんね。世の中にはそれを理由に、とても見過ごせるものではないようなことをする人もいますから」
エドワードの反論に男爵はまたハッと馬鹿にするような声を出した。
「それを私がしているというのか? 毎日のように暴力を振るったり、食事を抜いたり、新聞に取り沙汰されているようなことを? しているわけがないでしょう。さっきはこいつらがあまりにも非常識なことを言ったからですよ。実の父親に対して、親ではないなどと。そんな子供を叩いて躾したからといって、暴力だなんて言う人間はいない」
「疑いのある本人がやっていないと言うだけでは証言にはなりませんよ。ですからちゃんと調べさせていただきます。警察にも協力してもらいましょう。あなたが子供に虐待をしているわけではないこと。それとこの二人が本当にあなたの子供なら、家を出ることになった経緯をはっきりさせなくては、私は安心してあなたに彼女たちを引き渡せませんね」
そうすることが当然のような言い方をエドワードはした。
ここにきてアメリアはようやく彼の狙いがわかった。
貴族の子供を父親から引き離すには、かなり非人道的な行いがされていない限りは無理だ。リヴォンジ男爵はそう他人から思われるくらいのことはしていない。子供と顔を合わせること自体が少ないのだから。
しかし疑いがあるということにすれば、とにかくこの場ではアメリアとデーヴィットが父親の手に渡ることは阻止できるかもしれない。エドワードはまず時間を稼ぐつもりなのだ。警察にきっちりと調べてもらうなら、一日ぐらいでは終わらないはずだ。
「あなたに後ろ暗いことが何もないのなら、そうすることがお互いにとって一番いいでしょう」
「ふざけるな! なぜそんなことをしなくてはいけない!」
苛立たしげに許否する男爵は、恐らく時間がない。すぐにでもアメリアを取り戻して金持ちに嫁がせなければ危うい立場なのだろうとわかるくらいに焦っている。
「あなたの言葉が真実だと証明してもらうだけですよ。嫌がる理由が何かあるのですか?」
暗に許否すればする程、疑いが深まるだけだとエドワードは言った。
「うるさい! だいたい何であんたこそ、そこまで拘るんだ。たかが女子供に」
リヴォンジ男爵の価値観が凝縮されたような一言に、エドワードは僅かに言葉を詰まらせた。
それまで従者らしく落ち着きはらっていたショウが、主人を心配そうに見る。
エドワードはゆっくりと優雅に微笑んだ。
「おかしなことを仰いますね。私は貴族です。弱き者を助けるのが貴族の役目でしょう? 当然のことをしているまでですよ」
同じく貴族であるはずのリヴォンジ男爵はあまりにも真っ当な答えに、却って何を言われたのかわからないという顔をした。
「しかしあなたはあまりにも貴族らしくありませんね。確か商売をされているのでしたね? そんな貴族もごく稀にいるようですが、あなたがやっているのは貴族なら絶対にしないようなものだと伺いましたよ」
エドワードは急に話題を変えた。言われ慣れているのか、リヴォンジ男爵はたいして疑問も持たずに、何度も口にしたような口調になって言った。
「あいにく私は古い考えに囚われない人間なのですよ」
「古い考えですか……。とても変わったことを仰いますね。まるで爵位さえ持っていれば貴族だと世間が認めてくれると思っていらっしゃるかのようです」
どこか含みのある言い方をエドワードはした。
「ですが貴族は体面が全てなのですよ。それを失えば、お金を持っていようと没落貴族と何ら変わりはありません。誰もあなたにそれを教えなかったのですか?」
探るような聞き方だった。それも相手に何かを探っているのだとわからせるような。
アメリアはきっとまた父は怒りを爆発させるに違いないと予想していた。馬鹿にするなと言って。
しかしリヴォンジ男爵の顔は強張り、エドワードを凝視している。さっきまでの侮りが滲む態度はどこにもない。
「確かリヴォンジ男爵家はここ数十年で急速に増えた新興貴族の一つですね。初代はお父様ですか? お祖父様ですか?」
「……それがどうしたというんだ」
唸るような声が答えた。
「古い貴族の家ならば血筋を辿って遠縁の男子が爵位を継ぐこともありますが、新興貴族なら特例が設けられていない限り、初代は父親か祖父しかあり得ませんよね。継承条件から考えて。だから現男爵は少なくとも貴族の子供か孫として生活してきたはずなんです。いくら貴族が増えたといっても、爵位を賜るにはそれに見合う人物でなくてはいけませんから、初代は体面を大切にしていたはずですし。でもあなたはあまりにも貴族らしくない」
「……それが何だと……」
「ついでに調べていただきましょうという話ですよ。あなたが真っ当な人間だというなら、この不自然さの理由もはっきりさせておくべきでしょう? 警察にリヴォンジ男爵家についても調べていただきましょう」
「なっ……!」
口を開けて男爵は絶句した。体まで固まって、とてつもなく大きな衝撃を受けたように見える。
アメリアの頭の中に嫌な想像が過る。