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 おぼろげだった記憶が甦る。

 数年前にアメリアが父の商売について、こんなやり方はもうやめてほしいと懇願した時のことだった。初めのうちはいつものように小馬鹿にした様子で取り合わなかった父だが、珍しくアメリアがしつこく食い下がったせいで、急に癇癪を起こしたような怒りを爆発させた。


 ──子供のくせに父親に意見をするなど!

 ──誰のおかげて生活ができていると思っているんだ!

 ──お前たちはただ私の言うことを聞いて大人しくしていればいいんだ。邪魔をすることなど許さん。今後一切、一言も余計な口を聞くな!


 彼はアメリアの頬を叩いて大声でまくしたてた。

 普段はいない者のように扱い、たまに話しをしても対話とは呼べない一方的な物言いをされるだけではあったが、手を上げられたのはそれが初めてというわけでもなかった。軽いものを含めても片手で数えられる程度の回数ではあったが、経験があるので予測はできていた。

 だからアメリアはこの時、父親が恐くはあったが、それよりも説得が見事に失敗したことを悔やんでいたのだ。

 最悪だったのは、それをデーヴィットに見られていたということだった。

 アメリアと比べても父親との接触が少なかったデーヴィットは、姉に手を上げている人物が父親なのだという認識がかなり薄かったように思う。

 思いつく限りの罵詈雑言を父親にぶつけて、デーヴィットは敵意を剥き出しにし、憎しみのこもった目で睨み付けながら二人の間に割って入った。姉を守らなくてはと必死だったのだろう。 

 しかしもともと自分よりも立場の弱い人間に歯向かわれることに我慢ならない男が、頭に血が登った状態でそんなことをされればどうなるか。

 相手が十にも満たない子供であろうと関係がなかった。彼はデーヴィットにまで平手を振り下ろし、幼い身体は床に倒れ込んだ。

 アメリアは悲鳴を上げてデーヴィットを全身で庇い、思わず父親に謝った。

 ごめんなさい。もうこんなことはしません、絶対に。だから許してください。

 なおも歯向かおうとする弟を押さえつけて、アメリアは何度も謝った。そうしないと父は弟を徹底的に痛めつけるかもしれないと思った。

 やがて少しばかり落ち着きを取り戻した父親は、弟の教育もまともにできないのなら修道院学校へ放り込むぞとアメリアを脅して去っていった。

 その後、子供部屋に戻ってからデーヴィットは泣いた。

 恐かったからではない。言葉には出さずとも彼は全身で悔しいと叫んでいた。

 この時からだった。アメリアは弟をあまり子供扱いせずに頼るようにもなったのは。そして恐らくこの時から、デーヴィットにとって姉は守るべき存在になった。


 小さな駅を走りながら、アメリアは止めなくてはと強く思った。

 デーヴィットは臆病な性格ではない。暴力を振るう父親に立ち向かうし、あの歳で家出だって決意できる。

 だからこそ恐いのだ。

 利用者の少ない時間帯になった駅は人がまばらになっている。

 馬車のたまり場に質素な辻馬車が一台と暇そうな御者がいるだけだと確認したアメリアは周囲を見渡した。この駅は近くに建物が密集しておらず見通しがいい。

 だからアメリアは遠ざかっていく黒髪の少年の後ろ姿をすぐに発見することができた。


「デーヴィット!」


 驚いて振り返った顔は、間違いなく弟のものだった。

 安堵でへたり込みそうになる足をどうにか踏ん張って、アメリアはデーヴィットに駆け寄る。


「アメリア、なんでいるんだよ?! えっ。ミスター・ショウと旦那様まで!」


 デーヴィットはすぐにアメリアを追いかけていたエドワードとショウを目にすると、唖然とした。


「あなたは! 何をするつもりだったのよ!」


 余裕のないアメリアはそんな弟を無視して詰め寄る。


「……えっと」


 デーヴィットが気まずげに視線を逸らしたせいで、アメリアの張り詰めていた神経が切れた。


「まさか本当にあの人の元へ行くつもりだったの!? あなた一人でどうにかなる相手じゃないのよ。どうやってダフネを助けるつもりだったのよ! 説得なんて意味がないの、ただ捕まっておしまいだわ」

「大丈夫だよ、アメリア。ちゃんと考えてる」


 混乱しながらもデーヴィットは姉を宥めようと言葉を紡ぐ。


「あいつはアメリアがいなきゃ困るんだ。だからあの新聞の記事を……えっと記事ってのは……」

「知ってるよ」


 どこから説明すればいいのかわかっていないデーヴィットにショウが助け舟を出した。


「……新聞の記事を撤回させたら、アメリアの居場所を教えるってあいつに言えばいいんだよ。もちろん本当に教えたりしないよ。当たり前だろ。それで俺は隙を見てもう一度逃げ出せばいいだけだ。問題ないよ」


 デーヴィットは殊更それが簡単なことであるかのように、気楽な調子で言った。

 筋は通っている。それが可能なくらい父親が甘い人間であるならば。しかし。


「そんなの上手くいくわけないでしょう! 二度と家から出してもらえなくなるわ。それにあなた、あの人にどんな目に遭わされるかわからないじゃないの!」

「大丈夫だよ、それくらい。それにあの人、もうお金がないんだろ? そのうち逃げ出せるようになるって、絶対」

「いつになるかわからないわよ、そんなの!」


 アメリアは泣きそうな声で叫んだ。

 やはりデーヴィットは自分を犠牲にするつもりだった。いくらアメリアがいれば父親の没落が免れてしまうかもしれないからといって、そんなことが許容できるはずがない。怒り狂っているに違いない父は、その怒りを全てデーヴィットにぶつけるだろう。


「どうして一人でそんな勝手なことをするのよ」


 デーヴィットは拗ねたようなムッとした顔をした。


「だって他にどうしようもないじゃないか。ダフネを助けられる方法が他にあるのかよ」

「それはちゃんと考えるわよ!」

「ないんじゃないか!」


 興奮して言い争う形になった二人を、ショウが止めようと声を張り上げた。


「ちょっと、落ち着け。アメリアもデーヴィットも」


 逆らえない相手に止められたデーヴィットはぐっと口を噤んだ。アメリアもこんな所で言い争いをしていてはまずいとようやく気づく。


「デーヴィット、その件に関しては私も最大限手を貸すよ。だから早まった真似はしないでくれ」


 エドワードが諭すように言うと、デーヴィットはどうなっているのかがわからず戸惑い顔になる。


「でも、どうやって……」


 この時、一台の馬車がすぐ傍を通りすぎていくことに、四人は誰も気に止めたりはしなかった。それが辻馬車などではなく、紋章の入ったとある家所有のものだということにも気づいてはいなかった。

 通りすぎた馬車がすぐに引き返して来たことも、関係がないこととして誰も意識してはいない。


「とにかくここで騒ぐのはよくない。一度戻って……」


 エドワードがそう提案した直後だった。

 土埃を舞い上がらせて馬車が近くで急停車する。

 壊れそうな勢いの音を立てて扉が開いたことで、四人はようやくその馬車に注意を向けた。

 出てきた中年の紳士姿をした男がこちらを向くと、アメリアとデーヴィットは息が止まりそうなくらいに驚いた。


「なん……」


 意味を成さない言葉がアメリアの唇から漏れる。全身から血の気がすうっと引いた。

 怒りで目を充血させた男は、アメリアが今一番会いたくない人物であった。

 リヴォンジ男爵がそこにいた。

 

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