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列車に揺られて二時間近く。
そろそろ座席の固さにアメリアとデーヴィットの我慢の限界がやって来るという頃になって、目的地の駅にようやく到着した。
ホームにだけ屋根があった出発駅とはまるで違っていて、こちらは洒落た建造物だ。ドーム型のホームに、カフェのようなデザインの待合室もある。
町の規模がちがうのだろうとアメリアは思ったが、その通り、駅を出てみれば 人の多さと、写真でしか見たことのないような近代的な建物の数々に驚いた。
それでも首都ロンドンに比べればどうということはなく、駅の近くにそういった光景が集中しているだけで、特に大きな町というわけでもないのだが、一つの町しか知らなかった姉弟には衝撃的だった。
口を開けて辺りを眺めていた二人だったが、馬車が視界に入るとアメリアは我に返る。
「デーヴィット、辻馬車を探さないと」
ここから雇用先の屋敷までは、歩いて行くとなるとそれなりの時間が掛かる。初めて訪れる町では迷うこともあるだろうし、辻馬車に乗ったほうがいいという助言を受けていた。
「あれじゃないか?」
馬車のたまり場らしき場所を見つけたデーヴィットが指差す。
そこまで行って、アメリアはなるべく粗末な、座席の前方が剥き出しになっている二輪馬車の御者に声をかけた。一般庶民が辻馬車に乗ることはほとんどないからだ。
「すみません、ヘイステイン伯爵邸まで行ってくださる?」
初老の男性は訝しげな顔をした後、ああと言った。
「ハリソン・ハウスのことですかい?」
「そう、そこです」
「ようございますよ。乗ってくださいまし」
奇妙にへりくだった言い方に面食らいながらも、アメリアはほっと緊張を解いた。見知らぬ人に自分から話し掛けるという経験があまりないので、どうにも身構えてしまう。
馬車に乗りこむと町中をしばらく走っていた。
デーヴィットが興味津々といった様子で、あちこち指差してはあれは何かと聞いてきたが、アメリアはほとんどわからない。たまに気が向いたように御者が答えをくれた。
民家よりも自然が多くなってくると、木々で景色が遮られるようになった。
しっかりと舗装された道路が続いているものの、もしかして町からかなり離れているのだろうか。それなら屋敷の人間はそうそう町へ出掛けることができなさそうだ。
そんなことをアメリアが考えていると、黙って手綱を握っていた御者が声をかけてきた。
「右を見てくださいまし」
何かあるのかと、二人は言われた通りにそちらを向いたが、相変わらず日差しを遮るほどの並木があるだけだ。もっと奥のほうかと目を凝らしてみると、唐突にパッと視界が開けた。
雲一つない青空が広がり、その下にはなだらかな曲線を形作る小高い緑の丘がある。
そして丘の一番高い場所に、童話に出てきそうな可愛らしい造形のカントリー・ハウスがあった。
「うわ──」
デーヴィットが感嘆の声を上げた。
薄暗い舗道から一転、美しい風景画のような世界がそこにある。
訪れる者に感動を与える演出を施したカントリー・ハウスは、それでも存在を主張するようなことはなく、景色に溶け込んでいた。
「いいお屋敷でございましょう。貴族様のお屋敷ってのは教会のように尖っていてゴテゴテしているところが多いみたいでございますが、ここは違いますよ。穏やかな感じで見下ろされているような気にならないところがいいんでございます」
急に饒舌になった御者は、自分の住む町のはずれにあるこの屋敷が自慢であるらしかった。
彼が言うように、屋敷に尖塔のようなものは見当たらない。横幅が高さの倍ぐらいある灰色の本邸らしき建物があり、その両隣に赤レンガのそれぞれ屋敷を維持させるための役割を持つであろう建物が二つあった。
ここが貴族の屋敷らしい高貴さを一番に主張している部分は、アメリアが見た限りでは、門の石柱の上で立ち上がってお互いを威嚇しているかのような格好をしている、二対のグリフィンの石像だった。
その門の前で一旦馬車から降りたアメリアとデーヴィットは、門番小屋から出てきた門番に名前と用件を告げた。
「ああ、聞いているよ。客人以外の辻馬車はここから先は入れない決まりになっているんだ。こっからは歩いて行ってくれ。右の建物の裏口で呼び鈴を引いてくれりゃいい」
「わかりました。ありがとうございます」
御者に運賃を払い、アメリアたちは丘を登った。前庭だけでもかなりの広さがあるので、鉄道や馬車に乗った後に傾斜を進むのはかなり疲れてしまった。
到着した時にはヘトヘトになっていたが、アメリアは質素なプリント柄のワンピースの裾を直し、身嗜みを整えて背筋を伸ばしてから、ベルの紐を引いた。
「はいはい、お待たせしましたー」
しばらくして出てきたのは、元気な声を張り上げたメイド姿の若い女性だった。
栗色の髪の彼女は続いて何か言いかけた口を、アメリアたちを見たことでピタリと止めて、目を丸くした。
予想していた人物と違ったのだろうとわかる反応だが、アメリアとしても予測していた対応のどれとも違ったので、どうすればいいのかわからなくなった。
不審げに寄せられた眉を見て、慌てて言う。
「あの、アメリア・モーガンといいます。ミセス・キャボットにお会いしたいのですが」
「あなた新しいメイド?」
「はい。その予定です」
「ふーん。ちょっと待ってて。聞いてくるから」
彼女はそう言って建物の中に引っ込む。
扉の前で待たされたことなどないアメリアは戸惑った。
先程よりも少し長い時間が経ってから、再び同じ人物が扉を開けた。
「お待たせ。いいわよ、入っても、って……あんたたちずっとその体勢で待ってたの?」
「えっ、はい」
変わらぬ位置で行儀よく立ったままだったアメリアとデーヴィットに、彼女は驚きの声を上げた。
黙って待っていたわけではないが、アメリアは頷く。
「変な子たちね。……まあ、いいわ。付いてきて」
呆れ顔を見せながらも、特に気にした様子はなく、彼女は歩き出した。
大人しい性格ではないらしい彼女は、すぐに話しかけてきた。
「あんたたち、もしかして家政学校の出身?」
「え……? いえ、違います」
「じゃあ、コネで来たんだ? ここって人手不足なのに、採用基準が厳しいのよ。家政学校に一年以上通っていた人か、強力な口添えがある人しか雇ってもらえないの。わたしも同じ。家政学校には行ってないよ」
「ミセス・キャボットの知りあいに紹介していただいたんです」
相手がアメリアと同い年ぐらいの女性であるせいか、デーヴィットが何も言わないので、アメリアが全て答える。
「へぇ、ミセス・キャボットの? 珍しいね」
ミセス・キャボットはこの屋敷のハウスキーパーであり、ダフネの姉だった。二人とも子供の頃からお屋敷勤めをするようになったので、今ではほとんど交流がないらしいが。
アメリアのかつての家である屋敷でも、ダフネは兄弟姉妹のことなど一切話題に出していないようで、この場所が父親に知られることはまずないという保証を貰っている。
会話が少し途切れた隙に、アメリアは疑問に思っていたことを、躊躇いがちに口にした。
「あの……家政学校ってどんな学校なんですか?」
「えっ、家政学校も知らないの?!」
彼女が勢いよく振り返ったので、アメリアは質問したことをとても後悔した。
「使用人の技術を学ぶ学校のことよ。田舎にはあまりないのかしら。でも……」
彼女は立ち止まってアメリアの顔をじぃっと見つめた。
「ねぇ……あんたもしかして訳アリ?」
「えっ?」
言われた意味がわからなかったが、彼女の表情に、アメリアはなぜかドキリとさせられた。
「だって言葉使いがすごくキレイじゃない。家政学校で習ったのかと思ったけど違うみたいだし。メイド志望ってことは元侍女ってわけでもないんでしょ。そんな話し方、修得するにはかなりの時間が掛かるはずだよ」
彼女の言う通りだ。この国は階級によって、しゃべり方がまるで違っている。そして下町なまりというものは、直そうと思って簡単に直せるものではない。
それはつまり身分を偽ることがとても難しいということだ。上級使用人として貴族や富豪の側近くで勤めている人間を除いては。
だからこそアメリアたちも根っからの労働者階級であるフリをして、仕事先を探すことができなかった。
「よく聞くじゃない。父親が亡くなったせいで住み込みができるお屋敷に働きに出なくちゃいけなくなったお嬢様っていうの。……うーん、でもそれなら普通は家庭教師になるか」
「いえ、大方合っています。父は亡くなっていませんけど」
「えっ、そうなの?!」
彼女が食らいついたことで、アメリアの胸に嘘を吐いた罪悪感が芽生える。
「じゃあ、お父さんの職業は……って、しまった! もうすぐ業者が来るんだったわ。早く戻らないとミセス・ノックスに怒られる! ねえ、その話、今度詳しく教えてくれる?」
「ええ、構わないわ」
「やった! じゃあ今は急ぎましょ。ここからは静かにしてね」
主に騒いでいたのは彼女だったのだか、一度建物を出て、本邸に入る前に注意を受ける。
アメリアは内心呆気に取られていた。
元は労働とは無縁の身分であったことを知られれば、余所余所しい態度を取られるのではないかと思っていたからだ。
しかし彼女はアメリアが面白い話題を提供してくれるのでないかと期待しているだけで、嫌悪感などどこにも見当たらない。
単に彼女が特殊なだけかもしれないが、ダフネから言われていたように、使用人の中で孤立するような状況には、もしかしたらならないのかもしれない。
この先の生活に小さな希望を見つけて、アメリアはほんの少し安堵した。