21
前日の夕方から降り続いた雨は、その日の夜中に一端止み、今日の昼にまた一時間ほど降ってからは、カラリと晴れ上がった。
庭の泥濘は強い日射しによって瞬く間に乾いて、所々に水溜まりを残す他は歩くのに困難ということはない。
夕方まではこの日の約束が反故になるのではないかと案じていたアメリアは、エドワードにお茶を届けてからは、ほっとすればいいのかもっと降ればよかったと思えばいいのかわからなくなっていた。
ただ、人の姿のエドワードに会うよりは、見た目や慣れの問題から、カエル姿のエディに会うほうが遥かに緊張しなくて済むはずだ。
仕事を終えたアメリアはいつものように白いベンチに向かう。そこにはまだ誰もいないように見えたが、エディは隠れて待っていることも多い。
「エディさん」
呼びかけに返事はなかった。
不安を覚えながらも、まだ早かっただけだと自分を納得させてベンチに座る。
空を見上げると薄い膜のような雲が流れるように移動していた。何とはなしにその様子を眺める。隠れていた月が顔を出した時だった。
「アメリア」
視線を左隣に移す。
「こんばんは、アメリア」
「……こんばんは、エディさん」
アメリアは無意識のうちに笑っていた。遅れてそのことを自覚して、あぁ嬉しいんだなと思った。
なぜエディが来ないかもしれないなどと考えたのかはわからなかったが、アメリアは近くにいれば苦しくなるのに、エディが来てくれることが嬉しかった。
この、声をひそめておしゃべりをする二人だけの夜の庭園では、彼はいつだってアメリアのことを真剣に考えてくれている。ここは夢の中にいるようで、しかし本当のところは夢はもう覚めていた。
「あ……こんな呼び方失礼ですよね。……旦那様、でいいでしょうか」
アメリアが挨拶を返した時には柔らかくなっていた彼の空気が、固くなったような気がした。
「……いや、その呼ばれかたは好きじゃない。せめて、ここいる時くらいは今までのように呼んでくれ」
せめて、という言葉が強調されたように聞こえて、それはまるで、いつでもそう呼んでほしいみたいだと、アメリアは都合のいいことを考えた。
「……エディさん」
「ああ、それがいい」
目を細めてエディは言った。いつもの優しくて少し哀しそうな声で。だからアメリアは、心の中でだけ言葉を続けた。
(──大好きです)
零れ落ちるように胸で呟く。
エディがしてくれたことを返したくて、特殊な存在である自分を卑下する彼にそんな必要はないのだと伝えたくて、アメリアはそれを何度も言っていた。でもきっと途中からは、それを聞いたエディが気恥ずかしそうにする姿を見たかったから、アメリアはあの言葉を言っていたのだ。その時、アメリアは確かにくすぐったく満たされた気持ちでいたのだから。
「君は何も聞かないんだな」
エディが不思議そうに言った。
「何をですか?」
「私がこんな姿になる理由とかいろいろだよ」
聞かれたくないという意味が込められているようではなかったから、アメリアは思いきって口にした。
「理由があるのなら聞いてみたいとは思います。エディさんが話すのが苦にならないのなら」
他のことにばかり意識を向けていたが、アメリアもそれについて気にならなかったわけではない。しかしただ質問することが相手を傷つける場合もあるのだと知っていたし、好奇心から聞いたのだと思われるのも嫌だったのだ。
「変身する姿を見せたのだから、もう隠さなきゃいけないことなんかないよ。それに別に暗い過去があるわけじゃない。というより原因はよくわからないんだ。そういう家系というだけで」
「家系……といいますと、代々そういう体質ということですか?」
「体質って言い方も変だけどそういうことだね。ただこうなる人もいれば、ならない人もいる。私の父も私と同じようにカエルに変身していたみたいだけど、祖父はそうじゃなくて、大叔父がそうだったらしい。基準はよくわからなくて、まあうん、体質だろうって言われている」
本当によくわからないのだろう。エディは困ったように説明する。
「いつからこうなのかも判明していなくてね、親族は先祖が悪い魔女に呪いをかけられたんだろうって、おとぎ話みたいなことを言っている。いや、カエルに変身することがそもそもおとぎ話みたいではあるんだけど」
「確かにそんなおとぎ話は聞いたことがあります。呪いが子孫に受け継がれているというのは聞いたことがありませんけど」
アメリアも普通の人間が動物に変身してしまうとして、原因を考えたならば、まず魔法にかけられたのだという発想が出てくるだろう。魔法が実在するのかどうかはまた別の話として。
「そうなんだ。呪いが受け継がれていくというのはあまり聞いたことがない。親族が言うには、東洋ではポピュラーな話らしいけど。でも父が言うには、これは先祖にカエルの妖精がいるからなんだそうだ」
「カエルの妖精、ですか」
それもあまり聞かない話ではある。ただ妖精伝説は地域によってたくさんの伝承があるのでいないとは言い切れない。
「うん。そもそもカエルに変身するといっても、本物のカエルはもう少し小さいし、第一しゃべったりしない。だからこれはカエルじゃなくてカエルの妖精に変身しているんだ、ということらしい」
エディは何かを思い出したのか、笑いを含ませながら言った。
「根拠は一応あるよ。それなら変身する人としない人がいるのは血が濃く出たかどうかだし、それに変身する時間帯が少しずつ短くなっているようだから、これも血が薄れているからだと説明できる」
「そうなんですね」
微妙に納得できないものを感じながらアメリアは相槌を打った。
「でもこれ、魔女の呪いだとしても、単にそういう呪いだからで済ませてしまえるんだよね」
おかしそうに言われてアメリアはあっ、と思った。それはそうだ。血じゃなくて呪いが薄まっているだけ。カエルがしゃべれるのも、そういう魔法だからということで済ませられる。
「でも父は頑なに妖精だと主張していたな。多分、私に呪いだなんて言いたくなかったんだと思うよ」
エディは遠くを見るような表情をしていた。
「魔女の呪いでカエルに変身してしまうんだと言われたら、とても理不尽な目に遭っているようでやるせなくなるだろう? でも妖精の血が入っているからだと言われたら、仕方ないと思えなくもないんだ」
はっきりと割り切れるわけではないのだろう。エディの声には苦笑が滲んでいた。
「お父様はエディさんにやるせない思いをさせたくなかったのですね」
「多分ね。実際に子供の頃に呪いが原因だと言われるのと、祖先に妖精がいるからカエルになるんだと言われるのでは随分と印象が違ったはずだよ。それに私は両親共に可愛がってもらったから、こんな体質でも割と能天気に生きている」
そうは言っても、大変なことはたくさんあったはずだ。だからこそエディはとても優しくて、そしてたまに寂しそうな顔をするのではないか。
「ただ原因について議論したところで、それを解く方法がわからなければ意味がないんだけどね」
「わからないのですか?」
てっきりアメリアは何らかの方法があるのだと思っていた。さっきエディが父もカエルに変身していたみたいだと言ったからだ。彼の父親である先代が亡くなったのは二年ぐらい前だと聞いている。それまでずっとその体質のままであったのなら、エディがみたいだ、という言い方をするのはおかしい。
「自然には解けるよ。変身時間が短くなっていると言っただろう。一日の間の時間も短くなっているけど、変身しなくなる年齢も短くなっているんだ。私の父は三十歳手前で変身しなくなった。だから私はあと数年だろうって言われている」
「一定の年齢でカエルにならなくなるのですね」
「ああ……でも、それより父が亡くなるのが先だとは思わなかったから、爵位を継いだのにこの状態のままなのは少し辛いね」
悩ましそうにエディはため息を吐いた。
だから病弱だということにしているのかとアメリアは納得した。健康体にしか見えない彼が屋敷にこもりがちなのは、社交シーズンなのに夜会や晩餐会に出られないからなのだ。
夜会は真夜中に催されるものだし、晩餐会も自身の屋敷で開催して早めに切り上げるといったところが精々なのだろう。
由緒ある貴族の中には夜会などの社交を毛嫌いする人もいると聞いたことがあるが、ここまで制限が強いといずれ支障が出てくるかもしれない。
まして彼はまだ若い。
アメリアは手のひらを握りしめた。何か違うことを考えなくてはいけないと思った。これは考えてはいけないことだ。
「でもそんなのはきっと何とかしようと思えばできるようなことなんだ。とりあえず病弱だということにしていればいい。どうしようもできないのは、もっと別のことだ」
エディは俯くように姿勢を低くしながら言った。感情がこもらないように意識したせいで単調な口振りになったような話し方だった。
「……それは、何ですか?」
「幸運が訪れるのを願うしかないようなこと……かな。自分一人だけではどうしようもできないことだよ」
抑える口調なのに、エディの孤独の中にいるような空気が、いつもより濃く感じたような気がした。
そんな声を出さないでほしい。お願い。
「エディさん」
突き動かされるようにアメリアは口を開いていた。
彼がこちらを向く。
だがはっと我に返ったアメリアは、恥ずかしくなった。何を言おうとしていたのだろう。
彼がアメリアを救ってくれたように、彼を救える言葉などアメリアはきっと持ってはいない。
自分と弟のことだけで精一杯で、その守るべき弟にもエディにも手を取ってもらってようやく立っているような人間が、彼に安らぎを与えられるわけがないのだ。
「わたしは多分、あなたに対して何もできないんです」
悲しくなりながら言うと、エディがぴくりと身動ぎした。
「それは、……」
掠れた声はすぐに途切れた。恐らく何かを尋ねようとしたエディはアメリアから顔を逸らした。まるで傷ついているかのような仕草に見えて、アメリアは慌てて首を振る。
「違います。できることがあるのなら、何だってしたいと思っています。でもわたしはあなたのように大人ではありませんし、立場だって違うんです。わたしは世間知らずなただのメイドなんですよ。あなたの助けになれるなんて思えないんです。でもそれでも、ほんの少しでもエディさんがわたしを必要としてくれたなら、わたしは何でもします。……だからいつでも言ってください。わたしにできることがあるのなら」
エディが顔を上げた。言葉以上のものを探ろうとするように、アメリアの目を見つめる。真実かどうかではなく、何かを求めるように。
お互いがしばらくの間、黙っていた。
やがて彼がぽつりと呟く。
「ありがとう。いつか助けてもらうことがあるかもしれない」
諦めたようにも、決意を固めたようにも聞こえた。
これが形だけの返事だと、アメリアはなんとなく察してしまった。




