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 いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったアメリアは翌日、空が白み始める頃に目が覚めた。

 ちゃんと寝れたとはいえず、まだ起きるにも早い。しかしベッドの中にいても余計なことばかり考えてしまいそうなので、起き上がって着替えることにした。今日は半休なので午前中だけなら体力も保つだろう。

 鏡がないからわからないが、目が赤くなっているような気がした。いつも仕事を始めるのは一時間は後だったがちょうどいい。スティルルームへ行って顔を冷やせば仕事を始める頃には直っているかもしれない。アメリアは物音を立てないようにそうっと階段を下りた。


 外に出ると早朝とはいえ夏にしては冷たい風が吹いていた。寒くなって腕を手で擦る。霧の濃い日だった。

 遠くからヒバリの鳴き声が聞こえてくる。遮るものがほとんどないせいで涼やかな鳴き声は笛のように辺りに響いていた。朝が来たことを実感する静かな光景に、アメリアの心も少し落ち着いてきた。

 スティルルームへ行き、蛇口の水でハンカチを濡らして目に充てる。すぐにぬるくなるハンカチを何度も濡らして顔を冷やした。ついでに頭も冷えていくように感じる。

 しばらく瞼を閉じてじっとしていたが、アメリアは定刻になったことを確認するとパン焼き室へ行って窯に火を入れて、足りない分の石炭を補充するために石炭庫へ向かう。


「あら、おはよう、アメリア」


 珍しくそこでジェーンと鉢合せした。彼女はレンジに使うための石炭を取りに来たのだろう。


「おはよう。今日はジェーンなのね」

「まあ、たまにはね。それにしても今日は寒いわねぇ。雨でも降るのかしら」

「雨……降るのかしら」


 アメリアは近くに窓などないのに、空を見上げるような仕草をしてしまった。

 夏は唯一雨の少ない時期だが、全くないわけではない。


「まあ、休みの日じゃなきゃほとんど外になんて出ないし関係ないけどね。それにキッチンはレンジが温まれば、どうせ嫌ってほど蒸し暑くなるし」

「あんなに暑い場所で一日中仕事をしているジェーンは尊敬するわ」


 アメリアは苦笑しながら言った。

 自分が普通の会話をできていることと、ジェーンにおかしな所があると思われていなさそうなことに安堵する。

 しかしそうやって油断していれば、作業を終えたジェーンがアメリアの顔を覗き込んできた。


「ねぇ、アメリア、ちょっと目が赤くない?」


 指摘された時のための心構えはしていたはずなのに動揺してしまった。


「えっ、あっ、あの昨日、後片付けをしていたら、小麦粉が思いっきり目に入ってしまったのよ。痛くて擦ってしまったし、それでだと思うわ」


 先程考えていた嘘をドキドキしながら言う。


「ああ、それは痛いわね」

「そんなに赤いかしら?」

「ちょっとだけよ。近くで見なきゃわかんないんじゃない?」


 それなら数時間のうちに元に戻っているはずだ。アメリアはほっとした。

 あまり長い間おしゃべりをしていると怒られてしまうので、ジェーンは手を振ってキッチンへ戻って行く。

 いつもと同じ何気ない会話だった。

 おかしな所など何もない。

 こんな風に過ごせばいい。エドワードに会っても、カエルのエディに会っても。それができるような気がしてきた。

 いや、しなくてはいけない。この屋敷に居られなくなって困るのはアメリアだけではないのだ。デーヴィットが今以上にいい環境で働けるわけがないのだから。

 自分のためだと考えるよりも、デーヴィットを辛い目に遭わせたり悲しませないためだと考えるほうが、アメリアにとっては心に柱ができたように強い気持ちでいられる。

 だからきっと大丈夫。アメリアは自分の気持ちを決して誰にも知られないようにすると改めて決意した。

 その、決意の程を試されるような出来事が起きたのは、翌日のティータイムを取った直後のことだった。

 アメリアはこんな事態を予想していなかった自分を情けなく思う。

 またしてもショウにエドワードのお茶の給仕を頼まれたのだ。あまりにも気軽に頼まれたので、彼は本来ならメイドがするような仕事ではないということを忘れているのではないかと思った。

 しかしあの夜のことをよくよく思い起こしてみれば、ショウはエドワードの事情のことを知っていて、アメリアが夜にエドワードと会うように仕向けたはずだった。恐らく、夜にならなければカエルのエディは現れないという理由があって。

 そこにどんな思惑があるのか見当もつかないが、ショウはアメリアをエドワードの事情を知る側の人間にしたかったのだろう。その必要性があったのだ。

 ただこれは状況的にそうとしか思えないだけで、はっきりと確信があるわけではなかったから、ショウに自分に給仕などさせているのはわざとなのか、とは尋ねられなかった。

 そしてメイドであるアメリアは執事には逆らえない。あまりに理不尽な命令ならキャボットに訴えることもできるが、そうでもない。

 結局はただわかりましたと答えることしかできなかった。


 執務室の扉の前で、アメリアは緊張していた。しかし時間が経てばそれが少しでも収まってくれるとは全く思えない。早々にアメリアは諦めて扉をノックした。多少の挙動不審さはもう、仕方がないのだ。

 いつかと違って彼は部屋に入って来たのがアメリアだということにも、ショウがいないということにもすぐに気がついていた。

 アメリアは俯いて静かに目立たぬように、メイドらしい態度を取る。彼がアメリアのことを特に気に止めず、仕事を続けてくれていればいいと願っていた。

 ワゴンの上でカチャカチャと僅かに陶器の揺れる音だけが耳に届く。他に何の物音もしなかったせいで、アメリアは我慢ができなくなって、そっとエドワードの様子を窺った。

 目が合って、息が止まりそうになる。

 エドワードはずっとそうしていたかのようにアメリアを見つめていた。何か言いたそうな顔をしていたが、気づいていないふりをしてすぐに目を逸らした。

 ひたすらやるべき作業に没頭する。不自然な態度というわけではない。むしろ貴族の前に立ったメイドの態度としては自然で、アメリアはこれまでだってエドワードの前にいる時はなるべく気配を消そうとしていた。ただエドワードが貴族らしく、メイドの存在を無視しなかったというだけなのだ。

 アメリアはカップに紅茶を注ぎ終えると、小さく腰を落としてお辞儀をした。


「失礼致します」

「アメリア」


 断りを入れて出て行こうとしたアメリアを、エドワードが呼び止めた。

 彼は困ったような表情の中に何らかの感情を滲ませている。


「そんなに畏まらなくてもいい。ミセス・キャボットに何か言われているのかもしれないが、君はなるべく私の視界に入らないように行動する必要はないし、自分から私に話しかけたっていいんだ。ここでだって、もう何度か会話をしただろう?」


 アメリアが普通のことだと思い込もうとして取った態度は、エドワードにとってはおかしなものだったらしい。


「……でもわたしは新入りのメイドです」

「人に見られると面倒なことになるというなら、私やショウしかいない時だけそうすればいい」


 ますます困った顔をしながらエドワードは言う。

 彼にしてみれば、夜はむしろ積極的に会話をしたがる人物が、外見が変わると極端に余所余所しくなることに違和感を覚えるのだろう。その気持ちは理解できるが、それが特別扱いになるということを、ちゃんと理解してくれているのだろうか。

 たとえ人には見られなくても、アメリアが少しでも特別扱いをされていると感じてしまうことが問題だった。それを、嬉しいと思ってしまうことが。そんなことではいけないのに。


「君にとってはそれも、迷惑だろうか」


 エドワードは悲しそうに呟いた。


「いえ、違います! そうじゃ……そうじゃありません」


 驚いたアメリアは勢いよく首を振った。返事を躊躇ったせいで迷惑だと感じただなんて思われたくない。

 エドワードはそんなアメリアをじっと見た後、目を伏せる。


「すまない。今のは狡い言い方だった」


 感情を押さえつけるような無表情だった。なぜそんなことを言うのだろう。狡いのはアメリアなのに。

 これ以上好きになるのも気持ちを気づかれるのも怖いから、些細な距離でさえ縮めたくはない。でも本来の、顔を合わすことすらないはずの主人とメイドになるのだって嫌だと思ってしまう。

 しかし何よりも嫌なのは、エドワードが人とは違う部分を自ら明かしたことによって、アメリアが今までの好意を失ったのだと、そうエドワードに思われることだった。

 拒絶されることを彼が恐れていたのは、アメリアにだってわかる。

 傷つけたくはないのだ。あれだけ優しくしてもらったのだから、彼が望むものは何だって叶えたい。エドワードもカエルのエディもどちらもとても素敵な人で、人間がカエルになる姿を見ても嫌悪など少しも感じなかった、そんなことであなたの良さが損なわれたりはしないのだと、本心だとわかる真摯な言葉で伝えて……そうすればきっと、アメリアの想いは気づかれてしまうだろう。

 だから、曖昧な態度を取ることしかアメリアにはできなかった。

 

 

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