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 座り心地のいい革のクッションに身を沈めながら、アメリアは居心地の悪い思いをしていた。

 書斎のソファーは一人掛けだというのにとても大きく見栄えも威圧感もある。これは主人一家や彼らの客人が座るための高価なソファーであり、決してメイドが座っていいものではない。

 だというのにエドワードは当たり前のようにアメリアにそれを勧めた。

 もちろんアメリアは固辞したが、それなら自分も立っているとエドワードが本当に立ったままでいるせいで罪悪感が生れたところに、駄目押しのようにお願いされたのだ。使用人としての経験が浅いアメリアはこんな時にどうすればいいのかわからない。結局は押し切られるように座ってしまった。


「仕事にはもう慣れた?」


 何を話せばいいのかわからないのか、エドワードは少しぎこちなく当たり障りのない質問をしてきた。


「はい。まだまだ未熟ですけど、皆さん良くしてくださいますから」

「そう。よかった」


 そこで短い会話は終わってしまい、沈黙が訪れる。

 エドワードが正面に座っているせいで、アメリアは軽い緊張状態が続いていた。もうそろそろ慣れてもいいぐらいには会っているような気がするのだが、見られていると思えば落ち着かない気分にさせられる。

 アメリアが自分からは口を開かないので、エドワードが何も言わなければ書斎は静寂に包まれる。しばらくの間、微かに壁時計の動く音と、窓ガラスを叩く風の音だけが存在した。

 やがてふと時計を確認したエドワードがアメリアを呼んだ。


「はい」


 そろそろいつも庭園に行く時間になると考えていたアメリアは、意識をエドワードに戻して応える。

 彼は笑っていた。何かを諦めるような期待するようなそんな相反する感情を抱えて苦しんでいるような笑顔に見えて、アメリアは唐突に胸が痛んだ。

 どうかされたのですか。わたしに何かできることはありますか。

 そんな言葉を掛けたくて、しかし自分がそれを言える立場にいないことを理解していたアメリアはただ黙って待っていた。


「これから起きることに驚かずに……いや、それは無理か。大きな声を出したり誰かを呼ぼうとしたりはしないでほしい」

「……はい」

「うん。もうそろそろだから」


 何が。

 その疑問をアメリアが口にすることはなかったが、すぐに知れることになる。

 エドワードの体の輪郭がぼやけるような、淡い光に包まれるような見たこともない現象を目にした。

 初めのうち、目の錯覚かと思ったアメリアは瞬きをした。それを何度か繰り返しているうちに、正面のソファーに座っていたはずのエドワードの姿が忽然と消えていた。


「……旦那様?」


 一瞬の出来事で、まるで初めから誰もいなかったように思える居なくなりかたにアメリアは動揺する。しかしよく見ればソファーの座面の上にさっきまで彼が着ていたらしき衣服が奇妙な形で重なっていた。

 その服の塊がもぞもぞと動いて中から何かが出てくる。

 緑色の、アメリアの手のひらにちょうど収まりそうな大きさのアマガエル。

 それは何度も近くでアメリアが見ていた姿だった。


「エディさん……」


 アメリアは無意識のうちに彼の名を呼んでいた。


「こんばんは、アメリア」


 エディはいつものように挨拶をした。先程エドワードが話していたものと全く同じ声色で。姿さえ見なければ同じ人物がずっとそこにいるようにしか思えないくらい。

 いや、違う。別の存在じゃないのだ。彼は──。


「君は気づいていたんじゃないか?」


 呆然としているアメリアにエディは静かな声で尋ねた。


「私は名前を偽らなかったし、声も……初めのうちは少し変えようとしていたが上手くできなくてそのうちやめていた。はっきりとわかってはいなくても、もしかすると、ぐらいのことは考えたことがあるだろう?」


 この屋敷の当主とエディが同一の存在であることに。彼はそう聞いている。

 アメリアはゆるゆると首を振った。声が出てこない。彼はどうしてこんなことを言うのだろう。

 エディはアメリアをじっと見つめていたが、一度目を瞑り、また開いた時には悲しそうな空気を纏っていた。


「そうか。しゃべるカエルがいても、まさか人間がカエルになるとは思わないか」

「あ、の……」


 自分がどんな顔をしているのかも、それが彼にどう見えているのかも気づかず、アメリアは何かを言わなくてはいけないと焦っていた。


「悪かった。急にこんなものを見せてしまって。でももうこれ以上黙っているのは卑怯だと思ったんだ。狡いことをしている自覚があった。だからもう、この姿で会うのをやめるか、本当のことを言わなきゃいけなかったんだ」


 アメリアの反応を待つかのようにエディは言葉を区切ったが、まだこの事態を頭の中で処理しきれていないアメリアは、彼の言うことを理解しようとするだけで精一杯だった。


「でも君にとってはこんなものを見せられるよりも、会わないことのほうがよかったんだろうな。すまない」


 辛そうに告げられた内容に、アメリアは衝撃を受けた。


「違います!」


 思わず立ち上がって叫んだせいで、エディが驚いて後退る。


「会わないなんて言わないでください! わたしがいつもエディさんとおしゃべりするのを楽しみにしていたこと知っているじゃないですか。違うんです。驚いてどうすればいいのかわからなかっただけなんです。そんな……エディさんが本当はカエルじゃなくたって変わりません。エディさんはエディさんじゃないですか。わたしは…………エディさんのことが、大好きです」

「っ……」


 何かを言いかけたエディはその言葉を飲み込んで、自分を落ち着けようとするかのように息を長く吐いてから、困ったように言った。


「……もう、簡単にそんなことを言ってはいけない」


 アメリアは目を丸くする。


「でも、ありがとう。それで充分だ。最悪の場合、気味が悪いと逃げ出されるんじゃないかと思っていた」

「しません。そんなこと」

「そうだな。君はしゃべるカエルと初めて会った時も驚いていなかった」

「それは、驚いていましたよ」


 さっきまでの張りつめた空気が弛んで、お互いに微かに笑っていた。しかし庭園で話していた時の、昨日までの穏やかさがない。

 エディがソファーから床に降りた。


「今日はもう帰りなさい。送って行こう」

「あっ、いえ、今日は駄目です」


 即座に断ったせいか、エディの体が強張った。


「あの、まだ残っている人がいるかもしれませんから。使用人通路を歩かせるわけにはいきませんので」


 アメリアが本館から出るには使用人用の出入り口を使わなくてはいけない。


「ああ……。そうか。そうだな」

「今日は真っ直ぐに帰りますから、一人でも平気です」

「……わかった。気を付けて」

「はい……」


 どこか後ろ髪引かれるものを感じながら、アメリアは扉に向かって歩き出した。

 早く部屋に戻って気持ちを落ち着けたい。しかし大切なことを忘れている気がする。アメリアは扉の前で部屋の中を振り返った。


「エディさん」

「何だ」


 彼は見送るようにこちらを向いていた。


「明後日の夜、いつものあの場所に来てくださいますか?」

「……行くよ」


 アメリアはほっとした。それならいい。来てくれるのなら。


「はい。では、おやすみなさい」

「おやすみ、アメリア」

 


 自室に戻ったアメリアはエプロンやキャップを脱ぐこともなく、窓辺に近づいた。

 この部屋の窓からは本邸が見える。蝋燭すら点けていなかったから一階の廊下の灯りはよく見えた。その灯りをアメリアはしばらくじっと眺めていた。

 やがて、それほど時間が経たないうちにそれは消える。日によって消灯時間が変わるその灯りと共に、アメリアはより暗闇に包まれていた。

 エドワードの言葉が蘇る。彼は気づいていたのではないかとアメリアに聞いた。

 その通りだ。

 彼の予想は間違っていない。

 アメリアは気づいていた。彼の名前のことも、声のことも、そしてあの一階の廊下の灯りが、エディと会う日だけは遅くまで灯ったままでいることも。アメリアはちゃんと知っていた。

 ずっと自分自身に対して気づいていないふりをしていただけだ。そうしなくてはいけないと、心の奥底の冷静な部分が判断していた。

 なぜ彼は明かしてしまったのだろう。卑怯であろうと黙ったままでいてほしかった。そうすればあの穏やかな関係のままでいられたかもしれない。この気持ちだって誤魔化し続けていられたかもしれないのに。

 でも疑いようのない真実を突きつけられれば、もう自分を騙すことはできない。驚くほど優しくて紳士で、頼りになってアメリアに安心を与えてくれたエディは、この屋敷の優しくて気さくな当主なのだ。

 そんなのどうしようもない。好きにならないわけがないではないか。

 会うたびに次々と降り積もっていった思いは、きれいに溶けてなどくれない。こんな思いを抱えたってしょうがないのに。

 胸が痛くて苦しかった。

 立場が違う人を好きになるなんて、なんて馬鹿なのだろう。

 たとえ元は男爵家の娘であっても、今のアメリアはただのメイドだ。自分で選んでそうなった。こんなに大きな屋敷を構える伯爵家の当主なんて、本来なら言葉を交わすことすらない遠い存在なのだ。

 しかしアメリアはこの思いが報われないことよりも、彼を目の前にしても気持ちに気づかれないように振る舞わなくてはいけないこれからのことを考えると辛かった。何より、あの優しさにほんの少しであっても勘違いをしてしまうから胸が苦しくなる。

 そんなことがあるはずはないのに。エドワードがアメリアに同じくらいの好意を持ってくれるなんてことは。

 小説のように、貴族が簡単にメイドに恋なんてするわけがない。

 彼だって、言っていたではないか。少しずつ込められた意味が変わってきていたアメリアの「大好き」に。


 ──もう、簡単にそんなことを言ってはいけない。


 アメリアはずるずると床に踞った。

 堪えきれなくなった涙がぽつぽつとスカートに染みを作る。泣きたくなかった。こんなにも自分ではどうしようもない感情を持ってしまって、明日からどう過ごせばいいのだろう。

 何事もなかったような顔で仕事をしなくてはいけないのに。誰に気づかれてもいけないのに。

 アメリアはきつく目を擦って瞼を閉じ、両手で上から押さえつけた。もう出てこないでと念じても、後から後から溢れてくる。


「っ……っうぅ……」


 止めようとすればするほど、それができなくて悲しくなった。

 

 

  


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