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左手にトランクケースを持ち、もう片方の手にはメモ用紙を握り締めるように指に挟んでいたアメリア・モーガンは、周囲の様子とそのメモ用紙を交互に見比べていた。
工業地帯から程近い小さな町の駅のホームには、これから仕事に向かうのであろう男たちばかりで、この日生まれて初めて鉄道というものに乗る彼女は内心の緊張をより高めていたが、必死でそれを押し隠していた。
「アメリア、そんなに何度も確認しなくたって合ってるよ。次の列車だろ?」
呆れたような声を掛けられて、彼女はそちらを向いた。
自分と全く同じ黒髪にヘイゼルの瞳と、よく似た顔立ちを持つ弟が、大人びた表情を作ってこちらを見ている。
「鉄道の運行は複雑で間違われやすいって教えてもらったでしょう。確認しすぎるくらいでちょうどいいのよ」
アメリアは不安を見透かされた気がして、取り繕うようなことを言った。
自分こそがしっかりしていなくてはいけないこの状況で、六歳も年下の弟に呆れられるわけにはいかない。
「それって都市部の駅のことだろ? こんな地方の駅じゃあ、行き先だってそんなにいくつもあるわけないよ」
訳知り顔で言っているが、アメリアと同じく初めて鉄道に乗る、時刻表本すらまともに読めなかった彼が、運行について多少なりとも理解しているわけもない。又聞きの知識であることはアメリアにも容易に察せられた。
つまり彼もしっかりしたところを見せようと背伸びしているのだ。
「デーヴィット、それでも一つではないのよ。間違えてしまったら大変だわ」
言いながらもアメリアはメモ用紙をポケットにしまった。あまりにも確認しすぎていると、却って不安にさせてしまうと気づいたからだった。
しばらくすると、遠くの線路をじっと見ていたデーヴィットが歓声を上げた。
「あっ、来た!」
灰色の大きな煙が姿を現していた。続いて黒く細長い鉄の塊が見える。
カシャカシャと車輪が回る音や、煙が吐き出される音が近づいて来ると、そのあまりの騒音にアメリアは驚いた。
今までは遠目に線路を走る姿しか目にしてこなかったから、こんなに迫力のある音を出しているとは思わなかった。
しかしこの程度ならば、どうということはない。列車がホームに入って来ると、アメリアは目を見開いて固まってしまった。
先頭車両の後方に、石炭が山のように積まれている。そして操縦室と炉で隔てられた前方には、熱がこもりすぎて赤くなっている煙突が、煙だけではなく火の粉まで舞い上がらせていた。
石炭が燃える様子など何度も目にしたことはあるが、これ程の量が燃えているのなら近づいただけで火傷しそうだ。危険極まりない。これは異常事態なのではないかとアメリアは思ったが、周囲の人々は誰も騒ぎ立ててなどいない。車掌も淡々と扉を開ける作業をしているだけだった。
つまりこれが機関車というものなのだ。
そう理解しても、果たしてこれは安全な乗り物なのだろうかという疑問が脳裏を掠めて足が動かなかった。
「すっげぇ! カッコいい!」
「ええっ?!!」
はしゃいだ声が耳に入り、アメリアは信じられない思いで弟を見た。
デーヴィットは興奮したような顔でキラキラとした視線を列車に向けている。皮肉でも何でもなく、本気でかっこいいと思っているらしい。
アメリアはもう一度機関車を見た。
どこら辺がかっこいいのだろうか。
「早く乗ろうぜ、アメリア!」
「えっ!」
まさしく、この列車に乗るためにこの駅まで来たのだ。それなのに抵抗を見せたアメリアにデーヴィットは不思議そうな顔をしてからニヤリと笑った。
「何だよ。恐いのか?」
「違うわよ!」
脊髄反射のように言い返してから、アメリアはしまったと思った。
こんなにムキになっていては、その通りだと言っているようなものだった。案の定、わかりやすく強がっているのだと判断したらしいデーヴィットは笑い出している。
「大丈夫だって。ほら、早くしないと行っちゃうだろ」
幼子にするように手首を掴んで引っ張られたアメリアは、素直に付いていきながらも抵抗を試みる。
「違うったら」
しかし否定すればする程、肯定しているようなものだった。デーヴィットは全く取り合わず、ハイハイと受け流している。
結局そのまま三等車の車両に乗り込んだ彼女は、とても情けない気持ちにさせられた。主に手を振りほどいて自ら足を進められなかったせいで。
デーヴィットは車内に入ると、アメリアの手首を掴んでいる手にぎゅっと力を込めた。表情を険しくして、やや真剣な声音で言う。
「アメリア、絶対に俺から離れないようにしろよ」
悔しさを持て余していたアメリアは余計なことを言った。
「何よ。デーヴィットだって本当は恐いんじゃない」
今年十二歳になる少年は、思いきり呆れた顔を姉に向けた。
「アメリアってほんと子供だよなぁ。こんなにおっさんばっかりの中で、女が一人になったら危ないから言ったんじゃないか」
言葉を詰まらせてアメリアは押し黙った。
車内を見渡せば、確かに働き盛りの男たちばかりであった。しかも家の使用人を除けば、今まで接する機会などほとんどなかった労働者階級の男たちだ。
アメリアの認識としては、身分ある男性ならば安全などということは決してないが、こんな場所でふらりと弟の傍を離れるのは、危機感がなさすぎると認めざるを得ない。
普段はそれなりに姉らしいところも見せているはずなのだが、今日はどうも分が悪かった。
「……わかったわ」
落ち込みつつも、アメリアは頷いた。
三等車の車内は他の車両の外観と比べて、驚くほど粗末なものだった。
木製の座席はアメリアから見たら、製造途中で放り出されたかのように思えるし、間隔も狭い。
腰を下ろしてみれば、やはり座り心地が悪かった。ガタガタと揺れる車内で一時間以上ここにじっとしていなくてはいけないのは、かなり辛そうだ。
しかし一等車や二等車に、一般庶民は乗ることができない。辛くとも我慢するしかない。
──いえ、違うわね。
アメリアは心の中で独り言ちた。
我慢などと思ってはいけない。このような環境に慣れるべきなのだ。今日この日から、アメリアとデーヴィットは自分たちが生まれ育った家を捨てたのだから。
「デーヴィット、憶えてる?」
「何を?」
曇りガラスの向こうの景色を見ようとしていたデーヴィットが振り返った。
「わたしたちのことよ」
彼はあぁ、と返事をした。
「ちゃんと憶えてるよ。間違わずに言える。俺たちは父親が仕事で国外に行ったっきり行方知れずになっていて、生活が立ち行かなくなったから、姉弟揃って住み込みで雇ってくれる屋敷を探していた。父親は弁護士で、母親は俺を産んですぐに亡くなっている。お金が無くなるまでの間に、家で働いていたメイドに、使用人としての仕事の仕方を少し教わっていた。だろ?」
「そうね。お父様は……優しい人だったと言ったほうがいいのかしら」
デーヴィットは苦いものを誤って口にしてしまったかのような顔をした。
「どうしてそんなことを言わなくちゃいけないんだよ。ロクな奴じゃなかった。その説明で充分じゃないか」
嫌悪感を顕にするデーヴィットに、アメリアは苦笑した。
アメリアにしても父親を優しい人だと思ったことは、ただの一度もない。
しかし良家の娘にとって、人前で父親を悪く言うなど、考えられないことなのだ。行方知れずだなんて言えば、どんな人物だったのかと聞かれることもあるだろう。その時に何と答えるか考えておこうかと思ったのだが、デーヴィットのこの様子では、いい父親だったということにするのはやめておいたほうがよさそうだ。
母親のことと、父親の人となりについては嘘を吐く必要はないのだ。他にはたくさんの嘘を吐かなくてはいけないが。
デーヴィットが間違わずに言えた「わたしたちのこと」はでたらめだらけだった。
父親は行方知れずなどではないし、自分たちはお金に困って使用人になろうとしているわけでもない。
これから名乗ることになるモーガンというファミリーネームも本名ではなかった。
そして使用人の仕事を教えてくれたのは、家事使用人としてどこにでもいるメイドではなく、上流階級の家庭にしかほとんど存在しない家政婦のダフネだった。
アメリアたちの父親の職業は中流上位階級に属する弁護士ではない。貴族の末端である男爵の称号を持ちながら、いくつかの小さな事業を手掛ける経営者だった。
しかしそんなことを正直に人に話すわけにはいかなかった。アメリアとデーヴィットは父親に黙って家を出て来たのだから。
自分たちの力だけで生きていくことに決めたのだ。だから屋敷の住み込み使用人という職種はとても魅力的なものであり、他に選択肢がなかったとも言える。
ただ、容易ではないとは何度も諭された。
今まで人に世話をされる立場であった貴族の子供には、労働者として働いて人から指図を受ける立場に逆転してしまうことを受け入れるのは容易ではないと、ダフネは何度も言っていた。
だが彼女がこの計画に反対したことはない。むしろ少しでも耐性ができるようにと、こっそり仕事のやり方を教えてくれたし、ツテで働き口を探し出してくれたのも彼女だった。
「ダフネのことは、とても有能なメイドだったと言わなくちゃいけないわね」
不機嫌になってしまった弟をなだめるように、アメリアは明るい声で言った。
「……メイドにしては有能すぎるけどね」
怒っていたわけではないらしいデーヴィットは小さく笑った。
「彼女は大丈夫かしら」
「次のお屋敷は遠い場所だし、誰にも言ってないって言ってたんだから問題ないよ」
この家出に全力で協力してくれたダフネには、極力迷惑がかからないように、彼女が遠くへ転職してから家を出てきている。デーヴィットの言う通り、彼女の居場所が父親に知られることは万が一にもないだろう。
「そうね。ダフネもわたしたちには心配されたくないわよね」
「全くだよ。人の心配している場合じゃないんじゃない? アメリアは」
「あなたもよっ」
アメリアはこの弟が、これから生活が急変していくことをちゃんと理解しているのだろうかと、少し不安になった。