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「一体何をしているのですか、エドワード様」


 頭上から声をかけられてエドワードは顔を上げた。しかし鍔の広い帽子が邪魔をして足元しか目に入らなかったので、自分の従者の表情を見るためにそれを外す。

 ショウは迷惑そうな感情を滲み出しながらも不思議そうな顔をしている。

 何かしただろうかと考えながら、質問に答えるために口を開いた。


「えーと……。何をしていたのだったかな」


 ショウが眉根を寄せた。主人でなければ何言ってんだあんた、とでも言っていそうな顔である。いや、口に出していないだけで大概に失礼な態度だ。

 文句をつけようとしたが、ショウの目線の先にある剪定バサミを目にしたエドワードはすっと顔を逸らした。

 近くに置いておいたものではなく、エドワードが右手にしっかりと持っている物である。おまけに庭師のような格好をして庭園の花壇の前でしゃがみ込んでいるのだから、子供でも一目で何をしているのかわかる状況だった。

 ショウは声をかけた時に剪定バサミが見えなかったのか、もしくは別の意味で聞いたのだろう。

 これで本人が何をしていたのか忘れているのであれば、エドワードだってショウのような顔をする。


「よくこんな場所でそこまでぼんやりできますね」


 こんな場所というのはよく晴れた昼間の夏の庭園ということだろう。


「……背中が暑い」

「でしょうね」


 エドワードはハサミを置いて立ち上り、凝り固まった体をほぐした。


「今何時だ?」

「もう昼食の時間を過ぎてますよ。ミセス・ノックスが料理を出すタイミングを大幅に遅れさせなきゃいけなくなりそうなんで不機嫌になってます」

「もうそんな時間か」


 エドワードとしては午前のお茶の時間からそれほど経っていないつもりでいた。ショウは急に思い立って庭いじりを始めたエドワードを探し回っていたのだろう。迷惑そうにしていたのはせっかく最高の状態で提供できるように準備していた料理が時間とともに味が落ちることで、不機嫌になっていくコックを宥めなくてはいけないからだろう。

 例えそれが冷めて固くなった料理であろうと、自分に原因があるのならエドワードはそれで構わないのだが、それを言うとコックがより不機嫌になると、以前ショウから苦情を受けていたのでエドワードは黙っておいた。


「とにかく屋敷に戻ってください。着替えもしないといけないでしょう」

「そうだな」


 エドワードの今の格好は機能性重視の汚れても構わないものだ。庭いじりを趣味にしている貴族は多く、その際に庭師とほとんど変わらない姿になる人も珍しくはない。

 外では隙のない格好をしなくてはいけないが、自分の屋敷の敷地内であれば粗末な格好であろうとだらしない格好であろうと許されるのである。ただし食事の席を除いて。

 コックをこれ以上不機嫌にさせないために、エドワードは心持ち早足で屋敷に向かった。


「今日はまた特にぼうっとしていますね。何かあったんですか?」


 斜め後ろを歩きながらショウが尋ねた。


「さっきちょっとしていただけだろう。あと普段からぼうっとしていない」

「この日射しを忘れられるくらいがちょっとなら、大分ぼんやりしてしまったら火事にだって気づきませんよ、あなた」

「……それは言い過ぎだろう」


 イングランドの夏は朝晩は肌寒い日も多いが、日中はかなり暑くなり眩暈を起こす人もいるくらいなのだ。そんな中でエドワードが意識を別の場所へ飛ばしていたのは数分ではない。さすがに誤魔化しかたが大雑把すぎたという自覚はあるので声が小さくなる。


「それにさっきだけではないでしょう。今日は朝からずっとですよ。ついでに言うなら最近どこかおかしいのですが」

「……どこかってどこがだ?」


 エドワードは今度は否定するつもりではなく、ただ純粋にどこをおかしいと思われているのかを知りたくて聞いた。

 自分がショウにそう言われても仕方がない状態なのかもしれないと思い至ったからだ。数週間前までの自分はこんな風だっただろうかという疑問が頭の中にあった。


「そうですね。まず、夜になっても機嫌のいい日が多いです」


 エドワードは止まりそうになった足を黙って動かした。ショウがこちらの様子を観察しているような気配を感じる。


「あと以前よりももっと使用人のことを気にするようになりましたね」


 歩く速度が緩まり、ショウが横に並ぶ。横目で窺うがショウはエドワードを見ていなかった。


「そういえばさっき、エドワード様と同じくらいぼうっとしている人がいましたよ」

「……誰だ?」

「アメリアです」


 エドワードの足が完全に止まった。

 ショウが主人を追い越して正面に回り込む。

 どうすればいいのかわからなくて、エドワードはただ困り果てていた。取り繕うとしてできなかったのではなく、どんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか、自分の感情すらよくわからなかったのだ。


「……エドワード様」


 ショウは呆れようとして失敗したように苦笑した。


「そろそろ何があったのか話していただけるとありがたいのですけどね」


 いつもならエドワードはすぐに頷いただろう。家族と同じくらい信頼している相手なのだから。しかし漠然とした抵抗を感じて返事を躊躇った。

 誰にも言いたくないという思いがある。疚しさからくるものではなくて、大切にしまって隠しておきたいような、そんな気持ちだった。

 でもそれだけでは済まされない段階まで来ていることもわかっている。ここまで来ればもう、引き返すか突き進むしかないだろう。

 そしてその決断は簡単に下せるものではなかった。

 エドワードは困惑した表情のまま、ショウに頷いた。


「食事が終わったら話すよ」


 果たして自分はあのことを正確に伝えることができるのだろうか。



 扉をノックする音が響いてエドワードは部屋の時計を見た。

 ちょうど針は五時を指していて、いつの間にかティータイムの時間になっている。

 ショウが入室を促して、ワゴンを押したアメリアが入ってきた。アメリアは極力気配を消そうとしているかのように、顔を伏せて音を立てないようにしている。

 そういえば他に人がいる場所で彼女に会うのは初めてだなと思った。

 普段、ショウが部屋にいる場合は、すぐに彼がワゴンを受け取ってアメリアは素早く退室する。しかし今日はショウが動かなかった。


「アメリア、セットしてくれ」


 エドワードと話をしていただけで、ほとんど仕事らしい仕事などしていなかったのに事もなげに言う。

 驚いたアメリアが顔を上げた。しかし理由を聞くことなどできず、小さく返事をして言われた通りにカップやお茶うけを机に移動させる。その間ずっとアメリアはエドワードを見ようとしない。


「ブリオッシュですか。エドワード様、これ好きなんですか?」


 お茶うけの菓子を見たショウが尋ねた。今更な質問にエドワードは首を傾げる。


「昔から好きだが?」


 コックやデザート類を担当するメイドはエドワードの大まかな好みは把握している。子供の頃からエドワードはヌガーなどの砂糖を主原料にしたような菓子よりもブリオッシュやスフレなどの焼菓子が好きで、ショウもそのことは知っているはずだ。そしてアメリアも知っているからこそ、エドワード用のティータイムのお茶うけにブリオッシュはよく出てくる。


「そうじゃなくて、作る人間によって味は変わるでしょう。彼女が作るブリオッシュは好きなんですか?」


 ポットを持ち上げようとしていたアメリアの右手がぴくりと震えた。

 本人の前で何をいきなり聞くのだろう。アメリアが聞いていないふりをしながらもエドワードに意識を向けている気がして、難しいことなど尋ねられていないのにエドワードは捻り出すように答えた。


「そうだな。タルトやパイは以前の……ジェーンだったかな? 彼女が作ったもののほうがおいしかったけど、ブリオッシュはアメリアが作ったものが好きだ」


 アメリアが勢いよく顔を上げたのを目の端に捉えて、エドワードは首を廻らせた。控えめだが明らかな喜色を滲ませたアメリアと、しっかりと目が合う。

 すぐに慌てたように俯いたので一瞬のことだったが、微かに赤くなった頬だけは隠せていなかった。


「……ありがとうございます」


 小さな声で嬉しそうに礼を言われる。

 喉が詰まりそうになった。何も口に入れてなどいないのに。

 彼女にこんな反応をされるようなことを言っただろうか。エドワードは無性にこの場から逃げ出したくなって、どうにか堪えた。


「へぇ、好きですか」


 ショウはなぜか含みのある言い方をした。


「何だ?」

「いえ、ところで私はエドワード様のせいで午後のお茶を貰い損ねているのですが」

「……私のせいか?」

「エドワード様のお話が終わらなかったせいなので、エドワード様のせいですよ。それなのに目の前で優雅に好物を食べようとするなんて薄情な人ですね」


 アメリアがまだ部屋の中にいるというのに、ショウは随分と明け透けなしゃべり方をする。


「今から食べてきたらいいだろう。これはやらない」


 いくら何でもショウがこのブリオッシュを分けろと言っているとはエドワードも思っておらず、ただのいつもの軽口の応酬だった。しかし初めて見るアメリアは主人と従者のものとは思えない会話にハラハラと不安そうな顔をしている。


「もう残っているわけないじゃないですか。誰かに食べられているに決まっています」

「お前、仮にも執事のくせに扱いが軽いな……」

「失礼ですね。そういうことじゃないですよ」

「あ……あの」


 おずおずといった様子でいながら喧嘩を仲裁するような必死さがある声が割って入ってきて、エドワードとショウは口を閉ざした。

 アメリアはショウに向かって言った。


「ミスター・ショウの分のお茶うけはデーヴィットが避けておいていましたのでちゃんとあります」


 ショウは目を見張って驚いた。


「なんていい奴だ。俺が面倒を見ているだけはあるな」

「元からあの子がいい子なだけだろう。むしろお前が見習うといいと思うぞ」


 冷静にエドワードが指摘すると、アメリアが思わずというようにくすりと笑った。しかしショウの耳は素通りしたらしい。


「ではお言葉に甘えて今からいただいてきますよ。アメリア、何でもいいから飲み物を用意しておいてくれ」

「かしこまりました」


 アメリアは軽くお辞儀をしてからワゴンを押して退室した。パタンと扉が閉まる音がすると、部屋の中が静寂に包まれる。

 今からティータイムをもらうと言ったはずのショウはすぐに出て行こうとはせず、彼女が去ったばかりの扉をじっと見つめていた。さっきまでのふざけた様子は鳴りを潜めて、考え込むような真剣な顔にエドワードは不安を覚える。


「……ショウ?」


 呼び掛けるとショウは表情を和らげたが、空気の固さは変わらない。


「エドワード様、子供の頃に俺が言っていたこと覚えてますか?」

「何だ?」

「奥様にする人は絶対にレディ・シンシアみたいな人にしてくださいねって言ったことです」


 エドワードは言葉を失った。

 まだ、広い庭園を駆けずり回って遊んでいた頃、ショウは確かによくそんなことを言っていた。

 それが母親の人柄を指して言ったことではなく、両親の仲のよさを指していたのだということはよくわかっていた。ショウが自分のためにではなく、エドワードのために言っていたのだということも。

 その頃のエドワードはまだあらゆる物事をしっかりと把握できるような年齢ではなかった。だからいとも簡単に、わかったよと答えていたのだ。

 大人になればそれがとてつもなく難しいことだということは嫌でもわかる。

 エドワードは途方に暮れた顔でショウを見返すしかできなかった。

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