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 エディは僅かに驚いたように口を開いたが、何も言わなかった。


「父親のいない場所へ行きたかったんです」


 しかしアメリアが理由を言うと、悲しそうな目をする。


「……酷い父親だった?」

「そうですね。日常的に暴力を振るわれていたわけではありません。ごくたまにぶたれることはありましたけど、父はあまり家にいませんでしたし、子供に関心もありませんでしたから。でも、とても尊敬できる父親とは……」


 アメリアは途中で言葉を切り、目を瞑った。


「いえ、わたしは……父のことが嫌いでした」


 今まで一度も口に出したことはなかった本心を吐き出した。この気持ちをはっきり形にしてしまうと、自分がとても背徳的な人間になってしまう気がしていたからだ。そういう教えを家庭教師から受けていた。

 言ってしまったのは素直になろうとしたわけではなくて、これから話すことに同情されないためだったように思う。


「父は事業主でした。何の事業をしていたのかはぼんやりとしかわかりません。賭博場とかそういったものが主だったと思います。貴族が出入りするような高級クラブではなく」


 仕事を持たない貴族が当たり前であることに加えても、アメリアの父親の事業は更に珍しいものであり、眉をひそめられるようなものであった。

 もともと父は正統な跡取りとして男爵位を継いだわけではなく、本家の悲運が重なって爵位が転がり込んできただけなので、貴族としての意識がかなり低かった。


「とてもお金に固執する人でした。持っている分だけで充分だと思うのに、もっと増やそうとして上手くいかずに、そのせいなのかどんどんその行為にのめり込んでいたようです。人を不幸にしてでも自分の資産を増やそうと躍起になって、たくさんの人から憎まれていました」


 父親は娘に事業のことなど何一つ話したりはしなかったが、否が応でもその内容の一部を目の当たりにする場面は何度かあった。


「家に、父に貶められた人たちがやって来るんです。怒鳴り声が遠くの部屋にいても聞こえてきて、父を卑怯者だと詰っていました。わたしもデーヴィットもそれが恐くて仕方がなかったのに、父にはどこ吹く風で、いつも法に触れることなどしていないと笑っていたんです。その通りなのでしょうね。でも法律は弱い者を守ってなんかくれないでしょう。父が憎まれて当然のことをしていたのは間違いありません。だって家に来たのは一人や二人じゃなかったんですから」


 それも無法者と呼ばれるような種類の人間ではなく、どこにでもいる善良な人たちだった。アメリアは部屋の窓からそれを見ていた。


「ある日、その中の一人が叫んでいるのが聞こえてきたんです。『お前のせいで妻が死にそうになっているんだ』って。父は俺のせいなわけがあるかって言っていましたけど、わたしは怖くなって父にお願いしました。もうこんなことはしないでほしいと。でも思った通り聞く耳なんて持ってくれません。わたしが食い下がると父は怒って、これ以上俺に逆らうなら修道院学校へ放り込むぞと脅したんです。わたしは……それから何も言えなくなりました」


 しかしアメリアは修道院学校へ行くことが嫌だったのではない。あの家にデーヴィットを残して出ていかなければいけないことに恐怖を感じたのだ。


「……女性が父親に逆らえるものではないよ」


 エディが静かに言った。

 その通りではある。親に従順な娘が良い娘だと言われているのだから。だがアメリアは良い娘でいることがとても苦しかったのだ。


「父は子供に関心なんてないくせに、常にわたしたちの行動を制限していました。外出は日曜礼拝だけ。楽しいものからは遠ざけてひっそりと生活するように強要したんです。腹いせのように」

「腹いせ?」


 エディが顔を傾けた。


「はい。わたしもどうして父がそんなことをするのか初めのうちはわかりませんでした。厳格な父親でいようとしていたわけではないことはわかっていましたから。でもたまたま使用人の男性が話しているのを聞いたことがあるんです」


 とても短い間しかいなかったその人は、アメリアの父親のことをこう評した。


『あれは骨の髄までがめつい奴だぜ。使用人がすぐに辞めるとわかっていても賃金を出し渋ったり、たとえ自分の子供だろうと、人のために自分の金を使うのを嫌がるくらいな。人に金を渡すという行為が嫌で仕方がないのにやらなきゃいけないから、使用人に当たり散らすし、子供が楽しそうにしているのも気に食わないんだ』


 そのままエディに伝えたアメリアは自嘲するように笑った。


「とても納得しました。本当に父はそんな人だったんです。自分よりも立場の弱い人間には、いつもそんな風でした」


 エディは黙ったまま、先を促すような視線を向けるだけだった。だからアメリアはどんどん話してしまう。


「でも関心がなかったおかげで制限はされても監視はされませんでしたから、父の目を盗んで父が怒りそうなことをやったことは何度かあります。それにダフネが……古くからいる使用人がわたしたちに家庭教師が教えてくれないことを教えてくれました。それと礼拝の時に知り合った医者のご夫婦も。あの人たちがいてくれたから、辛い生活にも耐えられました。それに何よりもデーヴィットがいてくれましたから。父に理不尽に叱られたり、外に出れば人に恨みのこもった目で見られるような生活でも、あの子がいれば耐えられました」


 暗い表情をしていたアメリアの口元が微かに綻ぶ。


「産まれてすぐに母を亡くした子ですから、大切に育てようと思ったんです。わたしが守るんだと心に決めていました。でも父のようにはなってほしくなくて、優しい人になってほしかったから、厳しく接することもありました。あの子、本当に優しい子になってくれたんですよ。きっともともと優しい子だったんですけど。あの子がいればわたしはそれでよかったんです。わたしは大人になれば父が決めた、父にとって都合のいい人と結婚させられるでしょうけど、デーヴィットは賢くてしっかりしていて優しいから、大人になれば立派な人間になって幸せになってくれるって、そう信じていたんです。でもわたしは、何もわかっていませんでした」


 アメリアの瞳が再び翳った。いろんな感情が胸の中をうずまいている。


「まだデーヴィットが幼い頃、あの子をつまらない理由で怒っていた父が、忌々しそうな顔でわたしに言ったんです。ちゃんと教育をしろ。これは俺の跡を継がせなくちゃいけないんだ、って。それを聞いた時、背筋が凍ったんです。父がデーヴィットに自分と同じことをさせるつもりなのだとわかりましたから……。どうしてって思いました。でも当然のことなんですよね。だって、デーヴィットが大人になろうと、デーヴィットの父親はあの人なんですから。あの人が死なない限り、ずっと父はデーヴィットの人生に大きく干渉し続けるんです。わたしはそれでも父が、デーヴィットに少しでも愛情を向けてくれていたなら、仕方がないことだと思ったかもしれません。でも違うんです。わたしにとって誰よりも大切な弟が、父にとってはいてもいなくてもいい存在なんです。あの子の意思を僅かたりとも気に止めないのに、ただ父親だというだけで、あの子の人生を好き勝手にする権利を持っているんです。そんな、そんなの許せるわけがないじゃないですか」


 その時の感情が甦って、アメリアは泣きそうになった。あんなにも誰かに強い怒りを感じたのは、後にも先にも一度だけだ。


「デーヴィットがそんなことを望むはずもないのに、あの子に自分と同じ、人を不幸にして憎まれる人間になれって言うんですよ。わたしは、優しくて人から好かれる人間になってほしくて、大切に守ってきたのに……。お母様が名付けた愛される者(デーヴィット)という名前そのままの存在になってほしくて」


 デーヴィットさえ幸せならそれでいいというアメリアの思いは、父親によって簡単に踏みにじられた。父親が貴族という称号を持ってしまったがゆえに、デーヴィットは大人になろうと父親に歯向かえない。もう、デーヴィットを父親の好きにさせないためにできることは一つしかないと思った。


「だから家出をしたのか?」

「はい……。でもその時にはっきり決めたわけではありません。そんなことが本当にできるのかわかりませんでしたし、ダフネに相談して、家を出て自分たちだけで生活をするのならお屋敷勤めが一番いいということは教えてもらいました。それから使用人の仕事を少しずつ教わっていったんです。デーヴィットにももう少し成長してから、どうしたいのか相談しました。あの子は家を出ることに積極的でした。わたしよりも父を嫌っていましたから」


 それは父親が姉であるアメリアに、よりきつい態度を取っていたせいだった。


「家を出るための準備をしながらも、本当にそうしてしまってもいいのかわからなくてずっと悩んでいたんです。デーヴィットが十歳になって働けるぐらいの歳になっても悩んでいました。決めたのは……父がわたしを結婚させようとしたからなんです」


 懺悔のようにアメリアは口にした。

 だからなのかエディは顔を左右に振って言う。


「酷い男だったのだろう?」


 アメリアは頷けなかった。頷けるくらい相手のことをよく知らなかった。


「……急に会わせられて、少し話をしただけなんです。でもその間だけでもその人が父と同じ種類の人間なのだということはわかってしまいました。身分の低い人や女性や子供を同じ人間なのだと思わないような人です。それから……目が怖い人でした。値踏みするようにじっと見られたんです。その目がゾッとするくらい怖くて、逃げ出したくなりました。今思えば、父はまだあの人に決めていたわけではなかったんだとわかります。でも急なことで怖くて動揺したわたしは、その後すぐにデーヴィットのいる部屋へ行って泣いてしまったんです」


 普段は弟の前であまり泣かないようにしているが、アメリアにとってやはり幼くとも一番信頼できる人間はデーヴィットだった。


「あんな人と結婚なんかしたくないと言って泣きました。だからなんです……。デーヴィットは今すぐ家を出ようって言ったんです。すぐに出なきゃいけないって」


 そうしなければ結婚が決まったとしても、父は式の当日までそのことを本人に伝えないかもしれないのだからと。

 そして実際に家を出るという選択を取るのなら、行動に移すのはもうその時しかなかった。


「デーヴィットの決意は固くて、あの子はもうあの家に留まるという気持ちがこれっぽちもないようでした。わたしも悩みましたけど、決めました。思っていたよりもずっと早くあの子と離れなくてはいけないかもしれなかったから」


 しっかりしていてもデーヴィットはまだ十一歳だ。あのまま家にいればどんな悪影響を父親から受けるかわからない。何よりアメリアは理性ではなく感情でそうしたいと強く思ってしまった。

 それがアメリアとデーヴィットが家出することになった顛末だ。だからアメリアは今、こんなにもどうしようもない焦燥感を抱えている。


「君たちの判断は間違っていない」


 エディが落ち着いた声で言った。アメリアは少しだけほっとする。「正しい」ではなく「間違っていない」と言われたことに。


「……でもデーヴィットはきっとわたしを守るために家を出る決意をしてくれたんです。まだ十一歳で、外のことだってわからないことばかりで、不安じゃないはずがないのに。それまでの生活とは全く違うことをしなくてはいけないんですよ。それでもあの子はほんの少しの後悔だってわたしに見せるわけにはいかないんです。わたしのために」


 アメリアはデーヴィットのために家を出ることを考えていたのに、デーヴィットは結局アメリアのためにその決意をしたのだ。


「わたしは父親に何もかも決められた暗い未来なんかじゃなくて、もっと明るくて自由な未来をあの子にあげたかったんです。デーヴィットにどんな大人になるのか、自分で決めさせてあげたかった。でもわたしにできることはあまりにも少ないんです。わかっていたはずなのに、実際に家を出て現実を突きつけられました。だってわたしは努力すれば誰にでもできるようなことしかできないんですから。そんなただの十七歳の女性でしかないわたしが、弟に好きなように生きていいだなんて言えるわけがなかったんです」


 生まれて初めて働くという経験をしたアメリアは、弟を助けるどころか、自分のことだけで精一杯だった。それでもとにかくがんばらなくてはいけないと思っていた。せめて前向きに。

 しかしアメリアがエディのおかげもあって保てていた精神の均衡は、デーヴィットが体調を崩したことによって、急激に脆くなってしまった。

 考えないようにしていたことが、頭から離れなくなっていた。


「結局、どちらがあの子にとってよかったんでしょうか。自由のない上流階級の子息として生きていくか、自由のある労働者階級の子供として生きていくのか」


 この階級社会では自由があったとしても、労働者階級として生きるには様々な制限がある。自由でいられればそれでいいなんてことはない。


「わたしは今でも、デーヴィットが父親にがんじがらめに縛られて、人から嫌われる人生を歩むことは絶対に許せません。でもわたしだって似たようなことをしているんじゃないでしょうか。あの子から、それなりに裕福な暮らしを奪ったのも、パブリックスクールに行けたかもしれない未来を奪ったのもわたしなんですから」


 ずっと堪えていたのに、一番の苦悩を形にしたアメリアは目が熱くなって夜空を見上げた。


「どうしてこんなに何もできないんでしょう。わたしはあの子に何かを与えてあげられる人間になりたかったのに。決して、父のように奪う人間になんてなりたくなかったのに」


 ぽろぽろと涙が零れて、アメリアは顔を隠すようにベンチに伏せた。


「アメリア」


 エディが呼ぶ。その声が優しくて悲しそうだったから、アメリアは聞こえていないふりをして顔を上げなかった。

 慰めてほしくなかった。自分の行動を肯定してほしくもなかった。

 エディがとても優しいことは知っている。自分のこの気持ちを誰かに聞いてほしかったから話してもいた。しかし楽になりたいがために彼に話したわけでは、絶対にないのだ。

 本当は誰にも話さず、どうにかしたかったけど、アメリアはずっと一人で抱え込んでいられるほど強くない。それでも人に正しいことをしたのだと言ってもらって安心してしまったら、アメリアはただ自分のためにデーヴィットを父親から引き離したことになるような気がしていた。


「アメリア」


 同じトーンでまたエディが呼ぶ。返事をしないアメリアに、エディは声を荒らげることもなく何度も呼んだ。

 顔と耳を隠して頑なに身動き一つしないアメリアは、いっそのことエディが呆れていなくなってくれればいいと思っていた。あんなにもエディの優しさに助けられていたのに、今だけは優しくしてほしくない。

 しかし彼は諦めずにひたすら呼んでいた。いつもの、アメリアの胸に染み込むような低い声で。

 アメリアはゆっくりと涙に濡れた顔を上げた。いつまでもエディを無視し続けることなどやはりアメリアにはできない。

 ほとんど変わらない目線の高さにエディがいた。その黒くて丸い瞳を見て、ぼんやりした頭で、綺麗だと思った。


「君の弟を見たことがあるよ」


 エディはただ一つの大切なことであるかのように言う。


「あの子は強い子だ。だから、大丈夫だ」


 アメリアは息が止まりそうになった。

 自覚するよりも前にぼろぼろと涙が零れていく。

 予想していたどんな言葉とも違っていた。あらゆる言葉を拒絶したいような気持ちでいたのに、それはアメリアの心にすとんと落ちて、熱を持ち出している。

 何も求めていないつもりでいて、言われて初めて気がついた。

 それこそがアメリアのほしかった言葉だった。アメリアは正しいか間違っているか、そんなことよりもデーヴィットが自分の足で立って歩いている強い人間なのだと誰かに認められたかった。

 そう認められることが何よりも嬉しくて、ぐらぐらに揺れていた心が安定していくのを感じる。

 涙が止まらなくなっていた。声が喉につかえて出てこない。しかしアメリアは必死で笑顔を作った。ちゃんと答えなくてはいけない。


「はい……。自慢の弟なんです」


 泣き笑いのみっともない顔だったが、向き合って言いたかった。

 エディが無意識のようにアメリアに一歩近づき、背を伸ばした。しかし思い止まったのか屈んでじっとする。

 それからしばらくは二人もと何も話さなかった。ただエディはアメリアが泣き止むまでずっと傍にいてくれた。

 

 


 

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