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 この日の早朝は珍しくデーヴィットに会わなかった。

 いつもアメリアがハウスキーパーズルームの掃除をしている間に、デーヴィットがオイルランプを回収しに来るのだが、足音を聞くこともなくスティルルームに戻り、パン作りの続きをすることになった。

 タイミングが合わなかっただけで、こんな日もあるだろうと、その時は深く考えなかった。

 しかし朝食の時間になって、アメリアがパン籠を持って使用人ホールへ行ってもデーヴィットは姿を現さなかった。

 おかしいと思いつつも、食事が始まれば厳しく私語が禁止されているので、誰にも尋ねることができない。ハウスキーパーと執事頭が退出してようやく会話が許されるので、二人がいなくなってからアメリアはすぐにショウのもとへ行った。


「ミスター・ショウ、デーヴィットは……」

「ああ、部屋で寝てるよ。熱が出たんだ」

「えっ……」


 アメリアが驚き固まったので、ショウは慌てて詳しい説明をする。


「いや、大したものじゃないぞ。環境が大きく変わったせいだろう。よくあることなんだ。熱は出てるが高熱ってほどじゃないし、うなされてもいない。まあまあ元気だよ。ミセス・キャボットにも診てもらったけど、安静にしていればすぐに治るだろうって言われているし」

「…………そうなんですか。あの、様子を見に行ってもいいでしょうか」


 深刻な状態ではないと知って幾分安心したが、デーヴィットの姿を見ないことにはアメリアは不安を拭えなかった。


「うーん、悪いけどこれくらいじゃ部屋に行く許可はあげられないな。ちゃんと食事も運ばせるし、様子も見に行かせるから心配ないよ」


 大丈夫だというように肩を叩かれれば、アメリアの立場ではこれ以上は何も言えない。ショウはきちんと適切な対応をしてくれているのだから尚更だ。

 男性使用人の寝室は、厩や庭師の作業部屋がある西棟の二階にあり、女性使用人の寝室と同様に、異性の出入りが固く禁じられているのだ。破れば厳重注意だけでは済まされない規則なので、安静にしていれば治りそうなくらいの体調不良では、許可がもらえないのも当然だった。


「わかりました……。よろしくお願いします」


 消沈しながら言ったアメリアに、困ったように笑いながらショウは承諾して行ってしまった。


「アメリア、大丈夫よ」


 ぼうっと突っ立っているアメリアを心配してジェーンが声をかける。


「本当によくあることだから。仕事を初めたばかりの若い子が、これくらいの時期に熱を出すっていうの。人によっては二、三日くらい寝込むけど、大したことはないんでしょ。ミセス・キャボットが診てくれたなら間違いないわよ、きっと」

「そうそう。それにミセス・キャボットの熱冷ましハーブはよく効くのよ。すぐに良くなるわ」


 ファニーまで励ますように頷いてくれている。


「そう、よね。大丈夫よね」


 返事をするアメリアは言葉では納得しているものの、表情は浮かないままだった。


「もしかしてあの子、体が弱いの?」


 アメリアの態度を怪訝に思ったジェーンが顔を険しくした。


「あ、違うの。すごく健康よ。風邪を引いてもいつも翌日には治っちゃうくらい。ただ体調が悪い時はいつも傍で看病していたから、顔を見れないと不安というか……」

「ああ、過保護なのね。あたしの家なんか兄弟が多いからちょっと熱があるくらいじゃあ放ったらかしにされてたけどね」


 嫌味という風ではなく、淡々とジェーンが言った。


「……過保護なのかしら?」

「過保護でしょ。貴族の家だって、子供がちょっと熱を出したくらいじゃあ、大抵はメイドかナニーに任せっきりで何もしないし。家族が付きっきりなんて過保護以外の何でもないわよ」


 少し考えてからアメリアは頷いた。


「そうよね。ちょっと熱があるくらい、休んでいれば治るわよね」


 ジェーンはしょうがないなというように苦笑した。


「本当に心配しなくても大丈夫よ。本格的に体調が悪くなれば、ここの旦那様は使用人でも医者を呼んでくれるんだから」



 あれだけジェーンとショウが念を押してくれたのだから、アメリアはデーヴィットの具合についてはもうあまり心配していなかった。

 それに下っ端のボーイのために食事を運んだり、様子を見に行ったりしてくれるのだから、充分に手厚い看病を受けていると言える。ショウはデーヴィットを可愛がってくれているし、あんなことで嘘は吐かないだろう。

 きっと他の屋敷では熱があるくらいでは、いつものように仕事をさせられるところがほとんどなのだ。デーヴィットが回復すれば、しっかり感謝しなくてはいけない。

 そんなことを考えているというのに、アメリアは胸の奥にわだかまりのようなものを抱えていた。

 不安でも心配でも予感でもない。焦燥感に似た暗い感情はすぐに大きくなってアメリアの頭を鈍くさせた。

 これがデーヴィットの身を案じてではなく、デーヴィットが体調を崩したという事実によってもたらされたものだとアメリアは気づいていた。

 気持ちを切り替えることも押さえ込むこともできない。

 それでも目の前に仕事はたくさんある。時折止まりそうになる思考と手を懸命に動かし、どうにか普段通りに過ごそうとした。過ごそうと努力はした。

 しかしアメリアが自覚するよりもずっと重くのし掛かっていた感情は無視することを許してはくれない。


「アメリア!」


 鋭い声で名前を呼ばれて、アメリアははっと顔を上げた。

 スティルルームの入り口でサミーが厳しい表情をしてこちらを見ている。


「何をしているの。もうとっくに休憩時間になっているわ。早くお茶とケーキを使用人ホールへ運んでちょうだい。時間を破らないで」


 アメリアは驚いて時計を見た。確かにもうティータイムを過ごす時間になっている。

 ザッと血の気が引いた。全てにおいて時間には厳しいのがお屋敷勤めというものなのだ。これは挽回のできない失態だった。


「一体何をしていたの」

「すみません。あの……デーヴィットのことが気がかりで」


 焦ってアメリアが口にした言葉を聞いて、サミーは眉尻を上げて更に厳しい顔をした。


「ただ熱があるだけなのでしょう。言い訳はいらないわ。早くしてちょうだい」


 胸に突き刺さる叱責だった。アメリアは泣きたくなる。


「はい……。申し訳ありません」


 何をしているのだろう。

 ちゃんとしなくてはいけないのに。しっかり働かなくてはいけないのに。

 サミーにきつい視線を向けられたことはあっても、自分だけが叱られたことはこれまでにはなかった。今回が初めてのことで、明らかに自分に非があるせいだということがとても情けなかった。

 アメリアはとにかく立ち止まらずに手を動かし続けることに集中した。今日だけきちんと過ごせればいい。明日になればきっと元に戻れるのだから。

 夕方になって主人のティーセットを下げにきたショウがついでのようにデーヴィットの経過を報告してくれた。


「もう熱も下がってきてるよ。退屈だって愚痴を言っていたらしいし、一晩寝れば回復するんじゃないか?」


 頑丈なやつだと笑われて、アメリアは心底ほっとした。

 本当に大したことがなかったからというのももちろんあるが、これで嫌な感情がなくなってくれるだろうと思ったからだ。

 それからその日の業務を終えたアメリアは、誰もいないスティルルームでぼんやりと突っ立っていた。

 今日はサミーに叱られてからは失敗はしていない。有らん限りの気力を振り絞ってやりきったからとても疲れていた。

 それなのに眠れる気がしない。

 まだあの焦燥感のようなものが胸の中から消えてくれてはいなかった。

 どうしようもできないのだろうなと思う。ただ時間とともに薄れてくれるのを待つしかないのだ。

 ゆっくりと廊下を歩いてアメリアは本邸を出た。

 そのまま部屋に帰る気にはなれず、いつものように白いキャップとエプロンを外して庭園に足を向ける。今日はエディと会う約束をしている日ではない。だからこそアメリアはそこへ行った。

 ザワザワと草木が揺れる音や、いくつもの暗い陰が今日に限っては少し怖い。

 いつもエディとおしゃべりをしているベンチの前で立ち止まる。アメリアはベンチに腰を下ろさず、その場に踞った。スカートが汚れるのも構わず、そのまま腕で隠すようにして顔をベンチに突っ伏す。

 大丈夫だと言い聞かせるように頭の中で念じた。明日になればまたがんばるのだ。きっと、できる。

 そうやってただじっと何かに耐えていた。誰にも見られていないと思っていた。だからもう聞き慣れたものとなったあの呼び声が聞こえてきた時、とても驚いたのだ。


「アメリア」


 びくりと顔を上げる。

 目の前にエディがいる。いつもと同じ場所でありながら、いつもよりずっと近くに。


「どうして……」


 呆然とアメリアは呟いた。


「たまたま……近くにいたんだ。そしたら君がいるのが見えたから……」


 どこか言いにくそうにエディは説明した。

 アメリアは予想外のことに口を開けられない。


「……何があったんだ?」


 とても心配そうな声で尋ねられてアメリアは胸が詰まった。


「あの、弟が体調を崩してしまって、いえ、全然大したことじゃなかったんですけど、その、今日は……仕事で失敗もしてしまったので、それで……。あの、違うんです。大したことじゃあないんです」

「違わないだろう」


 とても落ち着いた、いつもより少し高い声でエディが言った。


「弟の体調は本当に大丈夫なのか?」

「はい。大丈夫です……」


 それは事実だったからアメリアは頷いた。


「じゃあ、大きな失敗をした? 辞めさせられるかもしれないと思ってしまうような」

「いえ、叱られはしましたけど、そこまでの大失敗ではないです」


 エディに心配をさせまいとアメリアは正直に答えた。


「じゃあ、もっと別の理由があるんだな」


 まるで確信があるかのように指摘されて、アメリアは黙りこんだ。


「君がそんな顔をしている理由はこの二つじゃなくて、もっと別のものなんだろう?」

「どうして……」


 どうしてわかるのだと続けようとしたことを、エディはすぐに理解していた。


「何となくね、わかるものだよ。見ていれば」


 目を細めて彼は言った。


「話してごらん。前に言っていただろう。誰かに話したことがよかったんだと。聞くくらいのことはできるから」


 エディは優しい。とても。

 だからこそアメリアは話すことを躊躇った。誰にも言わないつもりでいた。しかしエディは強要するでもなく、穏やかに促してくる。


「君は一人で溜め込んでしまう人なんだろう?」


 アメリアが心の中に築いていた壁が静かに崩れ落ちていった。

 本当は、ずっと誰かに話を聞いてほしいと思っていた。慰めてほしくはなくて、励ましてほしくもないくせに、誰かにこの気持ちを聞いてほしかった。


「エディさん……」

「うん」


 全て受け入れてくれそうな瞳に見つめられる。


「わたし父親が行方不明になったから、働くためにメイドになったことになっているんです」

「うん」


 真剣に聞いていることを伝える短い相槌だけが返ってきていた。

 

「でも本当は違います。わたしは弟と一緒に……家出をしてきたんです」

 

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