11
ハリソン・ハウスで働き初めて七日目の夜を、アメリアは予想していたよりもずっとあっさりと迎えることになった。
キャボットはいつものようにその日の仕事の終わり具合いを確認した後に、スティルルームを片付けたら休むようにと言って引っ込もうとしたのだ。慌てたアメリアは彼女を呼び止めた。
「今日が七日目です、ミセス・キャボット」
一体何を言っているのか、というように彼女は眉をぴくりと上げた。それからアメリアの顔を見て納得がいったように微かに頷く。
「そうでしたね。明日からがんばりなさい」
それが雇用を継続するという意味の言葉であると、アメリアはすぐには理解できなかった。あまりにもキャボットが淡々としていたからだ。
どうやらこの一週間は本当に一応の試用期間であったらしかった。このことを気にしていたのはもしかしたら自分一人なのかもしれないという可能性に行き当たり、アメリアはとても複雑な気分にさせられた。
あの苦悩と不眠は何だったのだろう。
しかしあの時は本気で働かせてもらえなくなるかもしれない、ここを出なくてはいけなくなったらどうすればと不安だったのだ。仕方がない。
茫然とした気持ちはすぐに消え去っていった。そうなればこの屋敷に居続けられるのだという喜びが湧いてくる。アメリアは他に誰もいない部屋で抑えきれない笑みを手で覆い隠した。うっかり人には見せられない相好をしているに違いなかった。
居場所を得られた。
あの人がいない、弟と一緒にいられる場所を。
嬉しくてアメリアは急いでスティルルームを片付けて本邸を出た。
庭園を早足で歩き、いつものベンチに向かう。今日はきっと彼がいるはずだから。
「エディさん」
逸る気持ちを表しているように声が高くなる。
カサリと音がして、花壇の中からカエルが飛び出してきた。
「エディさん、わたし本採用されました」
挨拶もせずにアメリアは告げた。一刻も早く報告したかった。
エディは驚いたように瞬きをしてから、穏やかな口調で言う。
「おめでとう。よく頑張ったな」
「はい。ありがとうございます」
期待していた言葉を貰えてアメリアは笑みを深くした。
彼はこうなることをほとんど確信していたはずだ。しかし気のない返事などせずに誉めてくれる。やっぱり紳士だ。
「エディさん、大好きです」
「何だ、いきなり」
困惑したようにエディは口を窄ませる。
おかしかっただろうかとアメリアは首を傾げた。
もっと何気なく伝えたいのだが、いかんせんアメリアのコミュニケーション能力は大したものではない。デーヴィットに言うのと同じような感じになってしまう。
エディが自分の姿形や体質にコンプレックスを抱いていることを、アメリアは何度かの会話で気がついていた。たまにカエルであることを卑下するような口振りになるのだ。
しかしこんなに優しいエディにそんな言葉を言わせたくはない。だからアメリアは惜しみなく好意を伝えることにしたのだ。自分ばかりが貰っているから、何かを返したいという気持ちもある。こんなことで返せているとは思えないが。
それともう一つ、本採用になったことでアメリアは心に決めたことがある。
「わたし、しっかり働きます。もっとがんばりますから」
「今のままで充分だと思うが」
拳を固めて宣言したアメリアに、エディは心配そうに言った。
「でももっと仕事ができるようになりたいんです。ここにもずっといたいですし」
「……そうか」
強い思いを秘めたような瞳を、エディはじっと見つめた。心配ではあったが、自分が見守っていればいいかと思う。
そしてアメリアはそんな彼の視線には気づかず、毎日嬉しそうに夜の庭園を訪れていた。
エディと話しをするのが楽しかったのだ。主にしゃべっているのはアメリアであったが。
ただそれでは仕事の疲れが取れないとエディが言うので、仕方なくアメリアの休日を除いた一日おきで会うという決まりを作った。残念だが確かに毎日付き合わせるのは我が儘だろう。
そして一週間も経てば話も尽きてくるということはなく、仕事に少し慣れてきたアメリアは別の悩みを相談していた。
「休憩中に皆さんのお話の輪の中に入っていけないんです。誘ってくださることも多いのですけど、途中から何のお話をされているのかさっぱりわからなくなってしまって、わたしだけずっと黙っている状態になってしまうんです。何度も質問をして話の腰を折ってしまうわけにはいきませんし。ジェーンとは仲良くなれたんですけど、あっ! この前ジェーンが友達だって言ってくれたんです。わたし女の子の友達って初めてで、すごく嬉しかったです」
「そうか、よかったな」
エディは相槌を打ちながら頷く代わりのようにゆっくり瞬きをする。
「はい! ジェーンは兄弟が多いらしくて、弟も妹もいるから、同い年なのにお姉さんみたいなんです。あっ、ええっと、それでですね、ジェーンはキッチンメイドですから仕込み中の料理から目を離せなくて、他のメイドとティータイムが重ならないことも多くて、そんな時にどうすればいいのかわからなくなってしまうんです。他の方とも仲良くしたいのですけど、話の内容が理解できないのでは加わりようもなくて。恋愛小説とか町の男性のことを話題にしているのはかろうじてわかるのですけど、それってわたしが全く知らない事柄ですから」
「恋愛小説を読んだことがないのか?」
「はい。本は教本か詩集くらいしか読ませてもらえませんでしたから。有名なものですとあらすじを教えてもらえることはありましたけど」
目を伏せて言い辛そうにアメリアは話す。恋愛小説の話をする時に、他のメイドたちは当然アメリアも何冊かは読んだことがあると思って話しているようなのだ。それがとても居たたまれない。
「会話に加わりたいのですけど、読んだことがないと言うのは勇気がいって。今度、町に行く機会があれば買ってこようと思うのですけど」
「それならどの小説が一番おもしろかったか聞いてみるといいんじゃないか」
「あっ、いいですね。それなら話が弾みそうです」
アメリアはなるほどと手を打った。
「読んだことがないのは、言いたくなければ言わなくてもいいんじゃないか。それよりも仲良くなりたいのなら、会話についていけなくても、とりあえず諦めずに何度でも話しかけるべきだよ。やりすぎはよくないが、でないと会話をしないことが普通になってしまうから」
エディの最後の言葉がアメリアには堪えた。会話をしないことが普通になるのは嫌だ。
「そうですね。途中からは諦めてしまっている時もありました。邪魔にならないように、何度も話しかけてみます」
「うん、その意気だ。君なら他の人とも仲良くなれるよ」
決意を固めたアメリアに、エディは励ましの声をかける。
一人では戸惑うしかできなかったことが、エディに相談すると前に進めるようになるのだ。彼が大丈夫だと言えば、本当に大丈夫なのだと思えた。
「やっぱりエディさんは頼りになります」
「そんなにすごいことは言っていないんだが……」
尊敬の眼差しを向けられたエディは顔を逸らして体を縮めた。エディは照れるとよくこの仕草をする。その緑色の背中を見ているのが、なぜだかアメリアは好きだった。
会話が途切れて、庭園が静寂の中に沈む。
アメリアは心地よく吹く風に身を委ねた。
彼とおしゃべりをするのも楽しいが、こうやって何も言わずにただ隣にいる時間も好きだった。薄暗く夜の気配が濃厚な庭園が少しも怖くはない。
ホーゥ、という音が遠くから響いてきた。
森で梟が鳴いている。
エディが顔を上げた。
「送ろう。もう帰りなさい」
「はい」
優しく声をかけるエディに、アメリアは微笑みながら頷いた。