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 近くでベルが鳴っている。

 ブラッシングルームで主人の上着の手入れをしていたショウは、作業を止めて顔を上げた。

 使用人を呼びつけるためのこのベルは、呼んでいる部屋によって対応する使用人も変わってくるのだが、現在この屋敷でベルの紐を引く人物は一人しかいない。そのために彼の従者であるショウがほとんど場合、駆けつけることになる。

 皺にならないように上着をハンガーに掛けていると、部屋の入口から少年の声が聞こえてきた。


「ミスター・ショウ、執務室のベルが鳴っています」


 もともと開いていた扉の向こうにデーヴィットが立っている。

 紐の先にあるベルは使用人ホールに備え付けているから、そこにいたデーヴィットがベルを見て知らせに来たのだろう。

 使用人ホールはすぐそこではあるが、行動が素早い。多少は生意気なところもあるが、この年齢にしては真面目な奴だとショウは思った。


「わかった。一緒に付いて来な。近くで待機しているんだ」

「はい」


 執事やフットマンの仕事を教えるのはまだ早いが、用件の内容によってはデーヴィットに手伝わせるかもしれない。

 この屋敷のベルが鳴る回数は他家と比べればかなり少ないらしいので、その分自然と迅速な対応をするようになっていた。

 執務室の前まで来ると、扉をノックしてから中に入る。


「お呼びですか、旦那様マイ・ロード


 慇懃な態度でショウは執務机に向かっている主人に声をかける。彼は面食らったように目を瞬かせた。


「どうしたんだ。ブランソンの真似なんかして」


 執事頭である父親の名前で比喩されて、ショウは顔をしかめた。


「それはないでしょう。せっかくたまには従者らしくしようと思ってやったのに」

「そんなものは外でだけでいい」


 本当はこの主人が嫌がるだろうと予想してからかうつもりでやったのだが、見事にやり返されて憮然となる。

 同じ年齢である彼らは子供の頃はお互いに遊び相手でもあったという特殊な関係なので、二人きりか周囲に近しい者しかいない場合はいつも砕けた態度を取っているのだ。

 しかしそれだけならばまだいいのだが、ショウの主人はショウに命令することを嫌がる節があり、自分でできることは自らやってしまうので困ったものだった。


「手紙の返事を出して来てほしいんだが」


 三通ほどの封筒を差し出される。


「ああ、ちょうどいいですね。デーヴィットに同行させましょう」

「デーヴィット? 新しいフットマンか?」

「ボーイですよ。見習いの。言っていませんでしたか」


 下級使用人の雇用に主人がいちいち関与することはないが、自分が面倒を見ていることもあり、ショウはすでに彼には伝えていたと思い込んでいた。


「いや、聞いていない。珍しいな、ブランソンがボーイを雇うなんて」

「親父も年で足腰が弱っていますからね。そのせいで新しくフットマンを一人雇うわけにはいかないから、手伝いをさせるボーイがちょうどいいんでしょう」

「お前……ブランソンに締め上げられるぞ」


 伯爵は呆れ顔で嗜める。


「エドワード様が言わなければいいじゃないですか」

「私が言わなくても、この前だって自分でうっかり口にして怒られていたじゃないか」


 ショウは沈黙した。彼は仕事はできるものの、残念なことに余計な一言が多いという欠点を持っている。


「……冗談ですよ。ミセス・キャボットに頼まれたみたいです。しっかりした子ですから承諾したんでしょう。ちょうどそこにいますから呼びましょうか」

「いるのか。それなら呼んでくれ」


 見定めようという意図はなく、ただの興味からエドワードはそう言った。

 ショウが執務室の扉を開けてデーヴィットを呼ぶ。そして彼が部屋の中に入ってくるとエドワードは微かに目を見張った。


「デーヴィットです。見習いの見習いといったところですが」


 ショウの紹介のしかたに、それならお前が執事見習いなのかという揚げ足を取る言葉が思い浮かんだが、エドワードはそれを飲み込んだ。それよりも気になることがあったからだ。


「はじめまして、旦那様」


 デーヴィットは緊張しながらも一目で下町育ちではないとわかる仕草と口調で挨拶をした。エドワードがショウに向かって尋ねる。


「まだ十歳くらいじゃないか。こんな子供を働かせているのか」


 ショウが答えるよりも前にデーヴィットがムッとしたように口を挟んだ。


「もうすぐ十二です。ちゃんと働ける歳で……いっ!」


 言い切れずにデーヴィットは呻き声を上げた。ショウに背中を叩かれたからだ。


「お前が聞かれたわけじゃないだろう。声をかけられたわけでもないのに、主人に不必要に話しかけるんじゃない」


 厳しい上司の態度でショウが諫める。エドワードは驚いて止めた。


「それぐらい構わない」

「エドワード様がよくても、それを常識だと覚えさせるわけにはいかないんです」

「……しかし何も叩かなくても」

「そんなに強く叩いてませんよ」

「本当か?」

「はい。驚いてしまっただけです。申し訳ありません」


 今度は目を見て話しかけられたのでデーヴィットは落ち込みながらも答えた。実際に痛かったからではなくて驚いて声を上げただけだった。それよりも叱られたことが堪えている。


「それと男は十歳にもなれば働きに出るものですよ。他の屋敷や工場に比べればここは天国みたいなものなんですから、どうせ働かなくてはいけないのなら、ここにいさせたほうがいいでしょう」

「そういうものか」


 労働者階級の事情などよく知らないエドワードは眉根を寄せながらも納得した。それにデーヴィットは今はそうでも、もともと労働者階級ではないだろう。確かにこの屋敷にいるのが一番よさそうだ。元の身分が高いと雇うのを嫌がる人間は多い。


「ではショウに酷いことをされたら私に言いなさい。叱っておいてやるから」


 にっこり笑いながらエドワードは言った。消沈しているデーヴィットを励ますつもりの軽口で、ショウが酷いことをするとは思っていない。それをわかっているショウはただ甘やかしすぎですとぼやいただけだった。

 しかしデーヴィットは躊躇しながらもエドワードの目を見てはっきりと言った。


「あの、ミスター・ショウは親切です。俺が理解するまで根気よく仕事を教えてくれますし、滅多に本気で怒ったりしません。さっきはお……僕が本当にやってはいけないことをしたから怒ったのだと思います」


 エドワードは思わずショウの顔を見た。驚いたように軽く首を振った彼もまた主人に目を向ける。

 視線で意志疎通を交わした主従は、一秒後に示し合わせたようにデーヴィットに大人の表情を見せた。


「悪かった。ショウが部下に理不尽なことをしないというのはちゃんと知っているよ。ただ私と話しをするのにあまり緊張してほしくはなかっただけなんだ」

「あ……いえ、俺のほうこそすみません」


 デーヴィットは戸惑いながらも恐縮して謝った。

 言葉使いは綺麗なのだが、主人に対する口の聞きかたは今一つといったところが、エドワードには微笑ましく感じた。

 デーヴィットに手紙を持たせて、フットマンと一緒にお使いに行ってくるように指示を出して退出させると、エドワードとショウは再び顔を見合せた。


「いい子だな。おまけにしっかりしている」

「ええ、十一歳とは思えませんね。自分のその頃のことを思い返してちょっと眩暈を起こしそうになりましたよ」

「そうだな。お前が二階の窓から窓まで壁伝いに移動できるか挑戦しようとして落っこちて骨折していた頃か……」

「余計なこと思い出さなくていいですよ」


 ショウは無表情で主人に文句を言った。

 この従者ほどではないにしろ、エドワードにしてもその頃はやんちゃ盛りではあった。さっきのデーヴィットのように主人の前で上司を庇うなんてことはとてもできなかっただろう。

 あの綺麗な言葉使いからも容易に察せられるように、いろいろと苦労があったに違いない。


「……あの子はこの間、新しく入ったメイドの弟なのか?」

「ああ、アメリアですか? そう言えば会ったんでしたね。そうですよ」

「なら彼女も元はそれなりの家の娘なんだな。なぜ侍女や家庭教師ではなくメイドになっているんだ?」


 エドワードはずっと気になっていたことを口にした。

 アメリアに初めて会った時、エドワードはその淑女のような言葉使いに、常識的な思考でもって、将来侍女かハウスキーパーを目指しているのだと思っていた。身に染み込んでいるものではなくて、習得したものなのだと。

 だからメイドらしく振る舞うと言った彼女に、おかしなことを言うと思ったのだ。

 しかしアメリアの年齢ならば矯正できるとしても、デーヴィットの年齢で下町なまりを完全に取り去るのは、周囲の人間になまりがある状況なら不可能だろう。だからアメリアも元は労働者階級ではないのだ。

 だがそれならなぜメイドになったのか。普通は家庭教師か話し相手(コンパニオン)としての侍女になるものだ。この二つの職業は給金を貰ってはいても、通常の労働者とは違うのだという体面を保つことができる。しかしメイドは完全に労働者階級だ。

 ここには大きな隔たりがあって、労働者階級に落ちぶれるくらいなら死んだほうがマシだと考える令嬢は多い。やっていることにあまり違いはなくても、体面が全てなのだ。この国は階級に支配されているのだから。


「ああ、姉弟仲がいいですし、離れたくなかったんじゃないですか?」

「どういうことだ?」

「同じ屋敷で姉弟で働くのなら、姉が家庭教師で弟がボーイでは立場がちぐはぐすぎますからね。ボーイなんて一番下っ端ですし。それを受け入れる屋敷はないと思いますよ。でも十一歳の男が屋敷勤めをするならボーイしかありません。だから姉が弟に合わせたんでしょう。元は中流上位階級らしいですし、あの歳で急に働かなくてはいけなくなった弟を一人にしたくなかったんでしょう」


 つまり彼女は自分の体面よりも弟と一緒にいることを選んだというわけだ。エドワードは何と言えばいいのかわからなくなった。


「……そうか」

「珍しいですね。そんなに気にするなんて」

「ん? 言うほどか? 私はそこまで使用人に興味がないわけではないぞ」

「いえ、使用人じゃなくて女性を気にするのが」


 思わぬことを言われたエドワードは半眼になってショウを睨んだ。


「ちょっと変わったメイドのことを聞いただけでなぜそうなる。穿ったものの見方をするな」

「おや、白を切りますね。ついこの前、ミセス・キャボットにアメリアの働きぶりについて聞いていたくせに」


 エドワードはぴたりと動きを止めた。


「……なぜ知っている」

「そりゃあ、ミセス・キャボットに聞かれたからですよ。エドワード様はアメリアと顔を合わせたことがあるのかって。さりげなく話題に出したつもりなんでしょうけど、あの人に取り繕ったって無駄ですからね」


 まさしくさりげなく聞き出したつもりでいたエドワードは頭を抱えたくなった。

 ショウにしてもエドワードが初めにアメリアの話を出した時に、そのことを言わなかったのはエドワードの反応を見たかったからだろう。


「……別に深い意味はない。本当にちょっと気になっただけだ。女性だからでもない」

「俺に言い訳したってしょうがないですよ。ミセス・キャボットにしないと。アメリアは顔立ちもいいですからね。もう少し背が高ければ間違いなく美人と言えるくらいには。あれはきっと疑われかけていますよ」


 背が高くなければ美人と言えないわけじゃないという言葉を、エドワードは賢明にも口に出さなかった。

 キャボットに疑われるのは厄介だった。エドワードはまだよくてもアメリアの直属の上司がキャボットなのだ。今後彼女の疑いが深くなるようなことがあったとしたら、アメリアが辞めさせられないとも限らない。それはいけない。

 距離を取って顔を合わせないようにするべきか、それとも聞いたことに対する最もらしい理由を作るべきか。母の侍女にしたかったとか。

 ほんの僅かの間、思考に耽っていたエドワードはおもむろに顔を上げた。


「ひとまずそういうつもりで気にしていたわけじゃないとキャボットに言っておけばいいじゃないか。よく考えたらそんな理由で働き口を探すのに苦労しそうな姉弟をキャボットが辞めさせるわけがないし」

「あなた変なところで考えかたが大雑把ですよね」


 ショウはがっかりしたようにため息を吐いた。

 

 

 

 

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