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釜に火をいれて、ロールパンの材料を作業台の上に並べていく。
朝一番の仕事はほとんど毎日変わることがなく、どこにどの食材や調理器具があるのか大方把握できるようになったアメリアは、手を休ませることなく作業を進めていた。
今朝はいつもより頭がすっきりしている。
相変わらす割れ物を触る時は緊張するし、体の疲れが取れているとは言い難いが、自分がどう動けばいいのか悩む前に行動できているところが昨日とは違った。
「おはよう、アメリア」
パンの生地を捏ねていると、ジェーンが顔を出した。
「おはよう、ジェーン」
「あら、今日はちょっと顔色がいいわね。昨日はかなり疲れが溜まっていそうだったけど」
やはり気づかれていたらしいとアメリアは苦笑した。何も言われなかったから、普段通りにできていると思っていたのに。
「昨日はちゃんと眠れたの」
「一昨日は眠れなかったってこと? ホームシックかしら」
「やだ、違うわ」
からかわれたと感じたアメリアは笑いながら否定した。
「大人だってホームシックにはなるわよ。誰だってなるものじゃないの? あたしは十四歳で家を出たから、初めのうちは帰りたくて毎晩泣いていたわよ。でも慣れるしかないのよねぇ。皆が通る道だし。無理して平気なふりしなくていいわよ」
慰めるように言われてアメリアは驚いた。
どうやらジェーンはホームシックのせいでアメリアが疲れた顔をしていると思っていたらしい。
しかしアメリアが考えていたのは、そんなことではなくて辞めさせられないために仕事でミスをしてはいけないということだけだ。
「いえ、本当に疲れていただけなの。ホームシックじゃないわ」
「そう? まあ、たまにそういう人もいるわね」
アメリアは曖昧に笑った。
「じゃあ、今日の朝の仕事は一人でも大丈夫かしら。あたし今日は半休だから、なるべくキッチンにいておきたいのよ。休み時間が減らされたら嫌だし」
「ええ、朝の内なら一人でも大丈夫だわ」
不安はあったがアメリアは頷いた。
「アメリアも明日は半休でしょ。それまでがんばってね。倒れちゃだめよ」
「……倒れそうかしら、わたし」
「だってお金持ちのお嬢様ってすぐに失神するイメージあるじゃない。あなたはよく保っているって皆感心しているわよ」
そんな風に思われているとは知らなかった。しかし確かに令嬢というものは義務のように体が弱いというアピールをしている。一度、デーヴィットとその話をした時に、彼はあっさりと義務なんじゃないのと言っていたが。
ジェーンがキッチンに戻るとアメリアはパンの生地を丸めて発酵させるために暖かい場所へ置いた。発酵させている間はハウスキーパーズルームの掃除をしなくてはいけないので、掃除用具を取りに行く。
煖炉を雑巾で磨きながら、アメリアは先ほどジェーンに言われたことを考えていた。
アメリアはここへ来てから家に帰りたいと思ったことはない。ダフネを想うことはあっても、家を懐かしむ感情は全くなかった。むしろそこから逃げ出すために今でも精一杯足掻いている。
しかしそれはアメリアがもう、子供とは言えない年齢だからなのかもしれない。
パタパタと小さな足音が廊下から聞こえてきて手を止める。
この時間に急ぎ足でここを通る人物はほぼ決まっていた。だがそんなことを知らなくても、アメリアは足音でそれが誰なのかわかっていた。
「おはよう、アメリア」
両手にオイルランプを提げたデーヴィットが扉から顔を出した。
昨夜使用した屋敷中のオイルランプを回収して、手入れをするためにフットマンに渡すというのが、デーヴィットの朝一番の仕事だった。
「アメリア、今日のケーキは何?」
壁に掛かっているランプを取り外しながら聞いてきた。デーヴィットはよくこの質問をする。
「多分、ティーケーキよ」
「ふうん、チーズケーキが食べたいな」
強請っているわけではなく、ただ願望を口にしただけのようだった。いくら作るのが姉でも、ボーイの希望が通るわけがないことはデーヴィットもわかっている。
「キッチンで余ったチーズを分けてもらえたら作れるわ」
それでもアメリアはそのことを頭の隅に留めておいた。
「うん、でも、今日もアメリアが作るんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、何でもいいよ」
デーヴィット自身に自覚はないのだろう。しかし思いもかけず子供らしいことを言われて、アメリアは弟の顔をじっと見つめた。アメリアにとって迷うことなく一番大事だと言える弟は、働き出してから仕事が辛いなどと一度も口にしてはいなかった。
「デーヴィット」
聞きたくて仕方のないことがある。
今、少しでも家に帰りたいという気持ちがあるのか、アメリアはデーヴィットの本心が知りたかった。
聞けばそんなものはないという答えが返ってくるのはわかりきっている。だが何よりもまず、その質問は弟を傷付けるとわかるから、アメリアは聞けなかった。
ここに来てすぐ、キャボットに言ったデーヴィットのあの決意を蔑ろにしてはいけないのだ。
「……ちゃんと眠れてる?」
だからこんな言葉でしか弟の気持ちを探れない。
「寝てるよ。寝すぎて毎朝寝坊しそうになってるよ」
ため息と共にアメリアとは正反対の悩みを吐露した弟に、少しだけほっとしていた。
仕事が終わり、昨夜よりも弱冠早い時間に、アメリアは庭園に出た。
イチイの生垣を越えて、薔薇の彫刻がある木のベンチの前で立ち止まる。
まだいないかもしれないとは思っていた。しかしあの、人の言葉をしゃべる不思議なカエルが来ないかもしれないという思いよりは、きっと来るという思いのほうが強かった。
夢ではないとアメリアは信じていたし、彼が約束を破るなんて、ちゃんとした理由がない限りはあり得ないのではないかと思う。昨夜会ったばかりだが、彼が誠実であることは充分伝わっている。
だからしばらく待つつもりでベンチに腰を下ろしたのだが、その直後にアメリアの耳は低く落ち着いた青年の声を捉えた。
「早かったな」
隣を見る。いつの間にか、大きなアマガエルがいた。
「こんばんは、アメリア」
「……こんばんは、エディさん」
風のそよぐ音が響く庭園で、ひっそりと挨拶が交わされる。
アメリアは安堵した。彼が来てくれたことに対してか、彼が夢の中の存在ではなかったことに対してなのかはわからなかったが、とにかくそこにエディがいたからだった。
「やっぱり君は変わっているな」
「え?」
「カエルを見ただけでそんなに嬉しそうな顔をする女性はいないだろう」
不可解だとでも言いたげにエディはアメリアを見上げていた。
「カエルじゃなくて、エディさんです」
アメリアは間違いを訂正する。エディはカエルではあるが、カエルに会えて嬉しかったわけではなくて、エディだから会えて嬉しかったのだ。
戸惑ったようにエディはじりっと後退った。しかしすぐに居住まいを正して冷静な声を出す。
「昨日の話の続きなんだが」
「はい」
「君が本採用にならない可能性はやはり限りなく低い」
「……そうでしょうか」
昨日はエディの話にそれなりに納得していたアメリアだが、こうもはっきり断言されると却って疑いを持ってしまう。
「そうなんだよ。ハウスキーパーの話を直接聞いていたから間違いない」
「ミセス・キャボットの? えっ、聞きに行ってくださったのですか?」
「それはない。そうではなくて、彼女が誰かとその話をしているのを、たまたま聞いたんだ。君はよく働いている、本採用するのに何の問題もないという話をしているのを。屋敷の近くを歩いていたら、中から聞こえて来たんだ。断じて盗み聞きをするために、彼女に張り付いていたわけではないからな。偶然、聞こえたんだ」
エディは偶然ということを強調した。ただ意図せずその話を聞いてしまっただけだと。
「君を雇い続けるかどうかはハウスキーパーが決めるのだろう。その彼女本人が今までの働きぶりで問題ないと言っていたんだ。君はちゃんと役に立っているということだろう」
これなら納得ができるだろうとでも言うように、エディはアメリアの反応を見ていた。
「そう、ですね。ミセス・キャボットが認めてくださっていたのなら……」
アメリアは素直に嬉しいと思った。
いつも表情が乏しく冷静なキャボットを見ていると、怒っているのではないかとか呆れられているのではないかという不安を持ってしまっていたのだ。少しでも肯定的なことを言ってくれていたなら安心できる。本採用にしてくれるつもりでいるのなら尚更。
しかし同時に何かが不自然だとも感じた。
エディは盗み聞きをしようとしたのではないと言っている。そんなことをすると思われるのはとても不本意だとでもいうように。だからそれは本当なのだろう。
ただそれならあまりにもできすぎた偶然だった。このタイミングでそんな話を聞けるというのは。しかもエディは昨夜、次の日にはもっとちゃんと話ができるからと、今日会ってくれているのだ。
まるでキャボットが今日のうちにその話をするのを知っていたから、会うと約束してくれたみたいだ。しかしそれはさすがにないだろう。
ではどういうことなのか。
アメリアが導き出せる答えは、エディが嘘を吐いているというものだけだった。
彼は嘘吐きではないと思うが、誰かを安心させるための嘘なら吐くのではないだろうか。
アメリアは昨夜、深刻に眠れない理由を語ったのだ。そしてエディはそれを真剣に聞いてくれていたし、心配してくれてもいた。アメリアに安眠を与えるために、キャボットがアメリアを問題ないと言っていたという作り話をしたというのが、一番しっくりする。エディにアメリアは辞めさせられたりしないという確信があるのならそれは何の罪もない嘘なのだから。
アメリアの口元が自然と緩んでいき綻ぶような笑顔になる。
「それならもう、気に病む必要はないですよね」
「ああ、当たり前だ」
ほっとしたようにエディは目を細めた。
アメリアは嬉しくなった。エディの優しさが嬉しかった。
昨夜会ったばかりで、少し話をしただけの関係なのに、彼はアメリアの不安をなくすために、わざわざもう一度会って、嘘を吐いてくれたのだ。
明後日には試用期間が終わるのだから、放っておいても結果はすぐにわかるというのに、アメリアの二晩の安眠のためにそうしてくれた。
こんなことをされては胸に根を張って成長しようとしていた不安ですら、どこかへ行ってしまう。
「ありがとうございます、エディさん」
「たまたま聞いたことを伝えただけだ」
大したことなどしていないというように彼は軽い口調で言う。
「でもおかげで今日は……いえ今日もちゃんと眠れそうです。昨夜も眠れたんですよ。きっとエディさんがわたしの話を聞いてくれたからです」
「疲れていただけだろう」
アメリアが大袈裟に感謝していると思ったのか、エディは困ったような声を出す。
「いえ、エディさんの言う通り、誰かに話したことがよかったんです。わたしは新入りでいろんな人に迷惑をかけていますから、相談するのも気が引けてしまって胸の内に溜め込んでいたから、それで悪い方向にばかり考えが行ってしまったんだと思います」
「……そうか。まあ、役に立てたのならよかった」
「はい。エディさんのおかげです」
満面の笑顔でアメリアが言ったせいか、エディは照れたように顔を逸らした。
そんな彼の緑色の背中をアメリアはじっと見つめていたが、会話が途切れていることに気づくと少し慌てた。これでお別れという流れにはしたくない。
「あの、エディさんはこの庭園に住んでいらっしゃるのですか?」
「ああ……そうだな。そのようなものだ」
躊躇うようにエディは返事をする。あまり知られたくないのだろう。
「では夜にこの辺りを散歩することもよくあるのですか?」
庭園とはいっても屋敷の敷地内という意味での庭なら、近くの森や菜園地まで含まれるのでかなり広い。エディは昼間はあまり人の多い場所にはいないのではないかと思ったのでそう聞いた。
「いや、ほとんどないな。昨日は滅多にないことだったんだよ」
「……そうですか」
アメリアは酷く気落ちした。
たまにでもあると言ってくれたなら、その時にまた会って話をしてもらえるかもしれないと思っていたからだ。
どうすればまた会う約束を取り交わせるのだろうか。交流経験の少ないアメリアにはとてつもない難題だった。頭を捻って次に何を言うべきかぐるぐると考えるが、思い浮かぶものはない。
「アメリア」
呼ばれて顔を向けると、いつの間にか覗き込むように見つめられていた。彼は迷うような素振りで言った。
「私はほとんど誰かと話す機会というものがないんだが、たまに会話をしたくなる時がある。だから君がよければ、今のようにここでこの時間に話し相手になってくれないだろうか。君の都合がいい時にでも」
アメリアは行儀悪く口を開いて目を丸くしてしまった。
「……いいのですか?」
「いいだろうかと私が聞いているのだが。君は信頼に値する人間に見えるからね。人に私のことを言ったりしないだろう?」
「はい、言いませんし、絶対に誰にも見つからないようにします」
勢い込んで返事をしたアメリアは慌てて口を手のひらで押さえた。少し声が大きくなってしまったからだ。
「仕事が辛くない日に、君が眠たくなるまでの少しの間でいい」
眠たくなるまで。
その言葉を聞いて、アメリアはますます嬉しくなった。
「エディさんは優しいですね」
「は?」
「とても優しくて紳士です」
エディは複雑そうに口を引き結んだ。
「紳士って、カエルなんだが」
「カエルでもわたしが今までお会いした中で、一番の紳士です」
アメリアは本心からそう言った。こんなにスマートに気遣いができる男性になんて会ったことはなかった。紳士にカエルも人間もない。
「それは……どうもありがとう」
どんな態度を取ればいいかわからないのか、視線を遠いところででさまよわせながら、エディはぼそりと礼を言った。