プロローグ
空の色彩が濃紺からより黒に近いものへと変わっていき、しかし深夜と呼ぶにはまだ早いという時刻。
とある貴族のカントリー・ハウスで、一日の仕事を終えたメイドが、少しくたびれた様子で屋敷の裏口から姿を現した。
彼女は昼間であれば素晴らしい景観を望める庭園を眺めて、ふうっと小さなため息をもらす。労働による疲れから出たものであり、星空の下、冷気とともに運ばれてきた清んだ空気の中にある草花の美しさに心をなごませたからでもあった。
暗闇の中、彼女は窓からもれるオイルランプの僅かな光を頼りに歩き出す。
しかしすぐに何かに気づいたかのように立ち止まった。そして慌てて頭に被っている白いキャップを取り外す。
続いて石炭の煤で汚れた白いフリルのエプロンも外すと、くるりと丸めて腕に抱えた。
すると黒いワンピースを身に纏った黒髪の彼女は、景色に溶け込むように目立たない存在となる。
再び足を動かした彼女は、イチイの垣根を越えて大きな花壇の前まで来ると、キョロキョロと辺りを見渡した。
何かを探すように彷徨う視線は、主に地面に向けられている。
「エディさん」
呼び掛けに対し、すぐに応えは返ってきた。
「アメリア、ここだ」
年若い青年のような声質だった。彼女は声のした方向へ目を向けると、そこに探していた存在を見つけて、微かに少女らしさが残る顔立ちを破顔させる。
「こんばんは、エディさん」
「こんばんは、アメリア。お疲れさま」
しかし彼女の目線の先に人影はない。いるのはやや大きなアマガエルだけだった。
そのアマガエルがピョンと跳ねて、木製の白いベンチに着地した。
「突っ立っていないで、早く座るといい」
器用に片方の前足を上げて「どうぞ」とでも言うように隣を指し示す。
驚いたことに、言葉を発しているのはそのアマガエル自身であった。
およそ、そのような複雑な構造など有しているとは思えない喉から、落ち着いた低い声が発せられている。誰かがカエルを話しているように見せかけているわけでもない。この夜の庭園に、人間は彼女一人しかいなかった。
「疲れたかい?」
カエルはベンチに腰かけた彼女を労るような声で訊ねた。
「はい。まだまだ皆さんのように、仕事が終わってもしゃんとしているというのは難しいですね。でもエディさんの顔を見たら、少し元気になれました」
媚びなどどこにもない笑顔で答えられたカエルは、気恥ずかしそうな困ったような仕草で身を屈めた。
「こんなおかしなカエルの顔を見ただけで元気になれるわけないだろう。君はたまに変なことを言う」
「エディさんはおかしなカエルなんかじゃありませんよ。とても優しくて紳士なカエルさんです」
変だと言われたことには気にも止めず、彼女はムッとしたように抗議した。
「カエルが紳士であったところで、何の意味もないと思うのだが」
「そんなこと言わないでください。わたしは紳士なエディさんが大好きなんです」
自分の姿形がコンプレックスであるらしいカエルに、彼女は真剣な面持ちで言う。
「ああ、いや…………ありがとう」
ますます姿勢を低くし瞼を半分下ろしながら、カエルはモゴモゴと礼を言った。
その姿を可愛いと思ってしまった彼女は、相手にバレないようにこっそりと口元を綻ばせる。
さわさわと草木が揺れる音が静かに響いた。
緑と土の匂いが夜露によって強く香る。
屋敷で働く人々が眠りにつき始める頃、いつものように彼女はその日の出来事をつらつらと話し出した。
「エディさん、聞いてください。今日はですね……」
仕事で失敗したこと、上手くできたこと、仕事仲間と少しだけ距離が縮まったことなどを、彼女はしゃべりたくて仕方がなかったというように口にする。
カエルは穏やかな声で相槌を打ちながら、時折質問を挟みつつ先を促した。
そうしてそれはいつものように、彼女の体が冷えることを心配したカエルが止めるまで続いていた。