月の溶ける夜に
二十三時を過ぎた頃、薄手のコートをパジャマの上から羽織って、部屋を出た。父と隣の部屋にいる妹を起こさないように、足音をたてないように慎重に階段を下りていく。靴下を履かないまま、ブーツに足を入れたら、足先がひんやりと冷たかった。鏡の前に立ち、コートのポケットから口紅を取り出して紅を引いた。唇を合わせて色を馴染ませたら、控えめな紅が白い肌に映えた。鏡の前で、自分に向かって一度、微笑む。私はどうしても、自分の微笑みが、悲しく感じられてしまう。
ドアにかかったチェーンをはずし、鍵を開けた。夜中にこうやって一人、家をこっそり出て行くようになったのは、彼と出会ってからだ。土と草の独特の匂いが薫る夏のおわり、私は彼に出会った。初対面だったのにも関わらず、ずっと前から彼のことを知っていたような気がした。
小走りで、坂の上の公園を目指す。はやく、彼に会いたかった。彼の姿を見たかった。
道には車は一台も走っておらず、人の姿も無かった。信号は黄色が一色だけ、点滅している。改めて、田舎だなあと思う。住宅街を抜けて、目的地である公園に着くと、ベンチの前に立っている彼の姿が見えた。私は嬉しくなって、彼のもとへ駆け寄った。
「そんなに急がなくても、逃げたりしねえって」と、彼は笑いながら言った。
私は深呼吸をして、言った。「だって」
「だって、早く会いたかったから。」
そう言うと、彼は私の方から視線をそらして、そっぽを向いてしまった。
「かんちゃん、寒くない?」
そう言うと、彼は「俺は大丈夫だ。感じねえから」と言って笑った。その笑みが、少し切なくみえたのは、気のせいだろうか。
「座ろうか」
誰もいない夜の公園で、私たちは恋人がするように肩を寄せ合ってベンチに座った。
「冷たそうな手ぇしてる」
かんちゃんは私の手をじっと見てそう言った。
「何でわかるの?」と問うと、「だって雪みてえに白いから」と彼は言った。
「街灯のせいだよ」と私が言うと、彼は「そうかもしれないけどな」と言った。街灯には小さな虫が無数に集っていた。虫も人も、やはり暗闇では灯りが恋しくなるのだろうか。
「最近、どうなんだ」
「ん?」
「元気でやってんのか」
「うん。まあ、ぼちぼち」
「なんだよ、ぼちぼちって」
「お母さんに、面会してきたの。一昨日。調子が良かったみたいで、よく、笑ってくれた。前みたいに、騒ぎ出したりすることもなくて、安心した。先生に聞いたら、ここ最近、安定してるんだって」
「そうか。よかったな」
そう言って彼は私の頭を撫でるように、私の頭の上で小さく手を動かした。実際に彼が触れることはないけれど、なんだかとても安心した気持ちになった。
「ありがとう。かんちゃん。かんちゃんに触れられると、なんだか、安心するね」
私がそう言った後、彼は、切ない表情をして、下を向いてしまった。
「かんちゃん?どうしたの?私、何かひどいこと…」
「いいんだ」私の言葉を遮って、彼が言った。
「おめえは何もしてねえよ。ありがとな。おめえの言葉が嬉しくて。俺は、おめえに触れることもできない、ただ話を聞いてやることしかできねえのに。ごめんな。俺が、こんなんじゃなかったら…」
彼はそう言ってついに手で顔を覆ってしまった。私は思った。彼が泣くのを堪えているのだと。
「かんちゃん」
擦れるはずもない背中を擦る。意外にも大きくて広い背中だと思った。
「かんちゃん。私は、かんちゃんに会えるだけでいいの。触れられなくても、こうして話せるだけで幸せだから。だから、悲しまないで。かんちゃんに会えて、私は嬉しい。かんちゃんが好き。大好き。だから、何処へも行かないで」
喋っている途中、目蓋が熱くなって、鼻の奥がつんとした。するとたちまち涙が流れ、頬を伝った。生温いそれは、顎を伝って、地面へと落ちて小さな染みを作った。
「泣くな」
そう言って彼は私を抱き締めた。強く、力いっぱいに。お互いに、抱き締めることもできなかったけれど、私たちは強く強く抱き合った。それはとても長い時間にも思えたし、一瞬にも思えた。永遠にも。
お互い、身体を離した頃には、頬の涙もすっかり渇ききっていた。
「見て。月が溶けてる。」
私は、そう言って夜空に浮かぶ月を指さした。
「ほんとだな。」
「また、会える?」
「あたり前だ。」
「じゃあ、また。月が溶ける、その頃に」
「ああ。またここで、待ってる」
彼はそう言って、おでこににキスをくれた。
「俺はお前を好いている」
そして今日一番の笑顔を見せると、夜闇の中に消えて行った。
私は彼が立っていた場所をしばらく見つめてから、公園を後にした。
暗い夜道は、街灯があまり付いていないけれど、月の灯りが照らしてくれるから、心細くなかった。
「また、会える」
不確かな約束。絶対会えるという確証はいつも、どこにも無い。けれど、今までそうやってやってきた。今日だって、彼は待っていてくれた。かんちゃん。その名前を呼べなくなるまで、私は生きよう。
灰色の雲に、輪郭が溶けた月が隠れていくのを眺めて、私は、玄関のドアを開けた。