後半
昔、書いたライトノベルの後半です。
7
翌日、学校は休校になった。だが、僕は現場検証に立ち会う事になっていたので普段と何も変わらない。警察官と共に校内を回り、何度も襲われた状況を説明する。昨日から同じ説明を何度も繰り返していたので、最後の方には説明の仕方が上手くなっていた。
「犯人に襲われた先生はどうなりました?」僕は気懸かりだった事を警察官に質問した。
夥しい量の血を流した先生の真っ白な顔と紫色をした唇が今でも思い出される。
「先生は意識不明の重体です。昨晩、緊急手術が行われ、一命は取り留めたのですが今も大変危険な状態だそうです」
「そうですか……、分かりました」
学校での現場検証を終える頃には日が暮れ始めていた。
「じゃあ、帰りましょうか」未緒さんが僕に声をかけてきた。
未緒さんは保護者兼、刑事として僕の現場検証に一緒に立ち会っていた。
未緒さんの後を付いて駐車場に向かっていると昨日、僕らを送ってくれた刑事さんが近付いて来るのが見えた。
「お疲れ様です岩永さん、現場検証の方は終わりましたか?」
「遅かったわね、中野。こっちは今終わったところよ。黒岩千織の捜査はどうだったの?」
「いえ……、犯人に繋がるような情報は得られなかったですね」
「あと、黒岩千織の司法解剖が終わったんですが、被害者の傷跡の形状からやはり前回の事件と同様の凶器が使用されたと見て、間違いない……」
話を遮るように電子音が鳴り響いた。どうやら僕の携帯電話が鳴っているようだ。画面には雛山雅史と表示されていた。僕は未緒さん達から少し離れると電話に出た。
「もしもし、どうしたの?」
「悪いな、神岸。大した事じゃないんだけど、学校が休みになったじゃん。それで、テスト勉強で集まるのも危ないし、とりあえず中止っていう連絡。土日挟んで来週テストだからいいよな」
「うん、分かった」
「それと、莉緒ちゃんにも伝えておいて。俺、番号聞いてなくってさ」
「そうなんだ。藍原さんは知らないの?」
「そう言えばそうだな……。芹那! 笹森さんの番号知ってる?」
雛山の声の後ろから藍原さんの声が聞こえてきた。一緒に勉強をしているのだろう。
「そんなデカイ声で言わなくても分かるよ。もしもし、ゴメン。知らないってさ」
「分かったよ。じゃあ連絡しとくから」
「ああ、頼むわ。よろしく」
藍原さんと笹森さんはよく一緒にいるのに電話番号を知らない? 若干の作為を感じつつ、僕は笹森さんに連絡を入れた。
「もしもし笹森さん。今、大丈夫?」
「うん、勉強してた所だから」
「雛山から連絡があって、テスト勉強は中止にするっていう事なんだけど」
「うん、分かった。それどころじゃないもんね。朝、ニュースに学校が写ってたんでビックリしちゃった」
昼間、校門の前に何台か報道関係の車が停車しているのを見かけた。
「あとそうだ、笹森さんの家に宿題のプリントを忘れたみたいなんだけど、どこかに落ちてなかった?」
「私の部屋に落ちてたよ。今日、持って行こうと思ってたんだけど……」
「気にしないで、宿題どころの騒ぎじゃないからね。じゃあまた来週」
「うん、分かった。じゃあね」
やはり、プリントは笹森さんの家だったか……。
藍原芹那は学校が休校になったので雛山雅史の自宅へ遊び……、ではなく勉強を教えてもらうため、お邪魔していた。
私はクッションを抱きしめながら、隣に座って電話をしている雅史を睨みつけていた。
私は莉緒の電話番号をもちろん知っていた。しかし、それは神岸君と莉緒の距離を少しでも進展させるため、あえて知らない振りをしたのに。雅史のせいで私の気遣いが台無しになってしまった。
すると、通話を終えた雅史がこちらを向いた。
「なんでそんなふくれっ面してるんだよ、お前は」
「子供の頃からの付き合いだから言っておくけど、もう少し気を利かせてよ!」
「気を利かせる? 誰に? 何を?」
「私によ! 神岸君が自然な感じで莉緒に電話するよう計画してたのに台無しじゃない。上手くフォローするぐらいの機転は利かせてよ」
「お前、まだそんな事を考えてたのか。その無駄な情熱を少しは勉強にも向けろ」
雅史はテーブルの上に開かれたノートを叩きながら言った。
「でも、あの二人はもう少しで落ちるわよ。恋に!」私は拳を握りしめて熱弁する。
「お前が勝手に言ってるだけだろう? 神岸は別にしても莉緒ちゃんにしてみれば、いい迷惑かも知れないだろう」
「そこは問題ないわ。莉緒にはそれとなく探りを入れてあるんだけど、神岸君の話をする時だけ莉緒の顔は恋する乙女になってるの」
「えっ、マジかよ! それなら神岸に教えてやった方が早くないか?」
「ダメよ! そんな無粋な真似。二人は少しずつ愛を育んでいき、そして気付くの。お互いの気持に……」
「でもこんな電話ぐらいじゃ、何も変わらないだろう」
「恋する乙女の気持ちが分かってないわね。こういう些細な事の積み重ねが重要なの」
雅史は納得がいかないという顔で私を見ている。もちろん、私もこんな小さな出来事だけで上手く行くとは思っていない。私は雅史にも秘密にしていた作戦を教える事にした。
「テスト明けに遊園地に行くって話をしたじゃない」
「ああ、芹那の親父さんが取引先から遊園地のチケットを貰ったんだろう。それがどうした?」
「これを見て!」
私はテーブルの上に広げたノートの最後のページを開いて雅史に見せた。
「神岸君と莉緒のデートプラン?」
そう! 私が授業の合間を縫って綿密に組み立てた、二人の距離を縮めるためのデートプラン。それがこのノートにびっしりと書いてある。しかも可愛いイラスト入りで!
「ゴールは用意してあるの。だからさっきの電話もそのコースを進むための手助け、さながら私はペースメーカーの役割ね。二人をゴールへ導くための案内役よ!」
私は身振り手振りを交え、説明を終えると雅史から拍手を貰った。
「成る程、よく分かった。じゃあ勉強の続きをしようか」
「全然分かってない!」
その後、鬼のような顔をした雅史のスパルタ指導により、みっちりと勉強をさせられた。
翌朝、神岸綾人がリビングへ行くと、テーブルの上に置いてあるメモを見つけた。未緒さんの綺麗な文字で家の戸締まりと、無暗に出歩くなという注意が書かれていた。
僕はメモを置くとトースターにパンを入れた。そこにあんこさんが猫の姿のままトコトコとリビングへやって来た。あんこさんはキャットフードが入った容器に近づくと静かに食べ始めた。僕は気にせず、コーヒーを入れる準備をする。
焼きあがったキツネ色のトーストとコーヒーをテーブルに並べると僕は席に座った。すると、いつの間にか人の姿に変わったあんこさんが隣の椅子に腰掛け、カップに入ったコーヒーの匂いを嗅いでいた。
あんこさんはなぜか僕を可哀想な生き物を見るような目で見る。
「なぜ、人間はそんな不味い汁を飲むんだ?」
「不味くはないけど、目が覚めるよ。あんこさんも飲む?」
僕が飲みかけのカップを差し出すと、あんこさんは大きく首を振って拒否した。
「そんな不味いもの、誰が好き好んで食べるか。この世で一番うまい食い物はキャットフードとミルクだ」
あんこさんはそう言ってキャットフードにミルクをかけると、それを僕に進めてきたので丁寧に断った。猫の味覚と人間の味覚は相容れる事が出来ないようだ。
僕は朝食を食べ終えると掃除機を持って動き始めた。週末はいつも午前中に家事を済ませるように心掛けていた。掃除機に戯れてくるあんこさんを往なしながら家中を回る。
家事を終えると色々と足りない物がある事に気が付いた。このままではトイレットペーパーが無くなってしまう。買い物に出掛けようか迷っていると、ソファの上で昼寝をしていたあんこさんが目を覚ました。丁度いいタイミングだ。心の中で未緒さんに謝りながら僕は財布を手に持った。
人の姿をしたあんこさんは、歩道と車道の境にある縁石の上を歩きながら僕の先を歩いている。見た目は大人の女性なので、かなり目立つ。
「あんこさん歩道を歩こうよ」
「嫌だ、これも歩道だろう!」
境界線の上だから歩道ではないような気がするが、どうなんだろう? 僕が考えていると、あんこさんはそのまま交差点を真っ直ぐ行こうとするので止めた。
「あんこさん、ちょっと待って。少し寄りたい所があるから」
僕は途中、花屋によると渡辺悠一と古谷明美が殺害された事件現場へ向かった。
彼らに花を手向けるためだ。多少ではあるが僕にも接点がある。
渡辺悠一が事件に巻き込まれていなければ僕も彼と再開していたのだろうか?
事件現場となった路地の脇に花を手向けている少女の姿が見えた。彼女は手を合わせ、目を瞑っている。渡辺悠一の友人だろう。僕と同い年ぐらいに見える。
もし僕が死んだらあんな風に花を添えてくれる人はいるのだろうか?
そんな人はいないだろうと思い、僕は少し笑った。
少女が僕の横を通り過ぎた。彼女は僕を見て軽く会釈する。同じように僕も会釈を返した。見覚えのある顔だった。またか、誰だろう?
「何を呆けている。さっさと行くぞ!」
先を歩いていたあんこさんに急かされた。僕は思い出すのを止め、歩き始めた。
休日の外出はこの買い物の一度きりだった。残りの休みは大人しく家で過ごしていた。テスト勉強と息抜きにあんこさんの遊びに付き合っていると、あっという間に休みは終わってしまった。そして来週から期末テストが始まる。
月曜日、僕がいつものように登校すると正門の前に警察官の姿が見えた。周囲には報道陣の姿も見え、何人かの生徒がインタビューを受けていた。校内で殺傷事件が起こったため、学校の警備も強化されたのだろう。
僕は人目を避けるように正門を抜けた。正面口に辿り着くとガラスを割られた扉がダンボールとガムテープで補強されているのが目に付いた。僕が割った訳ではないが、少し申し訳ない気持ちがした。
階段を登り、教室へ入ると雛山が興奮気味に声をかけてきた。
「すごい事になってるな! 先週、歴史の教師が校庭で斬られたらしいんだよ。生徒も襲われたらしいんだけど、誰が襲われたんだろう。知ってるか、神岸?」
「そうなんだ、誰なんだろうね?」
「相変わらず興味が薄いな……。こんな大事件なのに」
僕は適当に誤魔化すと席に着いた。事前に警察と学校側から犯人が見つかっていないため、他言無用と忠告を受けていた。何より注目を浴びると身の危険が高まる。
雛山と雑談していると笹森さんも登校してきたようだ。
「おはよう神岸君。これ、忘れていったプリント」
そう言って笹森さんはバックからプリントを取り出した。礼を言って受け取る。だが、金曜日が休校になったため、提出するのは暫く先になりそうだ。助かった。
「莉緒ちゃんは誰が襲われたか知ってる?」
「私もさっき、話を聞いてビックリしちゃった。先生は大丈夫なのかな?」
すると教室のスピーカーから雑音が流れた。教室内が一瞬、静まる。
「今から全校朝礼を行います。生徒は全員、体育館へ集合して下さい。繰り返します……」
スピーカーから、こもった声で指示が繰り返されている。
「詳しい説明があるのかな? もしかして、テスト中止とか!」
雛山がそう言って席を立ったので、僕と笹森さんも移動する事にした。
体育館へ集合すると校長先生から全校生徒に詳しい説明がされた。僕の名前は伏せられていた。犯人に襲われた教師が一命を取り留めたという報告が、唯一の救いだった。
校長の話が終わると一時間、遅れてテストが開始される事になった。
「テスト中止じゃないの~」教室に戻る途中、雛山は叫んでいた。
8
期末テストの全日程が終了した。僕は早い時期から準備をしていたので、それほど焦る事なく問題を解く事が出来た。会心の出来だろう。雛山はいつも通りだと言い、笹森さんは満面の笑みを浮かべて僕に報告してきた。ただ一人、藍原さんは……、糸が切れた人形のように机に突っ伏している。笹森さんが恐る恐る、近づくと勢い良く立ち上がった。
「テストも終わった! 皆、覚えてるよね?」
「遊園地だね!」笹森さんは興奮気味に答えた。
「そんな事よりテストはどうだったんだ?」雛山が藍原さんに尋ねた。
藍原さんは雛山の質問には答えず、捲し立てるように言い放った。
「明日の朝八時に駅前集合! 分かった?」
翌日、僕が朝食を食べていると猫の姿をしたあんこさんがリビングに現れた。
「よく寝た……。なんだ、休みなのにこんな朝早くから出掛けるのか?」
あんこさんがトコトコと僕の側に寄ってくる。
「友達と遊園地に行く事になってね」
あんこさんは興味なさげに欠伸をしてソファに寝転ぶ。僕は準備を終えると家を出た。
早めに家を出たので余裕を持って集合場所に到着する事が出来たのだが、駅前に到着すると既に皆が待っていた。
「遅いよ、神岸くん!」藍原さんに怒られる。
時計は七時四十五分を指していた。集合時間の十五分前だ。五分前行動の3倍は早い。
「全員揃ったね。じゃあ行こう」
藍原さんは掛け声と共に雛山を引っ張って歩き出した。
「どのくらい待った?」僕は笹森さんの横に並ぶと尋ねた。
「私達もさっき着いたばっかりだから」笹森さんは微笑んだ。
電車を乗り継ぎ、さらに駅から直通のバスに乗ってようやく遊園地に到着した。
「これ、チケットね」藍原さんが皆に配る。
「これ一枚で乗り放題なんだ。楽しみだね、早く行こうよ!」
笹森さんは僕の袖を引っ張った。嬉しそうな様子が伝わってくる。
エントランスを抜けて園内に入ると親子連れやカップル、僕達と同じように友人同士で集まったグループがごった返している。遊園地の奥に見えるジェットコースターから悲鳴が聞こえてきた。僕の心の声の代弁だろう。人混みが嫌いな僕には恐ろしい光景だった。
「最初はジェットコースターね。皆行くわよ!」
藍原さんは既に決めていたのか、歩き出した。
「ちょっと待て、俺は嫌だぞ」雛山が声を上げる。
「あっ、ごめんなさい。そういえば雛山君は絶叫系のアトラクションが苦手なんだっけ?」
藍原さんはニヤニヤしながら雛山を見ている。確信犯だろう。
「確かに俺は苦手だ。でも神岸と莉緒ちゃんだって得意とは限らないだろう?」
「莉緒は大丈夫?」藍原さんは間髪入れずに尋ねた。
「私は平気だよ」
「神岸君は平気そうだもんね」僕は勢いに流され、頷いた。
「待て! 神岸、お前本当に大丈夫なのか? 芹那に脅されたから頷いただけだよな?」
雛山は必死に訴えかけているが僕は苦手ではない。特に拒否する理由もなく、少し面白そうでもある。
「往生際が悪いわね、とにかく行くわよ!」
藍原さんはそう言って雛山の腕を引っ張るが全く動こうとしない。二人のやり取りを眺めていると、僕は不意に後ろから誰かに抱きしめられた。
「私はあの馬の乗り物がいい!」
聞き覚えのある声だ……。僕は腕を振りほどき、後ろを振り向いた。そこには人の姿をしたあんこさんが目を輝かせて立っていた。
「神岸君のお知り合い?」笹森さんが驚いた様子で尋ねてきた。
僕はどう説明すればいいか分からず言葉に詰まった。あんこさんを説明するのはかなり難しい作業になる。
あんこさんが人の姿や猫の姿に変身する事は別に秘密ではない。正直に説明してもいいのだが、誰も信じないから言わないだけである。他人に信じてもらうためには、あんこさんの協力が必要不可欠になるのだが……。今回は珍しい状況だった。僕があんこさんの方を改めて見ると既に別のアトラクションに興味を奪われていた。
仕方がない……。正直に説明するのも手間なので、僕は適当に思いついた嘘を口にした。
「この人は僕の親戚なんだ。偶然だね、こんな所で再開するなんて。いつも気まぐれだからビックリしちゃったよ」
「何を言っているんだ、主は? お前の後を付けて来ただけだ」
あんこさんは不敵に微笑んだ。全てを理解した上での言動だろう。
「神岸君、『アルジ』って何? 『後を付けて来た』ってどういう事?」
藍原さんは雛山を引っ張る手を休め、僕に尋ねてきた。
「それは単なるアダ名だよ。僕はアルマジロに似ているんだって、それを省略してアルジって呼ばれているんだよ。あはは……、後を付けて来たっていうのは乗っていた電車が同じっていう意味だよね。ちゃんと言わないと分からないよ」
僕は皆に見えないようにあんこさんを睨む。わざと話をややこしくさせたな!
あんこさんは涼しい顔をしている。僕は飼い猫の罠にまんまと嵌ったようだ。藍原さんは訝しげな表情で僕ら二人を見ている。
「俺、神岸君の親友で雛山雅史って言います。お姉さん、失礼ですがお名前は?」
雛山がいつの間にか、あんこさんに質問をしていた。あと、親友って初めて聞いたが?
「あんこだ」雛山の質問に興味なさげに返答した。
「あんこさん……。もし、お一人なら僕達と一緒にアトラクションを周りま……」
「ちょっといいですか!」
雛山が言い終える前に藍原さんが制止した。そして、雛山と藍原さんは僕らから離れて行く。二人の言い争いがこちらまで届いてきた。
「ちょっと、何言ってるのよ!」
「大勢で回ったほうが楽しいだろ」
あんこさんは痺れを切らして僕の手を引くと歩き出した。
「じゃあ、最初は馬の乗り物だ!」
「まだ、駄目だってあんこさん」
あんこさんはメリーゴーランドを指さしながら歩いている。話を聞く気がない。
「えっ、ちょっと」藍原さんは慌てて追いかけてきた。
「ごめんね。藍原さん。あの人、言う事を聞かなくて」僕は謝った。
「やっぱり、あっちの悲鳴が聞こえる方にしよう!」
あんこさんはジェットコースターを指さして、そちらに歩みを変えた。
「あと、かなり気まぐれだから」僕はまた謝った。
藍原芹那はジェットコースターの列に並びながら突然現れた、神岸君の親戚を見ていた。
神岸君に馴れ馴れしく抱きついたり、手を握ったりとスキンシップが目立つ。彼女のせいで私の立てた予定が狂いそうになったが、当初の予定通りジェットコースターに乗る事になったので大丈夫だろう。あとは私が神岸君の親戚をブロックすれば予定通りになるはず、あれだけ嫌がっていた雅史も今や乗り気だ。これはこれで腹が立つが、今は置いておこう。
雅史をジェットコースターに乗せる。実はこれも作戦の一つだ。子供の頃から雅史の事は知っている。雅史をジェットコースターに乗せれば暫く動けなくなるはず。
私が雅史を介抱している間に、二人で遊園地を周らせるという手筈だ。
雅史は今、神岸君の親戚に話しかけているが簡単にあしらわれていた。莉緒は神岸君の後ろで遠慮がちに立っており、神岸君は親戚のお姉さんと何か楽しげに話をしている……。
あとちょっとの辛抱よ。私が何とかしてあげるからね、莉緒。
神岸綾人はジェットコースターの列に並びながら、隣で騒ぐあんこを必死で止めていた。
「飛んでいって先頭に回り込めば早いんじゃないか?」
あんこさんは列に並ぶ事に飽きていた。というより並ぶ事など考えていない。僕は気が気でない、この人なら本当にやりかねないからだ。
「それか、前の奴を蹴り倒せば将棋倒しになって早いんじゃないか?」
「飛ぶのも駄目だし、倒すのも駄目」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「大人しく並んで」
あんこさんは頬を膨らませ、不満気な表情で僕に悪戯をしてくる。袖に戯れたり、僕の髪を引っ張ったりしている。
その様子を見てなのか、雛山が割って入ってきた。
「あんこさん、趣味は何ですか?」
「ネズミ捕り」即答する。
「えっ、ネズミトリ?」
雛山は何の事か理解できていないようだ。僕は頭を抱えた。
ようやく僕達の順番が回ってきた。あんこさんも機嫌を取り戻したようだ。僕は後ろにいた笹森さんに近づき、一言詫びた。
「ごめんね、あんこさんのせいで迷惑かけて」
「気にしてないから、大勢で回ったほうが楽しいしね」笹森さんは微笑んだ。
そんな会話をしていると、いつの間にかジェットコースターに乗り込んだあんこさんが体を固定するロックを力任せに外そうとしているのが見えた。あんこさんの力だったら本当に外してしまうかもしれない。僕はあんこさんの隣の席に座り、慌てて注意する。
「これは外しちゃダメだよ」
「こんなのが付いていたら動けないじゃないか!」
「動かなくていいんだよ!」
僕は必死であんこさんのロックを抑えた。そのため後ろに乗った笹森さんの存在にジェットコースターを降りるまで気付かなかった。
僕は違う意味での絶叫アトラクションを堪能した。
藍原芹那は予想外の展開に頭を抱えていた。
雅史は青ざめた顔をしてベンチに腰掛けている。こうなる事は予想出来ていた。だが、神岸君の方は予想外だった。神岸君は酷く疲れた顔をして雅史の隣に腰掛けていた。
莉緒はダウンした二人のために売店に飲み物を買いに行き、神岸君の親戚はお構いなしに次に乗るアトラクションを物色していた。
どうして上手く行かないの、計画は完璧だったはずなのに……。
私が落ち込んでいると莉緒がジュースを持って戻ってきた。
「神岸君、大丈夫?」莉緒はジュースを手渡した。
私は予想外の状況に立ち尽くしていると神岸君の親戚に声をかけられた。
「次はあれに乗ろう」
彼女はフリーフォールを指さして目を輝かせている。どうやら絶叫アトラクションが好きなようだ。
「でも、神岸君達があんな様子じゃ……」
「そんな軟弱なヤツらは放っておけ」
そう言って彼女は、私と莉緒の腕を引っ張って歩き出した。
「えっ、ちょっと待って、あんこさん」
私達はあんこさん先導のもと、自由気ままに数々のアトラクションに乗り込んだ。
初めは戸惑っていた莉緒も次第に楽しむようになり、私もあんこさんの勢いに流されていく内に仲良くなっていた。まぁ、これも楽しいからいいか。
神岸綾人と雛山雅史が女性陣に合流すると皆、打ち解けて仲良くなっている様に見えた。
復活した雛山はあんこさんに早速、声をかけている。
「あんこさん、体調も戻ったので次はあれに乗りましょう」
「つまらなそうだからいい、あっちにしよう。行くぞ、芹那」
あんこさんは藍原さんを連れて歩き出した。雛山は相変わらず相手にされない。
「神岸なんとかしてくれ」雛山が僕に泣きついた。
「変り者だから止めておいた方がいいよ」
僕が雛山を説得していると笹森さんがやって来た。
「どうしたの? まだ調子が良くないの?」
「体調は万全だよ、莉緒ちゃん。そうだ! 今日、デジカメ持ってきたんだ。撮ってあげるから笑って」
雛山は一瞬で立ち直ると、デジタルカメラを構えながら笹森さんに指示を出し始めた。
「そうだ、神岸も一緒に並んで! じゃあ撮るよ」
これが僕と笹森さんの初めての記念写真になった。
閉園の時間が近づき、僕達はお土産を買うため遊園地内のショップに立ち寄った。
あんこさんと藍原さんは騒ぎながらお土産を物色している。雛山はそんな二人に混ざろうとチャレンジしているようだ。あれ? 笹森さんがいない。僕はその輪から離れると店内を見回した。すると、所在なげにお土産を眺めている笹森さんを見つけた。
「何か気に入ったのがあった?」
「せっかくだから何か買おうと思ったんだけど、何も思いつかなくて……」
「それなら記念に僕がプレゼントするよ」
「えっ、いいの?」
「高いものは買えないけど……、このキーホルダーなんてどう?」
目の前に遊園地のマスコットキャラクターを象ったキーホルダーが幾つもぶら下がっている。僕はその棚からキーホルダーをひとつ取り上げた。値段もお手頃だし、邪魔にもならないだろう。
「うん。嬉しい」笹森さんの顔が綻んだ。
僕は会計を済ませ、笹森さんへ手渡した。
「ありがとう。大事にするね」
笹森さんはキーホルダーの入った袋を大切そうに握りしめている。
「また、機会があったら遊びに来ようね。今回はあんこさんが一緒だったから、大変だったでしょ」
笹森さんは首を振って否定した。
「とっても楽しかった。でも……、今度は二人で来ようね」笹森さんは微笑んだ。
遊園地を後にした僕達は集合場所となった駅前で解散という事になった。
雛山はあんこさんとの別れを惜しんでいたが、結局最後まで相手にされる事はなかった。
僕はあんこさんと二人で帰り道を歩いていた。
「遊園地は面白いな」
あんこさんは楽しそうに何度もそんな話をしている。色々あったが僕も楽しかった。
辺りは日が落ちて暗い、この辺りは路地に入ると外灯が減って急に暗くなる。今日はあんこさんも一緒なので心配はないが、学校で襲われた時の光景が蘇る。
僕が路地を曲がろうとした、その時だった。風を切る音と共に、あんこさんが僕の襟を勢い良く引っ張った。首が絞まり、僕は尻もちを付いた。突然の出来事に僕が噎せていると、あんこさんは姿を消した。
「ビュン!」
曲がり角の先から長物が空を切る音が聞こえた。僕は首を押さえながら立ち上がると、曲がり角を覗いた。すると、学校で僕を襲った男とあんこさんが対峙していた。男は前回と同じく顔をビニール袋で覆っていた。
待ち伏せていたのか……。僕はあんこさんに助けられた事にようやく気が付いた。
猫の五感で最も優れているのは聴覚だ。異なる方向の音を聞き分け、足音で人を判別する事も容易だ。だから、男の存在に気付いたのだろう。
男は刀を振り上げ構え、片やあんこさんは左手を腰にあて、右手をだらりと下げながらブラブラと振っている。状況的には圧倒的にあんこさんが不利だろう。何しろ徒手空拳だ。
その時、僕は護身用にと未緒さんから預かったスタンガンの存在を思い出したのだが、生憎、今日は自宅に置いてきてしまった。
「主はそこで見ていろ。うろうろされても邪魔だ!」
あんこさんに近づこうとすると怒鳴られた。僕は大人しく物陰に隠れた。
先に動いたのは男の方だった。刀を構えたまま、ジリジリとあんこさんに擦り寄っている。男は間合いに入ると問答無用で刀を振り下ろした。
あんこさんはその一刀を半身ズラして避け、さらに返す刀で繰り出された横薙ぎを体を大きく後ろに反らして躱すと、そのままバク転をしながら距離を取った。
「殺意を感じる太刀筋だ」
男は無言のまま刀をあんこさんに向け、構え直した。
「無口な奴だな。まあいい、さっさと捕まえて正体を暴くとするか」
そう言った瞬間、あんこさんは男との距離を一瞬にして詰めた。文字通り一瞬だ、瞬きする間もない。男は反応する事が出来ず、構え直した態勢のまま微動だにしていない。あんこさんは男の無防備な体に拳を叩きつけた。男の体が宙を舞い、勝負は呆気なく終わりを告げた。
「殺さない程度には力を入れた、暫く起き上がれんだろう」
あんこさんはそう言って倒れた男に近づいて行く。すると男はむくりと立ち上がり、逃げ出した。
「待て、貴様!」
男は路地を曲がると直後、車が走り去る音が聞こえた。あんこさんは男を追いかけず、その場にへたり込んでしまった。僕が近づくとあんこさんは猫の姿に戻った。
「今日はもう疲れた」
遊園地ではしゃぎ過ぎたせいだろう。猫の瞬発力は凄まじいが持久力はあまり無い。寧ろ僕達の方が追い詰められていたのかも知れない。
「疲れた、抱っこしてくれ」あんこさんは眠たそうな声でそう言った。
僕もどっと疲れが湧いてきた。とりあえず、あんこさんのおかげで命拾いした。僕はあんこさんを抱き上げた。遠くの方からパトカーのサイレン音が聞こる。近所の人が通報したのだろうか、サイレン音がこちらに近づいてきている。
僕は事実を説明するのは難しいと判断し、この場を離れる事にした。
これで襲われたのも二回目だ。僕は眠っているあんこさんを起こさないよう歩きながら考えを巡らせた。
9
日下部則夫は自身が所有する山の麓に軽トラックを止めた。
最近、勝手に山に入り込んでゴミの不法投棄や自生した山菜などを勝手に持ち出す人間が増えているため迷惑していた。酷い時は集団で山に入り込んで勝手に木を切り倒し、休憩場所として即席のベンチを作る非常識な輩までいた。そのため時間があれば見回りをするため山へ入るのだ。
軽トラックから降りると地面を見た。車の轍が残っている。地面が乾燥しており、かなり前に付けられた物のようだ。また、勝手に忍び込んだ輩がいたのだろう……。
この先は獣道になっており、車で入るのは危険な場所だ。だが、確認しておかないとまた面倒だ。轍の後を辿り、木々で光を遮られた道を奥へと進んで行く。すると、車が止まっているのを発見した。ナンバープレートはこの近辺の車ではない。車に近づいて行くと車内に人影が見える。運転席を覗き込むと男が座っていた。
「ひぃっ」
小さな悲鳴を上げ、車から飛び退いた。車内には血だらけになった男が死んでいた……。
岩永未緒がその知らせを聞いたのは中野が運転する車の警察無線からだった。
「木村が死体で発見された? 中野、急いで!」
中野の運転する車は県境にある山奥へと進行方向を変えた。
現場である山の麓に到着すると、既に鑑識が捜査を行っていた。車から降りると見知った顔の刑事を見つけた。近寄って話しかける。
「どんな状況?」
「死体は木村で間違いない。車も木村の所有している物と断定できた」
「そう……。木村は自殺、それとも他殺?」
「他殺で間違いないそうだ。現場を見てみれば分かる」彼は車を見た。
「でも、一体誰が?」
「さぁな、死後1、2週間は経っていたようだ。車のトランクにカメラの機材が積みっぱなしになっていたから、もしかすると最初の事件が起こったすぐ後に、殺害されたのかもしれないな……。これで事件が振り出しに戻っちまった」
最初の事件、渡辺悠一と古谷明美が殺された直後という事か、私達の捜査は無意味だったのか……。私は頭を切り替え、事情聴取を受けている老人に目をやった。
「通報したのがあの、お爺さん?」
「ああ、そうだ。この辺一体の地主で、山の見回りをしている最中に発見したそうだ。こんな山奥、誰も入らないからな」
まだ昼間だというのにこの場所は薄暗い。そもそも気味が悪い。普通の人間はこんな所に立ち寄らないだろう。
「ありがとう。私は聞き込みに回るわ」
彼に礼を言うと私は車に戻った。あまりこの場所に長居したくない。
「中野、車を出して。周辺住民に聞き込みに行くわよ」
私は悪路に揺れる助手席に座りながら考えていた。じゃあ、誰が犯人なの……。
神岸綾人が遊園地の帰りに刀を持った男に襲われてから数日が経過した。
犯人と思われていた男が死体となって発見された。僕はその報道を遊園地から帰宅した後に知った。つまりあの時、僕を襲った男が真犯人という事だろう。しかし、そんな事が分かった所で僕にはどうする事も出来ない。あの時、あんこさんがいなければ僕は死んでいた。また襲われるかもしれないという不安もあるが、日常という時間の流れが僕の不安を徐々に忘れさせていった。
僕は代わり映えのない日常を過ごしていた。だが、少しだけ変わった事がある。笹森さんとの関係だ。以前よりも親しくなったと思う。二人で話す機会が増え、帰り道を途中までだが一緒に帰るようになっていた。
教室内は期末テストが終わった安堵感と冬休みへの期待感で浮き足立っていた。
僕はつい先程まで雛山の愚痴を聞いていた。藍原さんが今度はクリスマスパーティーを開こうと息巻いているらしい。『神岸君と莉緒にはまだ秘密にしておいて』と、雛山は藍原さんから釘を刺されたらしいのだが釘の数が足りなかったのだろう、僕の知る所となった。
隣の席に座る、笹森さんの準備が終わったようだ。
「待たせてゴメンね、神岸君。じゃあ、帰ろう」
僕は笹森さんと並んで歩く。時折、強い風が吹いて笹森さんのマフラーが風になびいた。
「もう、今年も終わっちゃうね」
「そうだね。時間の流れが早く感じるよ」
「神岸君。それじゃ、オジさんみたいだよ」
笹森さんは笑った。そして、思い出したように手を叩いた。
「あっ、そうだ。芹那ちゃんがクリスマスパーティーを開こうとしているって本当?」
どうやら笹森さんにも情報が漏れているようだ。
「直接は聞いてないけど、雛山が愚痴っているのは聞いたよ」
「アハハ、そういう隠し事っていつも雛山君がバラしちゃうよね。雛山君って芹那ちゃんの事、好きなんだよね?」
「えっ! そうなの?」僕は驚いた。
笹森さんは失敗したという表情をしている。雛山とは高校からの付き合いだが、全く気付かなかった。
「これは私の勝手な憶測だからね。雛山君って、芹那ちゃんにだけは何だかんだ言って優しいの。芹那ちゃんを大切にしているっていうか……」
僕のイメージでは兄妹喧嘩の末、雛山が折れるという風に見えていたが、笹森さんには色恋沙汰に映るようだ。そんな話をしているといつの間にか笹森さんと別れる場所に着いてしまった。
「あのね、神岸君。もう少し付き合ってもらってもいい? 実は、新しい手袋を買いたいんだけど……」
笹森さんは上目遣いで僕を見た。寄り道して遅くなるのは危ないが、少しぐらいなら良いだろう。僕は頷いて返事をした。
雑貨屋の店内で笹森さんは手袋を見比べている。僕はその後ろ姿を眺めていると、突然声をかけられた。
「すみません……」
控えめな声に反応して僕は後ろを振り返る。F高校の制服だろうか? 見知らぬ女性が立っていた。
「間違っていたらごめんなさい。もしかして神岸綾人君ですか?」
「はい。そうですけど……」
「やっぱり神岸君! 私、長谷川愛。小学生の頃よく遊んでた……」
「もしかして……、アイちゃん?」
「良かった。やっぱり神岸君だったんだ」
長谷川愛は胸に手を当て、ため息をついている。僕は思わず昔のように彼女の名前を呼んでしまい、少し気恥ずかしくなった。僕は誤魔化すように話を続けた。
「久し振りだね、何年ぶりだろう」
「実はね、この間、渡辺君に献花してる時にすれ違ったんだ」
思い出した。あの時、すれ違っていた。僕が長谷川愛との再開に盛り上がっていると、笹森さんが尋ねてきた。
「神岸君、こちらの方は?」
「そうだ、丁度いい。彼女は長谷川愛さん。小学生の頃よく遊んでいて、あの写真にも写っていた女の子だよ」
僕が答えると笹森さんは少し緊張した表情で長谷川愛に会釈した。
「長谷川さん、実は聞きたい事があるんだ。笹森さんのお姉さんについてなんだけど……」
「昨日会ってたけど、どうかしたの?」
僕と笹森さんは驚いて顔を見合わせた。僕は長谷川愛に事情を説明した。
「恭子の妹……、行方不明になっていたなんて知らなかったわ。恭子からそんな話、一言も聞いていなかったから。ちょっと待ってて、今連絡してみるから」
長谷川愛はバッグから携帯電話を取り出すと電話を掛けた。
「出ないわね……。でも、恭子にも何か事情があると思うの。だから私からそれとなく聞いてみるわ。恭子と連絡が取れたらちゃんと伝えるから電話番号、教えてもらってもいい?」
笹森さんは長谷川愛と連絡先を交換した。
「あと、神岸君の番号もいい?」僕も連絡先を交換した。
長谷川愛は僕らと連絡先を交換すると帰っていった。思いがけず、笹森恭子の行方を知る人物が現れた。これで笹森さんもお姉さんと再会できるだろう……。
岩永未緒はデスクの上に山積みになった過去の捜査資料を改めて読み直していた。
犯人と思われていた男、木村信敏は死体となって発見された。木村は司法解剖の結果、刀で刺し貫かれた傷跡が複数あった事から、死因は出血性ショック死と判断された。明らかな他殺だ。渡辺悠一と古谷明美が殺害された翌日に、何者かによって殺害されたようだ。
車の中から発見されたカメラを調べた所、渡辺悠一と古谷明美が殺害された時間帯に撮影されたと思われるデータが残っていた。データを確認した所、事件に関係のありそうな写真は3枚だけだった。赤ら顔で通りを歩くサラリーマンの二人組、酔っぱらいを注意するため見回りをしていた警察官、そして渡辺悠一と古谷明美の写真だ。木村はマンションの前を通行する人を全て写真に収めていたのだろう。それ以外は三原真紀を盗撮した写真ばかりだった。
新たに見つかった写真の人物や事件の関係者等を再度洗い直しているが、真犯人の情報は何も掴めぬまま数日が経過した。捜査は行き詰まりを見せていた。
私が半分ほど資料を読み終えた所で声をかけられた。
「岩永さん、先に上がります」
同僚の声に顔を上げ、大きく伸びをする。
「おつかれ」
時計を見ると九時を過ぎていた。そろそろ帰るか……。残りは家でも出来る。私は捜査資料をバックにしまうと席を立った。自宅へ戻るのも久し振りだった。
帰宅途中、夕食を食べていない事を思い出した。コンビニに寄ってお弁当を買う。
私はリビングの明かりを付けると買ってきたお弁当をテーブルの上に置き、エアコンのスイッチを入れた。冷えきった体を温めるためすぐにお風呂に向かう。
風呂あがり、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ戻る途中、アー君の部屋から明かりが漏れているのが見えた。
私はお弁当を電子レンジに入れると冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ソファに腰掛けた。ミネラルウォーターを一口飲み、バックから持ち帰った資料を取り出した。
事件は振り出しに戻った。だが、今までの捜査は無駄では無いはずだ。何か見落としている事があるかも知れない、だから最初の事件から振り返っていたのだが……。
最初の被害者である渡辺悠一と古谷明美が殺害された時、血痕の付いた黒いジャンパーを着た男の目撃証言が多数あった。しかし、それらは全て木村の目撃証言だった。その木村は翌日、殺害された。二人目の被害者、黒岩千織に関しては誰も犯人の姿を目撃していない。そして、三人目の被害者はアー君と学校に勤務する教師だ。アー君は唯一、犯人を目撃しているのだが顔をマスクで覆っていたため、素顔は分からない。
事実上、犯人を目撃した人物はアー君しかいない。他の目撃証言は全て木村のものだった。なぜ、犯人の姿を誰も目撃していないんだ? それに犯人の目的も分からない。なぜ、高校生ばかりを狙うのか?
私はお弁当を食べ終えるとソファに横になった。資料の文字があまり頭に入ってこない。残業続きで疲労が溜まっているせいか睡魔が……、いつしか私は眠ってしまった。
神岸綾人は自室であんこの遊びに付き合っていた。
未緒さんが帰ってきた事に気付いたのだが、時間も遅かったのでそのまま眠る事にした。あんこさんも眠そうに欠伸をしている。僕は明かりを消すため立ち上がると携帯電話が鳴った。携帯電話の画面には長谷川愛と表示されている。
「もしもし、神岸君?」
電話越しに、車の通り過ぎる音が聞こえた。どうやら彼女は外にいるようだ。
「ごめんなさい、恭子とまだ連絡が付いてなくて。今、恭子の家に向かっているの。こんなに長く連絡が付かないなんて事、普段ないんだけど……。渡辺君と黒岩さんの事があったから心配で……」
渡辺君と黒岩さん? 渡辺君は渡辺悠一の事だろう。
「黒岩さんって、二人目の被害者の?」
「そうか、神岸君は中学が別だったから知らないよね……。野崎千織さんのご両親が中学の時に離婚されて彼女、苗字が黒岩に変わったの」
野崎千織……。子供の頃の写真にも写っていたあの少女だ。
「千織さんはそのせいか分からないけど、中学の時とても荒れていたの。高校は別になったから私も最近の様子は知らなかったんだけど、この間ニュースで知ったの。それで今、恭子の家に向かっているんだけど会えたら直ぐに知らせるから……」
「こんな夜中に出歩くのは危険だ。戻った方がいい」
「今、駅前だけどまだ人通りもあるから大丈夫、安心して。あと、莉緒さんにも連絡しておいたから」
そう言って電話が切れた。僕は携帯電話を握りしめ、立ち尽くしていた。
「どうした主よ?」あんこさんが僕の様子を見て声をかけた。
「あんこさん。お願いがあるんだ……」
僕は着替えを済ませると部屋を出た。リビングを覗くとソファに横になり、眠っている未緒さんの姿が見えた。床に何かの紙が散乱している。
「未緒さん、こんな所で寝ると風邪引くよ」声をかけるが起きる気配がない。
酷く疲れた顔をしている。僕は毛布を未緒さんの上にそっと掛けると、足元に散乱していた紙を拾い始めた。紙には手描きのメモがビッシリと書き込まれていた。
どうやら今、捜査している事件の資料のようだ。本来、見てはいけないのだろうが否が応でも視界に入ってしまう。僕は資料を揃え終えると、明かりを消して部屋を出た。
そういう事だったのか……。僕は自転車に跨ると暗い夜道を駈け出した。
あんこは夜の街を駆けていた。道ではなく民家の屋根や、ビルの壁面を走っている。数分で駅前に到着すると路地裏に降り立った。あんこは周囲を見渡すとため息を付いた。
「主から直々の頼みだ、断るわけにもいかないな……」
あんこの主である神岸綾人は全て自分で抱え込む癖がある。それは決して悪い事ではない。物事に誠実に向き合うが故、人を頼れないのだろう。
だが、抱え込む物が増えればいずれ潰れてしまう。
そう、だから主の真の頼みは断る事が出来ない。ただ、潰すには惜しい男だ。
「こんなに良く出来た飼い猫は他にはいないぞ……」そう呟いてあんこは闇夜に消えた。
10
一人の少女が夜道を歩いている。周囲に人影はなく、民家から漏れる明かりと薄暗い外灯だけが少女の行く道を照らしていた。少女は外灯の下に佇む、一匹の猫を見つけた。猫は人に慣れているのか、逃げるそぶりも見せない。徐々に猫と少女の距離が縮まる。
少女は猫の前に屈むと手を近づけ、頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めた。
「お前は一人なの?」
猫は無言のまま頭を撫でられている。すると少女の視界が大きな影で覆われた。少女が後ろを振り向くとビニール袋で顔を覆った男が立っていた。手には刀が握られている。男の血走った目と少女の目が合う。男は無言のまま握った刀を振り下ろした。
「早く逃げろ!」
少女が目を開けると眼前に刀が見えた。いつの間にか横に女性が立っている。女性は男の刀を掴んで止めていた。少女はその場から抜け出すと、全力で走りだした。
長谷川愛が逃げたのを見てあんこは男に言った。
「また会ったな、今度は逃がさん!」
あんこは握った刀をへし折ろうと力を込めた。瞬間、男は隠し持っていた鞘を左手に握ると、あんこの眼球目掛け突き立てた。あんこはその一撃を既の所で躱し、刀を離すと男と距離を取った。間合いは三間、あんこであれば一瞬で詰められる距離だ。お互い睨み合うように対峙する。男は微動だにせず刀を構えている。
張り詰めた空気の中、あんこは体の力を抜いた。右手を開き、指を軽く曲げ腕の力を抜いてブラブラと振っている。弛緩しきったあんこの行動に男は何かを感じ取ったのか、刀を握る手に力を込めた。
その刹那、あんこは距離を詰めた。人が視認できる早さではない。あんこの右手から繰り出された掌底が無防備な男の脇腹を捉え、体がくの字に曲がる。しかし、あんこの一撃はそれだけではなかった。男の脇腹にめり込んだ掌底の爪をめり込ませ、肉を引き裂いた。虎の爪痕のように抉られた男の脇腹から鮮血が飛び散る。
だが、男はその怪我を気にする素振りなど見せず刀を振り下ろした。あんこは体を大きく捻り、その一刀を躱した。
効いていない……? それならもう一発。
刀を振り下ろした男の顔に握り込んだ左拳を放つ。男はふっ飛ばされ、ゴミ置き場の中に倒れた。辺りにゴミ袋や古雑誌の束が散乱する。
「ハァ、ハァ」あんこの息が上がる。
普通の人間であれば起き上がれんはずだが……。
男を見るとゴミの中からゆっくりと立ち上がった。
解せない、なぜ立ち上がれる?
男の脇腹は赤く染まり、歩く度に血が零れ落ちる。男は再びあんこに斬り掛かってきた。
「ハァ、ハァ」
既に何度目だ? 倒れても、倒れても、男は起き上がる。男の剣戟を躱すあんこの動きにも余裕が無くなってきた。男の顔を蹴り上げ、間合いを取る。
男は首を一度捻ると再び構え、あんこと向かい合う。
どうやらこの男、痛みを感じていないようだ。妖刀の力を体現しているのだろう。
追い詰めていたつもりが逆に追い詰められていた。こっちの体力が持たない。
あんこの体に付けられた無数の傷跡からじわりと血が滲む。致命傷に至る一撃は貰ってはいないが傷が増える度、体の違和感が増していく。
その時、あんこの耳に聞き覚えのある音が聞こえた。主が自転車を漕ぐ音。そしてもう一つ、聞き覚えのある足音がこちらに向かって駆けてくる。あんこは思わず振り返ると怒鳴りつけた。
「こっちに来るな!」
その瞬間、あんこの腹に鈍い痛みが走る。見ると、ナイフが突き立てられていた。
「何で、お前が……」
あんこは薄れゆく意識の中、声を聞いた。
「山の頂にある廃寺に神岸綾人を連れて来なさい。長谷川愛はそこで殺すから……」
あんこは意識を失った。
神岸綾人は自転車を必死に漕いでいた。家を出てからどれだけ時間が立ったのかも分からないが、とにかく急がなくては……。火照った体から湯気が立つ、人通りの少ない細い路地を幾つも巡る。
あんこさんが心配だった。彼女の能力を持ってすれば負ける事はないと思う。だが、それは一人であればの話だ……。その時、道路の先に倒れている一匹の猫を発見した。
「あんこさん!」
自転車を乗り捨て、急いで駆け寄る。小さな血溜まりの中にあんこさんは目を瞑り倒れていた。血溜まりに膝を付いて声をかける。
「あんこさん、死んじゃ駄目だ!」
「五月蝿い。生きている……」
あんこさんの返事を聞いて少し安心した。憎まれ口を聞けるという事は大丈夫だろう。
しかし、あんこさんは苦しそうに息をしており、腹に深い傷跡が見えた。
僕はあんこさんを抱き上げた。体が冷たい。僕は首に巻いていたマフラーをあんこさんの体に巻いた。
「すまん、逃げられた」あんこさんは弱々しく答えた。
「そんな事より、この怪我を……」僕は近くにある動物病院を考えた。
「大丈夫だ、血は足りないが休めた。それより急ぐぞ、女が拐われた。廃寺に来いとぬかしおった」
長谷川さんが拐われた? 状況は最悪だ。手負いの猫と普通の高校生が一人、更に人質まで取られている。
「どのくらい前の事?」
「さあな……、分からん。だが、悠長に喋っている暇は無いぞ」
警察に通報したとしても状況を説明するのが難しい。たとえ信じてくれたとしても到着を待っていれば人質が殺されてしまう可能性がある。だが、このまま僕らが乗り込んだとしても皆殺しにされるだけだろう。時間はない……。
「分かった、行こう」僕は覚悟を決めた。これで終わりにしよう。
しかし、あんこさんは未だに苦しそうに息をしている。僕は保険を掛ける事にした。
「あんこさん、ちょっとだけ手伝ってね」
岩永未緒が目を覚ますと視界が暗闇に覆われていた。ぼんやりとした頭が覚醒すると、ソファの上で寝てしまった事に気が付いた。
毛布の隙間から手を伸ばしてテーブルの上に置いてある携帯電話を取る。時間を確認すると十二時を過ぎていた。気怠い体を起こし、照明のスイッチを付けに行く。部屋に明かりが灯ると違和感に気付いた。テーブルの上が片付いている……、それに毛布。アー君か、気付かなかった。
側に置いてあったミネラルウォーターを一口飲む。ソファに腰かけると捜査資料が目に入った。読んでいる途中で寝たのか……。
ため息を付きながら捜査資料を手に持った瞬間、一つの疑問がわいた。
「アー君に気付かなかった……?」慌てて手に持った捜査資料を捲り、読み直す。
そうだ。この事件、当初は目撃証言から木村の犯行と思われていた。だが、実際は違う。別の人間による犯行だった。なぜ、誰も本当の犯人を目撃していなかったのか?
それがもし、犯人と思えない人物だったら……。資料を捲る手が最初の事件のページで止まる。そして木村が残した写真。
私は確認のため携帯電話で中野に連絡を入れた。
「もしもし、私だけど」
「岩永さん、お疲れ様です」当直勤務中の中野が眠そうに返事をした。
「ごめんなさい。ちょっと調べてもらいたい事があるの」
「別に構いませんけど、明日じゃ駄目なんですか?」
「忙しいならいいのよ……。ちょっと急に気になったから」
「大丈夫ですよ、寧ろ暇ですから。で、どんな事ですか?」
「悪いわね、木村が持っていたカメラから現像した写真があったでしょ。その写真に写った警察官の勤務記録が知りたいのよ」
「勤務記録ですか? あっ、すいません。ちょっと折り返しでいいですか?」
「ええ、構わないから」
何かあったのだろうか? 携帯電話を握りながら待っていると中野から連絡が来た。
「すいません。それで何の用でしたっけ?」
「ええ、勤務記録を調べてもらいたかったんだけど……。何か事件でもあったの?」
「もしかしたらイタズラ電話かも知れないんですけど女性の声で一言だけ、助けてって聞こえたんですよ。公衆電話からなんですけど、受話器を下ろしていないようで……」
「念のため現場に人を向かわせた方がいいわよ。場所はどの辺?」
「廃寺の側にある公衆電話です」
廃寺と言うと、この街に一箇所しかない。山の上にある寺の事だろう。
「岩永さん、すいません。勤務記録は明日でもいいですか?」
「ええ、ごめんなさい。仕事の方を優先して」
どうも胸騒ぎがする。私は電話を切り、着替えると家を出た。
神岸綾人は山の頂にある廃寺へと続く石段を登っていた。
この場所にはあまり良い思い出がない。中学生の時に一度だけ登ったが、それ以来この廃寺に近づいた事はない。石段を登り終え、境内へと辿り着いた。朽ち果てた寺の軒先に長谷川愛が横たわっているのが見えた。どうやら無事なようだ。僕は叫んだ。
「隠れてないで出てきなよ。笹森さん!」
廃寺の中から笹森莉緒が警察官の制服を着た男を引き連れて現れた。男の脇腹からは血が溢れていた。彼女は普段と変わらない様子で近づいてくる。
僕は彼女と、その後ろに幽鬼のように立つ男と向かい合った。
「気付いていたのね、神岸君。あんまりにも遅いからもう少しで殺しちゃう所だった」
彼女は長谷川愛を一瞥すると、微笑みながら答えた。
「間に合ってよかったよ。あまり体力がないから石段がきつくてね……」
僕は一息付くと話を続けた。
「流石に可怪しいと思ったよ。被害者は全員、僕の友達なんだから。後ろの人は君のお父さん? 警察官をしているって言ってたよね」
「あら、以外に賢いのね」彼女は目を細めてこちらを眺めている。
「警察官であれば殺人事件の起こった現場にいたとしても怪しまれる事はない。渡辺悠一と古谷明美が殺された現場に君もいたんだろう。君は返り血で汚れた制服の回収と、新しい制服を渡すために隣の病院に隠れていた。だけど、病院にはもう一人忍び込んでいる人物がいた。それが写真を撮っていた男だ。多分、君の方が先に男の存在に気が付いたんだろうね。だから囮に使う事を思いついた。写真を撮っていた男は盗撮をするために、あの病院に忍び込んでいたんだ。だから人が死んでいたとしても警察に通報する訳にはいかない。それを知った君は更に疑いが掛かるようにするため、ストーカー被害者の女性に男の代わりに脅迫状を送った」
何が面白いのか分からないが彼女は笑っている。
「二人目の被害者、黒岩千織……。彼女を殺した時も同じだ。返り血を浴びた服を回収するためと、黒岩千織を引き止めるために君はあの場所にいたんだ。黒岩千織のバックがベンチの上に置かれていたようだね。日が暮れた公園のベンチに用もなくバックを置く事は多分ないだろう。誰かがいて話をするため、腰掛けたんだ。黒岩千織は君が引き止めている間に背後から襲われた……、全て憶測だけどね。ああ、そうだ。僕が襲われた時の話は……、別にいいか」
「へぇ、すごいわね。確かにそうよ。じゃあ、いつ、私が事件に関係しているって気付いたの?」
「僕が襲われた時だよ。あの日、僕は宿題のプリントを君の家に忘れたよね。僕は子供の頃からあまり忘れ物をしない子だったんだ。ましてや、一度も鞄の中から取り出していないはずのプリントを忘れるなんてあり得ないからね。そうすれば、学校と遊園地の帰り道に襲われた事にも説明がつく。僕が学校で襲われていた時に電話を掛けてきたのも君だろう?」
彼女は笑いながら拍手をした。
「神岸君の言う通り、正解よ。神岸君も早い内に殺そうと思っていたんだけど、上手く行かなくて……。でも、これでようやく終わり」
「なんで僕の友達を殺したんだ?」
「答えとしては、単に私の個人的な恨みを晴らすために殺した。と言う事かしら」
彼女は能面の様な表情で淡々と答えた。
「どういう事?」
「行方不明の姉を探している、というのは本当の事。その理由があなた達を殺す事と繋がるの。私達姉妹は双子で生まれた。姉は先に産道から出てきただけなのに、とても大切に育てられたわ。ほんの少し後から生まれた私は忌み子として扱われた。母からは疎まれ、父からは見捨てられて育ったの。全てアイツが先に生まれたからって理由でよ! だから姉が大事にしていたモノは全て許せないの、ちゃんと壊さないとね」
満面の笑みで自らの出自を語る彼女は異常だった。
僕はこの事件の原因について尋ねる事にした。
「妖刀はどこで手に入れた?」
彼女は目を大きく見開いて僕を見た。
「そんな事まで知っているなんて……。神岸君、何者?」
「もうすぐ殺される学生だよ」肩を竦めて返事する。
彼女は笑みを浮かべ、後ろに立つ男を睨むと語りだした。
「以前、住んでいた家には蔵があってね。もうボロボロで、いつ崩れてもおかしくなかったわ。私の部屋はその蔵の中でね、冬になると隙間から風が吹き込んでとにかく寒かった。だから何か暖を取れるものがないか探していたら偶然見つけたの、この妖刀を……。あとは簡単、父にこの妖刀を握らせて家族を皆殺しにしてやったわ。そして最後に姉を殺そうと思ったらどこにもいなくなっていたの。どんなに待っても姉は帰ってこなかった。一番殺したい人間がいないのよ。酷いと思わない?」
彼女は僕を睨みつけると続けた。
「姉はいつも、いつも、いつも、いつも、贔屓されていた。私がご飯を捨てられて泣いている時も、母親から殴られて泣いている時も、姉はいつも、いつも、いつも、いつも、贔屓されていた……。そんな一番殺したい人間がいなくなったのよ。ズルいわ! 姉ばかり贔屓されて。でも、今日でもう終わり、姉の居場所も聞き出せたし……。あとは姉を殺すだけ、でもその前に神岸君も殺さなきゃね!」
彼女は話を終えると、微笑んだ。
「君の出自に同情はするけど、理解は出来ないね」
「同情も理解してもらう必要もないの。神岸君はここで死ぬから」
彼女が目で男に合図をすると、ゆっくりと歩き出した。
時間稼ぎもここ迄か、仕方がない、僕は大きな声で叫んだ。
「ごめんね、あんこさん!」
境内に僕の声が響いた。すると廃寺の屋根からマフラーを腹に巻きつけた猫が飛び降りた。猫は空中で人の姿に変わると刀を握る男に飛びかかった。
あんこは屋根から跳躍した勢いを付け、男に蹴りかかった。
男は左手一本で飛び蹴りを防いだがバランスを崩した。あんこはそのまま後ろに大きく飛び退くと主の前に着地した。男は怪我の影響があるのか万全ではないようだ。しかし、あんこも同じく力が落ちている事を痛感していた。
自分の体が最悪な事は理解している。満身創痍、長くは持たん。
「あなた、まだ生きていたの?」笹森莉緒はあんこの存在に動じる事なく問いかけた。
「よく喋るアマだ。憐憫の情も失せる」
「哀れみなんて始めから求めてないもの。殺せ」笹森莉緒は男に命じた。
男は笹森莉緒の言葉に反応するように腰へ手を伸ばし、拳銃を取り出すと躊躇なくあんこに向けて引き金を引いた。あんこは首を曲げ弾丸を躱すと、続けざまに放たれた二発目の弾丸も同じように躱した。
「やはり、あなたも普通の人間じゃないようね」笹森莉緒は驚愕の表情を浮かべている。
あんこにとっては造作も無い事だった。向けられた銃口の位置から顔を狙っているのは明白だったので、後は男の指の動きに合わせて顔を傾けるだけで済む。
笹森莉緒は忌々しげにこちらを睨んでいる。ころころと表情を変えて忙しいアマだ。
男は拳銃をしまうと刀を構えた。先程は油断をしたが笹森莉緒も敵だ。二人がかりで責められれば不味いと思っていたが、余裕の現れなのか男一人に戦わせるようだ。
ならばこちらにも勝機はある。妖刀の力で痛みを消しているのであれば、その元を断てば終わる……。
あんこも同じく男と対峙する。先に動いたのはあんこだった。動いたと言ってもその姿を捉えられる人間はその場には誰もいない。男との間合いを一瞬にして詰めると、あんこの猛攻が始まった。
右の拳が男の顎を捉え、続けざまに鳩尾と脇腹に左拳を浴びせ、肘を使い顔面を強打する。それらの猛攻を受けた男の両手が下がると、あんこの回し蹴りが首を刈った。
痛みは感じないとしても狙った部位は全て人体の急所だ。多少の時間は稼げたはず。
あんこは倒れ込んだ男には目もくれず、笹森莉緒に飛びかかった。
本命はこちらだった。操縦する人間がいなくなればこちらは木偶の坊だ。
呆然と立ち尽くす笹森莉緒の首にあんこの手刀が伸びたその時、金属の擦れる音が聞こえた。あんこはその場から大きく飛び退く、すると銃声と共に笹森莉緒の後ろにそびえ立つ木に穴が開いた。男は立ち上がると笹森莉緒を守るように前に立った。
あと一歩の所を……、邪魔な飛び道具だ。やはり男の方からか。
あんこは右手を開くと指を軽く曲げ、腕の力を抜いてブラブラと振り始めた。
先ほど男の脇腹を抉り取った時と同じ動き、中国武術でいう虎爪の手型をしている。
しかし、先程のような早さでは動けないだろう。狙いは一つだ。
男はその様子から必殺の一撃が繰り出される事を感じたのだろう、迎撃の体制に入る。
あんこはニヤリと笑うと渾身の力を込め、男に飛びかかった。幾分かスピードは落ちているがこれで充分だ。
あんこの右腕から繰り出された掌底は男の体を捉える事なく空を切った。男はその右腕を縫うように喉笛目掛け、切先を突き出してきた。しかし、あんこの狙いはここからだった。掌底が見切られる事など百も承知、あんこは左手を開くと切先に翳した。
刀で貫かれた左手に激痛が走る、刺し貫かれた切先はあんこの喉元で止まった。男はすかさず鞘をあんこの眼球に向けて突き立てた。
先程と同じ流れの行動、あんこは刺し貫かれた左手の刀を握り込むと男を引っ張った。男はバランスを崩し、鞘の軌道が下に逸れた。鞘はあんこの口元に向かって来る。瞬間、あんこは鞘を歯で受け止めると、噛み砕いた。
「ペッ!」口の中から木片を吐き出す。
あんこは刀を折るため握り込んだ左手に力を込めた。これで終わりだ。
その瞬間、周囲に炸裂音が響いた。
「なん、だと……」あんこの驚きの声が漏れる。
男の脇腹から新たな鮮血が噴き出している。あんこの脇腹にも同じく風穴が開いていた。
男越しに撃ったのか……。
男の後ろに立っている笹森莉緒の手には拳銃が握られていた。
男は怪我を気にする様子もなく、あんこの左手に突き刺さった刀を一気に引き抜いた。
「ぐっ……」短い呻き声を上げ、あんこは腹ばいに倒れた。
神岸綾人は呆然と立ち尽くしていた。一瞬の事だった。
あんこさんが男の刀を左手で受け止め、突き出された鞘を噛み砕いた時だった。後ろに立っていた笹森さんが男の腰元から拳銃を引き抜き、そのまま引き金を引いた……。
男の体を貫通した弾があんこさんに直撃したのだ。僕があんこさんへ駆け寄ろうとすると男が立ちはだかった。足元に倒れたあんこさんが苦しそうに息をしている。
「残りの弾はあと一発? なら、無駄には出来ないわね」
笹森さんが男に銃を返している。残るは僕一人、銃を使うまでもないという事だろう。
僕は喧嘩すらまともにした事がない。その上さらに相手は武器まで持っている。分が悪すぎる事は承知の上だが、やるしかない。
境内が静寂に包まれる。自身の鼓動がハッキリと感じられた。
ふと、男の後ろにそびえ立つ大木が目に付いた。この廃寺とは縁がある。しかも悪い縁だろう。昔、自分の命を無下に捨てようとしていたのに僕だけがこうして生き延びている。僕より前途のある人達は自身の意思とは関係なく殺されてしまった……。
無意味に生き続けている僕の命に何か意味はあるのだろうかとずっと考えていたが、自分なりの結論をようやく見つける事が出来た気がする。
生きている事に意味など無いのだ。生きる事の意味など、全て後付の理由でしかない。単に死ぬ事が出来ないから生きているだけなのだ。
僕はロープを首に巻き、後は飛び降りるだけという状況で死ぬ事が出来なかった。今、思うと怖かったのだ。だが、分かった事がある。死、自体に恐怖はない。
僕が死ぬ事で悲しむ人や迷惑をかける人達がいる。その人達の思いが恐ろしいのだ。
これが恐怖の正体だろう。そして、僕が自殺する事が出来なかった理由だ。
今はどうだろう。この状況がとても恐ろしい。だが、自殺しようと考えていた時よりも怖くない……。いつの間にか緊張が解れて体が軽い。
「主よ。逃げろ!」
静寂を破るようにあんこさんの声が境内に響いた。男の足に抱きついている。
「あんこさん! 今からそいつを倒すから安心して。そしたらまた、ピカピカで遊ぼう」
僕は全力で男に向かって走った。男はあんこさんを振り払うと刀を上段に構えた。僕は気にする事なくスピードをあげる。そして、刀の間合いに入った瞬間……。
僕は呆気なく斬られた。
岩永未緒は路肩に車を停めると外に出た。深夜の冷たい空気が体を一瞬にして冷やす。近隣を回り、電話ボックスを探していたがようやく見つけた。
受話器が外れ、下に垂れているのが見える。多分、この公衆電話で間違いないだろう。周囲には誰もいないようだ。明かりの灯る電話ボックスへ近づいた。
私の嫌な予感は的中したようだ……。
電話ボックスの足元には血溜まりがあった。まだ乾いていない……。
持参した懐中電灯で周囲を照らすと血痕が点々と続いているのが見えた。その時、車のエンジン音が聞こえた。顔を上げると1台のパトカーが停車した。降りてきた警察官が私に声をかけた。
「あなたが通報された方ですか?」
「いいえ、同業よ」そう言って私は警察手帳を見せた。
そんな事より急がなくては、私は簡単に事情を説明すると血痕を辿り始めた。
11
神岸綾人は袈裟に一太刀、そして返す刀で胴を薙ぎ払われた。激しい衝撃が体を走る。
僕はそのまま倒れ込んだ。そして、男も一緒に倒れた。
「ビックリした、死ぬかと思ったよ」僕はあんこさんに声をかけた。
「無傷の人間が何を言っておる」
僕が起き上がると服の下に仕込んでいた分厚い雑誌が腹から落ちた。あんこさんが倒れていた現場に散乱していた古雑誌を拝借し、防刃対策に仕込んでいたものだ。
僕はあんこさんに手を貸すと起き上がらせた。あんこさんの右手にはスタンガンが握られている。僕が斬り伏せられた時、袖の下に隠し持っていたスタンガンをあんこさんへ落とした。それを掴んだあんこさんが男にスタンガンを押し当てたのだ。
賭けだったが上手くいった。痛みを感じない体だとしても、脳の命令を乱して動かせなくなってしまえばどうする事も出来ないだろう。倒れた男は足元で体を痙攣させていた。
「こんなに楽なら、借りておくべきだったな」
あんこさんは毒づきながら痙攣している男に近づき、妖刀を取り上げると叩き折った。
「本当に使えない男ね! 殺してやる……、皆殺しだ!」
笹森さんの叫び声が境内に響き渡った。彼女は地団駄を踏みながら鬼の形相で僕らを睨んでいる。彼女は隠し持っていたナイフを取り出すとあんこさんに斬り掛かっていった。
「うるさいアマだ。黙ってろ」
あんこさんは面倒臭そうに笹森さんを殴り飛ばした。多分、手加減はしているだろう。僕は軒下に倒れている長谷川さんに近づいた。
寝息が聞こえる。良かった……、無事だ。
「疲れた、早く帰るぞ」
あんこさんに声をかけられ僕は振り向いた。あんこさんは傷が痛むのか少し苦しそうな表情をしていた。
「早く病院に行かな……」
僕の声を遮るように嘔吐する音が聞こえた。笹森さんが膝を付いて口元を抑えていた。何かを大量に吐き出している。僕はどうすればいいか分からず戸惑っていると、彼女が立ち上がって僕らの方を向いた。すると、彼女は盛大に吐血した。
「えっ……」僕は驚いて目を見張る。
彼女の上半身は口から溢れ出た血で染め上げられ、真っ赤だ。
彼女は顔を歪めながら喉の奥に手を入れ始めた。僕は心配になり、彼女に近づこうとするとあんこさんに止められた。
「待て。よく見ろ、アイツの口元を……」
僕は笹森さんを改めて見た。彼女は口の中に手を突っ込んでまるで何かを引っ張るような動作をしている。声にならない嗚咽が聞こえる。そして、彼女は天を仰ぐと喉の奥から何か黒い物体を引きずり出した。ズルズルという音と共に勢い良く彼女の体内から引きずり出されたそれは、刀だった……。
彼女は鞘から刀を引き抜くと僕らに顔を向けた。白目をむき、口元から溢れ出た血が顎を伝い垂れ落ちた。あまりの異様な光景に僕は息を飲んだ。
彼女は刀を引き摺りながら虚ろな様子で歩き始めた。僕らに向かって来る……。
「隠し持っていたのか……、体内に」あんこさんは僕を庇うように前へ出た。
「あんこさん、駄目だ!」
これ以上の戦いは危険過ぎる。僕はスタンガンを握りしめ、あんこさんの横に並んだ。
彼女の手に握られた刀が地面に触れ、境内にカラカラという音が響く。狙いは間違いなく僕らだろう。
「不味いな……」あんこさんはそう呟くと構えた。
その時、彼女は足を止め、手にした刀をその場で一振りした。刀に付着した血が僕らの方まで飛び散る。彼女はおもむろに刀を握り直すと地面に突き立てた。
「なっ……」あんこさんが驚きの声を上げた。
僕もその違和感に遅れて気付いた。
「体が、動かない……?」
何だ、これは? 両手両足がその場に貼り付けられたように動かす事が出来ない。
「まさか、具現させる程の力が……」あんこさんは必死で手足を動かそうと藻掻いている。
そんな僕らの様子など気にする事なく、彼女は歩みを進める。
彼女は僕の目の前に立つと無言のまま手にした刀を振り上げた。僕は目を瞑った……。
「やめろ!」あんこさんの叫び声が聞こえる。
次の瞬間、銃声が辺りに響いた。
「えっ……」
僕が目を開けると彼女の振り上げた刀が手から滑り落ち、地面に倒れた。
体が自由に動く……。その時、倒れた彼女の口元が動いた。
「殺してやる……」
彼女はその一言を呟くと動かなくなった。僕は状況が分からずあんこさんの顔を見る。
「人の理など知らん、自分で決めろ」あんこさんは男の顔を見たまま静かに答えた。
男の手には拳銃が握られていた。助けてくれたのか? だが、男の表情までは僕の視力では見えない。あんこさんに尋ねようとすると、パトカーのサイレン音が聞こえた。
僕が細工したあんこさんの血痕に気付いてくれたようだ。
「未緒の足音だ。それに……、他にもいるな。行くぞ、主」あんこさんは呟く。
「えっ、ちょっと待って」僕はあんこさんに抱え上げられると宙を舞った。
そして、僕らは廃寺を後にした。
境内に一人取り残された男は虚ろな目をして立ち尽くしていた。パトカーのサイレン音と石段を駆け登る、複数の足音が近付いて来るのが聞こえる。あまり時間は無いだろう。
今までの記憶が鮮明に蘇る。いつ、誰を、どういう風に殺したのか、あれは夢ではなかったのだ……。
すぐ側に折れた刀が落ちている。全ての原因はこれだ。だが、どれだけ言い訳しようと、どれだけ詫びようとも、もう元には戻らない。
――私が子供の頃、両親が交通事故で亡くなった。親戚の家に引き取られたが折り合いが悪く、高校を卒業すると同時に家を出た。警察官となった私は一生懸命、がむしゃらに働いた。そのお陰か上司に気に入られ、よく自宅へと招かれるようになり一緒に酒を飲むようになった。そこで紹介されたのが上司の娘だった。私はいつの間にか彼女の気立てに惹かれるようになり、それから数年後、結婚した。
家族となった私の身の上を案じ、入婿として笹森家に暖かく迎えられた。そして、2年目にようやく初めての子供を授かった。私と妻が両親に報告するとたいそう喜んだ。
十月十日経ち、ついに私達の子供が生まれた。双子の可愛らしい女の子だった。名前は既に決めていた。姉は『恭子』、妹は『莉緒』と。しかし、双子の誕生を喜んでいたのは私だけだった……。
妻が退院し、実家に戻ると長女は特に可愛がられた。初孫という事もあり、両親の寵愛を一心に受けてすくすくと成長していった。しかし、双子の妹だけは違った。愛情の注ぎ方に明らかな差がある。その事に気付いたのがこの時だった。
私は両親と妻に尋ねた。なぜ、娘達の扱いに差があるのかと……。
その返答に私は驚いた。
「忌み子に注ぐ愛情など無い!」
何を言っているんだ! 非科学的な、何の根拠もない!
私が何を言っても変わらなかった。次第に私は家庭の中に居場所を失っていった。職場にも上司である父がいる。もう、どこにも逃げ場が無かった。
それから数年後、私のストレスは限界を迎えた。絶望に苛まれた私は全てを諦め、この一族の因習に従うように自然となった。するとどうだろう。とても楽になったのだ。そうだ。私が悪いのではない。生まれてきてしまった娘が悪いのだ。自身にそう言い聞かせている内に何も感じなくなった。
喜び、怒り、悲しみ、そして楽しむ感情が消えた時、私は隷属するようになった。
そしてあの夜、私は自分の妻と両親を殺した。この刀で――。
男は笹森莉緒の死体の前に座ると、手にした刀を逆手に握り直した。
石段を登る足音が近い、もう迷っている時間は無いだろう。答えは決まっていた。
何の償いにもならない事は分かっている。だが、もう生きていく事には耐えられない。
男は自分の喉笛に折れた刃を突き立てた。
慙愧の念に駆られた男は狂気に囚われた娘を殺し、自害した。
石段を登り終えた岩永未緒は暗闇に包まれた境内を懐中電灯で照らした。
「遅かったか……」
目の前には血塗れの制服を着た男が座していた。喉から突き出た柄から血が垂れた。
死んでいる……。状況から見て、自害したのだろう。
男の側に、もう一人倒れている影が見える。少女のようだ。
「ひぃっ」
遅れてやってきた警察官が小さく悲鳴を上げた。懐中電灯の明かりが少女を照らす。
青白い顔をした少女は苦悶の表情を浮かべ、血溜まりの中に横たわっていた。
「ん?」
何かが光った。懐中電灯を向ける。何かが落ちている。
キーホルダー? 何でこんな所に……。
私が無言で佇んでいると後ろに立っていた警察官が尋ねてきた。
「救急車、呼んだ方がいいですかね?」
私はため息を付いた……。
12
神岸綾人はカーテンの隙間から漏れる日差しの眩しさに目を覚ました。
ベッドから起き上がろうとすると体中が痛む、特に太股が酷い筋肉痛だ。
昨日の晩、色々と無茶をしたせいだろう。
時計を見ると十時を過ぎていた。今日が日曜日で本当に良かった……。
安堵すると昨夜の出来事が頭をよぎった。部屋の中にはあんこさんの姿はない。
――あんこはさんは人気のない道路に降り立つと抱えていた僕を降ろした。あんこさんは膝を付いて苦しそうに息をしている。その姿は今にも消えてしまいそうな程弱々しい。
「早く病院に行かないと!」
暗闇の中、あんこさんの呼吸音だけが聞こえる。返事すら出来ないようだ。
あんこさんは『大丈夫だ』、と言って聞かなかったがやはりこの怪我では……。
僕は携帯電話を取り出した。こんな状態では病院に連れて行く事すら出来ない。
すると、あんこさんが立ち上がり僕を止めた。
「止めろ、人が診ても無駄だ」
あんこさんは人の姿をしているが、人ではない……。
「無駄って……。でも、そんな怪我じゃ……」
まただ……。また、僕だけが無事で僕なんかより大切な人達が犠牲になっていく……。
瞳から涙が零れ落ちた。僕に出来る事なんて他には何もない、無力だ。
あんこさんは僕の頭の上にそっと手を乗せると優しく撫でた。
「大丈夫だ、主よ……。傷が癒えたら戻る」
猫は死ぬ間際、飼い主の前から姿を消すという。
あんこさんは僕の涙を拭うと闇夜に消えた――。
僕は軋む体を起こしてリビングへやって来た。昨晩、僕が未緒さんに掛けた毛布がそのままソファの上に置いてあった。
昨晩、廃寺であんこさんは未緒さんの足音が聞こえると言っていた。となると未緒さんは徹夜で捜査にあたっているのだろうか?
僕は欠伸をすると遅めの朝食を食べるため、パンをトースターに入れた。そしていつもの癖で空の容器にあんこさんのエサを入れてしまった。
あんこさんは本当に戻ってくるのだろうか……? 僕はこれ以上、考えるのを止めた。
僕は遅めの朝食を食べ終えると家を出た。昨夜、笹森莉緒との会話の中で彼女は気になる事を言っていた。それを確認するためには笹森恭子に会って話を聞くしかない。
笹森恭子がどこに住んでいるのかは大体、見当はついていた。
外に出ると空が分厚い雲に覆われていた。雨が降りそうな嫌な天気だ。僕は傘を持つと歩き出した。足が痛い……。
僕は記憶を頼りに住宅街を彷徨い歩く。住宅街の奥に入るとようやく目的の家を見つけた。僕は『笹森』と書かれた表札の下にあるインターホンを押した。
暫くするとインターホン越しに女性の声が聞こえた。
「どちら様ですか?」
僕はどう答えたら分かりやすいだろうと考えていると、妙な間が空いてしまった。
「あの……、昔、同じ学校に通って、よく遊んでいた神岸綾人という者なんですが。笹森恭子さんはいらっしゃいますか?」
「神岸……君? ちょっとお待ちくださいね」
鍵の開く音が聞こえ、扉の奥から笹森莉緒と全く同じ顔をした少女が姿を表した。
「驚いたわ、お久しぶりね。神岸君」
笹森恭子はそう言って僕を招き入れた。玄関を上がるとリビングへ招かれた。部屋はがらんとしており、部屋の隅には段ボール箱が幾つも並んでいた。
「ごめんなさい、急に引っ越す事になって……。今、その準備をしていた所なの」
笹森恭子はキッチンから声をかけてきた。僕はテーブルの前に適当に腰掛けると詫びた。
「こちらこそごめんね。急に押しかけて」
「気にしないで、久し振りに神岸君に会えて嬉しかったから……」
彼女は紅茶の入ったティーカップをテーブルの上に置きながら答えた。僕はカップを持つと一口飲んだ。普段、紅茶を飲む事がないので何の味かはよく分からないが冷えきった体に温かい飲み物が有難かった。彼女と雑談をしつつ思い出話に花を咲かせる。
「でも、何年ぶりかしら。こうして神岸君と会うのも……。ねぇ、誰から私の住んでいる場所を聞いたの?」
「少し前に一度だけ来た事が会ってね。君の妹、笹森莉緒さんに案内されて……」
「どういう事? 私の妹は3年前から行方不明になっているのよ」
彼女は少し語気を強めて答えた。
「この家の2階には部屋が二つあるよね? 階段の側にあるのが君の部屋だ。じゃあ、その奥にあるもう一つの部屋は誰の物?」
彼女は気味の悪い物を見るような目で僕を見ている。
「奥の部屋は空き部屋よ。それより何で私の家の間取りを知っているの!」
僕は質問には答えず、持参した一枚の写真を彼女に見せた。遊園地で撮影した僕と笹森莉緒が並んで写っている写真だ。
「この写真には誰が写っている?」
「ふざけるのは止めて。神岸君しか写ってないじゃない!」
やはりそうか……、彼女も被害者だったのか。
「色々、変な事を聞いてごめんね。紅茶、ごちそうさま。美味しかったよ。最後に……、笹森莉緒は昨日、父親に殺されたよ」
「そう……。良かったわ、死んでくれて」そう言って笹森恭子は笑った。
表に出ると雨が降り始めていた。僕は持参した傘を広げた。
笹森莉緒と同様、笹森恭子の体内にも妖刀が埋め込まれている。
あの姉妹は互いの存在を疎ましく思っていた。だから殺し合った、妖刀の力によって互いの存在を……。それが失踪の正体、二人は同じ家に住んでいただけだ。
狂気に支配された彼女達の気質がそれを体現させたのだろう……。
僕は雨の降りしきる道を一人、歩いて帰った。
13
神岸綾人は教室の窓から外を眺めていた。担任が冬休み中の過ごし方について話をしているが何も耳に入ってこなかった。
廃寺で襲われてから数日が経過した。殺人事件の真犯人が警察官だったという事からテレビや新聞などでは連日、大きく取り上げられていた。娘である笹森莉緒についても何度も報道されていた。
笹森莉緒の死に、特にショックを受けていたのは藍原さんだった。彼女が朝、クラスに現れると瞼が赤く腫れていた。雛山に話を聞くと一晩中泣いていたらしい。雛山は僕の事も心配していたようだがいつも通りで拍子抜けしたと言っていた。
教室内が騒がしくなる。担任の話が終わったようだ。僕は席を立つと教室を後にした。
今日は長谷川愛と会う約束をしていた。待ち合わせの時間までは、まだ余裕があったが喫茶店へ真っ直ぐ向かう事にした。
僕は喫茶店の扉を開けた。扉に付けられたベルが鳴るとカウンターに佇む店員がこちらを振り向く。モダンな佇まいの店内には談笑している客の姿が何人か見える。僕はテーブル席に座るとコーヒーを注文した。あまり広くない店内を眺めていると店員がコーヒーを運んできた。一口飲むとまろやかな苦味が口の中に広がった。
あんこさんは無事だろうか? 廃寺で別れてから一度も家には戻ってきていない。気まぐれな性格だが約束を破るとは思えない……。そういえば僕はあんこさんの事を何も知らない。知らなくても今まで不便を感じなかった。
もっとあんこさんの事を知っておけばよかった……。気付くのが遅すぎた。
その時、入り口のベルが鳴った。僕が顔を向けると長谷川愛が扉の前に立っていた。彼女はこちらの姿を確認すると僕の座る席にやって来た。
「カフェラテを一つ」店員は注文を受けると再びカウンターへ戻っていった。
「ごめんなさい、待たせちゃって。それで話って何? 神岸君」
「長谷川さんにどうしても聞きたい事があってね……」
僕はコーヒーを一口飲むと単刀直入に聞いた。
「君はどうやって笹森莉緒に笹森恭子の住んでいる場所を伝えたの?」
「えっ、どういう意味?」
「僕が廃寺で襲われた夜、笹森莉緒はこう言った『姉の居場所も聞き出せた』と、だけどこの言葉は可怪しい……。この間、笹森恭子に会ってきたよ。彼女は笹森莉緒と同じ家に住んでいたんだ。二人は妖刀の力によってお互いの存在を認識する事が出来なかった。つまりあの夜、笹森莉緒に笹森恭子が本当に住んでいる場所を教えたとしても到底、信じられる話ではないはずなんだ。君は一体、何を教えたんだ?」
長谷川愛は俯いたまま動かない。そこに店員がカフェラテを運んできた。多分、店員には別れ話をしているカップルのように見えただろう。
「流石に生き延びただけの事はあるわね……」
長谷川愛は顔を上げるとカフェラテを一口飲んだ。
「それはどういう意味?」
「言葉通りの意味よ。この事件の被害者で唯一、生き延びたのはあなただけでしょう」
彼女は平然と答えた。
「やはり、君がこの事件を仕組んだ犯人なのか?」
「犯人……、と言われても私は何もしていないわよ」彼女は笑った。
彼女の言う通り、他には何の証拠も無い。
「でも、そうね……。まさか私の所まで辿り着くとは思っていなかったわ」
のらりくらりと質問を躱す彼女の物言いに、奇妙な違和感を覚えた。
「なぜ、君は笹森莉緒を利用して僕ら同級生を狙ったんだ?」
「あなたにはそう見えたでしょう。まず、その発想が間違っているわ。私はあなた達の生死には何の興味も無いの。この仕掛は全てあなたが飼っている猫を殺すために用意したものなんだから」
言葉の意味が一瞬、理解できなかった。つまり彼女の狙いは始めから僕らではなく、あんこさんだったのか……。
「なぜ、あんこさんを狙うんだ?」
「それは、あの猫から聞きなさい。答えれば……、だけどね」
彼女の口振りからすると、あんこさんは生きているという事か? 僕は話を変えた。
「あの妖刀は君が用意したのか?」
以前、あんこさんが妖刀の話をしてくれた時に見覚えがあると言っていた。
「用意した訳ではないわ。以前、私が譲った物。お陰で面白い仕掛けを作る事が出来たわ」
彼女は玩具を与えられた子供のように微笑みながら答えた。
「笹森恭子の体内にも妖刀が埋め込まれていた。どうすれば取り除ける?」
「私はあくまでも刀を譲っただけ。その後の使い方までは分からないわ」
彼女は嘘を言っているようには見えない。じゃあ、妖刀を埋め込んだのは姉妹の両親?
「方法は唯一つ。諦めるしかないわ」僕の考えを見透かすように彼女は答えた。
言いたい事はあったが、これ以上は押し問答になるだけだ。僕は頭を切り替え彼女から感じる違和感を尋ねた。
「君は誰だ?」
僕の唐突な質問にも彼女は動じる事なく答え始めた。
「あなたは本当に賢い子ね。常識に囚われない思考と直感、そして、引き際をわきまえているのね……。一つ教えてあげるわ。猫又の由来を知っている? 呪いをかける時、猫が人の上を跨ぐ。猫が跨ぐ、猫跨ぎ……。あの猫はね、常に呪いをまき散らす存在なのよ、飼い主さん」
僕の質問とは全く違う答えが返ってきた。質問に答えないという事が答えなのだろう。
全てはあんこさんの呪いのせい……? あんこさんは僕を守るために傷だらけになりながら戦ってくれた……。呪いをまき散らしているのは寧ろ、周囲の人間達だ。
「そうだね。僕は呪われているんだろう。でも、そのお陰でこうして命が助かったよ」
「話は終わりね。あの猫を飼い続ければ、いずれまた会う事もあるでしょう」
席を立つと長谷川愛は去っていった。店内に取り残された僕はため息を付いた。テーブルの上には伝票が置いてある。
「長谷川さんの分まで僕が奢るのか……」
14
「そう、分かった……」
静まり返ったリビングに自身の声が響く、神岸綾人は雛山雅史からの電話を切るとソファに腰掛けた。携帯電話をテーブルの上に置き、目を瞑る。
笹森恭子が自殺した。救急隊が駆けつけ彼女は病院へと搬送されたらしい。電話口の雛山は興奮気味に僕にそう伝えた。詳しくはこれから調べられるのだろう。
これで写真に写っていた僕の同級生は皆死んでしまった。長谷川愛と別れた日、彼女の遺体が山中から白骨化した状態で発見されたと報道で知った。長谷川愛の携帯電話に連絡をしてみたが繋がらなかった。全ての幕が下りたという事だろう……。
世界が不平等で不条理な事は理解しているつもりだった。しかし、こうして目の前に突き付けられると納得がいかない。なぜ、僕だけが生き残ったのか……。
「呪いか……」長谷川愛との会話を思い出した。
つまり、僕だけが生き残った事こそが呪いなのかもしれない……。
あんこさんもまだ帰って来ない。あの怪我だ、万が一という事もある。もしかしたら、もう帰ってこないのだろうか。一人でいると厭世的な事ばかり考えてしまう。
そんな事は無いと自身に言い聞かせるが日が経つにつれ不安は増してくる。
「ため息なんてついてどうしたの? アー君」未緒さんがリビングへやって来た。
「何でもないよ。ちょっと疲れたから休んでいただけ」
未緒さんは僕の顔を暫く見つめると、特にそれ以上追求しなかった。
「アー君。あんこちゃんのキャットフードって、もう無いの?」
「買い置きしてあるから予備はあるけど……、どうして?」
「もう空っぽよ。あんこちゃん、お腹すかせちゃうわよ」
僕は立ち上がり、あんこさんのエサを入れる容器を見た。以前、僕が間違えて入れてしまったキャットフードが無くなっている。
なんだ、戻ってきていたのか。
「すぐに取ってくるから」僕は未緒さんにそう言ってリビングを出た。
安堵した瞬間、涙が溢れそうになった。あんこさんのいる場所は大体、予想が付く。僕は急いで自分の部屋へと駈け出した。
ベッドの上に一匹の猫が丸まっているのが見えた。僕は静かにベッドの脇に腰掛ける。
あんこさんには色々と話したい事や聞きたい事があったが、どうでも良かった。
僕は手を伸ばし、そっと頭を撫でた。
「おかえりなさい、あんこさん」
明るい陽の光が差し込むベッドの上であんこさんは気持ちよさそうに目を細めた。




