前半
1
子供の頃は活発で外で遊ぶのが好きだった。性格は真面目で忘れ物や遅刻などは記憶にある限りほとんどした事がない。それは成長した今でもほとんど変わらない。
小学校、中学校と成長していった僕に思春期が訪れた時、明確な変化が現れた。人と接するのが億劫になったのだ。友達は普段通りに接してくる。表面上、話を合わせる事は出来たのだが、酷く詰まらない。何よりも心の疲労が大きかった。
単にませていただけなのかもしれない。当時の僕にとっては重大な問題だった。中学生が過ごす世界なんて実に小さい、学校と自宅の往復で一日が終わる。
眠る時間以外は基本的に学校へ通う事になる。それはまるで逃げ場のない牢獄に幽閉されているようなものだった。そして、いつしか僕は話すのを止めた。諦めたというのが近いだろうか? 友人だった人間が一人減り、二人減り、僕は一人でいる時間が多くなった。お陰で楽にはなったが、いつしか孤立した。
始めの内は何の問題もなかった。だが、学年が上がり完全に孤立した時に気が付いた。一人でいる事は楽なのだが、集団の中にいる僕はとても惨めだった。
僕は学校に通い続けた。真面目な性格の弊害だ。悪口を言われた訳でもない、いじめられた訳でもない、全て僕の被害妄想だ。悪いのは僕自身だという事は十分に理解していた。でも、この気持はどうする事も出来なかった。
そんなある日、帰り道を一人で歩いている時に気が付いた。もう無理だと……。
だから自分の世界から逃げる事にした。無駄に行動力のあった僕はすぐに準備に取り掛かる事にした。ホームセンターに行って頑丈な縄を買い。学校帰りに下見のため、あらゆる場所を見て回った。場所は自宅から離れた山の上にあった廃寺に決めた。
辺りが薄暗くなった頃、僕はこっそりと家を抜け出した。自転車には乗らずに歩いて行った。もう帰らないのだから手間を掛けるわけにはいかない。だが、懐中電灯だけは持ってくれば良かったと後悔した。
石段を登り切ると朽ち果てた寺が正面に見えた。僕の目的の場所はここではない、その横にある大木だ。木に登り、紐を結び終えるともう片方の縄を自分の首に巻いた。あとは飛び降りるだけで終わる、はずだった……。
飛び降りる事が出来なかった。死に対する恐怖は無いつもりだ。
こんな命に何の意味も価値もないのに、なぜ死ねない?
そして、気付いたのだ。諦観するという事を……。
2
2006年11月下旬。季節は秋が終わり、冬の寒さが増していた頃。
冷えた空気が足先を蝕んでいく。その感覚が頂点に達した時、神岸綾人は目を覚ました。
布団の中から手を伸ばし、携帯電話を手に取る。アラームが鳴る時間より少し早く起きてしまったようだ。
アラームが鳴る前に目覚める事はよくある。だが、このまま起きてもまだ早い、僕は改めて布団をかぶり直した。その直後、携帯電話からアラームがけたたましく鳴り響いた。慌ててアラームを止め、携帯電話を見ると設定した時刻がズレていた。今日の寝覚めは最悪だった。起きるのが酷く億劫だ、布団の温もりが心地良い。寝ぼけた頭を振り払うと僕は眼鏡を掛けた。ぼやけた世界が輪郭を表す。
布団から起き上がろうとすると小さな寝息が聞こえた。そういえば昨日の晩、あんこさんが布団に潜り込んできた事を思い出した。見ると布団の上に、丸まった黒猫が眠っていた。我が家で飼っている猫の「あんこ」さんだ。
僕はあんこさんを起こさないように布団から抜け出すとリビングへ向かった。暖房を入れて制服に着替えるとトースターにパンを入れた。焼き上がる間にコーヒーを入れる準備をしていると、あんこさんのエサが空になっている事に気が付いた。キャットフードを入れ終えるとパンが焼きあがった。
朝食を食べ終えると家を出た。ここ最近、朝の冷えきった空気が体に突き刺さる。寒さが一層厳しくなってきた。自宅から僕の通うT高校までは片道十五分程度の距離だ。
いつもの道をいつもの様に歩く。そして、いつもと同じ時間に学校へ到着する。
教室に入り、自分の席に着くと友人の雛山雅史の姿が見えたので挨拶をした。
「おはよう」
雛山も同じように挨拶を返してくる。暫くすると担任が教室に入ってきた。蜘蛛の子を散らすように生徒達が席に着くと、ホームルームが始まった。
「じゃあ、この問題は誰かに解いてもらおう」
数学教師はそう言うとクラスを見渡した。すると、居眠りをしていた雛山が数学教師に指された。雛山は欠伸をして気怠そうに立ち上がると黒板の前に歩いて行った。
「全問正解だ」
数学教師がそう言うと雛山は席に戻り、再び欠伸をした。雛山は学年で5本の指に入る秀才だ。彼の授業態度が気に入らない教師は時折、こうして彼に問題を解かせる事がある。知り合ってからまだ一年は経っていないが、未だに雛山が間違えた所を見た事が無い。
お昼になり購買で買ったパンを食べながら雛山と話をしていると、小さなお弁当箱を持った藍原芹那が声をかけてきた。
「一緒に食べよ。神岸君」
藍原さんは僕の返事を待たずに隣の机を動かし、席に着いた。こうなると僕は聞き役になるのが常だ。
「雅史、昨日の宿題写させて。お願い!」
藍原さんはお弁当の蓋を開けるより先に、雛山に頭を下げた。
「この間も俺のノート写したよな? それで今週もやっていないという事は端からやるつもりがないんだろう」
「違うの、やる気はあったの。でもね、友達に誘われてカラオケに行ったら……」
「カラオケに行く暇があるなら自分でやれ!」
雛山の説教に藍原さんは身振り手振りのジェスチャーを交え弁明している。だが、僕から見ても救い様がない言い訳にしか聞こえない。
「自業自得だ。今からでも自分で解きなさい」
雛山は母親が子供を諭すように説教を続けている。藍原さんは必死で食い下がっていたが諦めたのか、お弁当の蓋を開けた。
「ケチ、イイもん。神岸君、宿題写させて」
矛先が僕に向いてきた。満面の笑みを浮かべながら藍原さんは僕を見ている。
「神岸、コイツを甘やかしたら駄目だ。そうやってズルズルと、ここまで成長してきた女だからな」
「こんなに可愛らしい女の子に成長したじゃない!」
藍原さんの余計な一言で二人はまた口論に戻った。
雛山と藍原さんは子供の頃からの幼馴染だそうだ。僕は高校に入ってから知り合ったのであまり詳しくはないが、小中高と同じ学校に通い、家も近いらしい。
結局、前回と同様に雛山が折れ、ノートを机から取り出している。雛山は藍原さんに対して実は甘い。僕がこの二人と知り合ってから、こんなやり取りをよく見るようになったが毎回、雛山の方が折れていた。
藍原さんはお弁当を食べ終えるとノートを持って慌てて自分の席に戻った。
「俺のノートなんか写したって何の意味もないと思うんだがな」
雛山は首を傾げて僕に尋ねた。僕も頷いて同意した。
そして、午後の授業が始まった。藍原さんは教師に指されると自信満々にノートの答えを読み上げていた。だが、間違えようが合っていようが瑣末な事だと思う。建前上、授業はいくら間違えても構わないはずなのだが……。そんな事を考えていると授業が終わった。
帰り際、僕は担任から珍しく用事を頼まれた。
「神岸、このダンボールを運ぶの手伝ってくれないか?」
教室の隅に置かれたダンボールを抱え、僕は担任の後を付いて行く。階段を登り、暫く廊下を歩くと担任は空き教室の中に入って行った。教室の中は雑然としており使わなくなった机や椅子、文化祭で使用した看板等が並べられていた。少し埃っぽい、空き教室を物置として利用しているのだろう。
「ここに置けばいいですか?」僕は担任に尋ねた。
「ああ、そこでいい。あとガムテープで口を閉じておいてくれ」
僕は雑然とした教室の隅に抱えていたダンボールを置いた。辺りを見回すと棚の上に未開封のガムテープが置いてあった。多分、文化祭の時に使用した余りだろう。
「助かったよ。神岸」
僕は担任と別れると校舎を出た。朝と同じく一人で歩いて帰る。辺りは既に暗くなり始めていた。僕は近所のスーパーに寄ると夕飯の買い物を済ませた。夕飯の買い物と言っても僕はほとんど料理をしないので、出来合いの惣菜ばかりになってしまう。片手にスーパーの袋を抱え、自宅に到着した。
これが僕の日常。日々繰り返される営みだ。僕はこの日常に満足している。この無味乾燥とした毎日が心地良いのだ。ありふれた日常を毎日過ごしているとその有難さを忘れてしまう事がある。日常を作る為に割いた労力と時間は記憶に残りづらいものだ。何しろ日常とは意識するものではないからだ。だから日常の中に不満を見つけると非日常に憧れる。だが、僕はそんなものを求めてはいない。
僕は自宅の鍵をポケットから取り出すと扉を開けた。リビングから明かりが漏れているのが見えた。僕はリビングに入るとスーパーで購入した荷物をキッチンの側にあるテーブルの上に置いた。するとテレビの前にあるソファの奥から笑い声が聞こえた。
「アハハ」
ソファに近づくと一人の女性がワイシャツだけを羽織り、ソファに横たわりながらキャットフードを食べていた。
「あんこさん、行儀が悪いよ」僕は注意した。
「猫に行儀を求める方が悪いな」女性は間髪を容れず、屁理屈を返してきた。
――この屁理屈を返してきた女性は家で飼っている猫の「あんこ」さんである。
腰まで伸びた長い黒髪。スラリと伸びた足には無駄な脂肪はなく脚線美。顔立ちは整い、その、凛とした瞳は見るものを惹きつける。人の姿をしているが彼女は猫である。
「猫又」
日本に古くから存在する妖怪。
尾の先が二股に分かれており、老いた猫が化けて怪異となる。
人語を解し、人語を話す、人を喰う化物……、らしい。
『らしい』というのは僕がインターネットで検索した情報と、あんこさん本人から聞いた話を統合して多分「猫又」だろう。という結論に達したからだ。要するに妖怪だ。あんこさんは寧ろ自分が妖怪だと知って喜んでいた。彼女はかなり長く生きているようで、昔の事はあまり覚えていないと言う。『いつの間にかこんな風になっていた』というのが本人の談である。年齢を聞くと400歳までは数えていたが、面倒くさくて途中で止めたらしい。僕の中では今、401歳という事にしている。
あんこさんはなぜ、自分が人に化けたり、猫に戻ったり出来るのかは分からないそうだ。
彼女曰く、僕がなぜ、人に生まれてきたのかという説明ができないのと一緒だそうだ。今思うと上手く煙に巻かれた気がするのだが……。
ひょんな事からあんこさんと知り合い、今ではこうして僕の家で飼われている――。
「今は人の姿をしてるんだから猫じゃないでしょ」
「人の姿をしていても猫は猫だ!」
「じゃあ猫らしく座って食べてください!」
あんこさんが黙りこむ。言い返す言葉がないようだ。
「甘い! これなら文句はないだろう?」
あんこさんは人から猫の姿に変身するとソファに丸まった。僕はため息を付きながらキッチンへ戻ると、買ってきた惣菜を冷蔵庫へしまい始めた。
「主よ、キャットフードに口が届かん。こっちに寄せてくれ」
猫の姿になったあんこさんは、ソファの上からテーブルに置いたキャットフードを食べようと口を伸ばしているが届かないようだ。僕はまた、ため息をついた。
あんこさんとのやり取りを終え、夕食の準備をしていると玄関扉の開く音がした。
「たっだいま~」
僕の従姉で同居人である岩永未緒さんが帰宅してきたようだ
「おかえりなさい、未緒さん。お風呂沸かしてあるから」
「は~い」廊下から未緒さんの子供のような返事が聞こえた。
僕の両親は海外出張中のため、この家にはいない。本来、僕は高校に入学してから一人暮らしをする予定だった。両親もそう考えて準備していたのだが、その時偶然にも引越し先を探していた従姉である未緒さんの話を両親が聞きつけた。僕の両親と未緒さんは仲が良く、僕も子供の頃よく遊んでもらっていたのでお姉さんのような存在であった。
両親は未緒さんに暫く息子の面倒を見てほしいと頼み込んだ。未緒さんは初めの内は断っていたそうだが、最終的にノリノリで我が家にやってきた。未だに僕は未緒さんが両親に何と説得されたのかは知らない……。そして現在、我が家には未緒さん、飼い猫のあんこさん、そして僕の二人と一匹で暮らしている。
同居するために久しぶりに会った未緒さんは、僕の記憶にあった印象と随分変わっていた。それは彼女の仕事が関係しているという事をすぐに理解した。
「アー君聞いて。今日、強殺の容疑者を逮捕する予定だったんだけど……」
僕は未緒さんに『アー君』と呼ぼれている。お風呂あがりの未緒さんは冷蔵庫を開けると缶ビールを取り出し、一口飲んだ。
「あの、民家に押し入った事件?」
「そう、先週起こった強盗殺人の犯人。それでね、逮捕の時にハゲの上司がミスって取り逃しちゃったのよ!」
ケラケラと笑いながら未緒さんは物騒な事を言っている。彼女の職業は刑事だ。僕も同居するまでこの事実を知らなかったので当初は驚いた。
「それで、その犯人はどうなったの?」
「私に向かってタックルしてきたから投げ飛ばしてやったのよ! 女一人だから簡単に倒せると思ったんでしょうね」
「無茶な事はしないでね」そう言って僕はテーブルの上に夕飯を並べ始めた。
夕食の片付けを済ませ自室へ戻ると、あんこさんが既にベッドの上で丸まっていた。最近、寝る場所は僕のベッドと決めているらしい。以前は未緒さんの寝室にも行く事があったのだが、いつの間にか僕の部屋で寝る回数が増えていった。あんこさんに理由を聞いてみると『未緒は寝相が悪すぎる』と、答えたので納得した。
布団に入り目を瞑ると、取り留めのない事が頭に浮かんでくる。学校生活は平凡だが自宅に戻ると刑事の従姉、そして喋る猫と一緒に暮らしている。始めの頃は戸惑ったが、今ではこれが僕の日常だ。非日常なんてモノは日常の延長線のようなものだ。慣れてしまえば同じ日常になる。そして僕は眠りについた。
朝、僕はアラーム音と共に目が覚めた。今日の寝覚めは良いようだ。体に奇妙な違和感を覚えた。体を動かそうとすると何かが当たる……。
横に振り向くと全裸の女性が眠っている、あんこさんだ。時折、僕を驚かせようと人の姿のまま一緒のベッドで眠っている事がある。だが、もう慣れた。これも日常の一つだろう。いつもの事なので、あんこさんを起こさないように静かに起き上がる。僕が布団から出るとあんこさんは少し寒そうに体を丸めたが、特に気にする事なくリビングへ向かった。
朝食を食べていると、あんこさんがリビングに駆け込んできた。
「なぜ無視した! こんなにサービスをしているのに!」
「そんなサービスは求めてないよ」僕はトーストを齧りながら答えた。
あれは悪ふざけではなく、サービスのつもりだったのか。
「なぜ? 健全な男子高校生なら女の裸体にも興味があるだろう?」
布団で体を覆ったあんこさんはブルブルと震えている。色気も何も無い。
「とりあえず服を着るか、猫に戻るかどっちかにしたら」
僕がそう答えると、あんこさんは猫の姿に戻った。
「こいつ不能か?」食器を片付けている僕にあんこさんが呟いた。
「健全な男子高校生は猫に欲情しないんです。それよりホットミルク飲む?」
「飲むぞ。砂糖も入れてくれ」
僕はカップに注いだミルクをレンジに入れた。
学校までの道程はいつも一人、僕は考え事をしながら歩いている事が多い。時折、歩いていた事さえ忘れ、目的地に着いてしまう時もある。
学校へ到着するといつもの様にクラスメート達と挨拶を交わし、自分の席に座った。いつもと様子が違う、教室内が浮き足立っていた。何かあったのだろうか?
すると雛山が少し興奮気味に声をかけてきた。
「神岸、見たか?」
「何を?」
「今日、転校生が来るんだって。その子が超可愛いって噂なんだよ!」
「そうなんだ」僕には関係のない事だと判断し、鞄から教科書を取り出した。
「今朝、見かけた奴がいて、ちょっと噂になってるんだ」
教室内の喧騒が大きくなっている。ちょっと、所ではなさそうだ。僕は適当に相槌を打ちながら雛山の話を聞いているとチャイムが鳴った。教室の扉が開き、担任がやってきた。
「はい、静かに! もう一部では知っている人もいるようだが、今日からこのクラスに新しい生徒が加わります。皆仲良くしてあげて下さい。じゃあ入って」
扉の外に声をかけると一人の少女が教室に入ってきた。少女は担任に促され挨拶をした。
「笹森莉緒です。よろしくお願いします」彼女は小さく頭を下げた。
「席は……、神岸の横が空いているな。じゃあそこに座って」
担任に促され、彼女がこちらに歩いてくる。歩く度に透き通るような黒髪がサラサラと揺れる。彼女はそっと席に座ると『よろしくね。神岸君』と、挨拶をされた。
彼女は僕の顔をじっと見つめてくるので軽く会釈を返した。教室内がざわめいている。担任が軽く注意をすると授業が始まった。
「神岸君、ごめんなさい。教科書、一緒に見せてもらってもいい?」
彼女は教科書をまだ持っていないようだ。その日は僕と共有して使う事になった。
つい先程、雛山が言っていた言葉が蘇る。机で隔たれた彼女の横顔を覗くと、少し緊張しているのか固い表情をしている。端正な顔立ちの中に、どこか幼さを感じさせる。時折、彼女が体を動かすと髪が揺れ、洗髪剤の香りが鼻先をかすめた。
確かに可愛らしい少女だ。そして、どこか見覚えのあるような顔だ……。
「集中できないようなので、今日はここまでにする」
教室中の興味が笹森莉緒に集中している。教師もその雰囲気を感じ取ったのだろう、少し早めに授業が終わった。その途端、笹森莉緒の周りに人が集まって行った。他のクラスからも覗きに来る生徒がいる。
僕は席を離れ、遠巻きにそれを眺めていた。僕はあまり初対面の人が得意ではない。それに比べ、雛山や藍原さん等は輪の中心に混ざり、笹森莉緒と楽しそうに話をしていた。あの二人と比べると僕は初対面の人が苦手なのではなく、コミュニケーション能力が低いだけなのだろう。
チャイムが鳴り、ようやく自分の席に戻る事ができた。僕が自分の席に座ると『ごめんね』と、笹森さんから小さな声で謝られた。どうやら彼女は性格も良いようだ。
お昼になり、僕は購買で買ってきたパンを雛山と一緒に食べ始めた。笹森さんは藍原さんを含む女子グループに加わって一緒に食べているようだ。
「可愛い子だな、莉緒ちゃん。父親の仕事の都合で引っ越してきたらしいんだよ」
雛山は既にちゃん付けで呼んでいる。僕はまだ彼女の外見しか知らない。
「そうなんだ」僕は適当に相槌を打ちながらパンを食べる。
「お姉さんもいるって言ってたから、姉妹揃って可愛いんだろうな」
「そうなんだ」
雛山は笹森さんから聞いた情報を延々と話し続けている。僕はパンを食べ終え、手持ち無沙汰になってしまった。僕は雛山の話を聞きながら笹森さんがいる女子の輪を眺めていた。彼女達は食べるペースと喋るペースに大きな開きがある。喋るペースが多いため、一向に食事が終わる気配がない。食べ終えてから話せばいいと思うのだが。
雛山の方に向き直ると、口にパンを詰め込みながら喋り続けていた。効率的だが行儀が悪いので僕は注意した。
放課後、僕が鞄に教科書をしまっていると笹森さんに声をかけられた。
「あの……、神岸君」
僕は返事を返そうと顔を上げると突然、藍原さんが割って入ってきた。
「笹森さん、一緒に帰ろう。さっきの美味しいケーキのお店も紹介するから!」
藍原さんは笹森さんの腕を掴んで離さない。
「えっ、あ……、うん」
結局、笹森さんは勢いに流され返事をしてしまったようだ。笹森さんは困惑した表情で僕の顔を見た。僕は伝わるか分からないが、首を縦に振り「気にしないで」という合図をしておいた。笹森さんは藍原さんに連れられて、慌ただしく教室を出て行った。人攫いのような手際の良さだ。だが、感心している場合ではない。僕も遅れて教室を後にした。
帰り道、住宅街を歩いていると一匹の黒猫が悠々と壁の上を歩いている姿を見つけた。多分、あんこさんだろう。あんなに人間を怖がらず、堂々としている猫は他にいない。
あんこさんは勝手に家を抜け出す事が多々ある。こうして街の中で見かける事も珍しくない。僕は何となく様子を眺めていると見知らぬ住宅へ入り込んでいった。暫くするとメザシを咥えたあんこさんが出てきた。
これは現行犯だ。急いであんこさんを追いかける。
「あんこさん。他人の家に忍び込んでつまみ食い?」
あんこさんはこちらを振り向くと、口にメザシを咥えたまま器用に喋りだした。
「失礼な事を言うな、主よ。つまみ食いではない、親切な人に貰ったんだ!」
あんこさんは壁から降りるとメザシを食べ始めた。
色々な家を回ってあんこさんがエサを貰っている事は知っていたが、現場を目撃したのは初めてだった。あまり良い事ではないので注意しているのだが、この黒猫は主人の言う事を聞かない。いや、聞く気がないのだろう。
僕はまた、あんこさんに注意をしようとした、その時だった。
「ひったくりよ、誰か捕まえて!」
僕の背後から女性の悲鳴が上がった。後ろを振り返ると1台の原付きが勢い良く突っ込んできた。僕は咄嗟に避ける。原付きに跨がりフルフェイスのヘルメットを被った男の腕には女性物のバックがぶら下がっていた。女性は走って追いかけようとしているが、原付きに乗った男との距離がどんどん広がっていく。女性は息が上がり、地べたに座り込んでしまった。仕方ない、僕はあんこさんにお願いする事にした。
「あの男を捕まえて、あんこさん」
あんこさんは黙々とメザシを食べ続けている。
この黒猫は本当に主人の言う事を聞かない。普通にお願いしても動かない事は予想していた。だから僕はあんこさんに聞こえるように呟いた。
「後で何か奢ってあげるから……」
あんこさんは人の姿になると僕の視界から一瞬の内に消えた。現金な猫め。
「大丈夫ですか?」
僕は座り込んでいる女性の側に駆け寄ると声をかけた。
あんこの身体能力は人型になると飛躍的に増し、人間の力を遥かに超える。特に猫の特徴といえる瞬発力と体の柔軟性は凄まじい。あんこ自身はその力に何の興味もないため、普段は動きやすい方を用途に応じて使い分けている。
メザシの頭を咥えたあんこは原付きを追いかけていた。追いかけると言ってもその時間は数秒間、男に追い付いたあんこは原付きの前に回り込む。男は慌てて原付きのブレーキを握り始めた。あんこと男の間はタイヤがあと一回転すれば衝突してしまう距離だ。そんな状況下、あんこは笑った。
「喉乾いたな……、そうだ、飲み物にしよう!」
あんこは大声で叫びながらフルフェイスのヘルメットにローリングソバットを決めた。
あんこの長い黒髪が揺れ、右足が綺麗にヘルメットを捉えた。蹴り飛ばされた男は真後ろにふっ飛ばされ、体をしたたかに打ち付けた。
運転していた男のヘルメットが割れ、男の顔をさらけ出している。男は何が起こったのか分からず呆然としていた。すると衝突音が鳴り響いた。運転手を失った原付きが電柱に激突したようだ。あんこはメザシの頭を飲み込むと、呆けている男に近づいた……。
神岸綾人はあんこの後を追いかけて道を歩いていた。すると大きな衝突音が鳴り響いた。
僕は慌てて駆け出すと前方から男を肩に担いだあんこさんが歩いてくるのが見えた。
「あんこさん! 大丈夫だった」
あんこさんは担いでいた男を僕の前に投げ飛ばすと、ひったくられたバックを手渡してきた。ひったくりをした男は気絶しているようだ、無茶をしたのが伺える。
「これでいいんだろう。約束は覚えているな?」
あんこさんは僕の肩に手を回すと語りかけた。
「それはいいんだけど……。この人、生きてるよね?」
「さぁな」あんこさんは笑った。
僕は女性へ盗まれたバックを返した。女性は何度も僕らに頭を下げていた。
「それでこの人はどうしようか?」僕はひったくりの犯人を見た。
男はまだ気絶しているようでピクリとも動かない。まさか本当は死んでいるんじゃ……。
僕が男の生死を確認しようとするとあんこさんに引っ張られた。
「そんなのはいいから行くぞ!」
僕はあんこさんに引っ張られるまま、近所のコンビニへと連れられた。店内に入るとあんこさんは迷うことなく商品を選び、僕に手渡した。
「それでいいの?」
「いい!」あんこさんは満面の笑みで答えた。
帰り道、僕とあんこさんが並んで歩いていると道行く人が必ず振り返る。奇異の目で見られているのがはっきりと分かる。それも当然だろう、あんこさんは僕の隣で大きな牛乳パックを手に持つと、ガブガブと飲んでいる。僕が両手に持っているビニール袋の中にはまだ何本も牛乳パックが残っていた。
仕事を終えた岩永未緒は自宅へ戻ると冷えきった体を温めるため、お風呂へと直行した。お風呂から上がると台所にある冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に飲み干した。
私はお酒が好きだが、味が美味しいと思った事は一度もない。酔った時の高揚感が好きなだけだ。極端な話、サプリメント一つで酔っぱらう事ができればそちらの方が良いとさえ思っている。ガブガブと二本目の缶ビールを飲んでいるとようやく酔いが回ってきたようだ。夕飯の準備をしているアー君にちょっかいを出しながら更に缶ビールを飲む。
そういえば、あんこちゃんの姿が見えない事に気が付いた。
「ねぇ、アー君。あんこちゃんは?」
「あんこさんはお腹を壊したみたいで、毛布に包まって寝てるよ」
「お腹を壊したって……、どうしたの? 何か悪い物でも食べたの?」
「未緒さんと同じく、飲み過ぎたみたい」
「あんこちゃんがお酒を?」
「ヤケ牛乳」
よく分からないが、遠回しに飲み過ぎたと注意された気がした。
3
授業が終り、神岸綾人は机の中から教科書を取り出していた。
昨日は帰りに酷い目に遭った。今日は早々に帰ろうと教科書を鞄に詰めていると笹森さんに声をかけられた。
「神岸君、ちょっとだけ時間いいかな? 相談したい事があって……」
彼女は申し訳なさそうな表情でこちら見つめている。そういえば昨日の帰りにも呼び止められたな。そしてこのタイミングで割って入ってきたのが藍原さんなのだが、今日は担任に呼び止められ、何か話をしているようだ。
しかし、転校してきたばかりでほとんど接点のない僕に相談? 少し訝しんでいると彼女は遠慮がちに呟いた。
「あの……、用事があるなら別に大丈夫だから」
僕はその様子を見て、彼女を引き止めた。一体どんな相談なのか少し気になった。
「急に相談って言われて驚いただけだから。ごめんね、それで相談したい事って?」
「ここだと少し人が多くて……」
彼女は教室に残っている人達の視線を気にしているようだ。僕はどこか人の少ない場所を考える。
「それならちょっと付いて来て」そう言って僕は彼女と一緒に教室を出た。
笹森さんが転校してきて二日経ったが、彼女とまともに会話したのはこれが初めてだろう。少し緊張しつつ、階段を登って行く。僕は先日、担任に頼まれダンボールを運んだ空き教室へと入った。ここであれば人が来る事もないだろう。僕は手近にあった椅子に彼女を座らせた。
「それで、相談って?」
彼女は言いづらそうにしていたが、意を決すると話し始めた。
「神岸君、私の顔に見覚えがある?」
「どういう事?」
唐突な質問に僕が困惑していると、彼女は話を続けた。
「やっぱり、見覚えは無いよね。よく似ているって言われてたけど……。神岸君、私に双子の姉がいるって誰かに聞いた?」
お姉さん……。雛山がそんな話をしていたのを思い出した。双子だったのか。
「風の噂で聞いたよ」
「私の姉、笹森恭子について聞きたい事があるの。実は、3年前から行方不明なの……」
全く予想していなかった告白に驚きつつも僕は先を促した。
「私も偶然この学校へ転校してきたから神岸君を見た時、驚いたの。これ、見てもらいたいんだけど……」
彼女は鞄から一枚の写真を取り出した。
写真には小学生くらいの子供達が5人並んで写っていた。僕はこの写真に見覚えがあった。子供の頃よく遊んでいた友達と集まって撮った記念写真だ。
「姉の部屋に残されていた写真なんだけどね。真ん中に写っているの、神岸君だよね?」
彼女はそう言って写真の中央でピースをしている子供を指さした。
「確かにこれは僕だ。という事は昔、笹森さんのお姉さんと一緒に遊んでたのか」
写真の中に写る僕の隣には、目の前にいる笹森さんをそのまま子供にしたような女の子が写っていた。これが笹森さんの言っているお姉さんだろう。比べればよく分かる、写真は幼いが確かに似ている。だから見覚えがあったのか……。
「多分……、そうだと思う」笹森さんは呟いた。
多分? 目の前にいる笹森さんと同じ顔をしているので間違いないだろう。
「でも、僕はこの写真を見るまで気付かなかったよ。言い訳にしかならないけど、僕の通っていた小学校の生徒数が多くなってね、一部の生徒達が分校に移って行ったんだ。この写真に写っている皆とはそれ以来会っていないんだ」
「そうなの……」
「でも、何でこんな古い写真を?」
「姉の写真が一枚も無くなっていたの……。でも昔、姉から神岸君達と遊んでいた話をよく聞いていたから、もしかしたら何か知っているんじゃないかと思ってこの写真を持ってきたんだけど……」
彼女は顔を伏せ、言葉を詰まらせた。
「警察には相談は?」
「私の父が警察官なの。何か分かればすぐに知らせてもらえるよう、お願いしてはいるんだけど……、何も手掛かりが掴めなくて」
警察官も転勤するのか、初めて知った。
「だから私、個人的に姉の行方を探しているの。また地元へ帰ってきたから、もしかしたら姉も見つかるんじゃないかなと思って……。そしたら転校してきた学校に偶然神岸君がいて、最初は半信半疑だったけど思い切って相談して良かった」
彼女は悩みを打ち明ける事が出来たので少し落ち着いたのだろう、愛らしく微笑んだ。
しかしこれ以上、彼女の役に立てそうにない。
「あの、神岸君。もし良かったら携帯の番号教えてくれない? 私、まだ友達が少なくて」
「構わないよ」僕は鞄から携帯電話を取り出すと連絡先を交換した。
「もし何か分かったらいつでも連絡して、じゃあまた明日ね」
そう言って手を振り、彼女は帰っていった。
僕は自宅へ戻ると一人で夕食を済ませた。未緒さんはまだ帰ってきていない、今日は遅いようだ。あんこさんの姿も見当たらない、お腹は治ったのだろうか?
あんこさんの場合、気まぐれに出掛ける事がよくあるので特に気にしてはいない。
夕食を済ませた僕は、自室へ戻ると本棚の奥から古いアルバムを取り出した。ページをめくり、先ほど笹森さんに見せてもらった写真を探し始めた。そして一枚の写真に目が止まる。笹森さんから見せられた写真と全く同じ物があった。
「行方不明か……」
写真に写っている彼らと過ごしたのは2年生頃までだろうか、その辺りの記憶も曖昧だ。分校に移っていった後の行方など、それこそ分からない。必死で当時の記憶を呼び起こす。
確か、笹森さんのお姉さんを「キョウちゃん」と呼んでいた。他の名前を思い出そうと記憶を手繰る。僕以外に写っているもう一人の男の子が「ナベッチ」。残りの女の子二人が「アイちゃん」と「チオ」だ。当時の呼び名だけでフルネームまでは思い出せない。そもそも合っているのだろうか?
違う写真も探してみるがキョウちゃんの写真は他に無かった。何か当時を思い出せそうな物がないか本棚を探っていると黒猫が扉の隙間から部屋に入ってきた。僕は左右の手にアルバムを持ちながら声を掛けた。
「おかえりなさい、あんこさん」
「何をしているんだ? アルバムなんかひっくり返して」
「昔の事を思い出そうとしてね」
僕は手を休め、あんこさんに今日あった出来事を説明した。
「行方不明の双子の姉を探していて、その手掛かりを握っている可能性のある主は何も覚えていないと。役に立たないな」
「だから思い出そうと、こうしてアルバムを見ているの」
「それで、何か思い出したのか?」あんこさんはベッドの上で伸びをしながら言った。
僕は首を左右に振った。あんこさんは興味を失い、丸くなって寝転んだ。
僕は改めて写真を見直す。僕を含め男女5人が小学校の校舎の前に並んで写っているだけだ。他には何の変哲もない。
僕は結局、何も思い出せぬまま、その日は眠りについた。
翌朝、教室に入ると笹森さんから挨拶をされた。
「おはよう。神岸君」
彼女の眩しい笑顔に罪悪感の沸いた僕は謝る事にした。
「ごめん、笹森さん。昨日、一晩考えたんだけど何も思い出せなかったよ……」
「気にしないで、私が勝手にお願いした事だから。それより写真の男の子が神岸君だって分かった事が嬉しかったから。それとね……」
いつの間にか前の席に座っていた雛山と藍原さんの視線に気が付き、彼女は話を止めた。
「どうしたの二人とも?」
「いや、急に仲良くなってるな、と思って」雛山が答えた。
僕が一方的に謝っていただけなのだが、雛山には仲が良いように見えるらしい。
「確かに、どうしたの莉緒。昨日、神岸君と何かあったの? 二人でどこかへ行ったみたいだけど……」
藍原さんも雛山と同意見のようだ。
「なんでもないよ。ちょっと校舎を案内してもらっただけで……。そうだよね、神岸君!」
笹森さんは誤魔化そうと、こちらに話を振ってきた。昨日の話はあまり噂になってもよくないだろう、僕も話を合わせる事にした。
「ただ、案内しただけだよ」
ふと、周りを見るとクラス中の視線を感じた。転校してきたばかりだから仕方ないのか。
しかし、笹森さんは他に何か言おうとしていたようだが聞きそびれてしまった。無理に話さなくてはいけないような事ではないのだろう。どうしても話がしたければ昨日のように無理にでも時間を作ろうとするだろう。
その後、笹森さんと話す機会が訪れぬまま一日が終わった。
「そう……、やっぱり知らないか。ありがとう」
僕は通話を終えると携帯電話の電源を切った。自宅へ戻ると数少ない友人に連絡をしてみたが「キョウちゃん」についての情報は何も得られなかった。
予想していた事だが仕方がない。僕はソファに横たわる。自分に出来る事はこれくらいだろう。子供の頃は仲が良かったかもしれないが、今では連絡先すら分からない。アルバムから取り出した写真を眺めていると玄関が開く音がした。未緒さんが帰ってきたのだろう。今日は随分と帰りが早い。
「ただいま……。あれ、どうしたの、そんな所で写真なんか見て?」
「おかえりなさい、ちょっと考え事。それより、お風呂沸いてるよ」
僕はなんとなく、はぐらかした。子供の頃の僕も写っていたので、未緒さんにはあまり見られたくなかった。ソファから起き上がってリビングを出ようとした時、手に持っていた写真を未緒さんに取り上げられた。
「あ、ちょっと!」
「私に隠すような写真なの? どれどれ……、なんだ、子供の頃の写真じゃない」
僕は諦めて未緒さんに事情を説明した。
「行方不明か、未成年者の失踪だから警察もちゃんと調べているだろうけど、未だに見つかっていないのね……」
未緒さんの表情が険しくなる。いつもと雰囲気が違う。未緒さんの表情から言葉にしなくても、あまり良い状況でない事は感じ取れた。
「それで力になってあげようとしたわけね」普段の優しい未緒さんの笑顔に戻った。
「でも、誰の連絡先も分からないから、もう八方塞がりで」
「ナベには連絡したの?」
僕の頭にハテナが浮かんだ。なぜ「鍋」に「連絡」をしなくてはいけないのだろう?
僕が考えていると未緒さんが写真に写る、男の子を指さした。
「ほら、ナベと昔よく一緒にイタズラしてたじゃない」
どうやら僕の勘違いだったらしい。「ナベッチ」の事か。
「なんで未緒さんが知ってるの?」
「なんでって、私の後輩の弟よ。子供の頃から知ってるわよ」
まさかこんな近くに知り合いがいたなんて、もっと早く聞いていればよかった。僕は未緒さんにお願いして連絡を取ってもらう事にした。
未緒さんは携帯電話を取り出し、後輩である祐香さんに連絡を取ってくれたのだが……。
「えっ、嘘! あの娘もう離婚したの……」
未緒さんの会話が聞こえてくるのだが、二転三転してちっとも話が進んでいるように聞こえない。僕は席を立つとお湯を沸かし始めた。
僕と未緒さんの分のコーヒーを入れ、一口飲んだ。まだ話が終わらない。手持ち無沙汰になった僕は側に置いてあった新聞を読み始めた。そして、コーヒーを飲み終えた所でようやく未緒さんの通話が終わった。
直接、未緒さんから話を聞かなくても大体の内容が漏れ聞こえていたので要約すると、未緒さんが「ナベ」と呼んでいる人物は写真に写っている男の子で間違いないようだ。彼の名前は「渡辺悠一」名前を聞いてもあまりピンと来なかったが、渡辺悠一は僕の事を覚えているようだった。そして今度、未緒さんが会いに行く約束を取り付けた。
未緒さん曰く、『事件性のある内容だから、そんな簡単に話す訳にもいかないでしょう』との事だ。単に後輩である祐香さんに会いたいだけのような気もするのだが。
しかし、ここはプロである未緒さんに任せるのが無難だろう。僕は念のため笹森さんから了解を得るため、連絡をする事にした。
放課後、藍原芹那は神岸綾人が教室を出て行くのを横目で確認すると行動を開始した。
「莉緒、このあと暇? よかったら一緒に帰らない?」
笹森莉緒は今、校内を騒がせているとびきりの美少女だ。私も是非お友達になりたい。そう思うのは自然な流れだ。しかし今朝、莉緒の様子が明らかに可怪しかった。神岸君と仲良く話をしていて私と雅史が加わろうとすると何か不自然に誤魔化した。やはりどう考えても可怪しい。私の方が四六時中、莉緒と一緒にいたはずなのに……、なぜ?
唐変木な神岸君が私より先に莉緒と仲良くなるなんて、どんな魔法を使ったのかしら。
そう思ったのは私だけではなかったようだ。私は皆の代表として真相を突き止めるため、この作戦を決行した。
「ポテト2つと……、オレンジジュースとホットコーヒー下さい」
私はそう言って料金を支払い、カウンターからトレイを受け取ると席に座って待っている莉緒の隣に腰かけた。
「ありがとう。藍原さん」莉緒はオレンジジュースを受け取った。
「もう、その「さん」付けやめてね。どうも私に馴染まないの」
私はミルクと砂糖をコーヒーに二つずつ入れた。
「ごめんなさい。えーと、じゃあ芹那ちゃん……」少し照れながら莉緒は答えた。
「それでよし!」
「でも馴染まないって言うけど神岸君は藍原「さん」て呼んでたよね?」
「神岸君だと違和感ないんだよね「さん」付けでも」
私と莉緒は笑った。そんな他愛もない事から時間を忘れ、どれだけお喋りをしていたのだろう? 手に持ったコーヒーカップがいつの間にか空になっていた。
何か聞く事があったと思うのだが……、思い出せない。きっと、どうでもいい事だろう。思い出せない時は大抵、今の私に必要な事ではない。そんな事より莉緒とは気が合うようでお喋りが楽しかった。
その時、莉緒の携帯電話の着信音が鳴った。莉緒は私に謝ると電話に出た。
私は冷えたポテトを一つ齧った。漏れ聞こえる会話の様子から電話の相手はどうやら神岸君らしい。いつの間に電話番号を聞いたのだろう? その時、私は閃いた。ようやく本来の目的を思い出した。そうだ神岸君! なんて良いタイミングで連絡をしてきたの。横目で莉緒の様子を伺うと嬉しそうに話している。
莉緒が電話を切ったのを確認すると、私は本題に入った。
「さっきの電話、神岸君から?」
「うん。ちょっと神岸君に相談してる事があって……」莉緒は言葉を濁した。
「相談って何? 私にも相談してよ~」
「ごめんね。他の人には相談しづらい事なの……」
「怪しいな、ねぇ、教えてよ。私も相談事とかよく受けるから得意よ」
「本当にごめんね。あまり人に話せる事じゃないから」
きっぱりと断られてしまった。喰い下がってみたが莉緒は本当に話したくないようだ。神岸君には相談できて、私には相談できない……。かなり怪しい、これは神岸君を問い詰めても教えてくれそうにないだろう。そこで私は違うアプローチを思いついた。
「よかったら今度の日曜、一緒に遊びに行かない? 色々案内してあげるから!」
「うん、いいよ」莉緒は私の勢いに押され返事をした。
「よし、じゃあ決まりだね。あと神岸君も誘おうか?」神岸君という言葉を少し強調した。
「えっ、うん」少し驚いているようだ。
「あれ、やっぱり嫌だった?」
「そんな事ないよ」
莉緒は首を左右に振りながら必死に否定している。その姿も可愛らしかった。神岸君を誘うなら雅史を使うのが手っ取り早いだろう。
あれ? よく考えればこれってもしかして神岸君、チャンスじゃないの?
岩永未緒は朝食を求めてリビングへ向かう途中、出掛けようとしている神岸綾人の後ろ姿を見つけたので声をかけた。
「アー君。今日、祐香に会ってくるから遅くなるね」
「分かったけど例の事、忘れずに聞いてきてね」アー君はそう言うと出掛けて行った。
昨晩、アー君からデートに行くと聞いて驚いた。もう、そんな歳になったのか……。
朝食の用意をしていると、あんこちゃんがリビングへやって来た。私はあんこちゃんにエサをあげると自分もトーストを食べ始めた。渡辺祐香と会うのは6時頃だ。それまでの間は特に予定が無い。久し振りの休日という事でゆっくりする事も考えたが、今日はよく晴れている。年末も近いので少し家の事をやろうと私は動き出した。普段はアー君に任せっきりだが私は居候の身、多少なりとも恩を返すため家事に励もうと意気込んだ。
神岸綾人は待ち合わせ場所である駅前に到着したが、まだ誰もいないようだ。
――つい先日の事だ。いつもの様に雛山と昼食を食べていると、藍原さんと笹森さんがやって来た。普段、彼女達は別の女子達と一緒に昼食を食べているので珍しい。
雛山は慣れたもので藍原さんに冗談を言いながらパンを食べている。いつ見ても器用だ。
笹森さんは小さなお弁当箱の蓋を開けると時折、僕の方をチラチラと見ながら箸を動かしていた。パンが食べたいのだろうか?
僕は気にせずパンを齧っていると、雛山と話していた藍原さんから急に話を振られた。
「神岸君、今度の日曜。暇?」
僕は藍原さんの笑みに、何か企んでいる気配を感じて無難な返事を返した。
「特に予定は無いけど、どうして?」
「じゃあ、日曜日デートしましょ」
藍原さんはイタズラっ子のような笑みを浮かべてこちらを見ている。予想の範囲内の答えだったので、僕も冗談で返す事にした。
「こちらこそ、僕と一緒にデートして下さい」僕は真剣に答えた。
すると藍原さんの方が慌て始めた。
「違うの! それは冗談で。今度、雅史と莉緒とあと神岸君も一緒に四人で出掛けようっていう話で……」
藍原さんはしどろもどろになりながら弁解している。僕は可哀想なのでタネを明かす事にした。
「雛山から話は聞いていたから構わないよ」
雛山は堪えていた笑いを吹き出した。笹森さんもそれに釣られて笑い出した。藍原さんは顔を真っ赤に染めながら横で笑っている雛山を叩いていた――。
そして、今日がその約束の日なのだが……。
僕は温かい飲み物でも買いに行こうとベンチから立ち上がると、駅のホームから雛山と藍原さん、そして笹森さんの三人がやって来た。話を聞くと三人は自宅が同じ方面だったので途中で一緒になったようだ。
「芹那、どこに行くんだ?」雛山が藍原さんに今日の予定を尋ねている。
「とりあえず、午前中は街中を歩きながら案内して行くから」
藍原さんはそう言って歩き出した。藍原さんの横に雛山が並び、先頭を歩いて行く。僕と笹森さんはその後ろを付いて歩いた。前を歩く二人は幼馴染という事もあり、とても賑やかだ。対して僕は特に喋る事が思いつかず、無言のまま笹森さんと並んで歩いていた。
しかし、居心地が悪いという訳ではない。無理に会話をしなくてもいいと感じるのだ。無言で歩くこの状態が自然な物に感じた。なぜだろう? 横目で笹森さんの様子を伺うが、詰まらなそうにしている訳でもない。ゆったりと時が流れていく。彼女の雰囲気がそう感じさせるのか、それとも僕が無遠慮なだけなのか、もし、後者であれば申し訳ない。それとも彼女も僕と同じように感じているのだろうか? しかし、そんな時の流れは続かず、雛山と藍原さんが茶々を入れてくるので結局は賑やかに歩いて行く。
藍原さんは笹森さんに街を紹介するため色々な場所を歩いた。駅前から始まり、学校周辺の商店街、市民の憩いの場である森林公園等、どれも地元の人間であればよく足を運ぶ場所だ。その道すがら笹森さんが尋ねた。
「あの山の上には何があるの?」笹森さんは山の頂を指さした。
「あそこは壊れたお寺があるだけよ」藍原さんが答えた。
「子供の頃からあるけど、地元の人でも滅多に行かないような場所だね」
そう言って僕も山を眺めた。それほど高い山ではないが頂上付近が開けており、ここからでも建物が見える。あの山は昼間でも薄暗く、薄気味悪い。僕にはあまり良い思い出がない場所でもある。
「そうなんだ。景色が良さそうだから街を一望できると思ったんだけどな」
笹森さんは残念そうに呟くと歩き始めた。
「神岸、今何時?」雛山が突然、尋ねてきた。
「そろそろ十二時になるよ」僕は携帯電話で時刻を確認するとそう答えた。
「そろそろ腹が減ってきたんだけど、昼はどこで食べるんだ? 芹那」
「もう決めてあるの。これからショッピングモールに移動して、そこで食べましょう」
それを聞いた雛山の表情が少し強張ったが、誰もその変化には気付かなかった……。
僕らは電車に乗り込むと郊外のショッピングモールへ移動した。
藍原さんの希望により、雑誌でオススメしていたというパスタ専門店に向かう。お昼時を少しズラしてやって来たのだが、順番待ちで並んでいる人の姿が見えた。この時点で僕は嫌になったのだが、藍原さんの希望なので仕方がない。
暫く待っているとようやく席に案内され、それぞれメニューを眺めはじめた。僕は食に興味がないので店員がオススメした日替わりパスタにする事にした。3人はメニューを見ながら決めあぐねているようだ。こういう時、僕の食への興味の無さが仇になる。3人の注文が決まるまで、僕は手持ち無沙汰に過ごした。
僕達は食後に出されたドリンクを飲みながら午後の行動について話し始めた。
「私、買いたい物があるから午後は別行動にしよう。荷物持ち、よろしくね!」
藍原さんはそう言って雛山の肩を掴んだ。
「嫌だ。芹那の買い物ってほとんど眺めるだけで、待ってる時間の方が長いんだよ」
雛山は視線を動かし僕に助けを求めてきた。
「莉緒はそれでもいい?」
藍原さんは僕が助け舟を出す前に外堀を埋め始めた。
「えっ、うん。神岸君が嫌じゃなければ……」
選択権がこちらに譲られた。僕は雛山の救助を開始する事にした。
「でも、雛山は嫌がってるみたいだよ。女の子は女の子同士の方が話しも合うし……」
藍原さんは僕の話を遮り、話し始めた。
「いいの! 雅史は慣れてるから。むしろ嬉しいわよね?」
藍原さんは満面の笑みを浮かべながら目で雛山を睨みつけた。雛山は抵抗して首を左右に振っている。
「よし、決まりね!」藍原さんは問答無用で話をまとめた。
僕の救助では救い出す事は出来ないようだ。雛山に目線で伝える。
「俺もそっちと一緒が……」
「お金、置いてくから会計よろしく!」
雛山は藍原さんに引きずられるようにして連れて行かれた。
笹森さんはその光景を呆然と眺めるだけだった。
「僕らも出ようか?」
笹森さんと僕は会計を済ませ、店を出た。なし崩し的に一緒に施設内を回る事になったが、僕は特に買いたい物は無い。笹森さんも同じで仕方なく待ち合わせの時間まで適当に歩き回る事にした。笹森さんは主に服やアクセサリーの店舗を、僕はそもそも興味がないのでその後を付いて回った。
「じゃあ、次はあそこのお店に行こ!」笹森さんは楽しそうにそう言った。
僕はその時、ペットショップの看板に目が止まった。
「笹森さん、ちょっと寄っていい?」僕はペットショップを指さした。
「ごめんなさい、私ばっかりはしゃいじゃって。神岸君も見たいお店あるよね」
「いや、家で飼っている猫にお土産でも買っていこうかと思って」
「神岸君、猫、飼ってるの?」
「うん、一匹ね」
「そうなんだ、私も見たいな。その猫」
「笹森さんは猫が好きなの?」
「猫が特に好きなの、あの自由気ままな所が好き」
確かに僕の家で飼っている猫も自由気ままだが、度が過ぎる。
「今度、機会があれば見せてあげるよ」笹森さんは嬉しそうに笑った。
ペットショップの店内は多くの客で賑わっていた。奥の方には色々な動物が入れられたショーケースが並んでおり、ケースの中にいる子犬や子猫達が遊び回っているのが見えた。
僕は店内を見て回り、猫用のおやつを買った。笹森さんはショーケースの中にいる子犬や子猫達を眺めていた。僕が近づくと笹森さんが何か呟いているのが聞こえた。
「選ばれた子だけが幸せになるのね……」
僕もショーケースに動物が並べられている、この光景があまり好きではない。僕は笹森さんを促して足早にペットショップを後にした。
僕は時計を確認するとだいぶ時間が経っていた。
「そろそろ二人と合流しようか?」
「もうこんな時間なんだ。楽しかったから、あっという間だね」
僕が雛山の携帯電話に連絡すると、すぐ近くにいるらしい。待ち合わせ場所へ向かうと満足気な表情をした藍原さんと、小さな紙袋を抱え、酷く疲れた様子の雛山がベンチに腰掛けていた。どうやら荷物持ちの必要はなかったようだ。
「疲れた……」雛山はグッタリとして、幾分かやつれたように見える。
「体力ないわね。まったく」藍原さんは体力が有り余っているようだ。
帰り道、僕は雛山の愚痴を聞きながら歩いていると、先頭を歩く藍原さんが笹森さんに何か耳打ちをしていた。女性は女性同士で盛り上がっているようだ。僕は何度目か分からない雛山の愚痴を聞きながら駅まで歩いた。
駅に到着すると藍原さんが僕と雛山の方に振り返り、提案を持ちかけてきた。
「来週、期末テストがあるでしょう。だから皆で勉強会しよ」
「勉強会ねぇ……」雛山は訝しげな表情をする。
「別に私が教えてもらいたい訳じゃないわよ。莉緒は転校してきたばかりで、一人じゃ分からない所もあるでしょ」
藍原さんの話は確かに一理ある。笹森さんと僕らでは授業の進捗も違うだろう。
「教えられる範囲であれば、僕は構わないよ」
「俺も反対する理由はないよ。ただ、芹那がちゃんと勉強するのかが不安だな」
雛山は藍原さんを指さしながらそう言った。
「あくまで莉緒が心配だからであって、私はついでに教えてもらうだけだから大丈夫」
「だからそのついでが怪しいんだよ」雛山と藍原さんは、また二人でじゃれ合い始めた。
そんなやり取りを眺めていると笹森さんが僕に声をかけてきた。
「今日はありがとう、本当に楽しかった」笹森さんは丁寧に頭を下げた。
僕は3人と別れ、自宅へ戻った。
僕がリビングの扉を開けるとソファの上に寝転んだ、猫の姿をしたあんこさんがいた。あんこさんは僕の姿を見ると興味なさげにそっぽを向いて欠伸をした。
「あんこさんお土産、買ってきたよ」
僕が声をかけると寝転んでいたあんこさんが飛び起きた。ゴロゴロと喉を鳴らしながら僕の足首に顔を押し付けている。なんて現金な猫だ。買ってきた猫用のおやつを与えるとあんこさんは満足気に食べ始めた。
未緒さんの姿は見当たらない。今朝、後輩の祐香さんに会いに行くと言っていたが、まだ帰ってきていないようだ。久しぶりの友人との再開に話が盛り上がっているのだろうか?あまり遅くならなければいいのだが……。
岩永未緒は後輩の渡辺祐香との待ち合わせ場所に向かうため、家を出た。辺りは既に暗くなり始めている。この時期になると日が暮れるのが早い。
待ち合わせ場所に着くと既に祐香が待っていた。
「ごめんね、待たせちゃった」私は小走りに近づく。
「全然待ってないですよ、お久しぶりです未緒先輩」
渡辺祐香は私が高校生の頃、剣道部に入部してきた後輩だった。主将であった私に良く懐いており、祐香に目を掛けていた。彼女はメキメキと腕を上げ、私が卒業すると、後を継ぐように主将の座についた。私が卒業してからも祐香と連絡を取り合っていたため、彼女の部活での悩みや進路についてもよく相談に乗っていた。そのせいか彼女は高校を卒業すると私の後を追うように、同じ大学に入学してきたのだ。そしてまた、後輩として一緒に大学生活を送った。それから数えると祐香とは長い付き合いになる。
私達はお互いの近況報告や、懐かしい話に盛り上がりながら予約した居酒屋へ向かった。
それから、どれだけ時間が経ったのだろう。私は祐香とのお喋りに夢中で本来の目的を忘れていたが、ようやく思い出した。
「そうだ、今日はナベの方に用事があったんだ」
「先輩、電話でもそう言ってましたよね。どうしたんですか、悠一に用なんて?」
「私の用って訳ではないんだけど、一緒に暮らしてる従兄弟のアー君に頼まれてね」
「懐かしいな、昔はよく悠一と一緒に遊んでましたよね。ちょっと連絡してみますね」
祐香は鞄から携帯電話を取り出すと、ナベの携帯電話に掛けたのだが繋がらないようだ。
「おかしいな、もうアルバイトは終わってるはずなんだけど……」
「忙しいなら仕方がないわね。また、今度でもいいから」
私達はまた、お喋りに花を咲かせた。
「今日は楽しかったです。また今度も会いましょうよ、先輩」
「そうね。また、近いうちに会いましょう」そう言って私は祐香と別れた。
結局、本来の目的は果たせなかったが、ナベと連絡がついたら私の携帯電話に連絡するよう、祐香にお願いはしてきた。問題はないだろう。
夜風に当たりながら繁華街を一人歩く。いつの間にか年末だ、時の流れが本当に早く感じる。子供の頃はそんな事を感じなかったが、大人になり仕事を始めてからだ。多分、季節の移ろいを感じる時間と、心の余裕が無くなってしまったからだろう。
辺りには忘年会帰りと思われる、スーツ姿のサラリーマンが何人も歩いている。酔っぱらいを介抱している警察官達を横目に通り過ぎ、きらびやかな繁華街を抜けると人通りの少ない道に出た。この道を通るのも久し振りだった。この先にある病院に何度かお世話になった事があるのだが先月、新しい病院が完成したため今はこちらの病院は閉鎖されている。病院の周りは建設業者が立てた白い塀で建物全体が覆われていた。近々、取り壊されるのだろう。
病院を横目で眺めながら通り過ぎようとすると、路地の奥から悲鳴が聞こえた。病院とビルの間にある細い路地からのようだ。職業柄無視するわけにはいかない。
確か……、こっちの方から聞こえたはず。悲鳴の聞こえた路地に入ろうとすると、一人の女性が奥から這い出てきた。
「大丈夫ですか? どうしました」
女性は震えながら無言で路地の奥を指さしている。暗くて奥の方まではよく見えない。私はゆっくりと路地の奥へ近づいて行く。足元からピチャピチャと水音がする。水溜りがあるようだ。薄暗い路地に月明かりがさし込み、辺りを照らした。
「なっ……」私は驚きのあまり、言葉が出ない。
壁一面を染め上げるように、おびただしい量の血が飛び散っていた。私の足元には男がうつ伏せに倒れていた。倒れた男を中心に、辺りは血の海とかしている。男の背中には幾つもの傷跡が見える、何度も刃物を突き立てられたようだ。この出血量であれば、既に亡くなっているだろう。
奥にもう一人、誰かが倒れているのが見えた。服装からして多分、女性だろう。壁に持たれている女性の首が、体から落ちかけていた……。その光景はまさに地獄絵図だった。
私は携帯電話を取り出すと警察に通報した。
「もしもし、殺人事件です。現場は……」
血で溢れかえった路地を引き返すと女性がうずくまり震えていた。私は彼女に付き添いながら警察の到着を待つ事にした。
暫くするとサイレンの音と共に、私達の側に警察車両が一台停車した。
扉が開き、車の中から一人の男が私達に近づいてくる。
「大丈夫ですか? あなたが通報してくれた……、あれ、岩永さん?」
男は少し驚いた声を上げた。車のライトに照らされ顔はよく見えなかったが、声で私の後輩刑事である中野健吾だと分かった。
「中野、彼女を温かい所へ。この奥が現場よ、こちら側の入り口にずっといたから通り抜けた人はいないけど反対の通路までは見れていないからそっちを塞いで!」
私が指示を出すと警察官達が一斉に動き始めた。
現場を確認に行った中野が青ざめた顔をしてこちらに戻ってきた。私もそうだが、ここまで凄惨な現場を経験した事は一度もなかった。
野次馬も増えてきたため、周辺が慌ただしくなる。私は現場から少し離れた所に腰を下ろし、その様子を眺めていた。
休日の最後に殺人事件とはついてない。詳しい話は明日、中野から聞けばいいか……。
そんな事を考えながら周囲を眺めていると、中野が声をかけてきた。
「岩永さん、後はこちらでやりますから家まで送りますよ」
今日は疲れた。昼間に家事を済ませ、夜は後輩と再開したと思ったらその帰りに殺人事件だ。中野の言葉に甘えようと思った時、私の携帯電話が鳴った。祐香からだ。
「もしもし、祐香。どうしたの?」
「すいません未緒先輩、悠一の事なんですけど……、まだ家に帰ってきてなくて」
私は時計を確認すると十一時を過ぎていた。確かに高校生が出歩くには遅い時間だ。
「もしかしたら、何か事件に巻き込まれたんじゃないかと思って心配で……」
その時、救急隊が担架に乗せた被害者を運び出していた。一瞬、顔が見えた。
血で汚れてはいたが、その相貌は間違いなく渡辺悠一であった……。
4
岩永未緒は服を着替えるため一旦、自宅へと戻ってきた。
熱いシャワーを浴びながら目を瞑ると祐香の顔が浮かんだ。先程の光景が頭をよぎる。
――あの後、祐香に事実を伝え、遺体の身元確認をしてもらった。確認するまでもないが、間違いなく渡辺悠一であった。祐香は遺体を前に泣き崩れ、ご両親は呆然と立ち尽くしていた。私は祐香を慰めようとしたが、掛ける言葉が分からなかった――。
シャワーを止め、着替えを済ませると中野に連絡を入れた。
「もしもし中野、状況は?」
「聞き込み中に、現場から逃げ去る不審な男を見たという目撃証言があって今、包囲網を敷いて行方を追っています」
「分かった。私もすぐに合流する」
現場に戻ると報道陣が周囲を取り囲んでいた。煌々と照明で照らされているため、その場所だけ昼間のように明るい。鬱陶しい事この上ない。普段であれば腹を立てる事などないが、今は些細な事でも神経を逆なでする。私は報道陣の脇を抜け、中野の側に近寄る。
「中野、容疑者は見つかった?」
「お疲れ様です、まだ足取りは掴めていません。それと鑑識が終わりまして、簡単な報告を受けたので……」
中野は手帳を開くと話し始めた。
「被害者は渡辺悠一と古谷明美の二人です。二人はアルバイト先からの帰宅途中に襲われたようで、死亡推定時刻は午後八時頃から十時の間です。現場付近を捜索したのですが、凶器等は見つかっていません。犯人は凶器を持ったまま逃走していると思われます。その犯人なんですが聞き込み中、血の付いた黒いジャンパーを着た男が路地から出てくるのを見かけたという目撃証言が複数あったため、現在その男の行方を追っています」
私は事件現場を目撃した時の様子を思い出した。あれだけ凄惨な現場だ、相当返り血も浴びていたはずだろう。
「明日、司法解剖が行われるので詳しい報告はそれからですね」中野は手帳を閉じた。
一通りの話を聞き終えると警察無線から連絡が入った。人員が足りていない場所があるようだ。私は中野と共に現場へ向かった。
神岸綾人は朝食を食べながらニュース番組を見ていた。
渡辺悠一に会うと言っていた未緒さんは結局、帰ってきていないようだ。未緒さんの職業を考えれば心配は無用かもしれないが、何の連絡もない事が少し気になった。
「昨夜未明、高校生の男女が鋭利な刃物によって殺害された模様です。被害者はいずれも体を複数、斬りつけられており……」
ニュースでは朝から凄惨な事件の報道をしていた。僕はチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたその時。
「被害者は渡辺悠一さん……、古谷明美さん……」
どういう事だ? テレビには男女二人の顔写真が映された。楽しそうに笑っているその写真の男は渡辺悠一だった。子供の頃から成長してはいるが、渡辺悠一だとハッキリと分かる。僕の知っている渡辺悠一で間違いないだろう。女性の方は知らない顔だった。
心がざわつく、ニュースで知り合いの死を知るなんて経験のある人は少ないだろう。何ともいえない妙な気分だった。僕はコーヒーを一口飲む、苦味が口の中に広がっていく。未緒さんが帰ってこない理由に察しがついた。
映像が切り替わると事件現場の様子が写された。僕も知っている場所だった。
リビングの扉が小さく開いた。あんこさんが起きてきたようだ。猫の姿をしたあんこさんは僕の膝の上に飛び乗ってきた。
「何を呆けた顔をしているんだ。食べないのならパン、貰うぞ」
あんこさんは僕の返事を待たず、皿の上に乗ったパンを齧った。
「友達が事件に巻き込まて、殺されたらしいんだ」
あんこさんは食べるのを止めると、テレビの方へ顔を向けた。
事件現場の中継が終わると再びアナウンサーが喋りだした。脇に控えたコメンテーター達は事件の異常性に触れ、それぞれの意見を話している。そして、次のニュースに切り替わるとアナウンサーは何言もなかったかのように微笑みながら原稿を読み上げていた。
「主よ、時間はいいのか?」
あんこさんに言われて時計を見る。しまった、少し急がないと間に合わない。僕は食べかけのパンを残して家を出た。
授業が終わり、僕が帰る準備をしていると藍原さんが近づいてきた。
「この間、言ったとおり今日から皆でテスト勉強しましょう」
僕は少し驚いた。あれは社交辞令じゃなかったのか、まさか本当にテスト勉強をするとは思っていなかった。
「場所はどこにする?」雛山が尋ねる。
「図書室とかは?」笹森さんが答えた。
僕以外の3人は当然のように話を進めていた。
「場所はもう決まってるの、私の家よ!」藍原さんが力強く答えた。
雛山は特に異論は無いようだ。僕は黙っていたので自動的に賛成に含まれた。
「でも、こんな大人数で押し掛けて迷惑にならない?」笹森さんは躊躇しているようだ。
「大丈夫よ、莉緒。気にしないで」
笹森さんは藍原さんに押し切られ、こうしてテスト勉強をする場所が決まった。
「ここが私の家よ」
僕らが藍原さんに案内された場所は純日本家屋の大豪邸だった。僕と笹森さんは藍原さんの家にお邪魔するのは初めてだったので、立派な門構えに圧倒された。驚いている僕らに幼馴染の雛山が説明してくれた。
「芹那の親父さんって建設会社の社長なんだよ。アイツ、ああ見えても社長令嬢なんだぜ」
驚いている僕らを尻目に雛山は勝手知ったる、といった様子で藍原さんの後を付いて中へ入って行った。僕らが玄関前で躊躇していると藍原さんに急かされた。
「そんな所でどうしたの? 早く上がって」
僕らは二階にある藍原さんの自室へ案内された。
室内は女の子らしく可愛らしい小物やヌイグルミ等が置かれ、綺麗に片付けられていた。
「飲み物とお菓子持ってくるから、ゆっくりしてて」
藍原さんはそう言って部屋を出て行った。
「アイツ勉強する気ないだろう」雛山は無造作にクッションの上に腰を下ろすとぼやいた。
僕らは遠慮がちに座ると、飲み物やお菓子を抱えた藍原さんが戻ってきた。
「じゃあ、早速始めましょう」そう言って藍原さんはお菓子の袋を開けた。
「ほらな」雛山の予想が見事的中した。
雛山の説教が終わり、ようやくテスト勉強が始まった。
藍原さんは手より口の方がよく動くので雛山に度々注意される。そうしていると雛山は藍原さんに付きっきりになり、自然と僕が笹森さんにテスト範囲を教えるような状況になっていた。笹森さんは頭の回転が早いようで、少し教えるだけでスラスラと問題を解いていく。これならば問題ないだろう。一方、藍原さんは雛山に匙を投げられていた。こちらの方が問題だった。
「もう無理、休憩しよ」藍原さんは音を上げた。
時計を見るとかなり時間が経っていた。自然と皆も手を止めた。
「雛山君の家って芹那ちゃん家の近くなの?」笹森さんが尋ねた。
「ああ、この窓から見える家がそうだよ」
窓を指さした先に家が見えた。あれがそうなのか、確かにすぐ隣だ。
「だから下着とか干すのが怖くって~」藍原さんは冗談混じりに笹森さんへ話している。
「そういえばこの間、うちの庭にお前のパンツが落ちてたぞ」
「嘘でしょ。あれ、そういえば一枚足らなかったような……」
藍原さんは思い当たる節があるのか、考え込んでいる。
「冗談だよ。本当に飛んできたらお前に直接、手渡すから安心しろ」
雛山は笑いながら答えた。
「そっちの方がもっと嫌!」
そんな雑談をしていると、外が暗くなってきた。
「昨日、近所で殺人事件があったってニュースで言ってたよね。しかも隣町でしょ。あんまり遅くなると危ないから、今日はここ迄にしようか」
藍原さんの提案により、最初の勉強会はこうしてお開きとなった。
僕と笹森さんは一緒に帰り道を歩いていた。
「本当に仲が良いね、あの二人」
「子供の頃からの幼馴染らしいからね」
暗い夜道を二人並んで歩く。外灯の明かりが僕らを時折、照らす。
「笹森さん。前に電話した時、写真に写っていた男の子に話を聞きに行くって言ったよね」
「うん、覚えてるけど?」
「実はその約束をした彼が、殺されたみたいなんだ」
「えっ、殺された?」
「昨日、起こった殺人事件に巻き込まれたらしい」
「あの事件に……」笹森さんは俯いた。
「お姉さんの事で、また何か分かったら伝えるから……」
「神岸君。ちょっと手を貸して」笹森さんは小さく呟いた。
僕が右手を伸ばすと笹森さんは自身の指を絡ませ、胸元に引き寄せた。柔らかい彼女の指から温もりが直接伝わってくる。それは何かを祈るような姿にも見える。暫くそうしていると笹森さんはそっと手を離し『神岸君、またね』、そう言って小走りに去って行った。
岩永未緒は司法解剖の報告書を読み終えると、椅子に深く背中を預けた。
報告書によると被害者である渡辺悠一は肋骨の隙間を縫うように刃物を突き刺され、傷が肺にまで達したため死亡。それ以外の傷は全て、死後に付けられたものらしい。もう一人の被害者である古谷明美は首の損傷が特に激しかった。頚動脈にまで達した傷による出血多量のショック死と記されていた。被害者は共に正面から襲われたようだ。凶器は刃渡り65センチから75センチ位の長さで、刺し傷の形状から日本刀と判明した。
渡辺悠一と古谷明美が殺害され、あれから一晩が過ぎた。目撃証言から血の付いた黒いジャンパーを着た男を捜索したのだが、未だに行方は分かっていない。被害者の身辺調査なども行われたが、恨みを買っていたというような事実はなく、通り魔による犯行の線で捜査は進んでいた。ニュースでは大きくこの事件が取り上げられ、一部のマスコミでは「平成の辻斬」などと言って騒いでいるようだ。
昨晩、私は自宅には戻らず、徹夜で捜査にあたっていたのだが未だに大した収穫は無い。私はコーヒーを飲み干すと気怠い体に鞭を打ち、席を立った。昼間、聞き込みのため事件現場付近の住宅を虱潰し(しらみつぶ)に回っていたのだが、不在のため話を聞けていない家が幾つかあったのだ。
辺りは日が落ち、外灯だけが周辺を照らしている。事件現場となった路地は封鎖されており、脇に献花された花束が見える。萎れはじめている花束が私の気分を不快にさせた。
私は事件現場となった路地の正面に位置するマンションにやってきた。マンションのエントランスからも路地が見える。目撃者がいる可能性が高いはずだ。
私はエレベーターに乗り、ある部屋の前に立った。昼間も何度か訪れたのだが不在だった。インターホンを押すと電子音が鳴り響いた。私はこの間に笑顔を作る心の準備をしている。しかし、何の反応も無いようだ、また不在か。
私が立ち去ろうとした時、インターホンから声が聞こえた。
「誰ですか?」
声は女性のようだ。警戒している雰囲気を感じる。私は極力明るい声で答えた。
「夜分遅くに申し訳ありません。警察の者なんですが」
暫くすると扉の鍵が空き、中から若い女性が顔を出した。チェーンロックは掛かったままだ、隙間から警察手帳を見せた。
「少しお話を伺ってもよろしいですか?」
「警察の人? 良かった……。お願い、助けて下さい」
女性は今にも泣き出しそうな表情で叫んだ。
「どうしたんですか?」
「今朝、郵便受けにこんな写真と一緒に手紙が入っていたんです」
私は女性から差し出された写真と手紙を受け取った。写真にはマンションの入口前で、彼女が男性と手を繋いで中へ入って行く様子が数枚に渡り写っていた。そして、手紙には彼女を脅迫するような内容が羅列されていた。どうやらストーカー被害に遭っているようだ。少し厄介な事になった。
「もう、自宅まで調べられて……」彼女は泣き出してしまった。
昨日に続いて今日も女性を慰める羽目になった。泣きたいのはこっちの方だ。暫く付き添っていると、ようやく落ち着いた彼女が口を開いた。
「この写真、昨日の事件があった日に撮られたものなんです。今もこの近くにいるかもしれないって考えると怖くて……」
私は写真を改めて見た。写真の角度から閉鎖された病院で撮影されたようだ。
「落ち着いて下さい。この写真を撮られた時間って、覚えてます?」
「確か、九時頃だったと思います」
死亡推定時刻とも合う。ようやく目撃者を見つけた。彼女から詳しい話を聞こうとすると部屋の中へ招かれた。
室内は綺麗に片付けられており、部屋の様子から一人暮らしのようだ。
「挨拶が遅れました。私はG県警の岩永未緒と言います」
「こちらこそ、突然泣きついてしまってごめんなさい。私、三原真紀と言います」
「早速で申し訳ありませんが、この写真を送ってきた人物に心当たりはありませんか?」
彼女は少し躊躇したが喋り始めた。
「多分、私の勤めている会社と取引のある下請け会社の木村さんじゃないかと思ってます」
彼女は断定するように言い切った。
「その、木村さんと過去にトラブルでもあったんですか?」
「私が勤めている会社に出入りしている営業の方なので何度かお話をした事があったんですが、しつこく食事に誘われる事があってそれを何度も断っていたんです。ある日、私の帰りを待ち伏せしていて、強引に連れていかれそうになった事があったんです。その時は他の社員の方に助けてもらったんですけど……」
「なるほど。かなり強引ですね」
「ええ、それがきっかけで担当営業の方を替えてもらったんです」
ストーカーの動機としては、この木村という男は充分だろう。
「分かりました。とりあえず木村さんに話を伺ってみます。それと、地元の交番にパトロールの強化と警備をするように頼んでおきますので、一人で出歩くのはなるべく避けて下さい。それと、この写真お借りしてもよろしいですか?」
「はい、構いません」
彼女から木村が勤めている会社の名前を聞き、部屋を後にした。
木村が勤めている会社はここからそれ程離れてはいない。時間は遅いが、まだ残っている人間もいるだろう。私は木村が勤めている会社へ向かった。
三原真紀に教えられた住所を頼りに会社を探す。教えられた住所には古びたオフィスビルがあった。2階の窓から明かりが漏れている。残業している人間が残っているようだ。階段を登り明かりの漏れる部屋へ入ると、数名の人間がデスクに向かい仕事をしていた。一人の男が私に気が付き近づいてきた。
「あの、すいません。私、G県警の岩永未緒と言います……」
私は手帳を見せ、簡単に事情を説明した。
男の名前は木村信敏、三十四歳。2日程前から無断欠勤しており、連絡が取れないらしい。私は木村の住所を教えてもらい、アパートを尋ねる事にした。念のため、中野と合流しておくか……。
中野と合流した私は教えられた住所へとやって来た。2階建ての古びたアパートが見える。木村の部屋は2階だ、ギシギシと軋む階段を登る。手すりが所々錆び付いていた。
部屋の明かりは付いていない。色褪せた扉の下には郵便受けが付いており、その隙間から手紙や新聞紙が突き出たまま放置されている。インターホンを押してみるが壊れているのか、何の反応もない。
「警察です! 木村さん、いらっしゃいますか!」
中野がドアをノックしながら声をかけるが、やはり何の反応もない。中野がドアノブを回すと扉が開いた。鍵が掛かっていないようだ。室内に声をかけてみたが返事はない。私も中を覗く、薄暗い室内の床にはゴミが散乱し、足の踏み場もないくらい散らかっていた。
私達は大家から許可を貰うと中へ入った。持ってきた懐中電灯で暗闇を照らしながら奥へと進む。壁際にスイッチを発見して明かりを付けた。部屋中、ゴミだらけだ。男の一人暮らしといえる部屋だ。
「この様子だと暫く、自宅には戻ってきてないみたいですね」
中野は無造作に開けられたままの押入れを覗きながら答えた。
私はベッドの脇に置かれた黒いゴミ袋に目が止まった。袋の質感が新しく、あまりシワもない。最近取り出された袋のようだ。縛ってある口を開くと中を覗いた。
「中野、鑑識に連絡して」
袋の中には血痕の付いた黒いジャンパーが捨てられていた……。
翌日、岩永未緒は中野と共に木村が写真を撮影していたと思われる病院へやって来た。
昨夜、木村の部屋から発見されたジャンパーに付着した血痕は検査の結果、渡辺悠一と古谷明美の物と判明した。しかし、木村の部屋からは血痕の付着したジャンパー以外、他には何も見つからなかった。
私達は事件当日の木村の行動を探るため、病院へとやって来た。外周が白い塀で囲われているため、中の様子は外からは分からない。病院からの許可は貰ってある。建設業者から借りた鍵で正面の扉を開けると、私達は中へ入った。周囲を見渡すと草が生い茂り、無人となった建物は老朽化が激しく、窓ガラスは割られ、壁が所々ヒビ割れていた。人の手が入らないと建物も人間と同じく、朽ちるのが早くなるのだろう。
「こういう廃墟って、何かワクワクしますね」中野は少し嬉しそうに話しかけてきた。
「遊びじゃないのよ。私は薄気味悪いわね」
「岩永さん、お化け屋敷とか苦手ですか?」
私は中野を無視して先に進んだ。お化け屋敷はどちらかと言えば得意ではないが、中野にそれを言うのは嫌だった。
病院だった建物の正面口は鍵が開いており、簡単に中へ入る事が出来た。
病院特有の匂いもない、やはり使われなくなれば匂いも消えるのだろうか?
過去に何度かこの病院で診てもらう機会があったが、その度に気味が悪いと感じていた。電気の付いていない院内は昼間だというのに薄暗く、昔より不気味さを増していた。私は持参した懐中電灯を付けると、待合室だった場所を通り抜け、奥にある階段へ向かった。手すりには埃が溜まり、暫く使われていない様子が伺える。階段を登るとナースセンターが見えた。長い廊下が奥まで続いており、何もない通路は閑散としていた。
私は三原真紀から預かった写真を取り出した。位置としては2階の一番奥の部屋から撮られたはずだ。窓から差し込む明かりがリノリウムの廊下を照らす。私は懐中電灯をしまうと歩き出した。
何も無い広い部屋が幾つもある。元々、入院患者用の病室として使われていたのだろう。そして一番奥の病室へと辿り着いた。窓から差し込む光が広い室内を照らしている。周囲には何も無い……、否、窓際に何か落ちている。あれは……。
「パンの空き袋にペットボトルか……」
私は中野から袋を受け取ると、そのゴミを回収した。多分、木村が捨てたものだろう。窓から表を眺めると三原真紀の住んでいるマンションの入り口が覗ける。
「木村がここから盗撮していたのは確実そうですね」
中野はバックの中に袋をしまいながら答えた。
私は窓から殺害現場となった路地を覗こうとしたが、白い塀で覆われているため見る事ができなかった。だが、塀の下に作業員が出入りするための扉があるのが分かった。
ここから殺害現場は見えない。となると撮影を終えて、下にある扉から出て行った時に被害者と鉢合わせしたのか……。
私達は確認のため、扉の前へやって来た。ノブを捻ると簡単に開く、どうやら鍵が壊されているようだ。扉の先は渡辺悠一と古谷明美が殺害された現場と繋がっている。
「鑑識に連絡してこのノブの指紋も調べさせましょう」
先程まで私達がいた2階の病室を振り返るとこちらからも見えなかった。
「岩永さん、昼飯食べていきませんか?」
病院の捜索を終え、外に出ると中野が提案してきた。言われて気がついたが、いつの間にかお昼になっていた。私もお腹が空いていたので中野の提案に乗る事にした。私達は通り沿いにあった蕎麦屋の暖簾をくぐった。
「天ぷら蕎麦と、鴨せいろで」
中野が店員に注文を済ませると、私はお絞りで手を拭いた。
「岩永さんはどう思います? 木村が犯人だと思いますか?」
「物証と情況証拠が揃っているから犯人と思うのが自然でしょうね。でも、何とも言えないわね。部屋にあったのは血痕の付いたジャンパーだけだし、少なくとも事件の目撃者ではあるとは思うけど……」
「凶器も一緒に見つかっていれば決定的なんですけど、部屋に無かったって事は、やっぱり捨てたんですかね?」
「そうかもしれないけど、それなら普通はジャンパーも一緒に捨てそうなものだけど」
「そうですよね。凶器は別の場所に捨てたのに血痕の付いたジャンパーだけは、自宅に置きに戻るっていうのも可怪しな話ですよね。動揺してたんですかね?」
「動揺ね……、でも木村は、次の日には三原真紀宛の脅迫状を送りつけているのよ。そんな余裕があるのになぜかしら?」
「確かに可怪しいですよね。あと、木村の部屋の様子からして刀が趣味って感じではないですよね?」
「そうよね、あんなゴミだらけの部屋には刀は似合わないわ」
「それともう一つ、木村が犯人ならどうして赤の他人を襲ったんですかね? 動機が分からないですよ」
「動機は確かに不明ね。無理やりこじつけるとすれば、見せしめ的な意味で殺したとか?」
「どういう事ですか?」
「他の男と一緒にいる事に逆上した木村が、彼女に恐怖を与えるために殺したとか?」
「過去に三原真紀を強引に連れ去ろうとした木村が彼女を狙わず、関係ない人間を襲ったって事ですか? 三原真紀と一緒にいた男を狙うのならまだしも……」
「無理やりこじつければって言ってるでしょう。結局のところ動機なんて私達が納得できるような理由でなければ全部、異常な犯罪で片付けられるんだから考えるだけ無駄よ」
「そうなんですけどね」
「目撃者が大勢いたんだから捕まえてみれば分かる事よ」
そんな話をしていると注文した蕎麦が届いた。
5
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。藍原芹那は教科書と筆記用具を持つと席を立った。次の授業は別の教室で行われる。
廊下を歩いていると並んで歩く、莉緒と神岸君の後ろ姿が見えた。莉緒は少し神岸君を見上げるような格好で微笑んで話しかけている。対して神岸君はクールな顔をして莉緒の話に相槌を打っている。私は二人の距離感が近い事に気が付いた。それは二人の位置の話ではなく、心の距離? よく分からないが、とにかく今まで以上に仲が良くなっているように見えた。私は少し歩く速度を落として後ろからこっそりと二人の様子を観察する。
莉緒は笑ったり、怒ったりしながらコロコロと表情を変え、楽しそうに話をしている。神岸君も満更ではない様子だ。普段、仏頂面した神岸君の顔が綻んでいる。
その時、教室の扉が開いて男子生徒が急に飛び出してきた。莉緒とぶつかる!
私が声を上げようとした瞬間、神岸君が莉緒の肩を掴んで抱きしめるような格好で間に割り込んだ。飛び出してきた男子生徒は神岸君の背中にぶつかった。男子生徒は一言謝ると走り去っていった。神岸君が手を離すと莉緒が頭を下げて何かを言っている。そして二人は何言もなかったように歩き出した。
これは……、もう一押しあれば二人は付き合う! 私は確信した。
興奮している私の横を雅史が通り過ぎた。雅史は神岸君に声をかけようとしている。
「神ぎ……、 何すんだよ!」
私は慌てて雅史の口を塞いで止めた。この男はなぜ、空気が読めない!
「待って雅史、落ち着いて。莉緒と神岸君の様子を見て、何も思わない?」
「えー、神岸はボケっとしてるし、莉緒ちゃんはいつも通り可愛い」
「違うわよ。二人だけの空間に他人が土足で入り込める余地があると思ってるの?」
「そんな雰囲気か?」雅史は首を捻っている。
雅史は駄目だ、分かってない。これは莉緒と神岸君のためにも私が一肌脱がねば、そう心に誓った。
神岸綾人が帰宅する準備をしていると隣の席に座る、笹森莉緒に声をかけられた。
「今日はよろしくね、神岸君」
ここ数日、藍原さんの家に集まりテスト勉強をしていた。最初の目的は転校生である笹森さんのためにという事だったが笹森さんは飲み込みが早く、ほとんど教える必要は無かった。寧ろ、教える必要性があったのは藍原さんの方であった。雛山からは『このままだと、来年は俺達の後輩だな』と匙を投げられていた。
――そんな藍原さんが発した何気ない一言でテスト勉強の目的が大きく変わった。
「そうか、分かった! 私が勉強に集中出来ないのは私のせいじゃないの。自分の部屋だからダメなのよ!」
「お前が勉強に集中できないのは忍耐力が無いだけだ」
雛山はそう言って藍原さんの主張を一蹴した。
「忍耐力は人一倍あるわ。でも駄目なの、自分の部屋だと楽しい物がいっぱいあるし、くつろいじゃうから集中できないの。だから、今度は他の人の家で勉強しようよ」
「他の人の家?」
雛山が興味を持つと藍原さんは畳み掛けるように喋りだした。
「そう、他の人の家。そもそも、勉強なんて学校に行ってやる必要なんて無いじゃない。教科書だけ貰って分からない所があれば、後で電話やメールでまとめて尋ねればいいはずよね。でも学校に集まって勉強をする。これはなぜか? つまり、自分の家だとあまり集中できないからなのよ。だから学校で勉強したり、塾に通って勉強したりするの。つまり環境を変えるという事はとても重要なの!」
無茶苦茶な主張に雛山は圧倒され、僕と笹森さんは唖然としていた。
それからあっという間に話は纏まり、明日は僕の家でテスト勉強をするという事に急遽決まった。連日、笹森さんの家にお邪魔をしていた僕は断れる理由もないため、了承したのであった――。
僕は自宅の扉の鍵を開けると皆をリビングへ招き入れた。笹森さんと雛山は静かに床に座り、藍原さんは興味深げに周囲を物色し始めた。
「神岸君のご両親は帰ってこないの?」藍原さんが尋ねてきた。
「両親は海外出張でいないんだ。今は親戚のお姉さんと二人暮らし」
僕は飲み物を準備するためキッチンへ向かうと、リビングから笹森さんの声が聞こえた。
「可愛い~。この猫ちゃんが神岸君の言ってた子?」
リビングへあんこさんがやってきたようだ。皆を一瞥すると興味なさげにソファに横になって欠伸をした。
「黒猫か、珍しいな」雛山も興味を持ったようだ。
「飼い主に似て、愛想がないわね」藍原さんは呟いた。
笹森さんはあんこさんに近づくと、喉を撫で始めた。あんこさんはゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
「可愛いな、私にも触らせて」
藍原さんがあんこさんを撫でようと手を近づけると、指に噛み付いた。
「痛い! 何で私の指は噛むのよ」
「騒がしいからだよ。お前の目的はテスト勉強だろう!」
雛山がそう言うと、藍原さんは渋々と座り教科書を広げた。
前日の宣言通り、藍原さんも勉強に集中し始めた。リビングには教科書を捲る音と、芯の削れる音が静かに交差している。時折、笹森さんが分からない所で悩んでいると僕が解き方を教える。雛山は藍原さんに付きっきりで教えていた。
休憩中、藍原さんが突然提案した。
「テストが終わったら、皆で遊園地に行かない? お父さんが取引先から遊園地のチケットを貰ってきて、余ってるのよね」
藍原さんはバックを漁り、中からチケットを取り出して皆に見せた。
「タダで行けるんだ。いいね、楽しそうだな」雛山も賛同した。
「二人もいいよね?」藍原さんは主に笹森さんを見つめながら尋ねている。
「うん、楽しみ!」笹森さんは即答した。
僕も頷いて返事をした。
「じゃあ決まりね!」
来週もこのメンバーで集まる事になった。皆と一緒にいる時間が多くなったなと思う。特に笹森さんと話す機会が増えた。友達の少ない僕には嬉しい事だった。
日が落ちて辺りが暗くなったため、そろそろお開きという事になった。
僕は玄関先で皆を見送っていると笹森さんに声をかけられた。
「今日はありがとう、神岸君。また明日ね」彼女は可愛らしく微笑んだ。
見送りを済ませ、家へ戻ろうとするとあんこさんが廊下を歩いてきた。
「五月蝿い連中だな。何だ、あいつらは?」
「僕の友達。ごめんね、あんこさん」
「構わん、主の家だからな。居候の私がとやかく言う筋合いはない……。だがあの女、主に好意を持っているようだな」
そう言うとあんこさんは扉の隙間から出て行った。あんこさんは誰とは言っていないが、頭に笹森さんの顔が浮かんだ。他の人から見るとそういう風に映るのだろうか?
僕は寒いので扉を閉めた。
あんこは闇の中を縦横無尽に飛び回っていた。明かりの漏れる住宅街を抜け、ネオン煌く繁華街の路地を抜け、腹が減れば獲物を探し、喉が渇けば水を探す。何か楽しそうな物があれば寄り道する。つまり散歩だ。
そういえばあいつら遊園地とか言っていたな……。
あんこはぼんやりとそんな事を考えながら藪の中を歩いていると、人気の少ない場所へと辿り着いた。どこかの公園らしい、見覚えのない場所だった。しかし、腹が減ったな。
あんこは獲物を探すため、生い茂った草むらの中へ飛び込んだ。すると一匹の鼠を見つけた。あんこは気づかれないように四肢を曲げ、姿勢を低くすると鼠の背後に忍び寄った。
その時、どこからか女の悲鳴が聞こえた。あんこは気にせず獲物に飛びかかったが鼠は一息先に、逃げてしまった。
逃したか。何だ、さっきの声は、酔っぱらいか?
仕方なく戻ろうとした時、人の気配を感じた。あんこは本能的に身を潜め、隙間から人間を覗き見た。足元しか見えないがビニール製のズボンと血の滴る刀の切先が見えた……。
岩永未緒は後輩刑事の中野が運転する車に乗って事件現場へと向かっていた。車は止まる事なくスムーズに走っている。
私はウィンドウ越しに街の風景を眺めた。先日、病院を調べた際に回収したパンの袋とペットボトルから木村のDNAと指紋が発見された。そして、扉のノブに付いた指紋も木村のものと判明した。しかし、三原真紀に送られた脅迫状からは何も見つからなかった。
行動に何の計画性も無いように見える。つまり、衝動的に行ったという事だろうか?
そして、それを裏付けるようにまた犠牲者が出てしまった。前回の事件と同様、高校生が狙われたらしい。木村は未だ見つかっていない……。
私は時折この仕事が嫌になってくる事がある。疲労が溜まっているせいか、今日は特に最悪だ。ストレスが許容量を超えて溢れている。体がスポンジで心がその器だとすれば、水を含ませたスポンジに更に水を含ませようとしても溢れるだけだ。その溢れた水がさらに心を圧迫する。過去の経験からこんな時の対処法は分かっている、私は目を瞑った。
若い頃は自分が世の中で一番大変な仕事をしていると本気で思っていた。朝早くから夜遅くまで駆けずり回り、時には泊まりがけでの仕事だ。身の危険に晒される事もある。
こんな仕事ではなく、別の職業に就いていたらどうなっていただろう? 辛くなるとそんな事ばかり考えていた。だが、今にして思うと甘えなのだろう。友人達から話を聞くと誰もが何かしらの不満を抱えている。結婚して幸せな家庭を築いている友人でさえ、時が経つと愚痴をこぼす。結局どんな仕事も、暮らしにも苦労があると知ってから私は不満や愚痴をこぼすのを止めた。
逃げ場など何処にもないのだ。時が経ち、心の水が減るのをひたすら待つしかない。
そんな事を考えていると車が止まった。事件現場の公園に到着したようだ。私は重い体に力を入れて車のドアを開けた。
既に日が落ち、辺りは暗い。現場は公園の奥らしい、周囲には木々が生い茂っているため公園内の様子はここからは分からない。中野と共に歩いて現場へ向う、整備された歩道を歩いて行くと既に鑑識の人間が作業に当たっていた。挨拶をして現場へ入る。
被害者は女子高生のようだ。苦悶の表情を浮かべ、血だらけになった少女がベンチの前にうつ伏せに倒れていた。制服のデザインから近くにある高校の生徒だと分かった。少女の遺体は首の片側が大きく抉れていた。致命傷は恐らくこれだろう。視線を上げ、ベンチを見ると少女の持ち物と思われるスクールバックが置いてあった。バックからぶら下がった大きなヌイグルミが血で染まっていた。周囲を見渡す。遮蔽物は無く、辺りは開けている。状況から見て背後から気づかない内に襲われたという事だろうか……。
詳しい話を聞くため、知り合いの鑑識に声をかけた。
「お疲れ様、状況はどうなってるの?」
「岩永さん、お疲れ様です。被害者は近所のI高校に通う黒岩千織という学生です。ベンチに置いてあったバックの中に学生証があったので、まず間違いないでしょう。被害者の持ち物は荒らされた形跡はありませんでした。司法解剖してみないと分かりませんが、犯行の手口が前回と似ているので同一犯かと思われます。それと、周辺を捜索していますが凶器は見つかっていません」
「ありがとう。邪魔して悪かったわね」
前回と同じく高校生が狙われ、残忍な手口で殺された。そして、凶器は見つかっていない。そうなるとやはり木村の犯行か……。
そんな事を考えていると通報者に話を聞いていた中野がこちらに戻ってきた。
「何か分かった?」
「いえ、何も。友人の家に行く途中、この公園を通ったら被害者を発見したそうです」
「そうか……。ねぇ、あの通報してきた男の横にいる警察官は何なの?」
私の視線の先に、通報してきた若い男と警察官の制服を着た男が話しを聞かれている。
「彼は警邏をしている最中、通りがかったと言っていました。応援が来るまで彼が現場保全をしていたようです」
「今回、目撃者はいないのか……」
私は改めて被害者を見た。また高校生、これで三人目の犠牲者だ。
6
「じゃあ、このプリントは宿題にするので明日までに提出するように!」
教室内は静かだが、生徒達の内心はブーイングの嵐だろう。この数学教師は生徒達から恐れられているため、誰も声には出さない。プリントを回し終えると授業が終わった。神岸綾人は配られたプリントを鞄にしまった。今日は笹森さんの家に集まり、テスト勉強をする事になっていた。
笹森さんの案内で住宅街を歩いていく、雛山や藍原さんは笹森さんと同じ町内に住んでいるため、ご近所の人しか分からないような話をしながら賑やかに歩いていた。
「そういえばI高校の近くでまた、殺人事件があったんだってね」
雛山と並んで歩いていた藍原さんは話を急に変えた。
「今朝、ニュースで言ってたな。この前の事件も高校生が狙われたし、その内お前も狙われるんじゃないか、平成の辻切りに」
雛山はふざけながら藍原さんに答えた。
僕も今朝、ニュースで知ったのだが、また殺人事件があったようだ。被害者は僕とは面識のない女子高生だった。しかし、僕が事件の事を考えた所で犯人が捕まるわけではない。
その時、笹森さんの足が止まった。目の前には立派な一軒家が建っていた。
「ここが莉緒の家?」藍原さんが尋ねた。
「そう。あまり広くないけど、どうぞ上がって」
笹森さんに促され、僕らは玄関へ入る。靴が何足も並んで置いてある。多分、笹森さんの靴だろう。それらに混じって革靴が一足置いてあるのが見えた。笹森さんのお父さんの物だろう。玄関を抜けてそのまま二階へ案内される。細長い廊下に扉が2つあり、奥が笹森さんの部屋らしい。笹森さんに案内され僕達は中へ入った。部屋にはベッドと丸テーブルが1つあり、部屋の隅には未開封のダンボールが幾つか積まれていた。随分と簡素だ。
「ごめんなさい。まだ、引っ越しの片付けが終わってなくて」
「いいのよ。こっちこそ無理言って押しかけちゃってごめんね」
藍原さんは申し訳無さそうに謝った。僕達はコートを脱いでテーブルの傍に腰掛けると、藍原さんが興奮気味に笹森さんに尋ね始めた。
「莉緒のお父さんって警察官なの?」
「そうだけど……、あれ、芹那ちゃん、何で知ってるの?」
「さっきね、リビングの隙間からチラッと見えたんだ。警察官の制服が」
僕の家に来た時もそうだが、藍原さんは目聡い。
「ちょっと制服が汚れてたから洗って干しておいたんだけど、他の人には内緒にしてね」
笹森さんは優しく答えた。確かに身内が警察関係者だと、その家族にも色々と面倒な事が多い。内緒にする笹森さんの気持ちがよく分かる。
「そういえばお姉さんがいるって言ってたけど、今日はまだ帰ってきてないの?」
雛山が尋ねると、少し間を置いてから笹森さんが話し始めた。
僕は笹森さんから話を聞いていたので黙っていたが、雛山と藍原さんは驚いている。
「ごめんね、変な事聞いちゃって」雛山は謝り。
「そう、行方不明に……」藍原さんはポツリと呟いた。
場が暗い雰囲気に包まれる。僕もどう声をかければいいのか分からず、黙っていた。
「でも、気にしないで。今はこうして話せる友達が出来たから前よりだいぶ楽になったの」
笹森さんは笑顔でそう答えた。
「神岸君に相談って……、そういう事だったの」
藍原さんは僕の顔を見ながら何か納得したようだ。
僕らは雑談を終えるとテスト勉強を始めた。勉強する事に慣れてきたのか、藍原さんも静かに問題を解いている。藍原さんはテスト勉強を始めた頃と比べると、集中力が増したように感じる。勉強が苦手というより、集中するのが苦手なのだろう。
無音の時間が続いた。僕は手を休め、時計を見ると六時を過ぎていた。僕の視線に反応して皆も一息ついた。
「もういい時間だね。キリの良い所で終わりにしようか」
藍原さんの一言に皆、賛成のようだ。
僕らが片付けをしていると藍原さんが思い出したように呟いた。
「帰ったら数学の宿題やらないとか~」
「あの先生かなり厳しいからな」雛山は苦々しい顔をしている。
過去に雛山が宿題を忘れて子供のように叱られた事を僕は思い出した。
「やっぱり怖い先生なんだ」
笹森さんは転校してきて日が浅いため詳しくは知らないようだが、授業中の雰囲気から危険を察知しているようだ。雛山と藍原さんが過去にあった数学教師の逸話を笹森さんに語っている。僕も目にした事のある話も幾つかあったが、だいぶ誇張された話もあった。
片付けを済ませ、ゾロゾロと廊下を歩いて階段へ向かっていると手前の部屋の扉が少し開いているのが見えた。扉の前を通り過ぎる時、部屋の中を横目で覗くと笹森さんの部屋と同じような間取りで、同じような荷物が置かれていた。
僕達は笹森さんに見送られ、帰路に着いた。
僕が自宅へ戻る頃には時計の針が七時を回っていた。家には誰もいない、あんこさんも出掛けているようだ。昨日、夜遅くまで遊んでいたようで今日はまだ顔を見ていない。
僕は自室に戻ると鞄の中身を取り出した。
あれ、可怪しいな。鞄にしまったはずなんだけど……、宿題のプリントが無い。
鞄の中身は全て出したのだが、宿題のプリントだけが見つからなかった。
皆がいる時に気づいていればコピーさせて貰う事もできたが、もう遅い。
笹森さんの家ではプリントは出していない。となると教室に置いてきたのか? だが、鞄に入れたはずなのだが……、考えても仕方がない。プリントがなければ地獄を見る。
僕は時計を見た。頭の中で時間を計算する。走って学校に行けば、まだ誰かが校舎に残っている可能性がある。仕方なく僕は再びコートを羽織ると真っ暗な道を走りだした。
火照った体に真冬の風が心地よい、暗闇の中を全力で走る。暫くしてコートの中が蒸し暑くなってきた頃、ようやく校門に到着した。
僕はコートを脱いで夜風を浴びながら呼吸を整えると校内へ入った。
正面口は明かりが消えており、真っ暗だ。流石に遅かったかもしれない。だが、諦めきれずに周囲を見渡すと職員用の通用口に明かりが見えた。僕は明かりの方へ駆け寄った。中から一人の教師が出てきた。鍵を閉めようとしている。
「先生、ちょっと待って下さい!」僕は慌てて駆け寄った。
面識のない先生だったが、事情を説明すると中へ入れて貰う事が出来た。
ここまで全速力で走ってきたため、中へ入ると安堵した。校舎の中は薄暗く、とても静かだ。月明かりを頼りに廊下を歩いて行く。火照った体が冷め始め、校舎内の冷気が体の熱を急激に奪っていく。そして、ようやく自分の教室に辿り着いた。誰もいない真っ暗な教室は不気味だ。教室内は月明かりで照らされ、明かりを付けなくても充分に見渡せた。僕は自分の机に足早に近づいた。真っ暗な教室の雰囲気に飲まれているのだろうか、自身を鼓舞する訳ではないが自然と独り言が漏れる。
「プリントは……」
机の中を覗いてみるが空っぽだった。念のため手を入れて中を探ってみるのだがやはり何もない。可怪しい……、机の中にもない。
足元を探してみたがそれらしき物は見当たらない。先生に待ってもらっているので、あまり長居もできない。徐々に焦りが増していく。
その時、校庭に目が止まった。正門の所に誰かがいる。窓ガラス越しに見えるその人影は徐々に校舎に向かって近づいてくるのが分かる。目を凝らしてよく見るが仄暗く、はっきりしない。こんな時間に人? 僕もプリントを忘れて取りに来たので人の事は言えないが……、そんな人間が他にもいるのだろうか?
その時、職員用の通用口から走ってくる人影が見えた。僕を待っていてくれた先生が、正門から歩いてくる人影に気付いたようだ。先生の影が徐々にもう一人の人影に近づいていく。もう一人の人影も先生の姿に気付いたのか走りだした。
二人の距離が縮まる。そして正面に向かい合った瞬間、人影が腕を振り上げ、何かを振り下ろすと先生が倒れた。人影は倒れた先生を無視して正面口に近づいてきている。先生は倒れたまま動く気配がない。
その時、眼下に佇む人影が校舎を見上げた。一瞬、僕と目が合ったような気がした。人影は暫くこちらを凝視すると正面口へ走りだした。倒れた先生はまだ動かない……。
僕は様子が可怪しい事にようやく気が付くと、教室を飛び出した。
恐怖が心臓を締め付ける。階段を二段ずつ飛ばして駆け下りると、慌てて一階の正面口へ向かった。正面口の扉の前に立つと、人影が近づいてくるのがはっきりと見えた。顔をマスクのような物で覆い、血で真っ赤に染まったウィンドブレーカーを着た男が右手に刀を携え立っていた。何だ、あれは……?
その人影のあまりにも異様な姿に僕の思考が一瞬、止まる。人影は正面口の扉に手を掛け、開こうとした。しかし、扉には鍵が掛かっていたため鍵が内部でぶつかる音が辺りに響いた。僕はその音で我に返る。男はすかさず手に持った刀を握り直し、柄頭をぶつけてガラスを割った。男は割れたガラスの隙間から手をねじ込むと鍵を開けた。僕は再び階段を駆け登った。後ろからガラスを踏みしめる音が聞こえる。理由は分からないが狙われている。階段を駆け上がる僕の足音と、ウィンドブレーカーの衣擦れの音が不協和音を奏でる。僕は最上階まで登ると階段から少し離れた教室へと身を潜めた。
一体、何が起こった? 先生は無事なのか? あの男は何者だ? なぜ、僕が狙われている? あらゆる疑問符が頭に浮かぶ。しかし、そんな事を考えている暇はなかった。ヒタヒタと廊下を歩く足音が聞こえる。僕は息を潜め、机の影に身を隠した。
足音が止まった、扉を開ける音が聞こえる。どうやら僕の隠れた教室とは反対の教室を調べているようだ。僕は扉に近づき隙間から様子を伺う。姿が一瞬だけ見えた。背格好は男のようだ。血まみれのウィンドブレーカー、そして右手には刀。顔はマスクではなく目と口の部分が切り取られたビニール袋で覆われていた。
あの血は先生のものだろうか? 様相からして常軌を逸している。
僕は男が別の教室に入るのを確認するとゆっくりと扉を開けた。男はまだ教室の中を探っている。気配を消して階段に近づこうとしたその時、僕の携帯電話が鳴り響いた。
最悪だ。僕はとにかく階段に向かって全力で走る。男は僕の姿を確認すると追いかけてきた。だが、教室から出てきた男よりこちらの方が階段に近い、一気に駆け下りる。
すると次の瞬間、僕の目の前に男が降ってきた。文字通り、男は階段を飛び降りてきた。
着地の瞬間、男と目が合う。ビニール袋の隙間から覗いた瞳は血走り、口元はニヤついていた。僕は背筋が凍りついた。男は握りしめた刀を躊躇なく振り下ろす。しかし、僕より下の段に着地した男の刀は上の段にいた僕にはギリギリ届かなかった。僕は踊り場に設置された消火器を手に取ると男に吹きかけた。辺り一面、ピンク色の煙で覆われる。僕は空になった消火器を投げつけ、その隙に階段を駆け登っていった。
僕は廊下を走って今度は一番奥の教室へと逃げ込む。落ち着いている暇はない。僕は携帯電話を取り出す、画面を見ると見知らぬ番号が表示されている。すぐに電源を落とした。
このタイミングで間違い電話? だが、今はそんな事を考えている暇はない。教室を見渡すと雑然と物が置かれていた。側にあるダンボールに見覚えがあった。以前、担任に頼まれて運んだダンボールだ。
隠れる場所も時間も無い。ここは校舎の3階、窓から飛び降りるなんて、もちろん出来ない。自問自答するが答えは出ない。取り敢えず何か武器になるものはないかと思い、辺りを見回す。机、椅子、ダンボール、文化祭の時に使用した看板、棚の上にはガムテープやマジックペンが雑然と置かれている。一応、ダンボールも開けてみたが中には書類が敷き詰められているだけだった。刀に対抗できる武器など無い。そもそも戦って勝てる相手なのだろうか。僕は喧嘩すらした事がない……。
その時、僕は閃いた。そうか、勝つ必要はない。
僕はすぐに行動を始めた。手近にあった机を横に倒し、ガムテープをぐるぐると巻きつける。そして机に巻いたガムテープの先をある程度、伸ばして余らせてから切ると、僕の右手に貼り付けた。これで準備は出来た、チャンスは一度きりだろう。
消火器から放たれた粉が落ち着くと、男はゆっくりと動き出した。刀を一度振り払うと周囲にピンク色の粉が舞った。男はゆっくりとした足取りで階段を登る。そして、目の前にある手近な教室の扉を開けると中を覗いた。
その時、風の吹き込む音が廊下に響いた。男はそちらを振り向く、奥の窓が開いている。男は窓に近づいて行く。窓を一瞥すると、その前にある教室の扉に手をかけた。
僕は息を潜め、扉の前に伏せていた。男のシルエットから位置は把握している。
扉が開いたその瞬間、僕は抱えていた机を突き出して突撃した。机に強い衝撃を感じる。男は突然の反撃を躱しきれず、そのまま机の下敷きになった。ここまでは予定通りだ。僕は急いで右手に貼り付けておいたガムテープを男の足に巻きつけた。男は低い呻き声を上げながら起き上がろうとしている。僕は男から離れると机を持ち上げ、窓から放り投げた。
男は立ち上がり、こちらを血走った目で睨んでいる。その瞬間、落下した机と男の足に巻きつけたガムテープが伸びきったため、勢い良く転倒した。男の叫び声が聞こえる。僕は後ろを振り返らずに階段を駆け降りた。
外へ飛び出すと近所の交番へ駆け込んだ。
「助けてください! 刀を持った男に追われてるんです」
僕は校舎の片隅で未緒さんが迎えに来るのを待っていた。体が冷える。温かい飲み物でも買いに行こうかと思ったが財布を持っていない事に今、気がついた。
僕は毛布に包まり、再び腰掛けた。僕が交番に駆け込んでから、どれ位時間が立ったのだろう? 校庭には大勢の警察官が集まっていた。
つい先程、救急車が到着して先生が担架で運ばれた。真っ赤に染まった上半身には斬りつけられた傷跡が伺える。先生の真っ白な顔と、紫色をした唇が死を連想させた……。
その後、警察官に詳しい話を聞かれ、未緒さんの従姉であると伝えると、こちらに向かっていると伝えられた。
すると1台の車が校庭に止まった。車から降りた人影が走って僕に近づいてくる。
「アー君! 良かった、無事で……」
僕は未緒さんに抱きしめられた。未緒さんの髪が僕の鼻孔をくすぐる。
「未緒さん……、ちょっと苦しい」
僕は照れ隠しにそう言って、未緒さんの腕の中から逃げ出した。
「あっ、ごめんね、アー君。でも本当に良かった」
未緒さんは安堵した表情で僕に優しく微笑みかけた。しかし、それは一瞬の事で優しい未緒さんの表情から仕事の表情に変わった。
「アー君を襲った奴はこの男?」
そう言って1枚の写真を見せられた。写真には見知らぬ男が写っていた。
「僕を襲った男はビニール袋を細工したマスクをつけていたから顔は見ていないんだ」
「そう……。とりあえず家に帰りましょう。許可は取ってあるから」
未緒さんは忌々しげな表情から、打って変わって優しく微笑むとそう言った。
僕が車に乗り込むと運転席に知らない人が乗っていた。
「大変だったね、神岸君。早く乗って。岩永さん、自宅でいいんですよね?」
「悪いわね、中野」
話を聞くと未緒さんの職場の後輩だという。彼に自宅まで送ってもらった。
そういえば、未緒さんと顔を合わせるのも久し振りだな……。
「岩永さん、念のため警察官を巡回させますので」そう言って刑事さんは帰っていった。
自宅へと戻ると未緒さんはキッチンへ向かった。未緒さんが台所に立つのは珍しい。普段は面倒くさがり、ほとんど料理などしないが今日は特別だろう。時間も遅かったので簡単なものだったが、手料理を振る舞ってくれた。
こうして一緒に食事をするのも久し振りだな……。食事を終えると未緒さんが謝った。
「ごめんね、アー君。ずっと連絡しなくて」
「大丈夫だよ。仕事なんだから気にしないで」
「アー君も知っていると思うけど、アー君を襲った男は連続殺人事件の容疑者だと思うの」
僕は無言で相槌を打つ。
「詳しい話は明日、聞かれると思うわ。それよりね、アー君に頼まれていた約束があったでしょ。思い出したから聞いて……」
「約束?」
「ナベにアー君のお友達の行方を聞いてくるっていう約束」
事件の概要については既に報道で知っているが、他に何かあるのだろうか?
「あの日、私は祐香……、ナベのお姉さんと一緒に食事をしていたの。それでナベのバイトが終わった頃に連絡を取ってもらったんだけど携帯に繋がらなくってね、そのままお開きになったのよ。その帰り道、今思えば酔っぱらいを介抱するのにあれだけ警察官がいたのに……、でも、もうしょうがないわよね。少し人通りの少ない道を歩いていたら女性の悲鳴が聞こえたの。それで私が細い路地に駆け込んだら、そこにはナベともう一人、同じアルバイト先の女の子が倒れていたの……。二人共正面から襲われて逃げる間もなく殺されてしまったそうよ」
未緒さんはビールを一口飲んだ。
「だからごめんなさい。私が遅かったせいで二人が、それにアー君まで……」
未緒さんは涙をこぼしながら僕に謝罪している。未緒さんには何の責任も無いのに……。
「謝らないで、未緒さんが悪いんじゃない。そんな事をした犯人が悪いんだから」
未緒さんを慰めていると部屋から何か持ってきた。
「アー君、一応これ持っておいて」未緒さんは四角い箱状の物をテーブルの上に置いた。
「これって……、もしかしてスタンガン?」
「そう。私が昔、護身用に買った物なんだけどね。今は使う機会も無いから」
未緒さんはスタンガンを手に取ると電源を入れた。スパークの光と音が激しく響いた。
「あくまで護身用だからね」
「人に使うとどうなるの?」
「一度だけ人に試した時は、厚着をした服の上に1秒くらい当てただけでのた打ち回ってたから、かなり痛いらしいわね。流石に死ぬような事はないけど動けなくするには十分よ」
僕は食事を終えると自室へ戻った。部屋には人の姿をしたあんこさんが胡座をかいてベッドの上に座っていた。あんこさんは僕の姿を見るなり手に持っていたスタンガンを奪い取り、興味深げに眺め始めた。
「これ、どこを押すとピカピカするんだ?」
どうやら先程の様子を見ていたらしい。僕はあんこさんに使い方を教えた。
「すごいな、これは!」
あんこさんはピカピカすると喜んで遊んでいる。どちらかと言うと『ピカピカ』より『バチバチ』じゃないかと思ったが黙っていた。
「僕に向けないでね、あんこさん」
「試してみないと威力が分からん。主よ、立ってみろ」
僕は急いであんこさんからスタンガンを取り上げた。だが、どの程度の威力があるのか分からなかったのでインターネットでスタンガンについて調べてみる事にした。
スタンガンを押し当てられると電気パルスが相手の神経に影響を与え、本来脳から伝わってくるはずの指令と混同してしまう。そのため動けなくなったり、勝手に動いてしまうといった肉体の運動能力の混乱を招くという。そして、かなりの激痛を伴う……。
あんこさんは文句を言っているが、猫に持たせるべき物ではない事は分かった。僕はとりあえず通学用の鞄へスタンガンを押し込んだ。
「疲れた顔をしているな、主」あんこさんは再びベッドの上に戻った。
「今日は色々あってね。刀を持った男に襲われて大変だったんだよ」
そういえば、あんこさんと顔を合わせるのも久し振りだ。僕は椅子に腰掛けると、あんこさんの方を向いた。
「奇遇だな、昨晩見たぞ。その男」
「見たって、犯人を?」
「ああ、腹が減って鼠を獲っている最中にな。アイツのせいで鼠に逃げられた」
昨晩……、という事は女子高生が殺された事件の事だろうか?
「顔をマスクで覆ってた? それとも素顔を見たの」
「顔は知らん。藪の中にいたから足元しか見えん。だが、見覚えのある物を持っていたな、その男は。あれは妖刀だろうな」
「妖刀ってどういう事?」
「主も見たのだろう刀を。あれが妖刀だ」
「できれば一から説明してくれると有難いんだけど。妖刀って村雨とか村正の事?」
妖刀と聞いて反射的に口から出たが、僕も名前を知っているというだけだ。
「村雨は魔剣と呼ばれる事もあるな。抜けば玉散る氷の刃、刀身に帯びた水気が血を洗い流すと有名な刀だ。村正は妖刀としては特に有名だろうな、徳川家に仇をなした刀だ。どちらも現象は違うように見えるが本質は同じ。妖刀、魔剣という分類も、その現象の違いに付けられた俗称だからな」
何かややこしい話になってきた。単なる与太話ではないようだ。否定しようにも目の前にいる猫が本物の妖怪なので厄介だ。
「妖刀、魔剣の本質?」
「そうだな……、例えば刀は人を殺めるのに特化した武器だ。しかし、持ち手によっては殺めるのを戸惑う者もいれば、喜んで殺める者もいる。どちらも一長一短あるが、その差は心の気質によって生まれる。それは人間がそれぞれ別に持っている身体的、精神的な性質。そして妖刀、魔剣の類は呪術、呪い(まじな)の力により、その気質を具現、或いは体現させる事を目的として作られた。これが本質だ」
「つまり持ち主の持って生まれた特性を引き出すのが妖刀、魔剣の力という事か。それが外に出るか内に秘めるかは持ち主次第……」
「そう、村雨であれば、持ち主の清らかな気質に呼応し、具現した力が水を生んだ。或いは村正のように持ち主の歪んだ気質を体現させ、復讐が成就するまで殺め続ける……、といった所か。どちらも現象は違うが本質は同じだ。その力や様相を見た者が勝手に妖刀だの、魔剣だのと言って選別しているだけだ」
「そんな特殊な刀を犯人が持っているって事?」
「そのようだな。あの男は具現させる程の気質は無いようだが……」
「でも、どうしてあんこさんは一目見ただけで妖刀って分かったの?」
「昔、似た刀を見た事があってな……」
あんこさんは大きな欠伸をした。時計を見ると十二時を過ぎていた。あんこさんのが移ったのか僕も欠伸をした。しかしこんな話、警察に説明のしようがない。たとえ信じてくれたとしても、犯人逮捕には何の役にも立たないだろう。
そもそも僕にはどうする事も出来ない。今日だって逃げるだけで精一杯だ。とにかく今日はもう疲れた。明日は事情聴取や現場検証の立会などもあって朝が早い。
僕は椅子から立ち上がると部屋の電気を消した。ベッドに入ると猫の姿になったあんこさんが布団に潜り込んできた。僕も布団に潜る。学校はどうなるのだろうか、流石に授業が出来る状況ではないだろう……。ぼんやりとした思考は瞼を閉じると消え失せた。




