第90話 『自分のせいで自分が不幸になったのに自分は悪くない言い方するな』
まさかこんな形で今朝の約束を果たすとは、言った時は思いもしなかった。
口に出した時は三十分ほど話をして戻るつもりだったが、この分では日付が変わろうと戻れそうにない。
羽熊も男だから雰囲気によっては、と考えてしまっても今はそんな気分ではない。
ただ、鍬田が第二の刺客ではないことは確信に近い考えを持っている。ドラマでは典型的な騙され役ではあっても、ドラマであっても鍬田が刺客には出来まい。
鍬田がここに来るまでには相当高いハードルをクリアしなければならないからだ。
そう鍬田への擁護と、自分自身への弁明を考えながら歩いて鍬田の部屋の前へと到着した。
ここに来るまでに心の整理を終えている羽熊は、到着するやすぐにチャイムを鳴らす。
『どちらさまですか?』
さすがにカメラ付きインターホンと言った物はなく、鳴らすと同時にドア越しからルィルの声がしてきた。
「羽熊です」
五秒ほどしてドアが開いた。
「博士、怪我の様子はどうですか?」
警護のため鍬田の部屋でもルィルがドアを開けた。
「全治三週間だそうです。美子ちゃん中にいます?」
「はい。博士が来るのを待ってました。あ、エミリル王女、失礼しました。いるとは存じていなかったもので」
ルィルはここでエミリル王女が同伴していることに気付き、右手を左肩に合わせる異地流の敬
礼をする。
「作法は無用です。今夜に限って私の肩書きは忘れてください」
「……分かりました。ではどうぞ」
王女自身にそう指示をされては従うしかない。ルィルはドアを大きく開けて羽熊達を中に入れた。
「洋一さん! 怪我は大丈夫ですか!?」
部屋に入るや鍬田が駆け寄ってきて、けが人から抱き付くようなことはせず近づくと左腕をそっと握った。
「大丈夫。普段の生活なら特に問題ないよ」
目の前で刺傷が起きれば心配もする。羽熊は安心させようと笑顔を見せて頭をなでてあげた。
「でもでも、私をかばって怪我を負ったんですから、生活のサポートは全部します!」
「なら必要な時はお願いしようかな」
断ったところで引き下がる目をしていない。なら受け入れた方が話しが進むから許諾する。
「…………」
「なに?」
「いやー、洋一さんなら断ると思って」
「断ってもするつもりなんだろ?」
「それはもちろん」
「君の粘り強さは知ってるからね。ほどほどにお願いするよ」
「分かりました。それとエミリル、大丈夫?」
二人は肩書きを無視した友人関係だ。敬称は付けず、呼び捨てで鍬田はエミリルを見た。
「わたくしは大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
「洋一さんはともかく、エミリルまで来てくれてうれしい」
「美子、実は話したいことがあって来たの」
「話? ひょっとして、あまりいい話じゃない?」
顔色を見てか鍬田は来た理由を察する。
「ええ、きっと美子ならなにそれって怒るでしょうね」
「私、なにかしちゃった? ルィルさん、私、なにかマズイことしちゃいました?」
「わたしの知る限りでは何もしてないわね。まあ強いて言えば元気過ぎるところかしら」
「元気過ぎてマズイって……とりあえず座りましょう」
立ち話も何なのでとのことで、二人のリーアンは宙に浮いたままで羽熊は一人用の椅子へと腰かけ、鍬田はベッドへと座る。
「それで、一体何の話ですか?」
「まず話をする前に一言伝えるけど、羽熊博士は終始否定し続けて怒ったの。だから博士を責めることだけはしないで」
「怒る? え、え? 本当になに? ひょっとして私があの女を煽ったから襲われたこと? って私が怒るから違うよね」
鍬田は鍬田で思い当たる節を呟く。
エミリル王女は首を横に振り、先ほどのことを説明した。
時間にして十分ほどだろうか。鍬田は話すことに対していちいち反論することなく、エミリルの話すことを通しで聞き続ける。
時折擁護として羽熊は認めない旨を挟むが、エミリル王女自身は一言も擁護しようとしない。保身していると思われたくないのだろう。
「――以上です」
約五分ほどで説明が終わり、部屋に静寂が訪れる。
「美子、わたくしを非難しても構わない。友人と言って旅行に招待したのに証拠もないのに疑ったのだから、あなたにはその権利があるわ」
「…………」
鍬田は話し終わっても無言のまま何も言わない。きっと様々なことを考えているのだろう。
なにか声を掛けようかと思ったが、逆効果な気がして考えがまとまるのを待つ。
「うーん……」
鍬田は腕を組み、考えていることをアピールするように上半身を左右に揺らしだした。
「美子?」
「言われてみると確かに私ってそう思われても仕方ないポジションだなーって思って」
「そう見えるだけだよ」
「でも責任者から見たらそう見えるだけで心配するのは当然じゃない? だって責任が国家規模ですよ? 責任が重すぎますよ。なら証拠がなくてもそう見えるなら心配して当然と私は思いますね」
「美子ちゃんは気にしないの? 二人目の刺客って思われてるのに」
思わず羽熊は聞いてしまった。
「気にしてませんよ? だって違うってのは私が一番知ってますもん。なら周りからどう疑われていても普通にしてればいいし、別に軟禁されたりはしないんでしょ?」
「はい。行動には何の制限はありません。凶器の類になる物の携帯は全員が禁止されますけどね」
「それにルィルさんが警護にいるんだから、逆を言えば私の見張りにもなるよね。ならなおのこと気にするだけ無駄じゃん。私が刺客なら手は出せないし、逆なら別になにもないから変わらないし」
そう返答する鍬田に、羽熊は呆気にとられた。
てっきり理不尽な疑いを掛けられて怒り、一連の出来事で泣きだすのかと思ったからだ。
「だからエミリル、私を疑うことを気にしないで。王女様だもん。国のことを考えたらして当然だから」
「……ありがと」
「まあ、本当に私が刺客だったらあの闇落ち女より先に手を出してそうだけど」
鍬田の言う通り、本当に刺客であったなら手を出す機会は今を含めて沢山あった。
なのに手を出さないのは違うと言う証左であり、信用を得るにしては時間を掛け過ぎている。
「それにいくら考えても、日イ関係を壊して私が幸せになれないんだよね。さすがに戦争にはならないとは思うけど、絶対に断交して異地の物資が入らなくて大変になるだろうし、実行犯として報道されたりしてお父さんもクビになると思う」
鍬田の父は防衛省のキャリア官僚をしている。娘が大事件を起こせば懲戒免職ではなくとも責任を取って自主退職は必至だ。そして鍬田は成人しているから実名で報道もされる。
いくら多額の報酬が約束されていても、復興途中の日本経済に大打撃を与えるから意味はない。
「お金を貰えても周りを不幸にするなら百億円でもいらないよ。やっぱり貰うなら不幸にしないお金じゃないとね」
「立派な心意気ね。世の中の政治家に聞かせてやりたいわ」
「でも、だとするとあの闇落ち女はお金のためにこんなバカげたことをしたってことよね。大義をもってするって感じじゃなかったし」
大義をもってするならあのヤマンバのような顔はしないし、喚き散らしたりもしない。
「エミリルに怒る気持ちは微塵も思わないけど、あの闇落ち女には文句を言ってやりたいわ」
「美子ちゃん、君はさっき顔を刺されかけたんだよ? よくまた近づこうとするね」
「でも被害者として加害者に文句くらい言いたいですよ。そりゃ、洋一さんには痛い思いをさせてしまいましたけど」
「俺のことは気にしなくていいよ。じゃなくて怖くないの?」
「今は怖さより怒りの方が勝ってます。でも、一緒に来てほしいです」
「いやいや連れて行かないよ。火に油注いで取っ組み合いとかになったらさっきの苦労が水の泡になるし」
「大丈夫ですよ。ルィルさんが助けてくれますし」
「任務だから助けるけど、自分から危険に向かうのはやめてほしいわね」
「今回だけですよ」
「美子ちゃん、連れて行くって言ってないんだけど」
そもそもこの後須川のところに行くことも話してはいない。なのに鍬田は行く気満々だ。
「わたくしは安全上同行できませんが、このあと尋問しに行くではありませんか。連れて行ってはどうです?」
とエミリルは余計なことを言った。
「え、行くんですか?」
行く事実を聞くと鍬田の表情が変わった。
重く、暗く。
「動機を聞くために行くんだよ。話すかどうか分からないけど、元カレの質問なら答えるかもしれないからね」
「なら私も行きます。どうしてこんなことをしたのか予想できるし、悲劇のヒロインぶって洋一さんに近寄られたくない」
何を言っても大人しく待ってはいないだろう。
ここは厳しく「ダメだ」と言うべきなのだが、どうにも断れない自分がいる。
未経験のことに加え、誰かにいてもらいたい気持ちがあったからだ。
捜査官など本職の人間なら断固とした返事をするところ羽熊は民間人だ。言語学者とも内閣官房参与とも違う、被害者で知り合いである羽熊洋一として会いに行く。
鍬田が来ればルィルも来る。夫であるトムも同席するから、人数としては心強い。
あんな狂乱と化した元カノと二人っきりで同じ部屋になんて到底いたくはなかった。
「……じゃあ行こうか」
時間は十一時を回っているが、あの狂乱ぶりならまだ起きているだろう。
「やった。って、え? 今から行くんですか?」
「賛成ね。時間を置くと言い訳を作られるから、するなら冷静になる前にしたほうがいいわ。しかも元カレが聞くなら余計に許しを請いそうだし」
それもあるが、もとより面倒なことを明日に引き延ばすようなことはしたくなかった。
「名残惜しいですが、わたくしは戻るとしましょう。さすがに日付を越えてまでここにいるわけにはいきませんので」
話がまとまったところでエミリルがそう言い出した。元々〝ひたち〟にいないから、これ以上いると面倒になってしまう。
「エミリル様、警護はどちらに?」
「入り口で待機させています。ルィル、面倒だけれど入り口まで警護をお願いできる?」
「もちろんです」
鍬田の部屋から搭乗口まで徒歩で三分と掛からない。しかし、立場と先のことを考えると十秒とて一人にはさせられない。
「ルィルさん、鍬田の部屋は分かりますか?」
「ええ、場所は知ってます」
「なら俺と美子ちゃんで先に行くので後で来てください」
「分かりました。ではエミリル王女、参りましょう」
「はい。あ、ちょっとまって。美子、多分もう会えないから挨拶しておくね。これまで色々とありがとう。本当は最終日に借りたタブレットを返そうと思ったんだけど、いま手元にないの。でも必ず返しに行くからそれまで借りてていい?」
「こちらこそ首都観光に誘ってくれてすっごい嬉しかったよ。それでタブレットはそのままあげるよ。ここじゃネットは繋がらないからあまり使い道ないけど、そこは友情の証ってことで」
「いいの?」
「異星国家の王女様に私物をプレゼントしたってなったらそれだけで自慢できるもん。まあ実際に自慢はしないけど」
「なら今度行く機会があったら何かお礼を」
「もう今回ので十分すぎるくらい貰ったからいいよ。それで貰ったらお返ししないと気が済まなくなっちゃうから何もいらないよ」
次にイルフォルンに民間の日本人が来れる保障はない。今回限りの可能性があるから、値段で言えばタブレットで済めば格安と言える。
「ありがとう。大事にするね」
話がまとまったところで移動を始めた。
ルィルとエミリルは出入口の方へと向かって行き、羽熊と鍬田は須川の部屋へと向かう。
「美子ちゃん、悪かったね。あんな形で朝の約束を果たしちゃって」
「いえ、来てくれただけでうれしいです」
「今回のことは埋め合わせするよ」
「ならロマンチックなデートをしてくれたらうれしいです」
「……いいよ。それって当日がいい? それとも前もって伝えたほうがいいかな?」
「準備したいので、一週間前に教えてもらえたら嬉しいです」
「じゃあ内容は秘密にして行く日だけ教えるよ」
「はい。ありがとうございます」
鍬田はそれ以上聞くことはしない。普段なら朝帰りとか聞いてくるものだが、怪我を負わせた負い目があるからだろう。
いつもボケをやってツッコミをしているから、それがないと妙な気分だ。
それだけ鍬田は羽熊の心に中に浸透しているのだろう。
そう思うと、女性の命と言える顔を守ることが出来て良かった。
羽熊はそう考えて、無事な右手で頭を撫でた。
「な、なんです?」
「君は元気が取り柄なんだからしおらしくしないの」
「私だって落ち込む時くらいありますよ」
「悪いのは実行犯の須川と、それをさせた黒幕なんだから君が落ち込むことはないよ。この怪我だって、君を守れたと思えば勲章なんだからさ」
「洋一さん、もししてほしいことがあったら〝何でも〟言ってくださいね」
「常識の範囲で必要ならお願いするよ」
「そこは、ん? 今何でもするって言ったよね? と言ってくださいよ」
「それ、なんのネタ?」
「知らないならいいです」
何でもを強調して言うからああした返事をしたのに、鍬田はなぜかむくれ出した。
「洋一さんってなかなか本心を出しませんよね」
「そう? 自分としては気持ちはそのまま言ってるつもりだけど」
「普通、男の人ならここまで言ったら手を出しますよ? なのに手を出そうとしないから、私って魅力ないのかなって」
「一昨日付き合うってなって手を出すってのは、君の体しか見てないってことだろ? 嫌いなんだよそれ。体の相性はもちろん大事だけど、それ以上に心の相性が大事だから、俺はそっちを大事にしたいんだ」
羽熊も男だから、そういった感情がないとは言わない。しかし、須川の例があるから割合としては心の方を重視したいのだ。
鍬田に魅力がないわけがない。綺麗な肌に整った顔立ち。かわいいよりきれいな小顔。スタイルも服の上からでも一発で良いと分かるのだから、好かれている男として手を出したくないわけがない。
だからこそ心の方を大事にして行きたいのだ。
急がば回れ。心が離れれば必然的に体も離れていくのだから、羽熊はそれを大事にしたかった。
「悠長にし過ぎて心が離れたらどうするんですか」
「腐らす前には食べちゃうつもりだけど?」
「私は足が早いので、食べるならお早めに」
「……自分から食べられたがるのって変じゃないか?」
「それもそうですね」
そう二人特有の和みをしたところで、問題の須川の部屋へと来た。
須川の部屋には逃亡防止のためSPが扉の両隣で待機しており、物々しい空気を醸し出している。
「佐々木総理の指示で来ました。須川と話をさせてください」
「話は伺っております。ですが、被害者の方まで同席するとは聞いていません」
「尋問には私が専門外ですが一任され、必要と思って同席をお願いしました。通常の手続きとは違うのは理解していますが、そもそも事件はなかったのですから問題はないでしょう?」
加害者は須川で被害者は羽熊。その羽熊が意図的に被害届を出していないから、客観的には個人同士でのトラブルなので警察の介入は出来ない。
平たく言えば、知り合い関係の喧嘩では制止こそしても警察は互いを逮捕しないのだ。
よくて注意で終わる。テレビでよく見る警察の番組でも、喧嘩なら事情を聴いて両成敗で終わり、逮捕は大抵興奮した人が警官に手を出して公務執行妨害でされている。
「あとでルィル上級曹長も同席します」
「分かりました。中にSPがいますが、警護上同席させてもらいます」
「問題ありません」
須川の生殺与奪は羽熊が握っている。司法取引とはいかないが、真意を聞き出すには取引を持ち掛けられる羽熊が適任だ。
通常とは全く違うのでSPとしては断りたいところだろうが、現状個人同士の問題なので止める権利はない。
SPはドアを開けた。
「鍬田さん、どんな気持ちになっても口は開けないように」
すると鍬田は一つ頷いた。もう口を開けないようだ。
そして羽熊と鍬田は中へと入った。
惨状、を想像していたが、中はそう荒れてはいなかった。
出口に繋がる廊下近くにはSPが一人いて、ソファーにはトムが座り、ベッドの隅で布団に包むのが一人。
床は特に物が落ちたりはせず、喚いてはいても当たり散らしてはいないようだ。
「羽熊博士、この度はどウお詫びをすレバ……」
一人用ソファーに座るトムが羽熊に気付くと、立ち上がって謝罪と共に深々と頭を下げた。
「トムさん、顔を上げてください。あなたが謝罪することではありません」
「いえ、先日から異変には気づいていました。気づいテいながら止めらレナカったのですカら、私の責任でス」
初手でいきなり謝罪をして心象を良くすることがある。まだトムが黒幕の可能性がある以上、安易に受け入れはしない。
「彼女の様子はどうです?」
「先ほどまで泣いテいましたけど、ようやくアアして丸まって静かになッテもらえまシた」
「話をしても?」
「博士が琴乃さンとお付き合いしていタコとは聞いてまス。ドウゾ」
「君はここにいて。ルィルさんが来ても動かないように」
鍬田は顔こそ不満顔だが頷いて返事をする。
余計なことをされて話が進まないのは困るため、鍬田を入り口側に置いて羽熊一人須川に近づく。
「須川」
ベッドの隅で布団を被り、丸まっている須川に羽熊は声を掛けた。
「話がしたい。振り向いてくれないかな?」
丸くなる布団は小刻みに震え、なにやら小声でブツブツ言っているがよくは聞こえない。
「お前はそうやって自分が苦しくなると布団に包まるな。俺や家族の前ならまだ通じても、ここじゃいつまでやっても良くはならないぞ」
家族なら言い過ぎたとか元に戻ってほしいとする罪悪感から優しくしがちだが、ここに味方はいない。どれだけいじけようとも擁護する人はいないのだ。
須川はこうなると中々動き出さないが、羽熊には切り札がある。
「話に応じないと、ただでさえヤバイ状況がさらにヤバイ状況になるぞ。なにせお前は国の威信をかけて行った観光旅行で事件を起こしたんだからな。被害届を出して歴史に汚名を残すことだってできるんだ。けど話をしてくれるなら出すのをやめてもいい」
羽熊は須川の性格を知っている。さすがにここまで重いことをしでかしたことはないが、根底が変わっていなければこれで反応をするはずだ。
「……ズッ……ズッ……ぞれ、ぼんどう?」
「全部包み隠さず、保身も保険も掛けないで全部話すならな」
「……念書、がいで」
この期に及んでそんなことを言うあたり、性根は腐ってしまっている。
感情に任せて拳の一つを食らわしてやりたいが、それをしては意味がない。
「今お前が条件を出せる立場だと思ってるなら、日本に戻ったら被害届を出させてもらう。テロが失敗した上に刑事罰を受けたら、今回のことをさせた奴はどう思うんだろうな」
「い、いやぁ……いやぁ!」
最悪のことを考えているのだろう。須川は叫んで震え出した。
相当なトラウマを受け付けられ、善悪に関係なくどんな命令にも逆らえないように〝調教〟されているのだ。生半可な恐怖ではなく、徹底的な恐怖だから忠実なコマが出来る。
けれどそれは須川の問題であって羽熊の問題ではない。
「そうやって喚いたところで俺は慰めたりはしないぞ。それはトムさんの役目であって俺の役目じゃないからな」
はっきり言って、鍬田の部屋で話をして多少は頭は冷えても須川を許す気は微塵もなかった。
どんな事情であれ、大勢の人々が苦心して成しえた今を壊そうとしたのだ。どれだけ壮大な理念や大義をもって行ったとしても、許される行いでは断じてない。
「どうじで……どうじでわだじばっがり……」
「自分のせいだろ」
羽熊は冷徹に言い放つ。
「健全に生きていたのに理不尽に巻き込まれたなら同情する。けどお前は徹頭徹尾好きな事だけをした結果だ。自分のせいで自分が不幸になったのに自分は悪くない言い方するな」
これは須川だけでなく、日本全国老若男女問わず起きている問題でもある。
さすがに日イ関係を壊すほどのテロに利用されるのは須川だけだろうが、その原因を作ったのは紛れもない本人だ。
なのに自分は悪くない姿勢を取るのに憤りを禁じ得ない。
「修羅場って感じね」
そこにエミリル王女に付き添って行ったルィルが部屋に入って来た。
「修羅場と言うより説教タイムですね」
「で、これ以上悪くなるか、良くなるかの選択が今だ」
そう羽熊は二択を迫るが、政治的判断で被害届は出さない選択肢をしているからブラフだ。
しかし、そんな事情を知らない須川には十分効く。
飴と鞭。これまでのことを言及することで羽熊は鞭を打ち、次に飴を与えた。
「ここでお前が持ってる情報を話してくれたら、裏で操ってる誰かに一矢報いることが出来る」
「なんで……誰が操ってるっでおぼうの?」
「お前が単独でやるメリットが何もないから。日本に恨みを持って今回のことをするには運の要素が強いし、しようとしたところでそんな度胸がないのも知ってる」
須川が単独でするなら、トムと知り合って結婚をすると言うハードルを越えなければならない。二人の関係性は知らないが、金銭面で苦悩している須川をトムが好んで近づくとは思えないし、その逆でも結婚をしようとは思うまい。
客観的に見ると偽装結婚には見えない間柄だが、そこはともかく二人をめぐり合わせたのは黒幕で間違いないだろう。
「断言しても良い。黒幕はお前のことは微塵も大事にはしてない。使い捨てのコマにしか見てないし、多分何を言っても逃げきる自信もあるはずだ」
使いまわす予定のコマを刺客にするなら、絶対に口を割らない信頼できる人にするはずだから、須川は言ってみれば振り込め詐欺の受け子の立場だ。
活躍して昇格なんてなく、終始使い捨てで用済みとなればあっさりと切り捨てる。
「お前がどこまで情報を持ってるのか分からないけど、話す相手は俺を通り越して日本政府だ。もし黒幕に繋がる話をしてくれたら、過去は消えなくても未来での苦労はなくなるかもしれない。俺にその決定権はないけど、今話せばそのまま総理に届く」
政府が恐れるのは、日イ関係を壊そうとする勢力を野放しにすることだ。今回は幸い防げても、その次また行われて防げなければ意味がない。
今ここで叩くことが、安全保障上必須事項だ。
「羽熊博士、割り込み失礼しマす」
沈黙していたトムが割り込んで来た。
「一つ、琴乃さんを動かしタ人に心当たりがあリまス。ただ、情報操作と思わレルかもしレないので、頭に入れル程度でいいデス」
「誰です?」
「ノア、と私たちが呼称しテイるアーク名誉会長。日本の国会議員デす」