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陸上の渚 ~異星国家日本の外交~  作者: 龍乃光輝
第三章 新時代編 全41話
89/192

第85話 『深夜の逢瀬』

 史上初の公式の異星国家首都観光を行った日の夜。

 須川琴乃は日本人の中で最も不幸な女だと理解した。


 それどころか日本史上最悪の裏切り者と、誰がどう見ようとそうとしか考えられない指示が一枚の紙に記されていた。

 須川は言われた通りの時刻に一人ひっそりと〝ひたち〟の自室で指示書を読み、その内容に絶望する。

 比喩ではなく自然に手がわなわなと震え、連動して紙独特の音が静寂な部屋に響き渡る。

 神も仏もないとはこのことだ。

 そもそも神や仏の概念は国土転移した時点で崩れているのだ。考えても無駄である。


 しかし、だからとしてもこのような大罪をさせるとは何と非情な奴だろうか。

 実行すれば日本だけでなくイルリハランの関係に悪影響は必至で、恐れてしなかったとしても帰国後には悲惨な未来しかない。

 どの道地獄なのだとしたら、日本を巻き込むか自分だけか、だ。

 無関係である第三者なら百人中百人が後者を選ぶだろう。国と一人なら考えるまでもない。

 だがそれが当人だとしたらどうだ。自己犠牲をしてまでそんな思い入れのない国を守りたいと思うだろうか。すでに悲惨な生活を強いられ、自由なんてないにも等しい奴隷生活。それを壊すにはある意味絶好の機会と言える。

 自分だけでなく、一億二千万人全員が似た境遇に落とせるのだから。


 本当かどうかわからないが、指示書には実行犯として須川の名前は伏せさせるとはっきりと書かれ、全てが終わった暁には過去の負債は清算し、個人情報を全て変えてひっそりと暮らさせてくれるとも記されていた。

 アメリカの証人保護プログラムみたいなものだが、日本にそうした制度はない。だがあの男なら立場を利用してやりかねないだろう。

 その前にトカゲのしっぽ切りで見捨てかねず、取り調べで洗いざらい話しても逃げてしまいかねない。今持っている指示書もパソコンで作ったもので指紋も残してはいないはずだ。

 それだけでなく読み終わったら燃やすよう証拠隠滅を指示していた。


 このままあの男のことを誰かに話してしまおうか。それが一番最善手なのは分かっているのだが、強力な後ろ盾がいるあの男が簡単に捕まるとは思えないし、その後の報復の方が怖い。

 須川は男に奴隷のようにこき使われ、恐怖によって心身ともに支配され、反攻の意思を根こそぎ奪われてしまっている。

 ゆえに答えはもう決まっていた。


 従うしかない。


 この指示を行えば日本とイルリハランは決定的に関係が悪化して断交もあり得る。今回の悲劇を招いた今の政府も崩壊するだろうし、生命線である輸出入も途絶えてしまうかもしれない。

 これが一体なぜ日本のためになるのか理解できないが、男にとっては日本が取らなければならない道らしい。

 須川は部屋に置いてあったトムのライターを手にし、指示書の角に火を点けた。

 火は少しずつ広がりを見せ、紙が灰となって欠けていく。

〝ひたち〟は木造だから、このまま床に落とせば燃え広がってしまうのではないか。そんな邪推が頭をよぎる。

 なによりここにいる日本人全員が幸福の中にいるのに、一人だけ絶望の中にいるのが気に入らない。あの羽熊の側にいる女は特に気に入らない。

 いっそここで全て燃やしてしまえば――


 それが出来たら苦労はしない。

 須川は窓へと移動し、落下防止のため僅かしか開かない窓から半分ほど燃えた指示書を捨てた。

 今いる部屋はイルフォルンとは反対方向にあるため、人工物がなく漆黒の世界があるだけだ。投げ捨てられた指示書は空を漂いながら赤い明かりを灯し、希望の灯火を消し去るように闇の中へと消えて行った。

 このまま自分も闇の中に消えて行きたいが、落下死を防ぐため窓は少ししか開かず外に繋がる扉には兵士が見張っている。

 もちろんお願いをすれば外に出してはもらえるが、事故や事件を防ぐため兵士が必ず同行してくる。

 もっとも死ぬ勇気がないからこうなっているのだが。


 須川は窓を閉めて自室を出た。

 まだ就寝時間には少し早いこともあり、通路には観光客がちやほやと見られる。


 笑顔。


 三日間と共に過ごしていても、イルリハラン兵に声を掛ける人は絶えない。


 笑顔笑顔。


 笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔。


 誰を見ても笑顔しか見せない。

 幸せな感情しか出さない人たちが心底憎い。

 スタートはみな同じなはずなのに、絶望の須川と絶好の観光客と言う格差。そのあまりにも理不尽な対比に憎悪しか抱けなかった。

 あの指示書通りに動けば、いま笑っている人たちは平等に絶望へと変わる。

 本国で笑っている連中も全員絶望へと変わる。


 皆等しく絶望となる。

 格差無き社会とか、平等社会とか政府は謳っているのだ。

 なら平等に絶望に落とすのもいいのかもしれない。

 須川はそれをするだけのことが出来る。

 でも……一度だけでいいから……逢いたい。

 そうしたらこの考えも変わるかもしれない。


 とはいえどこの部屋に泊まっているのか、さすがに須川は知らなかった。

 元交際相手とはいえ今はほぼ断絶している状態だ。連絡も一切返信がないから詳しい状況も知らないし、泊まっている部屋の場所を教えたりもしないだろう。

 けれど手段がないわけではない。

 須川は適当に通路を歩き、一人のイルリハラン兵を見つけて近づいた。


「すみません。言語学者の羽熊洋一の部屋を探しているんですが、どこか分かりませんか?」

「申し訳ありませんが、その方とはどのような関係でしょうか? 関係者でなければお教えすることは出来ません」

「交際相手なのですが部屋の場所を聞くのを忘れてしまいまして。一応これが証拠です」


 言って須川はスマホに残してあった交際時の写真を出して兵士へと見せた。

 羽熊の腕に抱き付いた状態の自撮り写真だ。誰が見ても〝交際〟の写真と受け取れる。異地社会は日本社会と違いがないらしいから、これだけで関係は伝わるだろう。

 本人に確認されたら困るが政府が認めた日本人同士なら警戒はしないだろうし、はっきりと証拠があればその警戒もしない。


「それではお教えすることは出来ません。お手数ですが、後日ご本人からお聞きしますようお願いいたします」

 しかし、兵士は即答で拒否をした。


「え? お、お願いします。すぐに彼と話がしたいんです」

「例えご家族であっても規則でお教えすることは出来ないんです。申し訳ありません」

 取り付く島がない。

「……分かりました」


 これ以上しつこく迫って怪しまれたら困る。須川は潔く引き下がることを決めて兵士から離れた。

 一人目でこれなら誰に聞いても答えは同じだろう。

 他に知っていそうなのは政府関係者だが、誰なのかも分からないから聞きようがないし、下手に聞いて疑われても厄介だ。

 ここは諦めて部屋に戻るか逡巡しながら当てもなく通路を歩く。


「……ホント、燃やしてやりたいわ。この船」

 日本にとってこの浮遊船は幸福の象徴。須川にとっては憎しみの塊だ。指示にはないがこの船を燃やして落としてもう一つ不幸を作りたくなる。

 ただ、この船は木造ゆえに耐火性と防火性に優れていて、ライター程度の火ではカーテンすら燃えやしないらしい。

 丸一年前まではそんなことは考えもしなかったのに随分と堕ちたものだ。

 まあ自業自得で弁明の余地はないのだが。


「あ、すみません」

 通路の角を曲がろうとしたら、人とぶつかりそうになって咄嗟に避けた。

 反射的に謝罪をする女には見覚えがあった。


「あなた……」

「え?」


 首都での移動中や店での案内で、なぜか異星人に好かれてよく話をしていた女だ。しかも羽熊と親しい間柄だが、須川はこの女のことは知らない。


「羽熊と話していた人ね」

「……博士と知り合いですか?」

 女は須川の問いかけに、少しばかり警戒の色を見せつつ切り返しをしてきた。


「ええ、ちょっと話がしたいのだけれど、部屋の場所を聞くのを忘れちゃってね。もし彼の部屋の場所が分かるなら教えてくれないかしら?」

「少なくとも政府関係者での知り合いじゃないですね。偶然博士の知り合いが、何百万何千万も応募があった中で二人も選ばれることってありますかね?」


 二人と言うのは須川と自分のことを言っているのだろうか。この女も口ぶりから知り合い以上の関係と思うが、さすがに恋人ではあるまい。


「そういうあんたはなんなのよ」

「あなたには関係ないです。それと博士はいませんよ。宮殿で開かれてる晩餐会に出席してますから。部屋は知ってるけど教えません」

「まって、彼の知り合いなのは本当よ。ほら、これが証拠」

 須川は再び羽熊と交際していた時の写真を出して女に見せる。


「……これ、博士に抱き付いているように見えるんだけど」

「そりゃ抱き付いているからね。言っとくけど合成とかじゃないから」

 女は眉間にしわを寄せて首を傾げた。


「おかしいですね。博士はいま誰とも付き合ってはないはずですけど? そもそもどちら様です? いるんですよねー。恋人とか関係者って言って人を騙す人って」

「騙してないわよ。交際していたのは本当で、彼に用があって探しているの。第一あんたは羽熊の何なのよ」

「まずはあんたが名乗りなさいよ」

「須川琴乃」

「……ああ、博士をこっ酷く裏切って闇落ちした元カノか」

 初対面のはずなのに、素性を全部知っている一言で須川に衝撃が走った。

「なんであんたが知ってるのよ」

「博士からあんたのこと色々と教えてもらったから」


 教えた? 人の一番知られたくないことを他人に?

 それを話せるだけの仲だとでも言うの?


「私は鍬田美子。博士の生徒で、近いうちに博士とお付き合いする予定です」

「あんたが!?」

「別に博士はフリーであることやここ一年の事情は色々と知ってるし? 博士の名声に興味も利用もするしないし、博士も満更でもなさそうだからね」

 鍬田という女は腕を組み、勝ち誇った表情で断言した。

「なんでその元カノがここにいるのか知らないけど、元カノなら尚更教える気は無いわ」

 その上から目線の言葉に、ただでさえ溜まりに溜まっている感情がさらに膨れ上がる。


「っ!」


「叫ぶと人が来ますよ。理由は知らないですけど、騒がれてそれが博士の耳に入ったら困るんじゃありません?」

「チッ。調子に乗るんじゃないよ」

「調子に乗って地獄に落ちた人に言われたくないですね」


 この女も天国組。こっちは地獄組で今も落ちている最中。しかも恋人まで奪おうとする。

 必ず後悔させてやる。

 ふと視野の端に、宙に浮く女イルリハラン兵がジッと見ていることに気付いた。

 一体なぜこの女に異星人が関わるのか分からないが、シンデレラストーリーを歩んでいるのは間違いない。

 その幸福の顔を絶望の顔に変えてやる。

 須川はわずかばかり残っていた良心を捨て、あの指示書通りに実行する決意を今決めた。


「あんたが地獄に落ちるのは勝手でも、博士まで巻き込ませることは絶対にさせないから」


 須川は言い返さず、睨みつけるだけして踵を返した。

 精々短い天国組を味わっているがいい。必ず天地逆転してみせる。

 きっと鏡を見たら悪女のような醜い笑みをしているのだろう。そんなモラルなど気にせず、確固たる決意をもって自室へと戻ったのだった。


      *


 訪問者が来たのは、羽熊が晩餐会から戻って来てから数分のことだった。

 まだネクタイを軽く緩ませたところでベッドに腰かけたところで、羽熊は立ち上がっていりぐちへと向かった。

 戻ってすぐのことだから政府関係者と思ったからだ。


 しかし違った。

 ドアの覗き穴から外を見てみるといたのは鍬田だった。それも落ち込んだ表情を見せながらやや俯いている。

 時間はもう深夜一時を回っており、朝食は七時となっている。昼間の観光もあって寝ていなければ朝起きられないだろう。

「鍬田さん、こんな時間にどうしたの?」

 さすがに開けないわけにいかず、羽熊はドアを開けながらそう尋ねた。


 途端。


「おっ」

 鍬田は羽熊に抱き付いたのだった。

「……なに? なにどうしたの?」

 好意を示してからそれらしいスキンシップは見せても、抱き付いてくるのは初めてのことに戸惑ってしまう。


「昼間なにかあった?」

 羽熊と鍬田は別行動だったから昼間何をしていたのかは何も知らない上に、存在しない一〇一人目の観光者だ。不遇なことがあって気分を害したのかもしれない。

 それにここで鍬田が頼れる人も限られるから、色々とあってここに来たのだろう。

 そう抱き付かれながら思考を巡らせていると、胸に顔を付けていた鍬田が顔を上げた。


「羽熊さん、さっき元カノと会いました」

 その表情は悲しんでいると言うより落ち込んでいるものだ。

「琴乃が?」

「……」

 須川の名前を言うと鍬田は頬を膨らませた。


「元カノなのに名前呼びなんですか? 私はまだ苗字でさん付けなのに」

「食いつくのそこ?」

「博士、夜分すみません。鍬田さんがどうしてもすぐに博士に会いたいというので来てしまいました」

 少し離れた所には専属護衛であるルィルがいて、日本式のお辞儀をして説明をする。

「とりあえず中に。ルィルさんも」

 時間的に男女の逢瀬と思われるが、リーアンであるルィルが一緒となると誤解されかねない。通路に誰もいないことを確認して二人を部屋に招き入れた。

 二人が羽熊の部屋に来ることは何度もあるため、羽熊としても女性を部屋に招くことに抵抗はない。


「……で、こ……須川と会ってなんでこんなことに?」

「羽熊さんは知ってたんですか? 闇落ち元カノが来てること」

「参加者リストを前に見せてもらったからね。アーク会長のトムの妻として参加してるみたい」


 それを初めて知った時はもちろん驚いた。

 同姓同名を疑って調べてもらったら、トムの妻として合法的に参加者リストに載ったらしい。

 アークのトムは元々政府側として参加が決まっており、その配偶者も希望すれば参加できるため問題なく来ており、犯罪歴もないことから止めることも出来なかったそうだ。


「それ、絶対に裏がありますよ?」

 なぜ須川がここにいるのか説明を聞いた鍬田は、誰もが思いつくことを述べた。

「あっても規則上止められないんだよ。アーク会長を招待したのは日本政府で、規則の上では配偶者になった日付は設けてないから」

「なんで設けなかったんですか」

「そこは役所仕事、かな」

「羽熊さんはなんでそう落ち着いてるんですか。絶対なんらかの工作員ですよ!?」

「そう言ってもアーク自体は健全な非営利団体だからね。それにここでなにをしてもアークのためになることなんてないよ」


 出来てもアークとイルリハランでパイプができる程度だが、それは会長であるトムで十分だ。日本人である須川がいる必要はない。


「なにか悪さをするとかは考えられないんですか?」

「してどうする? イルリハランと関係悪化させて日本が得することなんで一つもないよ。百害あって一利なしさ」

「じゃあなんでわざわざ結婚をしてまで来たんですか」

「知らないよ」

「あの女、羽熊さんに会おうとしてました。もちろん断りましたけど」

「会う気はないよ。というか、やり取りすら最初以外してないしね」

「本当ですか?」

「本当だよ。だからそろそろ離れてくれない?」


 鍬田はひたすらに羽熊から離れようとしない。両肩を掴んで話そうとしても、腰に巻きつく腕に力が加わって強固になり、力を込めると「痛い」と言い出して緩めてしまう。

 平静を保ってはいるが、色々と押し付けられて内心は焦っている。鼓動も激しくなっていて密着している鍬田は気づいているだろう。


「嫌です。元カノがいるなら安心できません」

「いやそこは安心してよ。もう縁は切れてるし、向こうは結婚してるし」

「どうせ偽装結婚ですよ。ここに来るためだけにしたに決まってます」

「かもしれないけど、俺はもう未練はないから会うことはないよ」

「でも名前呼びしてました」

 羽熊はルィルを見る。


「……」

 視線を逸らされた。

「……美子、ちゃん。須川と会うことはないから安心して」

「本当ですか?」

 途端表情が笑顔になるのが現金で憎たらしい。嫌いではないが。


「あいつが何を企んでるのか知らないけど、会うつもりも助ける気もないよ」

「信用できないです」

「ならどうしたら信用してくれるのさ。明日も早いから寝たいんだけど」

「私は洋一さんのことが好きです」

「……はい?」

「フリーだと安心できません。だから私と付き合ってください」

「だからって、そんな大事なことを……」

「好きな人を元カノなんかに奪われたくないです」

「奪われたりしないよ。だから離して」

「どうして返事をくれないんですか! 私、そんな冗談を言う性格してます!? 冗談で告白なんてしないですよ!」

「いや、それは時と場合をだね」

「……時と場合、結構当てはまっていると思うけれど?」


 護衛としているルィルは、こういう場合でも鍬田の味方をする。


「まあ私は邪魔でしょうけど、時と場合はそう外れてはないんじゃない?」

「ルィルさん……」

「純粋に怖いんでしょ? 鍬田さんと進むのが」

「そうなんですか?」

「い、いや……」


「博士は例の元カノに一方的に別れたことを考えてしまうんでしょう? それが鍬田さんでも起きるのではと考えてしまうから、深い関係になりたくないんじゃありません?」

「私、洋一さんのこと裏切ったりしません。あの女にも言いましたけど、洋一さんの名声や名誉とか、立場を利用しようとなんて思ったこともありません。私は言語学者の洋一さんじゃなくて、ただの洋一さんが好きなんです!」


「美子ちゃん」

「もう一つ言わせてもらうわ。博士は彼女に裏切られたから不安なんでしょうけど、じゃあ博士が鍬田さんを裏切らない保証はあるの? 多分その元カノと付き合いだした時は裏切らないと信じあってたと思うけど、人間何年も経てば考えなんて変わるものよ? 鍬田さんに起きて博士に起きないなんてありえないわ」

「そうですよ。そんな見えない未来より今を見てください。未来は分からないけど、今は絶対に裏切らないって言えます。いえ、宣言できます!」


 誰にだ。

 悔しいが、ルィルの言っていることは合っていた。

 羽熊が鍬田の好意から逃げていたのは、もう一度裏切られると立ち直れる自信がないからであった。

 さすがに裏をもって接してきてはいないと分かっても、今後は分からない。須川とも何年と順風満帆に交際を続けた上で裏切られたのだ。ここで一歩でも先に進むともう後戻りはできない。玉が坂を転がるように、最初はゆっくりでも徐々に加速を続けて次第には止まらなくなるだろう。

 だからこそ裏切られた時の衝撃は大きく、須川の時でも立ち直るのに時間が掛かった。

 まさか異星人であるルィルに看破されるとは本当にメンタリティが似ている。もう同じと言ってもいいくらいだ。


「……私に、安心を下さい」


 決して茶目っ気や冗談を絡めた言葉ではない本心から出た言葉。

 確実にOKを貰えるとは考えていないのが、胸の中で小刻みに震えることで伝わってくる。

 男として答えないわけにはいかない。

 唐突な告白に驚いたが、羽熊洋一は覚悟を決めた。

 抱き着かれてからひたすら鍬田に触れないようしていた両腕を、優しく背中へと回した。

 そして小さく耳元でささやいた。


「今まで我慢させてごめん。これからよろしく」


 羽熊と鍬田の二人だけにしか聞こえない囁き声。ルィルには悪いが返事を聞かれるのは恥ずかしい。

 ある意味恋のキューピットをしてくれたが、ここは二人だけの思い出にしたかった。


「……はい。お願いします」


 鍬田もささやき声で返して、涙目ながら笑顔で見上げた。

 ようやく鍬田の締め付ける腕は緩んで離れ、羽熊は優しく頭を撫でる。


「洋一さん、んー」


 と目を閉じながら唇を突き出してきて、羽熊はその顔にチョップを食らわす。


「ぎゃっ!」

「調子に乗らない」

「いいじゃないですかー。これで晴れて付き合うんですから」

「まあ、そういうのは私がいないところでしてしてほしいかな?」


 額に手を抑えながら文句を言う鍬田に、ルィルは忠告するように諭した。


「……はい。はしたなくてすみません」

「これで安心して眠れそう?」

「むしろ興奮して眠れそうにないです」

「ルィルさん、軍人技を使っていいから眠らせてやって」

「ふふ、そうさせてもらうわ」

「ふぁ……洋一さん、一緒に寝ちゃだめですか?」

「さ、部屋に戻るわよ」


 なんとしても部屋に戻ろうとする鍬田の襟をルィルは掴み、帰りたくない犬を無理やり連れて行くようにして部屋から出て行った。


「まったく……」


 二人が戻ったことで部屋は静寂となり、羽熊はようやくホッとしてジャケットを脱いだ。その最中で数分前のことを思い返す。

 逃げられない場面ではあったものの後悔はない。

 ルィルの言う通り、未知数の未来を不安がる前に目の前の現実だ。


「あいつの動向、気を付けたほうがいいな」


 須川がなぜここにいるのか。どうして羽熊に会いに来たのか。

 破壊工作などマイナス方面の工作をしても、アークにしろ須川にしろ得することは一つもないし、トムの妻としての役割なら力不足と言えよう。

 しかし何らかの理由があって来ている以上、政府として警戒させられなくても羽熊個人としては警戒しておくべきか。

 なんとしても日イの国交に影響を与える事だけは避けなければならない。

 羽熊はそう考えながら、寝間着へと着替えたのだった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 屁理屈であっても、破壊工作に「正義(笑)」を付与出来るのか、次回に向けて緊張しますね。 [一言] 久々にルィルさんの、羽熊と戦友っぽい関係性が見られたように思いました。あんな局面ではあ…
[一言] 畳み掛けるように理不尽な波が襲ってくる展開にストレスががが… 何処かでスッキリできるのかな…
[気になる点] 鍬田嬢の反応が子供の癇癪にしか見えず、羽熊博士がOKしたのは意外でした。 [一言] 前話までは全く同情も出来なかった元カノさんも流石に気の毒に。自業自得とはいえ、元カレを掻っ攫おうとす…
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