第66話 『ムルート』
ムルートに直接干渉することが一切認められないのなら、向かってくる理由を移動させればいい。
それが異地担当内閣官房参与として任命された羽熊が考えた解決案だ。
国際条約によって、物理的な接触はもちろん音や光と言った非物理での接触でも厳密に禁止され、ただ『見る』しか許されない。
しかも条約にも干渉が認められないため、条約そのものを超法規的に破棄するかムルートが絶滅しない限りなくならないのだ。
ならば、ムルートに干渉しない形でコントロールをするしかない。
そもそも干渉と言うのは対象に向かって明確な『目的』と『手段』を用いることで成り立つ。
その二つを別の対象で行い、結果本来の対象が狙い通りに動いたからと言ってそれは干渉したとは言えないはずだ。
つまり間接的な干渉だ。直接的ではないため解釈すれば干渉してはいないことになる。
ムルートは現段階ではユーストルにあるむき出しの結晶フォロンに惹かれて向かっている可能性がある。ならばその惹かれている原因である結晶フォロンを、ムルートが反応するだけ運搬すればいい。
それならば直接的な干渉ではないので条約にも引っかからないし、宗教的にもムルートではなく運搬が目的と解釈すれば非難はされにくいはずだ。
しかし法律と宗教が根強く絡むこの問題。羽熊だけでは詳細を纏めることは出来ず、多くの意見を聞かねばならない。
羽熊は会議が再開されると同時に、一つ案が浮かんだとして非干渉型ムルート誘導案を話した。
「――前提として、ムルートが進路変更した理由が結晶フォロンであること、この誘導方法が非干渉と認められなければなりませんが、国際法を遵守しながらムルートをユーストル外に出すにはこれしかないかと」
面倒な条件下にして解決法はシンプルだ。説明に必要な時間は五分程度で終わった。
「エルマ大使、異地側の人間として意見を聞かせては貰えませんか?」
『そうですね……案は非常にいいと思います。私としてもムルート自身ではなく、その原因を対処するしかないかと』
羽熊の案を聞いて色々と脳内でシミュレーションをしているのだろう。歯切れの悪い返事をする。
『しかし危険も大きいです。ムルートが反応するだけの量がどれだけか分かりません。仮に一トン必要だった場合、その価値は……千兆セム。単純に国家予算の五倍をこの作戦では使うことになりますね』
実に五年国を動かすだけの価値ある物を、ムルート相手に使うかもしれないと言うことだ。
日本円に換算すると五百兆円。
額が大きすぎて逆に盗みを働かないかもしれないが、この手の作戦でよくある盗みをすると面倒になる。
結晶フォロンの下落がまだ微動の中、ひとかけらを奪うだけで一生遊べるとなれば全てではなくてもネコババをする人はいるだろう。
『運搬員を信用しないわけではないですが、隠し持つことが容易なのでその心配が一つ。もう一つにムルートだけでなく、他の動物も間違いなく反応するので自然の秩序を乱す恐れがありますね』
エルマは即座に思いつく懸念を話した。
生体レヴィロン機関に使われる結晶フォロンは大自然の食物連鎖で滞ることなく循環している。それは自然界の循環から切り離されるリーアンを含めてだ。
まずは植物が大気中の超微量の結晶フォロンを吸収し、それを小動物が食べ、中型動物、大型動物と移動し、リーアンも動植物を食することと髪に寄生するバクテリアが吸収することで体内に取り込み、死去のあとは火葬されて結晶フォロンは空気中に拡散される。
フィリアの自然から結晶フォロンは消えることはないから、リーアンは空を飛び、巨大動物は自重を支え、鳥類は体重を増やしながらも巨大化に成功している。
その自然の流れが順当の中、世界で人工的に流通している結晶フォロンの十三分の一を局所的地域にばらまけば、自然の循環を乱す恐れもあった。
フォロンを求めて大中小の動物が群がって苛烈な弱肉強食が始まりかねず、ムルートも参加してもし死ぬようなことがあれば作戦は失敗だ。
原因とされる結晶フォロンの移動は妙案だが、このままでは実行は出来ない。
『一つ一つ問題を解決していきましょう』
「エルマ大使、採掘場に問い合わせたところ、すぐに移動させられる結晶フォロンは三トンあります」
日本の国家予算十五年分の価値に、エルマは目を見張る。
『わ、若井議員、それは一塊ですか? それとも総量としてですか?」
「総量です」
『可能であれば一塊で使いたいですね。フォロン結晶石はレヴィニウムと同じように、大きさによって効力が違います。一グラムが千個と一キロが一つでは持ち上げられる重さや放つ波動もが違いますので』
「……少し席を外します」
若井議員は確認を取るため会議室の隅へと移動をする。
「エルマ大使、まだ生態について深く把握していないのですが、巨大動物はどうやってフォロンを感知しているんですか?」
『生体レヴィロン機関を持つ動物には、頭部にある種の波動を感じ取る器官があります。フォロン結晶石はそれぞれ波動を出していて、大気中のフォロンを伝っていくのです。動物たちはその波動を感じ、摂取するため発生源へと向かう習性があるんです』
この星の環境はいわば抵抗感のないフォロンの海の中と言える。地球でも、海が透き通るほど透明で海底から上を見上げれば魚たちは空を飛んでいるように見えるのと同じだ。
それがこの星では呼吸も出来るし抵抗も感じずにいられる。
結晶フォロンはそんな海の中でそれぞれ音波を発しているようなもので、同じ重さでも一塊と粉々になったものでは掛け算と足し算で違うようだ。
『我々リーアンは高い知能を得る代わりに感じなくなりましたが、稀に気配として分かる人はいるそうですね』
エルマが説明している間に確認を取った若井が戻って来た。
「少し時間を取りました。今現在で採掘した一塊のフォロンは研究のため、五百キロを最高に五十キロずつ減らした百キロまであります。他はすべて十キロ以下に砕いているそうですね」
ユーストル以外で採掘される場合、大きくても十キロ程度と聞いたことがある。十キロ単位のはそのまま浮遊島のレヴィロン機関に使われ、一キロ以下は粉末状にまで砕いて小物から乗り物と使われている。
ゆえに百キロ以上の結晶フォロンは採掘された例がなく、研究目的として五百キロを最大に五十キロずつ減らして保管しているそうだ。
日本側からするとやはりピンとこないが、フィリア側からしたら失神レベルだろう。
手のひらサイズの結晶フォロンだけで何世代にもわたって遊べるとしても、フォロンの取引をしたことがない日本からすると、たかがこの程度で何重何百億もするとは理解できないのだ。
もちろん頭では分かっていても理解が出来ない。
空に立つ人種と地に立つ人種の大きな違いの一つだ。
『さすがに一トンもムルートの前に出せば誘導可能でしょう。同時に採掘現場は鉄板で蓋をしてしまえば、ムルートは一トンの結晶石を向かって進路変更するはずです』
「……あのー、一ついいですか?」
羽熊の隣に座る雨宮が挙手をした。
「当たり前のように話を進めるのでそう言うものと思ったんですが、ムルートは採掘現場から二千八百キロ近く離れていますよね? もしそれだけの距離を伝播して引き寄せられるなら、ユーストルだけじゃなくて円形山脈よりも外側の動物も引き寄せられませんか?」
あ……
会議室にいる全員がそう呟いた。
地球の常識はフィリアでは半分近くが当てはまらない。本来なら生物が生存できないほど巨大な惑星であり、反重力並みに自在に空を飛べる独特の環境。それによって怪獣レベルでの巨大な動物が生息している。
そうした桁違いの先入観から、真っ先に疑問に思うことを羽熊を含め日本側は気づけなかった。
海でも二千八百キロ先の音を拾うことは出来ない。北海道で鳴った音を沖縄で聞くようなものだ。どれだけのエネルギーが必要なのか想像すらできない。
「少なくとも引き寄せられる動物は採掘現場周辺だけで遠方からは来てません。ムルートの生態を詳しく知らないので、ムルートだけ感覚器官がずば抜けて発達しているのかもしれませんが……」
雨宮の指摘は実に地球人的だ。それだけ羽熊達がフィリアの常識に浸食されてしまっているのだが、その指摘で一気に地球人的感覚に引き戻される。
「確かに矛盾するな。それだけ離れていて知覚できるなら、他に知覚できる動物も全て惹かれるはずだ。良く気付いたな雨宮」
穎原は雨宮の気づきを褒める。
誰もがそれが普通として流してしまったのだ。違和感を覚えなければ別の結末が来たかもしれない。
「エルマ大使どうですか? ムルートはそれだけ離れていても知覚するものなのですか?」
雨宮の疑問を受けて若井議員は改めて質問をし直す。
『……いえ、ムルートは聖獣と呼ばれるだけの生態は持っていますが、感覚器官は他の動物と違いはないはずです』
「そうなりますとムルートの進路変更は、採掘場のフォロンに反応したのではなく別の理由で変更したことになりますね」
『そうですね。有力と思えたのが採掘場のフォロン結晶石だったので進めましたが、雨宮大尉の疑問で可能性は低いと言えます。本来なら私から違うと言うべきでした』
エルマは進路変更を一つに絞ってしまったことを反省して頭を下げる。
可能性とこの会議では幾度と出ても、所詮は人間だ。自ずと信ぴょう性のある案に縋りたくなる。
現に羽熊も、可能性と頭の片隅に置いておきながらもユーストルのフォロンに導かれたものと断定してしまっていた。
「いえ、可能性を一つなくせて良かったです」
穎原陸将はエルマをフォローする。
「進路変更の原因は作戦成功率に関わるため是非とも知りたいところですね」
『今のところムルートの監視は我が軍が行っています。至急調査するよう要請しましょう』
ユーストルのフォロンが原因の可能性が低くなったとしても、自然と人為の可能性は依然と残る。純粋な自然であれば問題ないが、人為的な工作だった場合は作戦実行中に襲われることもあり得る。その確認を穎原はしたいのだ。
ムルートが五十キロ圏外でフォロンに反応するなら日本の出番はないが、圏内だと日本が実行しなければならない上にイルリハランの支援も得られない。
専守防衛を絶対とする日本からすれば戦闘は何としても避けたいのだ。
『進路変更の原因は分かり次第すぐにお知らせします。まずはこの案が可能かどうかをハウアー陛下に進言し、さらにアルタランで議論してもらいます』
「分かりました。こちら側も総理に上げて判断を仰ぎたいと思います」
そうして緊急会議は終了する。
一応の責務を果たした羽熊はホッと安堵をするが、国防軍は気を緩めずに議論を交わし合う。
時間に限りがある上に不確定情報が多い。法律の対処も並行してしなければならないのだ。有効的な方法が一つ出たからと言って安心は出来ない。
雨宮の当たり前の疑問によって警戒感が強くなった。
憶測はいくらでも立てられ、それは真実を曇らせる。
ハーフ問題は客観的な状況証拠が多く揃ったから、一つの仮説に導けて真実として押し通すことが出来たが、国レベルの問題では決してしていいわけではなかった。それでも通したのは日本に時間が無かったからだが、今回はそれよりも短くて状況証拠すらない。
ならば多少時間を削ってても確証を得なければ実行は出来ないのだ。
こればかりは向こうの結果待ちで、日本側が出来ることはあらゆる場合でも迅速に動けるよう並行で準備を進めること。
運搬は何を使うか。最悪の事態に敵性勢力が五十キロ圏内にいた場合の対処。その場合の法律はと、いくつものパターンを前もって想定して対処案を検討する。
ただ、どれだけパターンを考えても、根底の問題を解決しなければ意味がない。
どうやって日本が現行法によりイルリハラン王国内で作戦を実行するかだ。
*
ムルートの進路変更によるユーストル入域の可能性が高まり、イルリハラン政府の要請により急遽アルタランでは総会が開かれた。
アルタランで何か議会を開く場合、総会と安保理の二つがある。
総会は世界の方針を統一するための議案に対して決議し、安保理はその名前の通り安全保障に関わる全般を決議する。
細かくすれば、総会は経済や保健、人権に法律等を主に議論して、安保理は特定の国または国際社会の平和に影響を及ぼす安全保障を議論する。
安保理は可及的速やかに結論を出す必要があるので七ヶ国による選抜によって話し合われ、その他は加盟国すべてにより話し合われて世界の方針を決定するのだ。
ニホン問題は誰が見ても安全保障に関わるため、安保理が中心となってニホン委員会を立ち上げて議論を行ったのである。
このムルート進路変更問題は本質的に安全保障になるが、表向きは絶滅危惧種なので安保理ではなく総会での議論だ。
ただ、この総会は義務付けられているからと言って必ずしも出る必要はない。
義務付けられていても法的な罰則はないし、各国それぞれで事情もある。よって総会を開いたとしても全ての国が参加するのはあまり多くなく、平均八割から九割程度だ。
参加しない場合は欠席となり、無条件でその国は賛成扱いとなる。また、複数の案の投票の場合は実投票の多い案に欠席国は賛成となる。無効票ではなく賛成票にすることで義務付けを無視するある種の罰則としているのだ。
事前に議論する内容が分かっており、賛成する意思があるなら参加しなくてもいいが、逆に反対意見の場合は出なければならない。
それだけ総会で欠席する国がおり、苦肉の策としてそうした扱いとなったのだった。
そしてアルタランは総会の申請から二時間後。進路変更からわずか四時間後に開くのだが、突然の総会にも拘らず出席率は百パーセント。
加盟国の全ての国が今回の総会には参加する意思を示したのだ。
ミストロ教信者三十億人が崇める聖獣ムルートの危機となれば動かない国はない。
無論、ムルートのためは建前で本音は国民の暴動を防ぐためだろう。
総会は総会で議長と副議長が選任されて進行される。総会に於いて安保理の理事国は純粋な参加国に過ぎず、安保理議長のレスファーも一国家の世界連盟大使として参加する。
そうして始まるアルタラン総会。
このまま放置を続けるとムルートはニホンに落ちる恐れがある。よってどう対処をするべきか議論が始まった。
総会では一ヶ国に付き三回三分ずつ発言する機会が与えられる。
ただそうなると単純に計算して十五時間と掛かってしまうため、他の国と同意見の場合は発言を見送って時短を図るのが普通だ。
そうして出された案は大別して三つ。
『不干渉とした国際条約を超法規的措置によって一時的に無効とする』
『現行法の遵守した上での対応は認める』
『一切合切手を出さず自然の成り行きに任せる』
割合で言えば超法規的措置が二割、現行法対処が三割、完全不干渉が五割となった。
無効案に至っては全会一致レベルの同意が無ければならず、現行法での対処でも異星国家に対処させるなど言語道断。可能性は高くとも、ユーストル内の動物がニホンに侵入しないようにフォロンがないことを察してこないかもしれない、と言う意見が多かった。
はっきり言って加盟国九十七ヶ国が妥協無しでの一致した答えを出す事はありえない。
時間が差し迫っているが、たった三つのうちどれか一つのを話し合いだけですることは不可能だ。
ならば民主主義を代表する決議である多数決を取るのが手っ取り早いが、そうなると少ない票の案から取ることになり、非干渉案と対峙する恐れがある。
これが一般的な経済的な議題であれば一票の差はさして重要ではないが、ムルート相手ではそうはいかない。
なにせ四十八億人中三十億人がムルートを聖獣としているのだ。半々の状態で案を出すと各国政府は妥協できてもその奥の国民が納得しまい。
最悪世界規模の内乱が起きる。
本音を言えば各国政府は、この問題に対して何か対策は講じたくないのだ。
間違った対策を採択して最悪の結果になれば、ムルートを崇める国民の矛先はまずは政府に向かうからである。
各国政府は治安維持のために警察や軍隊を総動員し、国民も怒りが収まらずに手に持つ武器を過激にして瞬く間に内戦へとなるかもしれない。
よって本音のさらに本音を言えば、しがらみのない異星国家ニホンと当該国であるイルリハランに丸投げをしたかった。
しかし、建前上そうするわけにはいかないので、条約の通りに完全不干渉を推す国が半数に至ったのだった。
それならばどの国の国民も文句は言えない。自分たちで決めたルールに則ったまでだからだ。
絶対に答えの決まらない議論は続く。
*
ムルートの詳しい生態は、純粋な生物学としても遠方からの目視しか許されないため移動した跡を調査するくらいしか詳細なことは分からない。
非干渉条約は世界最古の多国間条約と呼ばれるほどで、アルタランが組織されるよりも古い。
その後アルタランが組織されて条約の管理はアルタランへと移ったが、その内容は発効以来一度も変わっては無かった。
そのためムルートの生態は現代でも詳細なことを調べることは出来ず、自然死した死骸や移動跡を調査してようやく分かるのだった。
ムルートの平均寿命は三百年。他の陸棲巨大動物が百年程度なのでその三倍を生き、鳥類だけでなく分かっているだけで最長の動物だ。
全長は百メートルで両翼は二百メートル。体重は六百トンもなる。
肉食で小型大型関わらずに捕食をし、渡り鳥として常に世界を巡っている。
羽毛は黒く、日光を効率的に吸収して体温を維持して生体レヴィロン機関を稼働させ続ける。ゆえに夜間は活動をしない。
その巨体ゆえに止まると言えば巨木や山頂に限られる。元々自重は巨大動物全てが支えているので巨木の枝でも構わず、それゆえにグイボラに襲われる心配もなかった。
神話上では地面を嘴で掘り起こしてグイボラを食べたとされているが、それを正式な記録として残した物は何もない。わざわざ地中を進むグイボラよりも、地上を歩く動物を狩る方が合理的なのだから、信者からすれば愚弄するなと非難されるが生物学的には食べないとされている。
生物学的で重要な繁殖方法は、それこそ聖獣ゆえと言われるものだった。
ムルートは大型動物でありながら単為生殖が出来るのだ。
生涯に僅か三個しか卵を産まないが、その三個全てがオスの精子がなくても孵化をする。
ただ、ムルートは巣を作ることも子育てをする習性もない。ただ産み落とすだけだ。卵の大きさは十メートルもあるので、そのまま十メートルの雛が孵化をする。五メートル級の陸棲動物は一メートルで生まれ、五十メートル級の陸棲動物だと五メートルで生まれるので雛の時点でも巨大だ。
しかし子育てをしないことから世界最大の鳥であっても幼鳥の生存率は高くなく、環境の変遷も重なり次世代が現れないため五羽まで減ってしまったのだ。
産み落としてすぐにリーアンが保護をして育てれば十分数を増やすことは可能なのだが、それを妨害するのが条約だから今回の問題込みで余計なことをしたと言える。
もっとも当時は百羽以上いたので、まさかそこまで減るとは思いもしなかったのだろう。
今現在ユーストルに進路を変えたムルートは推定年齢百三十歳とまだ若く、産んだ卵も一つだけだ。あと二個は卵を産むので、聖獣としてでなく種の保存を考えても生き残らせなければならない。
ムルートがなぜ聖獣と呼ばれるかはミストロ教の経典に記載されているからだ。その中ではグイボラを食し、歴史上初めてグイボラを殺した二人の男女と共にしていたともされている。
最悪の天敵であるグイボラを殺し、その殺した男女に心を許した巨大鳥。
一般人である人々が、そんな神にも等しい人類の英雄に仕える動物に近づく訳にはいかない。
ミストロ教自体はムルートの扱いは特になにもなかったのだが、信者たちにすればそんな高尚な動物に近づくことすら恐れ多く、そうした思想が聖獣扱いとして五十キロ圏内に近づくのは避けるべきと言う考えが広まっていった。
それが非干渉条約の草案になり、元々絶滅危惧種相当の生息数もあって当時の先進国によって条約として明文化されたのだ。
学界からは幾度と数を増やすために成鳥になるまでは保護を求めたが、その度に信者から凄まじいバッシングを受け、尚且つ非干渉が邪魔をして出来ていない。
ムルートを守る法律が、逆にムルートを絶滅に追いやっている。
まさに本末転倒な状態だ。
その当のムルートは、そんな矮小な人種の考えなどつゆ知らずに時速五十キロ程度で移動を続けている。
*
ムルートの進路変更の情報は当然ラッサロン浮遊基地中に行きわたっている。
イルリハラン王国は特定の宗教を国教とはしていないが、大多数の人が入信しているためその動向を心配する兵士は多い。
しかも今自分たちがいる場所にムルートは近づいてきているのだ。それで平然であるなら例え兵士であっても異端と思われても仕方ない。
通常の規定であれば予測進路上に基地があるならムルートから百キロの位置まで退避をする。
だがこのまま直進をすると、ニホンのホッカイドウ近海を掠めてここ接続地域近辺に迫る可能性が高い。
何かに導かれてか、それとも気まぐれか。
なんであれ聖獣ムルートがフォロン有効圏外であるニホンに突入すれば、間違いなく死んでしまう。
焦燥から何かしら行動に移したいと思う兵士は大勢おり、基地内を進めば何かするべきではないかと言う声や、非常にデリケートな時期に身勝手な行動は出来ないと言う相反する会話がひっきりなしに聞こえてくる。
もちろんミストロ教信者であるルィルもこの問題には強い関心を抱いていた。
ムルートの死の回避は当たり前だとして、どうやってそれを成しえるか。
一曹長ゆえに身勝手な動きは当然できないし、意見具申してもルィルよりも優れた考えをする人は大勢いる。
これからやってくる進行方向上にいると言うのに、何もできないもどかしさ。
命令があればすぐに動く所存だが、おそらくは出番はないだろう。
日本が中心とした問題なら指名されても、今回は日本を絡んでも中心ではないからだ。
ルィルの知恵が発揮されることはない。
そもそもこうした問題は政治家が解決することだ。実行役である軍人がとやかく考えることではない。
日本が来るまではそんな考えを抱くことはなかったのに、日本と関わってからどうも政治思考に向かいつつある自覚がある。
かと言って政治家になる気持ちはない。
今の認知度であれば政治家になろうと思えばなれるだろう。だが政治家として国を導く未来図がルィルにはない。軍人は国として目の前の壁を取り除く使命を持ち、政治家は目の前の壁のさらに先の壁を見定める使命を持つ。
目の前の壁で手いっぱいのルィルなのに、政治家になれないことはルィルが一番よく知っている。軍人が天職であることに日本を経験しても揺るぎなく、今持つ任務を粛々と遂行するしかない。
その上で命令が下せば全力で答えるだけだ。
ルィルの携帯電話が静かに震えた。
*
日本政府は接続地域から上がってきた報告を聞き、直ちに国家安全保障会議を開く指示を佐々木総理は出した。
宗教が根強く絡む問題だと、一つのミスが十年二十年と長引くことを理解しているからだ。
参加するのは総理、官房長官、防衛相、外相で四大臣会合として開かれる。
題目としては『重要影響事態?への対処に関する重要事項』が当てはまる。
「見た目は鷹で羽毛はカラス、大きさは飛行機よりも倍近くにあるのか……」
官邸対策室にて開かれる国家安全保障会議で、佐々木総理は件の対象であるムルートの写真を見ながら日本基準としての見解を呟く。
日本で就航している航空機は平均六十メートル。世界最大でも九十メートルにもならないのでその巨大さが伺える。
飛行機を普段乗らなければピンとは来ないだろうが、常に日本各地世界各地に飛んでいる佐々木総理からすればその大きさは容易に理解出来た。
「それでいてムルート自身には一切の手出し無用か……」
「他の陸上動物同様に、フォロンがないことを察して避けるか、接続地域から上がってきたフォロンによる遠距離による誘導をするしかないですね」
佐々木総理の呟きに応えるは片岡官房長官。
「イルリハランとしては条約の縛りのない国防軍に任せたいわけだが……難しいな」
極論を言えば結晶フォロンを運搬するだけなら、現行法でも海外派遣としてイルリハラン王国からの許可があれば可能だ。武器の使用を前提とするなら安全保障条約を結ぶ必要があるも、運搬だけならそれは回避できる。
だが相手は宗教上世界的に影響力がある野生動物だ。最低でもアルタランの許可が無ければ異地社会との遺恨を残してしまう。
これからユーストルは大規模な開発をするのに、ムルートの件で遺恨を作ってしまうと様々な問題を生み出しかねない。
ハーフの問題もある以上、裏はともかく表としては綺麗な状態で始める必要があるのだ。
「仮に成功したとしても責任はこちらに来ますね」
「イルリハランは向こう側の国だからな。重大な国際問題とすれば押し付けて来るかもしれない」
イルリハランを薄情とは言わない。どの国でも責任は負いたくはないものだ。
「ですがこのまま死なせてしまう方が確執を産みます」
「同意無くして国防軍を動かせば、今度は国民からも批判を受ける」
この問題は合法かどうかではなく心情が重要だ。
だから宗教問題は厄介であり、日本は各々の宗教に対して寛容さを見せたことで、地球時代での諸問題を回避してきた。
今回は日本が受け入れるかどうかは関係ないから判断に困る。
しかし問題には鉄則として抜け道はあるものだ。
「……一つ案がないわけではないが」
と佐々木総理は資料を見ながら腕を組み、現行法を遵守しつつ、国内と異地で批判を最小限に抑える案を構築する。
「本当ですか、総理」
「ただし、一発勝負だ」
佐々木総理は三大臣に案を説明した。




