第42話 『イルリハラン側信任状捧呈式』
二日連続で着慣れない昼の礼装を着る羽熊は、全ての準備を整えて基地内にある喫煙所でタバコを吸っていた。
羽熊がタバコを吸い始めたのは大学を卒業した頃で、ある銘柄がうまいことに気づいてから二日にひと箱と言うペースで吸い続けている。
しかしこのタバコが吸えるのも、もう少しで終わってしまうだろう。
日本は製品の輸出大国である代わりに、原料の輸入大国でもある。
原料を高品質の製品に仕上げる工業力はぴか一でも、元となる原料は海外頼りだ。
タバコの原料も海外の輸入に頼るところが多いから、海外産の葉タバコも日本で生産しないとならない。
レヴィアン落下に備えて冷害に強い作物の品種改良は米を中心に主な物は出来ているが、嗜好品であるタバコより食料の方が優先される。
現状、ユーストルで作物は育てられず、農業用天空島の貸与の話もない。よって日本本土内で生産しないとならないから当然な話だ。
タバコは最悪我慢できても、食事は我慢できない。
いずれは日本製の街や農業、工業用と専用の天空島を建造していくだろうが、出来るまでは国内生産を余儀なくされる。
フィリアでもタバコはあるらしいから、害が無ければ輸出入もあるかもしれない。
なんにせよ、今までのような味のタバコは吸える可能性は低い。
だから羽熊は一本を大事に吸う。
「羽熊博士、おはようございます。本日はよろしくお願いします」
大事に吸っても短くはなり、さすがにもう消したほうが良い長さまでなったところで、横から声が掛かった。
灰皿の縁で火を消して捨てて振り向くと、同じく昼の礼装に身を包む男性がいた。
在イルリハラン王国日本大使としてラッサロン天空基地に赴任する魚川澄平だ。
「魚川さん、おはようございます。よく眠れましたか?」
「五時間と言ったところでしょうか。いやはや、大使として赴任するのは慣れていますが、引退した身でいきなり異星国家の大使では緊張は拭えませんね」
「心中お察ししますが大丈夫ですよ。異星人と言いましてもメンタルに大きな違いはないので、外国人と同じ見方で大丈夫です」
「羽熊博士にそう言ってもらえると安心します。さすがは異地博士」
異地ではなく言語の学者と即否定したいが、日本人の中では一番異地の事を知っているだけあって否定しきれない。
そのうちテレビでも異地の第一人者とかで紹介されたりするのだろう。
「三ヶ月も毎日話をしていれば、相手の人となりくらい分かります」
完全な信用こそ、地球時代でも国家間では出来ないからさすがに難しいが、逆を言えば地球感覚で国交は可能だ。異星人と言う偏見さえ取り除けられれば不安がる相手ではない。
「早い所異星人と言う偏見はなくしたいですな」
「多分早いと思いますよ。外見とか空を飛ぶ光景はすぐに慣れますし、言葉の壁も喋れる人が両軍でいますし」
「羽熊博士、あなたが最初にルィルさんと出会った時、緊張とかしませんでした?」
「もちろんしました。その時は異星人なんて映画みたいに出会い頭に撃ち合いをするってイメージしかありませんでしたからね。でもすぐにその考えはなくなりました。向こうもこちらを手探りで知ろうとするのがすぐに分かりましたので」
「もしどちらかでも撃っていたら、今の状況はありえなかったですね」
「多分戦争状態で、バスタトリア砲とかミサイルの雨が都市と言う都市を襲ってたと思います」
地球時代のように国交がしっかりとしていれば事故で済んでも、異星国家の軍隊が初接触して発砲があれば、誤射だろうと侵略とみなして戦争が起きていたはずだ。
考え方次第では、あの初接触が日本の未来を決定づけたと言える。
あの日を考えるたびに、羽熊はホッとする。
自分は間違っていなかった。
「今後もそうならないようするしかありませんね。アルタランがどう動こうと」
「ええ。そのためにも今日と明日を無事に過ごさないとなりません」
信任状捧呈式と言う重要な儀式とはいえすることは簡単だ。正午十二時に捧呈式を執り行い、その後ハウアー国王と基地幹部たちとの昼食をする。明日には首脳会談があるから魚川大使とハウアー国王の会談等はなく、魚川は基地内に大使館に向かって羽熊達はここに戻ってくる。
ちなみにラッサロン基地には日本人用住宅も突貫だが作られ、職員含めて生活することができる。食事に関してはまだ日本からの持ち込みだが、安全面は確立されているので近いうちに異地産の食事が出るだろう。
「羽熊さん、私にも一本貰えますか?」
「ええ、いいですよ」
羽熊はタバコのケースを差し出して魚川は一本手にする。そしてライターを取りだして火をつける。
「魚川さん、タバコ吸うんですね」
「いえ、退職してからは禁煙してました。もう二年になりますか」
「禁煙中だったんですか? いいんですか吸って」
「願掛けみたいなものです。最初に大使として赴任したのがキューバで、事前に頂いていた葉巻を今日みたいに捧呈式前に吸ったんですよ。そのせいかは分かりませんが任期の間なんの問題もなく過ごして、次のインドネシアでも問題なく仕事が出来たので願掛けなんです」
「へぇ、そんな願掛けをしていたんですか」
「今回は葉巻が用意できなかったのが残念でしたね。探したんですけどもうどこにもなくて」
日本に物が入らなくなってきたのがレヴィアン落下の三ヶ月前。ちょうど日米安保破棄が話題になった頃で、かれこれ五ヶ月間日本はわずかな国内生産だけで活動を続けている。
葉巻の需要なんて知らないが、タバコよりはずっと少ないはずだ。物が入ってこない以上、少ない所から無くなっていく。
「葉巻だけでなく、食べ物も需要が少ない所から枯渇してきてます。早い所輸出入を始めたいですね」
輸出入の話はかなり進んでいる。すでに何を日本に輸入し、何を日本から輸出するのかは選定され、残すはその方法となっていた。
まずは最優先で接続地域近辺で陸の貿易施設を建設して石油や食糧を輸入し、後に貿易港を建設してその量を増やす予定だ。
早ければフィリア歴で来年一月には開始される。
魚川は短くなったタバコを灰皿へと捨てる。
「話が出来て良かったです。羽熊博士、今後もお世話になると思いますがよろしくお願いします」
そう言って魚川は手を差し出し、羽熊は笑顔で応じる。
「もちろんです。お互いに精一杯頑張りましょう」
強く握手を交わし、魚川は会釈をすると喫煙所から離れて行った。
腕時計を見ると午後八時を回ろうとしている。出発は午後十時だから、あと二時間は教本の仕事ができる。
羽熊は一度タバコの本数を見て、ポケットにしまって自室へと向かった。
*
この地に来て、いったい何度空を飛んだのか羽熊はもう覚えていない。
転移当初は空の安全が分からなかったから地を進んだが、安全が確立してからはユーストルの移動はほとんどが空だ。
毎日のように往復で空を移動し、時には何度と移動すれば回数なんて忘れ、今では空にいるのが普通に感じるようになった。
午前十時ちょうどに羽熊や魚川を乗せた陸自のCH‐47チヌークは離陸し、もう何度も訪れたラッサロン天空基地へと向かう。
ちなみに転移当時は〝浮遊〟の言葉を〝天空〟と勘違いして使用していて、実はもう誤訳は解消してラッサロン浮遊基地と呼びなおすことは出来る。しかし天空基地と多用してしまったことで世間に浸透し、さらに天空の城を使ったアニメ映画も一役買って今更訂正は困難になっていた。
政府は浮遊を天空としても違和感がないことからそのまましてしまおうとして、変わらず日本側はラッサロン天空基地と呼んでいる。
接続地域から離陸したチヌークは空高く跳び、護衛機なしの単機でラッサロンへと向かう。
尚、ユーストル割譲後のラッサロン天空基地の位置は、以前の日本本土から五十キロの位置から、割譲された日イユーストルの境界線から五十キロの位置へと移動して、日本本土より六十キロの位置にある。
二十分程度のフライトを経て、ラッサロン天空基地の日本専用ヘリポートにチヌークは着陸した。
この基地に来るのも一体何十回だろうか。ヘリポート利用だけなら三桁は優に達しているだろう。この基地で仕事をしているイルリハラン兵との顔なじみも大分増えた。
チヌークのローター音が収まる頃に後部ドアが開き、国防軍隊員の誘導でローターが起こす風に我慢しながら基地に足を下ろす。
「おお、これが宙に浮く人工島ですか。空に浮いてるとは思えないくらいに揺れたりしないんですね」
羽熊の背後から落ちてくる魚川は、初めて空飛ぶ巨大建造物に立って羽熊や国防軍隊員なら知っている感想を述べた。
「テレビでも言ってますけど、気体フォロンはこの星の公転と自転に完全に一致していて、空気や水みたいに移動を一切しないんですよ。なので船の錨みたいに動かないように固定できるんです」
「台風みたいな暴風雨でもビクともしないんですね」
「移動途中はさすがに難しいみたいですが、止まっていれば外壁が耐える限り問題ないそうです」
ただ、いくら座標を固定出来ても建物の強度は上がらない。座標固定は天空施設では大事な性能でも、木が風で折れないようしなるように、力を逃がす遊びがないと痛みをただ蓄積するだけだ。
しかし座標固定しないと、座標維持は出来ても建物の揺れまではどうしようもないらしい。
幸いここユーストルでは雨は降っても嵐は吹かないので問題ないが。
「羽熊、おはようございます」
チヌークから大分離れ、イルリハラン兵の歓迎を受けながら移動をしていると人垣の中からルィルが出て来た。
イルリハラン側の信任状捧呈式だけあって、白を基調に金の刺繍が走る式典用の礼装を身に纏っている。
「ルィルさん、おはようございます。今日はいつも以上に綺麗ですね」
普段もルィルは異星人である羽熊から見ても綺麗だが、今日は化粧や美容院にでも言ったかのように美しさに磨きがかかっていた。
「大事な儀式ですからね。いくら私でもおめかしはします」
準備はしてもみなしの状態でも魚川は大使として仕事はまだしていない。今日を境に異星国家に大使が赴任し、いよいよもって必要最小限の国交状態に入る。
そんな歴史的な一幕に参加するのだから、最上位の正装をするのは人として当然か。
「案内は慣れているでしょう私たちがします。まず問題ありませんが、日本政府の方々の身の安全は我々が保証します」
事前に決めたことで、国防軍は護衛に参加できずイルリハランに任せることになっている。
昨日エルマの護衛を日本の警察が請け負ったのだからその逆だ。
主役である魚川を始め、通訳としてハグマが付き添って日本政府高官数人がラッサロン基地へと向かう。
「では日本の方はこの台に乗ってください」
基地入り口の手前で、ルィルは地面に置かれた長方形の台を指した。厚さは三十センチ程度で横二メートル、縦三メートルとあり、六本のT型の棒が床から延びている。
「これはなんですか?」
聞くのは魚川。
「基地の兵士たちが私達のために作ってくれた乗り物ですよ。ラッサロン基地は広いので、徒歩だと時間が掛かりますからね。向こうの善意で作ってくれました」
元々は貨物を乗せるリフトを改造したもので、これのおかげで対角線で五キロもある基地内の移動は一気に楽になった。
T型の取っ手は振り落とされないためで、羽熊は何度も乗っているので気楽に乗り込む。
「慣れてないと振り落とされるので、棒に掴まってしゃがんでいるほうが良いですよ」
向こうも体勢を崩さないよう安全に動かしてくれるが、慣れてなければ体勢を崩してあわや落ちかけてしまう。
周囲に手すりや椅子を付けてくれればよかったが、専用の乗り物ではないからそこは我慢だ。
さすがに礼装でしゃがんで棒に掴まるのは見栄えが悪い。安全から羽熊はああ言っても、魚川を始め日本政府高官は誰もしゃがんで掴もうとはしなかった。
「ルィルさん、安全運転でお願いします」
「ゆっくりと行きます」
ルィルは台から延びるコードの先のリモコンを手にした。
全員が取っ手を掴むと台はゆっくりと浮き、一メートルほどの高さで止まると移動を始めた。
「結構キますね、これ」
自分の身長に加えて一メートルの高さは、不慣れな人だと畏怖を感じる。羽熊は三ヶ月ひたすら続けていたから慣れっこでも、魚川はまだまだのようだ。
「まあ一メートルなので最悪落ちても大丈夫ですよ」
「羽熊博士は平気なんですね」
「三ヶ月も高い場所で交流をしていれば平気にもなりますよ」
羽熊はこんな高さに怖気づく魚川を見て、中途から参加した人の問題点を今更ながら実感した。
羽熊も当初は高さに不安を覚えながら交流をして、次第に慣れて二メートル程度の高さなら平然となった。だが中途で入るとそのわずかな高さに慣れるところから始めないとならない。
魚川が参加したのはプレハブ小屋が出来てからなので、脚立に乗ることがなかったから耐性なんてつきようがないし、日常生活で地面から一メートルと高い所に立つこともない。
高所恐怖症でなくても、不安定な足場で成れない高さでは怖がって当然だ。
そこは慣れてもらうしかない。
まず向かうは、日本人用に突貫だが改修してもらった日本大使館である。
ドアの位置は壁の中腹から一番下へと変えられ、室内ではレヴィロン機関搭載は当然だが無人では全て床にまで家具は降ろされている。
天地生活圏の違いのすり合わせは、今後の活動で最重要になるため日夜協議を続けて来たのだ。それがいま、大使館と言う国外日本施設第一号として果たされている。
床にはもちろんゴミ一つ落ちてはおらず、壁に固定された家具や高さこそどうしようもないが、それを無視すれば日本の屋内と大きな違いは少ない。
「おお、そんな大きな違いは少ないですね」
「ここには外務省の職員が何度も出入りして内装について話をしていましたから。見て分かる通り地球のオフィスとほとんど変わらないと思いますよ」
「そうみたいですね。これならなんとかなりそうです」
「レヴィロン機関搭載の家具の動かし方はあとで他の職員が教えてもらえますので、ひとまずここで待機ですね」
「……」
魚川はじっと羽熊を見る。
「どうかしました?」
「いやはや、あなたは異地に関しては何でも知っていますね。ここのリフォームからあの乗り物と精通していらっしゃる」
「まあ文字通り最初から今日まで、異地に関しては大体に触れてきましたからね。広く浅くですが大抵は知ってます」
だからこそ日本政府は羽熊を手放そうとしない。専門的で深いところまでは知らずとも、異地に関して聞けば即座に返答できてどんな仕事でも柔軟に対応できるのであれば、今の日本でこれほど貴重な人材はいない。
それでいて基本給は変わらないし、手当ても微々たるものだから泣けてくる。
「でも私が抜けても問題ないようにはなってますよ」
中心人物としての自覚はあっても、自分がすべてを引っ張ってはいない。すでに羽熊が抜けても国交は問題なく進むようにはなっている。
これが小規模の組織なら大問題でも、羽熊の後ろにいるのは日本と言う先進国だ。抜けても代わりが務めてくれる。
「いえいえ、貴方は貴重な人ですよ。自分を卑下せずこれからも頑張ってください」
「過労死しない程度には努力します」
話しているうちに、日本職員がコーヒーを持って来た。
「魚川大使、羽熊博士、時間まで少し時間がありますので一休みなさってください」
「ありがとうございます」
「いただきます」
羽熊と魚川はコーヒーを受け取り、時間が来るまで最終打ち合わせを行った。
*
事前の打ち合わせの通り、メディア関係者は一人もラッサロン天空基地には来ていない。
日本国内と違ってイルリハラン国内でテロが起きればアルタランの思うつぼになる。
わずかでも可能性を潰すためにも、外部の人間を連れてくるわけにはいかなかった。一昨日のメディア関係者交流会でも身分を偽装して参加し、ラッサロン基地の人間すら操って結晶フォロン入りの箱を仕掛けさせるのだ。
内部の人間すら疑う状況では、外部の人間を入れるのはもってのほかと言える。
よって可能な限りの予防策として、今日に限って殺傷兵器は全て回収。暴徒鎮圧用の非致死性兵器のみを装備している。
これで安全とは決して思わないが、それでも可能性は潰した。
ラッサロン基地内で出来ることはこれくらいらしく、あとは不穏な動きをする兵士を尋問するだけだ。
信任状を奉呈するハウアー国王は、午前九時頃に国王専用飛行艦が基地に無事到着している。心配していた移動途中のテロも、七隻からなる軍艦に周囲を守られればどうしようもないだろう。
順風満帆な時ほど警戒するべきだ。
嵐の前の静けさとあるように、無事に進む時ほど油断して事が起きた時に初動が遅れる。
だからか基地内では何とも言えない緊張感で満たされている。
厳重な見張りでよく使われる『アリ一匹見逃すな』を体現しているかのようだった。
時間になり、身だしなみを整えた羽熊達は外へと出る。
外ではルィルたちが待機していて、日本式の会釈をすると再び台に乗るよう促して乗り込む。
そして動き出して、信任状捧呈式会場となる大講堂へと向かった。
通路にいる大勢の兵士たちは、礼儀を持ってか全員壁際に立って右手を左肩に当てる敬礼の姿勢をしている。
大使館を出た瞬間から信任状捧呈式が始まった証だ。言ってしまえば儀装馬車の移動が今なのだろう。
イルリハランでは車列による移動はあるが、日本のような儀装馬車等による移動はないらしい。なにより軍事基地の一部を大使館として使う時点で通常ではないから、むしろ対応してくれている方だ。
そうして階段、エレベーターなどが一切ない通路を移動し続け、二ヶ月以上前に一度だけ羽熊は来たことのある扉の前までに来た。
前回来た時は常に問題を起こすレーゲンのせいで、日本の声明を発表するために記者会見をした時だ。あの時は検疫問題があったから防護服を着てと物々しがったが、今こうして生身で来れるようになった。
国土転移から三ヶ月なのに、もう何年も前な気がする。
よくここまで頑張った。
まだまだ問題は山積みでも、ここまで頑張った自分をほめてやりたい。
羽熊は壁際に立つ兵士たちを見ながらそう思った。
大講堂の前までに着くと、台はゆっくりと床へと降りる。
さすがに大講堂の入り口は壁の中腹で、床まで位置を下ろしていることはない。その代わりに階段が取り付けられていて、誰の介助もなく入り口を越えることが出来るようになっていた。
「魚川大使、私はここまでです」
ここからは魚川の仕事だ。前もって受け答えは決めてあるから、通訳はいなくて構わないし、リハーサルはしていなくてもどう動くかも決めてある。
魚川は腕時計を見て、一度深呼吸をする。
「ウオカワ大使、どうぞ」
「では行ってきます」
時間になり、イルリハラン兵の言葉で魚川は歩き出した。
入り口の左右には兵士がゴム弾を備えた銃を構えており、魚川が階段に足を乗せると兵士が動いて扉を開ける。
魚川は堂々とした足取りで階段を上がり、大講堂の扉を越えて行った。
「羽熊さん」
捧呈式自体はそう時間は掛からない。長くても五分程度で終わるので待っていると、ここまで運んでくれたルィルが話しかけて来た。
「はい?」
「ようやくここまで来ましたね」
「色々と大変でしたけど。あとは明日です」
ここで余計な事を言ってフラグを立てては意味がない。羽熊は考えて言葉を紡ぐ。
「そう考えると感慨深いですね。日本が来てから三ヶ月。たった三ヶ月で正式な国交を結ぶんですから」
普通の国々の国交の時間は羽熊は知らないが、少なくとも異星国家間と比べては長くはないだろう。三ヶ月が一般的か、それとも異常に速いのかは分からない。
しかし明日で日本とイルリハランは手を握り合う。安全保障までは至らずとも、これが正真正銘の第一歩だ。
「苦労しました」
本当に羽熊とルィルは苦労して頑張ったから、二人してこの気持ちを共有できる。
「でもまだまだこの苦労は続くんですよね」
「アルタランの問題が残ってますからね。アルタランが終わったら次、それが終わったら次と楽にはならないでしょう」
苦労を共有してきたからこそ、二人は苦笑顔を見せ合う。
「……でも今回が無事に終わったら――」
羽熊は咄嗟にルィルに抱き着いた。
高低差があるため抱きしめたのは脚の部分で、出来れば口を塞ぎたかったが出来ないし、捧呈式の最中だから声も出せない。
であれば抱き着いて驚かせるしかなかった。
せっかくここまで来てフラグ的なセリフを言わせるわけにはいかない。セクハラだろうと変な噂が立とうと、国家レベルの死亡フラグが食い止められるなら安い代償だ。
「は、羽熊さん?」
「失礼しました。ルィルさん、お願いですから今言いかけたことは言わないで貰えますか?」
羽熊はゆっくりと離れながら落ち着いた口調で話す。
抱き着いた時間は五秒もない。しかし時と場所を大きく間違えているだけあって、周囲の人の視線を全て浴びる。
「今の言葉……ですか?」
イルリハランでは死亡フラグ的なジンクスはないようだ。日本でもそうしたジンクスはフィクションの中で現実ではまず聞かないが、フィクションでもノンフィクションでも言わないで済むならそれに越したことはない。
「あの、一体何が……?」
ルィルは羽熊の行動の意図に気づいておらず、驚きの表情を見せながら距離を取る。
説明してもいいが、信任状捧呈式の真っ最中ではするのは面倒だ。
当面は避けられることを覚悟をした上で、次に会えた機会で説明をしよう。
羽熊はそう考えて謝るだけ謝り、周囲の視線に耐えた。
死亡フラグ。
一応言いかけた途中で止めはしたが、これでフラグを防いだことになるのだろうか。
こればかりは事が起きるまでは分かりようがない。
それから一日、ルィルは羽熊に二メートル以下に近づくことはなかった。




