第96話 『エアーチェイス』
ヒーローの如く現れた飛行車は地面すれすれの高さで無音のホバリングを行い、羽熊とトムは飛び込むように開かれた前部座席と後部座席へと乗り込んだ。
「シートベルトを早く!」
乗り込むと同時にドアが閉まる。それと合わせて飛行車の外壁に何かが激しく当たる音が響き渡った。
外から敵リーアンが銃を撃っているのだ。
確か飛行車は内燃機関を除いて木材が使われているから、銃火器ならすぐさま穴が開いてしまう。しかし、甲高い音が鳴るだけで貫通する気配がない。
おそらくこの飛行車は軍用車で防弾仕様だ。
羽熊とトムは慌てながら地球の車と変わらないシートベルトを着ける。
「急いで!」
窓の外ではリーアンが近づき、敵の飛行車もここに向かって加速を始めた。
「OKデス!」
「出せ出せ!」
シートベルトの金具を掛けると同時に、背中に凄まじいGが掛かった。
「ぐおっ!」
ジェットコースターの比じゃない圧迫感。以前ムルート誘導作戦でオスプレイが追われた時と同じ感覚だ。
飛行車は数十メートル前に進むと、ドリフトをするように前輪部分を支点に後輪部分を大きく円を描かせた。
これまた横Gが凄く、遠心力でルィル側にシートベルトをしていても引っ張られてしまう。
フロントガラスには今までいた巨木林が見えていて、その巨木林に向かって加速をしだした。
「巨木林に突っ込むのか!?」
「この浮遊艇速度出ないの!」
敵の飛行車がどれだけ速度が出るのか分からないが、もし相手の方が速ければイルフォルンに着く前に追いつかれてしまう。
相手を撒くために敢えて視界が悪くなっている巨木林に入るのだ。
ここで騒げばルィルの集中力を割いて事故に遭ってしまう。ならば信じて託すだけだ。
トムも助けに来てくれたルィルに命を預ける考えか叫び声一つ挙げない。
ルィルの飛行車は巨木林に突っ込む。
「木を燃やしたのはいいアイデアでした。すぐに博士たちと分かりましたよ」
「それはここを抜けてからでいいから!」
ペレストを燃やした影響は林全体に広がってしまっていた。
林の内部は煙で視界が悪く、炎も枝伝いで普通の巨木にも延焼が起きていて、もはや山火事と変わらない規模に拡大している。
巨木は大体百メートル間隔で生えていても、時速数百キロで飛ばせば瞬時の判断で激突して大破だ。
ルィルは喋ることを止め、ハンドル操作と速度の増減に集中する。
視界では目まぐるしく見えている物が変わる変わる。
目の前に巨木が現れては車体を傾けて車体の底を巨木に向けて強引に方向転換をすると、すぐさま水平にしてバレルロールをして枝を交わす。
「酔ったらそのまま吐いていいから!」
エチケットを気にしている余裕はない。激しい動きで酔ったとしても対処はなく、ルィルは叫ぶようにして汚してもいい許可を出した。
許可を出されたところで、出すのは胃酸と唾液くらいだ。
「拉致者二名保護! 敵ニ追ワレテイル! 支援求ム!」
ルィルは激しいハンドル操作をしながら無線機に手を伸ばし、味方に向けてか通信をする。
『了解、直チニ戻レ』
前方に全身にまで炎が広がったペレストが見え、あっという間に通り過ぎていく。
ふと、昨日見たヴィッツを思い出した。
障害物を紙一重で避けてゴールへと向かう。まさにこれはヴィッツの疑似体験だ。
巨木のスレスレを避ける。避けたら瞬時に次の判断をしてハンドルと速度、高度を操作して次の木を避ける。
しかも生身と違って反応が一瞬遅れる飛行車でしているのだ。
もしかしたらルィルの障害物を回避する反応速度はかなりいいのかもしれない。
メーターを目にするとマルターニ語で百五十キロを示している。少し障害物に触れるだけで確実に死ぬのに、その速度は決して緩めない。
後ろを見ると同じように飛行車が追いかけているが、ルィルほどの操縦テクはないようで見る見る引き離される。
一台操縦を誤って巨木に激突した。
「ここを抜けるわ!」
巨木と巨木の間を抜け、一気に視界が広がる。
地平線まで何もない草原に、雲が疎らな真っ青な空。
巨大動物も空を飛ぶ鳥もいない。あるのは人工島のイルフォルンと、そこを行き来する浮遊船。
ただっ広い空間を、地表から二十メートルくらいの高さで飛行車が爆走する。
巨木林から抜けるとルィルはハンドルのアクセルボタンを押したようで、一気にメーターが百五十から二百を超えた。それでも加速は止まらず、さらに数秒で二百五十キロとなる。
「る、ルィル、早過ぎ……」
「遅すぎるくらいよ。追いつかれる」
横を見ると、ルィルの言葉通り巨木林を抜けた敵飛行車がもう追いついていた。
そして体当たりをしてきた。
「どわっ!」
「舌噛むから口閉じてて!」
映画で見るカーチェイスそのままだ。
体当たりでバランスを崩すも、レヴィロン機関の優れた不動性が強制的に飛行車の向きを維持させる。
さらに逆方向からも衝撃が来た。さっきとは違う飛行車がぶつかったのだ。
「上がるよ!」
ハンドルを引き上げ、下方向に体が押さえつけられて高度を一気に上げる。
「他に味方は来てないのか!?」
「来てない! そもそも……っと、博士たちが拉致されたことは! ほとんど誰も知らないから!」
叫びながらルィルはぶつけて飛行車を止めようとする敵飛行車を避ける。
「じゃあ、やっぱり公表してないのか!?」
「国の恥だから!」
今度は一気に高度を下げ、左右から衝突しようとする敵飛行車をかわした。
「だけど、助けないわけがない!」
車体にまた銃弾が撃ち込まれて甲高い音が鳴る。
「だから私が来たの!」
さらに加速する。
メーターは六百キロに迫ろうとし、その寸前で加速は止まった。
「最高速度……」
それでも日本で言えばリニアモーターカーレベルの速さだ。それ以上となると飛行機となり、自動車ではロケットエンジンを使わなければ出せない速度。
いくら軍用で防御力が高くとも、凄まじい風圧の中で大きく破損などが起きれば一発で分解、大破だ。
ルィルやリーアンならまだ空に逃げられても、重力に縛られる羽熊達は時速六百キロで地面に激突して即死してしまう。
限界時速が七百キロなのに六百キロしか出せないのは、それ以上出すと車体が分解してしまうからだろう。
そんな中で銃を撃つ相手もすごいが、ここで撃つと言うことは完全に殺しに来てもいる。
「攻撃受ケテル。近接支援求メル!」
ルィルは再びマイクを手にして叫んだ。
『コチラノれーだーデ捕捉シテイル。ソノママ直進セヨ。火器近接支援ヲ行ウ』
「何か武器はなインですか!?」
恐怖に充てられてかトムが叫ぶ。
「時速六百キロで走ってるのよ! 遠隔機銃じゃないと吹き飛ばされるわ!」
さすがのリーアンも時速六百キロの風圧には耐えられないらしい。
「その遠隔機銃は!?」
「付いてない!」
ハンドルを大きく切り、ぶつかろうとする敵飛行車に逆体当たりする。
「味方が支援してくれるから、そのまま行くわ!」
「支援って、どわっ! 公表できないのにどうやって!」
「知らない!」
「ドアが壊れル!」
トムが叫び、羽熊は振り向くと何度もぶつけられたことで後部ドアが大きくゆがんでいる。
「イルフォルンまで距離は!?」
「……あと百キロ!」
現在の時速が六百キロなら六分の一。つまりあと十分も掛かる。いや、減速を考えるともっと掛かるだろう。
「ルィルさん、前に連れて行かないと!」
「今シートベルトを外す方が危険よ! そのまま全力でシートベルトを握りしめてて!」
飛行車の前列は三人掛けになっていて、中央に運転席がある。羽熊は左側なので右側に移ることは出来るが、万が一移動中にドアが壊れてしまったら外に投げ出されかねない。
多少危険でもそのままでいる方が安全だ。
『五分後ニ敵車両ト距離ヲ取レ。火力支援スル』
「距離を取れって? 出来たらしてるわよ」
向こうも向こうで早急な対応をしているのは分かる。しかし、護衛がいない劣勢は着実に窮地に追いやられていく。
ルィルが来てくれなければ終わりだったことを考えれば感謝しかないが、これではただ時間を引き延ばしただけだ。
三台の敵飛行車は残り時間が長くないことを察してか、闇雲な衝突するのをやめて連携を取り出した。
左右に一台、上に一台とルィルの飛行車を挟み込もうとする。
「…………っ! 掴まって!」
状況を見て危険と判断したルィルは、叫ぶやブレーキボタンを強く押した。
飛行車のアクセルとブレーキはハンドルにあるアクセルボタンとブレーキボタンで速度の増減をする。軽く押せばゆっくりと反応をし、強く押せば強く反応をする。
そこは地球の操縦と変わらず、結果時速六百キロから飛行車は急激な減速をしだした。
「ぐほっ」
メーターは凄まじい速さで減速して、一秒後にはもう五百キロを下回っている。
地球の車と比較にならない急ブレーキに、慣性の法則から前に飛び出してしまうのをシートベルトがそれを防ぐ。それによって肺が圧迫されて空気が一気に吐き出された。
肋骨にも強い痛みが走る。折れたりヒビが入らなければいいが、極度の緊張感から冷静な判断は出来ない。
ただ、そのおかげで三台の敵飛行車は前方に飛び出した。
前のめりになる姿勢から、再び背中に押し付けられた。急ブレーキから再加速を始めたのだ。
このような荒業、タイヤを使って移動をする地球の車では決して出来ない。
三台の飛行車も少し遅れて急ブレーキをかけるが、その減速している最中で加速したルィルの飛行車が追い抜く。
イルフォルンが大きくなる。
「……これでも追いかけて来るか。博士、あいつらに何したんですか!?」
「知るか! 俺もトムさんもいきなり拉致されたんだ!」
「拉致はもう不可能だって言うのに……」
味方の飛行車に乗り込んだ時点で、羽熊たちを無傷で再び拉致するのは不可能だ。
不時着させれば可能でも、この猛スピードの中でレヴィロン機関を停止させたら墜落して原形すら留めはしない死に方をする。
だから先のように囲って逃げ場を無くして減速をさせようとしたのだろうが、そもそも飛行車は立体に動くのだ。六面全てを抑えなければ逃げ道はいくつもある。
そうなると拉致犯の次の狙いは、拉致の成功ではなく羽熊たちの殺害。
羽熊達を拉致しようとし、失敗の代替案で殺害までする意図は知らないが、知りたくもない理由が向こうにあるのだろう。
その理由を知ることはないだろうが。
飛行車が大きく後ろに傾いた。
敵飛行車が後ろ上部に乗りかかったのだ。
それによって前方が上を向き、屋根が大きく凹み、衝撃で右後部ドアが取れてしまった。
「ドアが!」
トムが叫び、時速六百キロからくる暴風が車内へと入り込んで轟音で一杯になった。
「流石にやばいわね……」
ルィルの顔が引きつく。
守るドアが無くなったことで車内が無防備だ。乗り込むのは風圧から不可能だが、そこに機関銃で乱射されては三人はあっという間に死んでしまう。
羽熊が考えることはルィルも同じように考える。射線が無くなったドア越しに車内に入らないよう、角度や向きを不規則に変えて入らない操縦へと切り替えた。
天井や車体、後方と銃が撃たれ続けるが、巧みな操縦テクニックで右後方からの射線は妨害して車内に銃弾を入れないようにする。
「二人とも体を小さくしてて!」
それでも文字通り万が一がある。どれだけルィルがうまく逃げても、乱射されれば一発は入っても不思議ではない。ならば当たる面積を少しでも減らすしかなく、羽熊とトムは限界まで体を丸めた。
『アト十秒後ニぶれーきヲ掛ケロ』
無線機から司令部だろうところから指示が飛ぶ。
『かうんとだうんヲコチラデスル。合ワセロ』
「こっちの気も知らないで! 了解!」
マイクを持たずに叫ぶところを見て愚痴だ。
『七……六……五……四……』
「構えて!」
『三……二……一……〇』
ルィルは高度を下げつつ車体を百八十度左回転させて急ブレーキをかけた。
最高速度から完全に停止する勢いでの急ブレーキに、全体重の何倍も圧力が背中に押しかかる。
座席が折れるんじゃないかと何かが割れるか折れる音が感触と共に背中から伝わった。
舌が喉の奥に押し込められ、眼球が眼底に追いやられて鈍痛が来る。
内臓も背中側に押し込まれる感覚も襲った。
刹那、三つの爆発音がほぼ当時に後方で聞こえ、二機の翼のない異地戦闘機が後方から前方に向かって飛び出してきた。
二機の異地戦闘機はジェットエンジンで推力を得ているようで、飛行機で聞くエンジン音を響かせながら左右に展開する。
ルィルの飛行車はまだ慣性が働いているうちに再び反転してイルフォルン方向にフロントを向けると、三つの煙が空中に漂い、地上に向かって無数の部品が燃えながら落ちていた。
「ごほっ! ごほっ!」
体がバラバラになるような衝撃に、羽熊もトムもせき込む。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
シートベルトを腕の痛みなど忘れて力の限り握り続け、脚を畳んで身を可能な限り小さくしながら粗く息を吸い続ける。
「い、生きてる……」
「ふぅ……博士、トムさん、脅威は去りました。状況終了です」
安堵の息を漏らしながらハンドルに寄りかかるルィルは言った。
「……日本に帰れる?」
「もちろんです」
「寿命……何年減っタか分かリませンね」
背後を見ると、トムは震えながらもシートベルトにしがみついていた。一見では傷らしい傷はない。
「お二人とも怪我はありませんか? 撃たれたりは?」
ここで怪我の確認をする。
「俺は鼻血と昨日の腕の怪我以外は大丈夫です。トムさんは?」
「明日か夜には凄い筋肉痛が来そうデスけど、今のところ痛みはなイデす」
ルィルは無線機を手にする。
「支援感謝スル。二人ノ無事ヲ確認。送レ」
『敵勢力ノ殲滅ヲ確認。生存者無シ。二機ノ戦闘機ノ誘導デいるふぉるんニ迎エ。終ワリ』
「了解。いるふぉるんニ向カウ。とむ氏ハ無傷ダガ、羽熊博士ガ鼻血及ビ左腕に負傷。要治療ト判断スル」
このまま〝ひたち〟に向かうのではなく、イルフォルンに向かう指示に羽熊は眉をひそめた。
「〝ひたち〟に行かないのか?」
「おそらく今の戦闘の偽装でしょう。ボロボロの装甲浮遊艇が接舷してしまうと、説明が難しいから。多分この戦闘機も演習の一環としていると思われます」
「演習として日本政府に見せる建前なら、戦闘機を出せるし攻撃も出来るわけか」
標的となる敵飛行車は無人機と説明すれば、距離が離れているのもあって人の有無は確認できない。
飛行車は再び移動を始め、そのすぐ斜め後方を二機の戦闘機が随行する。
速度は先ほどと違い、数十キロと極めて優しい速度でだ。後方片側のドアがないからだろう。
ドアがオープンなのが怖いが、味方が随行してくれるなら生き残りが忍び込む心配もない。
羽熊はここで緊張の糸を切り、全身に強張らせた力を緩めだ。
「ありがとうルィル、君が来てくれなかったら終わってた」
「礼なんていりません。私たちの警備の不備から招いてしまったことですから、一時とはいえ拉致されたこと申し訳ありませんでした」
「拉致犯がどこの誰かは知らないけど、マルターニ語よりはエルデロー語を使ってた」
「おそらく他国の工作員でしょう。観光中に逮捕した人身売買組織のほとんどが外国の組織だったので。装備からして軍が絡んでいると思います」
「ステルスの単語が出ていたので、私もそう思ってました」
「本当に間に合ってよかった」
「ケド、煙を見てから出発したニしては早かっタデしたネ」
トムの疑問は羽熊も抱いていた。二百キロ以上離れたところでの狼煙だ。いくら巨木を燃やしたとはいえ、イルフォルンから見れば雲と勘違いしてもおかしくはない。
気づいてくれるとは信じてはいたが、あまりにも早く察知しすぎだ。
「近くを移動していたのよ。狼煙を見つけるまでは勘での移動だったけど、それを見たらすぐに博士たちの合図だと分かったわ」
「どうして近くを?」
「拉致に成功したのに敵地のど真ん中のイルフォルンにいるとは考えられないから、少しでも移動時間を減らそうと二人が拉致されたのとを知ってすぐに外に出たの」
「そっか……このこと鍬田さんは?」
「知ってます。というより、一緒に聞いたので」
昨日のことがあって拉致されたのであれば、彼女の心境はぐちゃぐちゃだろう。
「そこは知らせない方がよかったな」
「無理よ。結局朝で会えずに分かってしまうもの」
怪我のこともあって会いに来ないわけがない。言い訳をして時間を延ばすにも限界があるし、ルィルまで駆り出されたら何かあったかと疑われてしまう。
結局同時に知らせる方が機密を守る意味でも正解というわけだ。
「このこと、一部の人しか知らないんだね?」
「総数までは知らないけど、公表しないのが両政府の判断ですね」
羽熊の予想通り、拉致事件自体無かったことにしたいのが政府の本音だ。利害は完全に一致している。
イルリハラン政府は面子と信用を守るためで、日本政府はリーアンへの信用保持とアーク対策。両方共になかったことにする方がいいのだ。
被害者からしたらたまったものではないが、こうして帰れる状態になれば思惑はどうでもいい。拉致が成功されても秘密にされたら絶望しかないが、日本に帰れるのだから秘密にされても気にはしない。
イルフォルンがフロントガラス一杯にまで拡大し、随行した戦闘機は高度を上げて離脱した。
見上げるとイルフォルン外壁から少し離れた位置に赤い浮遊船の〝ひたち〟が見える。
ちゃんと帰って来たのだ。
出来ればまっすぐ〝ひたち〟に戻りたいが、偽装のため乗り換えをしなければならない。飛行車は〝ひたち〟を通り過ぎてイルフォルン外壁に開いた空間へと進入する。
アルタランでも一度来た内部離着陸場であるが、そこには以前いた大勢の人がまったくといっていいほどいなかった。
「人がいない」
「人払いをしているのでしょう。見られたら困りますからね」
いないはずの日本人がいては不審がられる。噂はウイルス並みに変異を続けながら拡大を続けるから、何らかの理由を作って退避させたのだろう。
『ルィル上級曹長、待機サセテアル浮遊艇ヲ乗リ換エテ移送セヨ。たいみんぐハ貴官ニ任セル』
「了解」
内部離着陸場の床には一台の公用車らしい飛行車が一台停まりっており、運転手らしい人もいない。
ただ新しい飛行車一台置かれているだけだった。
これなら誰にも見られずに乗り換えすることが出来る。
ならば離着陸場でなくてもいいと思ったが、短時間でするにはここしかなかったのだろう。
ルィルは新しい飛行車の隣の床にしっかりと着陸させるとエンジンを切った。
「乗り換えて〝ひたち〟に戻りましょう」
ドアを開けると膝までの高さで床がある。飛行車はリーアンの生態から空中で静止するのだが、羽熊たちのことを考えて床まで降りてくれたのだ。
車を降りた羽熊はしっかりと浮遊都市の床に立ち、今まで乗っていた飛行車に吐いた。
ただでさえ荒波に飲まれる船以上に揺らされ、ジェットコースターとは比べ物にならないGを全身であらゆる方向に浮けたのだ。
普段は乗り物酔いをしない人でも酔わない方がおかしく、かと言って吐き出すものがない羽熊は、安心感から遅延で襲ってきた乗り物酔いで黄色い液体を車内にぶちまけた。
「博士、大丈夫ですか!?」
「すみません……我慢できなくて……」
食道が焼ける感覚。吐き出したのは十中八九胃酸だ。
トムは嘔吐はしておらず、出来れば自室に戻るまで我慢したかったと悔やむ。
「謝ることなどありません。すぐに戻って休みましょう。トムさん、乗ってください」
「ハイ」
猛烈な乗り物酔いで世界が回る中、ルィルが肩を支えてすぐ隣の新しい飛行車へと乗せる。
「もう少しだけ我慢してくださいね」
乗り込み、ドアを閉めるとルィルはすぐさま飛行車を発信させた。
羽熊にとって小さな揺れでも嘔吐を誘うが、壊れた浮遊艇ならまだしも新しいのは出来れば汚したくない。
なるべく遠くを見るようにして視界の揺れを抑えるように心掛けた。
元々〝ひたち〟までの距離は数百メートルしか離れていないため、一分と掛からずに〝ひたち〟外壁へと到着した。
到着と同時に外壁にある入り口が開き、飛行車のドアも開けた。
飛行車は生憎とスライド式ではなく外開き式なので、ドアの距離分スペースが開いてしまう。足場がなければ跳ばなければならないため、内開きの〝ひたち〟から板状のものが出て足場となった。
〝ひたち〟の中には事情を知る両政府関係者が待ち構え、一人のリーアンが外に出て手を差し伸べる。
「まずは負傷者から」
間に立つリーアンが羽熊に手を伸ばし、掴むと優しく引っ張って〝ひたち〟へと導いた。
「羽熊博士、すぐに医務室に運びます」
白衣を着た日本人が話しかける。昨日左腕を治療してくれた医官だ。
「博士をストレッチャーに」
乗り物酔いをしていても医務室までなら歩けないことはないが、医官たちからしたら当然の判断なのだろう。通路には浮遊するストレッチャーが二台待機していて、それぞれに羽熊とトムは乗せられた。
「すみません」
「謝らないでください。当然のことです」
礼を言っても断られ、謝っても断られる。
何を言えば分からなくなる中、まったく揺れを感じずに移動を始めた。。
「今から博士を医務室に運ぶ。顔面と左腕に負傷。乗り物酔いもしている。治療と点滴の用意をしてくれ」
おそらく医務室にいる人に連絡をしているのだろう。無線機にそう指示をしているのを見て、欠かせない情報を羽熊は話す。
「あ、それと森の中を何時間もいたので、気づかないところで虫に刺されているかもしれません」
「異地の細菌やウイルスに感染している可能性もある。各検査ができるように準備をしてくれ、それと抗生物質に考えられる治療薬を取り寄せの手配も」
ここで怖いのが知らず知らずに細菌やウイルスに感染していて、気づかない内に船内感染させてしまうことだ。
ただ、万が一感染していてもまだ数時間だ。軍医や他の人達に二次感染させることはないだろう。
無音で音もなく移動する天井と、移送する医官を見ながら羽熊は思う。
帰って来た。
文字通り命がけで戻ってきたのだ。
日イ政府の利害とか、政治的な考えや外交的な考えとか、内心でも建前で色々と考えてきたが、そんなことはもうどうでもいい。
男とか、大人とか、体裁や面子も全て捨て去り、羽熊は泣いた。
声に出さず、唇を震わせ、しゃっくりをしながら水分は無いと言うのに涙が溢れ、目じりを通って後頭部へ流れ落ちる。
「……よく頑張られました」
医官は一言、そう言った。




