出現
車列は件の子供が居る酒屋の前に到着。営業時間の短縮に伴い既にシャッターを下ろしていたので、周囲に目配せしつつ亀山を先頭に裏へ回って玄関の呼び鈴を鳴らした。冷や汗を流す母親を近藤と捜査員に任せ亀山は父親に先導され2階の部屋へと駆け上がる。襖の前でゆっくり深呼吸してからノックして見た。
「こんちは、おじさんだ」
何時もの登下校時と同じ声色で呼び掛ける。だがそれが逆に悟られてしまったのではないかと疑心暗鬼に陥ったが、少しの間を置いて襖が開いた。両目が赤く腫れあがっている少年は自分の顔をゆっくり見合げ、許しを請うような表情で口を開く。
「…………聴こえちまったんだから……俺は悪くねぇよ」
しゃがんで目線を合わせた。これで幾らかは話しやすいだろう。
「一緒に誰か居たか?」
「俺だけ」
「そうか……大体でいいんだが、どの辺りから聴こえて来たとかは分からんか?」
「………沢を前にしてて後ろからだから……北の方だった」
「分かった」
肩を叩いて立ち上がり、階段を下りて玄関まで戻った。あたふたする両親を宥める。
「避難の準備は出来てますか?」
「荷物は纏めてあります」
「まだ何とも言えませんが役場からの指示が出たらすぐ動けるようにしといて下さい。それと必要のない外出も控えて下さい。」
下手をすると今日にでも住民の避難誘導を始めないといけなくなるかもしれない可能性が出て来た。それに鳴き声が聞こえたとなると近くに居る可能性が高い。同時刻、役場会議室の臨時現地本部に橋立集落の住人数名から変な鳴き声が聞こえたとの電話が多数入っていた。
酒屋から車列が役場へ向けて引き上げていく。亀山はここ数日の被害発生状況からの時間を考え、既にヤツが人間をかなりの間隔で食ってない事から襲撃が近い事を予想していた。おまけに鳴き声が聞こえたとなれば村への到達も秒読みの段階に入ったと見ていいだろう。難しい顔で腕を組む亀山を運転席の近藤が横目で確認する。また1人で全部背負い込もうとしているように見えた。1つ提案してみる。
「亀山さん、いっその事もう誘導を始めますか」
「……それも1つの手だな」
「その方がこっちも気が楽です。」
少し肩の力が抜けた所でパトカー車内の無線が鳴った。亀山が手を伸ばす。
「亀山だ」
「現在地は」
「役場まで残り500と言った所だ。」
「通報が入った。襲撃の恐れが濃厚の可能性大。」
通報はバリケードの確認をしていた橋立集落の若いの数名からだった。野太い鳴き声と同時に木々が揺れる音が鳴り響いたらしい。血相変えて家に帰りそのまま電話して来たそうだ。
「了解、このまま橋立集落に向かう。」
「いよいよか」
「警報を鳴らす」
防災無線で村全体に警報が鳴り響いた。橋立集落に向けて亀山以下駐在所の警官が乗るパトカーがサイレンを鳴らして突っ走る。その後ろには応援の刑事が分乗した車が続いた。車外スピーカーをONにして混乱させないよう落ち着いた声量で喋る。
「危機が迫りつつあります、指示に従って落ち着いて行動して下さい」
兼ねてから情報は行き渡って居たので住民達の行動は早かった。既に必要なものを纏めて道路に集まっている。取りあえず逸る住民達を抑えた。
「役場まで誘導するぞ。何か出たら構わず撃て。」
「「了解」」
「小菅1から本部、現着した、誘導を開始する」
暴発防止用のゴムパッドを外させた。役場の屋上には猟友会のチームが熊用の弾丸を装填したライフルを携えて周囲を警戒している。正直サイレンを鳴らした事で人間の存在を主張したような気がするが後の祭りだ。熊ならばこっちの存在を知らせる事で遭遇を回避出来る事もあるが得体の知れない生き物にどこまで通用するかは未知数である。オマケに人間の味を覚えている事からむしろ誘導中の住民の中に突っ込んで来る恐れもあった。そうなったらパトカーでもぶつけて止めるぐらいの覚悟はあるが相手の大きさもよく分からないので効果があるかは予想出来ない。
車から降りて誘導を始める。物騒な気を周囲に散らすようであれだが殆どの刑事が腰の拳銃に手を掛けていた。有志の差し入れで熊退治用スプレーも貰っているがこれも何所まで通用するのか全く予想出来ないでいる。メガホンは使わず声を張り上げない程度の声量で呼び掛けを続ける。ここで本部から無線が飛び込んだ。
「ハンターから不審な木々の揺れの速報、十分警戒せよ」
不審と言う事は動物か何かが揺らしたと思っていいだろう。雪男なんかが木々を揺らして威嚇する光景の再現映像を昔テレビで見た気がする。己の存在を知らしめたいのか知らないが逆に好都合だ。具体的な居場所が分かる。今の所、誘導は順調だ。しかしハンターからの情報だと何かが確実に近づきつつあるのは間違いない。現にこちらまでの距離が最初200mほどだったのがもう100mまで縮まっていた。次第に焦りの表情を押さえながら周囲を警戒するのが目立ち始める。包丁や拳銃を振り回す薬中が相手なら彼らも勇猛果敢に立ち向かうだろうが、正体のよく分からない相手を前に何所まで冷静で居られるか彼ら自身も不安に飲み込まれそうだった。そしてその時は訪れた。耳に本部からの怒声が飛び込む。
「北の斜面に警戒しろ!何かが飛び出した!」
全員が一斉に斜面へ目を向けた。真っ黒い毛むくじゃらの何かが滑り落ちて来るのが見える。しかも位置が悪かった。避難民の殿を守る1個班と誘導を指揮する亀山以下数名の丁度中間に向かって来ている。
「分断されないよう密集しつつ後退!射撃用意!」
ついに拳銃を引き抜いた。撃鉄を起こすが引き金にはまだ指を掛けず避難を急ぐ。殿の班は避難民の北側に壁を作るように展開。奴さんは斜面を滑り切り、民家の真裏に没した。小じんまりとした畑にめり込む。
「深追いはするな、下手に打って出ると危険だ」
様子を伺いつつ真裏に居るであろう民家の一帯を睨みつける。避難民の役場への収容はまだ完璧ではないが取りあえずこの集落に居る人間はついに我々だけとなった。
「本部、そっちからまだ見えるか」
「周囲のにおいを嗅いでいるような仕草を見せている」
「他には何か分からないか?」
「毛むくじゃらな上に畑の土に塗れててよく分からない。両足で立っているのが何となく分かるが距離を開けるなら今しかないと思われる。」
「了解、このまま下がる」
運転手だけを車に乗せて先に発進させ、残りは駆け足で後退を始めた。集落から抜け村の中央部まで戻る。役場の上階で見通しのいい場所に数名を配置して亀山は役場の屋上に上がった。ハンターから双眼鏡を借りて様子を伺う。仕切りに周囲のにおいを嗅いでは肩透かしを食らったような仕草を見せていた。
「……さっきまでプンプンしてた美味そうな匂いが消えて不思議がってる見たいだな」
「ええ、耳はあまり良くないのかも知れません。」
「こっから威嚇でぶっ放したとして居場所を知られる可能性は?」
「悟られはしないでしょうがまず当たりません。なるべく無駄撃ちはしたくないですね。」
暫く観察する事にした。住民の収容は完了し、後は移送用のバスを待つだけである。問題は到着が明日になると言う事だ。においには敏感である以上、鼻を突くような異臭で怯えさせる事は可能との見解から近づかせないための対策が講じられた。まず熊用のスプレーを村に分散配置し場所さえ把握してればいつ襲われても取り合えず退けられるように設置。次に環境にはよくないが廃棄処分前のタイヤを集めてガソリンで燃やした。立ち込める異臭が周囲を包み込む。だが風向きが悪く奴のいる方向へ中々煙が流れていかなかった。
「行動を開始、畑を歩き回り始めました」
獲物のにおいを探っているようだ。だとすると避難の誘導に使った道路にはまだにおいが残っている可能性が高いと思った瞬間、予想通りの行動に出た。道路に躍り出た奴は住民の移動したにおいを辿って役場へと近づき始める。双眼鏡を覗いてた亀山が苦い顔をした。
「……まずいな、こっちに来るぞ」
「どこかで阻止しないと」
全長3mはあろうかという体を太く筋肉質な脚で支えながら一歩ずつ近づいて来る。風向きが変わって煙が奴の方へ流れ始めた。強烈な異臭が敏感な嗅覚に突き刺さり本能的に座り込んで顔を振るが異臭は止まない。
「いいぞ、さすがに耐えられまい」
「亀山さん、上野原署の前原巡査部長から連絡が入ってます。」
階段を駆け上がって息を切らした近藤が肩を叩いた。臨時本部のある会議室へと降りて無線を手に取る。
「亀山です」
「前原です、今から応援を引き連れて向かいます。取り急ぎで必要な物があれば……」
「爆竹なんかの大きな音がする物をお願いします。それと可能なら催涙弾を。」
「こっちから緊急で招集を掛けた機動隊2個小隊も一緒に向かいますのでそれはご安心下さい。」
打撃を大盾で防げてもそのまま力任せに吹っ飛ばされそうだが腸を掻っ捌かれるよりはマシだろう。無いよりはあった方がいい。
「他には何か」
「信号弾なんかも欲しいです。無線が使えなくなった場合を想定してあった方がいいでしょう。」
「分かりました、夜には着きます」
無線を置いた。後は県警本部の采配を期待しないで待つしかない。取りあえずここで死者を出さない事に専念しようと思う。よっぽどの事がない限り下手に手出ししない方針を固めた。