発端
山梨県北都留郡:小菅村
午後8時。山菜採りに出掛けた祖父が日没後も戻らないと言う通報が駐在所に飛び込んだ。向かったのは県道508号線、「白糸の滝」と呼ばれる滝がある方向だ。既に日没を迎えており夜間の捜索は難しい事から夜明けを待っての捜索が行われた。駐在所の警官と役場の職員、山梨県県警上野原警察署から深夜の内に出発して現着した応援を加えた警察官延べ20名による捜索の結果、本人と見られる死体が山中で発見される。
「…………熊ですかね」
駐在所勤務の警官、近藤巡査が死体に近付いて傷の具合を見た。全身の引っかき傷と噛まれて肉を抉られた痕が目立つ。
「熊にしちゃあ傷が浅いな。もっと深くて損傷も激しい筈だ。」
駐在所班長の亀山警部補が否定する。勤続30年のベテランだ。若い頃は刑事だったが今はここで隠居に近い生活を送っている。
「動かすにはちょっと時間が掛かりすぎるな、ブルーシートを引いて置け。」
「鑑識が出ます。到着は今夜中でも検分は明日になりそうですね。」
上野原署から来た応援を率いるのは前原巡査部長だ。彼を筆頭にした10名の警察官がその応援だ。
「家族への知らせはどうします」
「早い方がいいが……こいつは見せられんな」
役場の職員5名が事態の持って行き方を話し合っている。転落死等でない以上、死因を把握するには鑑識による検分が必要だ。それが終わらないと遺体の引渡しは出来ないだろう。
「諸々終わったらワゴンで運びましょう。役場に安置所を設けさせて貰えますか?」
「分かりました」
遺体とその周辺をビニールシートで覆って下山する。日付が変わる頃に鑑識が現地入りした。役場で一夜を明かして早朝に現場へ急行。検分は5時間ほどで終了した。遺体を下ろしてワゴンに積み込み、役場の安置所へと運び込む。診療所の医師も加え意見交換が行われた。
「どうですか」
「確かに熊ではないですね。どっちかと言うと犬に近いです。」
診療所の太田医師も亀山と同じ見解だ。鑑識も犬ではないかと言う結果を出している。
「何にしろこれ以上詳しく調べるのであれば大学病院に運ばなければ無理です。」
「取りあえず遺族との顔合わせをしないとな…」
夕方になり、被害者の家族が役場に現れた。安置所で遺体を確認して貰う。慣れる事はない嫌な瞬間だ。
2日後。遺体は役場内に仮設した保管庫から山梨大学付属病院へと移送されて行った。一週間ほど経ってから結果が駐在所にも届く。渋い顔をしながら報告書を捲る亀山を近藤が見つめる。
「…………やっぱり犬ですか」
「犬らしき生物……だそうだ」
「どういう意味です」
「歯列が一致しないらしい。遺体の噛み傷と噛み付いた口の大きさから考え、あえて言うなら大型犬の秋田犬に似ているそうだ。」
「んな大きなのが山ん中ウロウロしてたら目撃情報ぐらいある筈ですよ……」
「過去一ヶ月の野生動物被害を洗い出して見てくれ。」
「分かりました。」
その結果、野生動物による被害はここ一ヶ月で殆どない事が判明した。あったとしても遭遇だけで実質的な被害は出ていない。
「…………何となくだが嫌な予感がするな」
「野犬が人を襲うなんて何時の時代ですか。」
「取りあえずパトロールの強化でも考えておくか…」
後や山によく出入りする人間へ注意を促す事ぐらいしか今は出来ない。あちこちに張り紙でもして脅威の認知度を上げるのも重要だ。
それから半月が経過した頃、今度はきのこ狩りに出掛けた民宿の板長が日付が変わっても戻らないし連絡も付かないと言う通報が飛び込んで来た。亀山は万が一を考え駐在所の全員に普段なら装着する事のない拳銃の携帯を命令。猟友会にも一報を入れ、3人のハンターが同行する事になった。翌日正午に再び前原巡査部長を含む10名の警官と鑑識が現地入りする。移動する車中で亀山と前原が小声で呟き合った。
「またですかね…」
「分かりませんが用心するに越した事はないでしょう。」
「それにしても猟友会とは若干穏やかじゃないような…」
そこから亀山は口を噤んだ。車列は板長が移動に使ったバイクが放置された場所で停車。草木を分け入りながら山に入っていく。
「5m間隔で横に広がれ。常に互いが見える位置を意識しろ。」
「猟友会の方は後ろから着いて来て下さい」
「鑑識は最後尾だ、逸れるなよ。」
捜索は3時間に渡って行われた。そして板長と思われる死体は中指山の中腹付近で発見された。
「……これは」
思わず息を呑んだ。遺体は四肢だけでなく殆どが欠損しており、腹部も食い破られた形跡がある。これが板長だと言う証拠はもう何所にも残っていなかった。DNA鑑定でもしなければ分からないくらいに欠損が酷い。鑑識の1人が遺体に近付く。
「腐臭はしないな……まだあまり時間が経っていない」
「周囲に気を配れ。何が出て来てもいいようにして置け。」
一斉に緊張が走る。鑑識の検分もかなり時間が掛かりそうだ。亀山とハンター達が最前線に立って警戒を行う。ホルスターのボタンは外させていた。青い顔の前原が亀山に近付く。
「亀山さん、一体これは…」
「今は何とも言えません。野犬ならそれで良し。熊でもそれならそれで良しです。」
その後、4時間ほどで一通りの検分が終了。遺体をシートに包んで逃げるように下山した。車列は一度役場を目指して発車。安置所で診療所の太田医師と鑑識が遺体を再度詳しく検分する。その間、亀山と近藤は外の喫煙所でさっきの緊張を解していた。
「…………ぞっとしましたよ」
「俺もあんな酷いのは久しぶりに見たな…」
「どうします……熊ならいいですけど」
「当面は入山の規制ぐらいしか出来ないだろうがやらないよりはマシか」
「無理ですよ。ここは山と川の資源で生活が回ってるんです。規制しても山菜・きのこ・川魚を採るために山へ入る人間は後を絶たないでしょう。」
「……難しいな」
そこへ前原の部下が呼びに来た。検分が終わったそうである。安置所に入ろうとすると全員がぞろぞろと移動を始めた。場所は役場の会議室へと移される。険しい顔の太田医師がコピーした書類を全員に配った。そしてホワイトボードの前に立って喋り始める。
「まず今回の事案は通常の野生動物では考えられない点が多すぎます。前回の時は確かに熊か何かと思われる節がありましたが今回の事でその考えは完全に消えました。」
「具体的に言うと?」
まだ顔の青い前原が質問する。
「この地域一帯に生息しているツキノワグマは基本的には臆病で被害の実例を見ても食い殺されたケースは全国的に見ても極めて稀です。犯人は人間の何所の部位が美味しいかを把握しています。つまり、前回は偶然だったとしても今回は必然である可能性が高い。」
「それはつまり…」
「そう、あれは美味い生き物だと分かって襲っています。見慣れない敵を殺すための攻撃行動ではありません。」
会議室に重い空気が流れ始めた。熊ならそれで一応の解決を見る筈だったのにこの始末だ。
「…………我々はどうするべきですか」
亀山が口を開いた。今一番聞きたい事である。
「山に入ってはいけません。入山を厳しく制限するべきです。加えてパトロールと夜間の戸締りの強化が必要でしょう。もしこいつが人里に降りてくれば甚大な被害が考えられます。」
外は既に日が落ちて暗くなり出している。ここに居る全員の心情を表すような空が広がっていた。
今の所は短期間で終わらせられたら良いなと考えています。
それまでお付き合いして下されば幸いです。




