異常の指標~アブノーマル・マーカー~
私は今、非常に困っている。
何時ものカフェの何時もの席、何時ものコーヒーを頼んで読書に勤しんでいた。何処のネットショップでも品切れで、色々な本屋を回って漸く手に入れた百合小説『ダイナマイトデストロイ~血に染まる百合~』だ。シリーズ待望の新刊である。期待に胸を膨らませ、開いてみたらこりゃ大変。予想以上の出来映えだった。上昇する体温、加速するページを捲る指先……そんな中、何を困っているかっていうと。
『アイスコーヒーが、来ない』
そう、沸き上がる熱を静める為のアイテムが一向に現れないのだ。どうなっている。これでは私が、公共の場で怪しい笑いを浮かべる変質者になってしまうではないか。
『なんて、他にお客も居ないし……良いんだけどね』
通報されなければ問題ない。しかし、流石にそろそろ喉が渇いてきた。席に座って、かれこれ三十分は経っている。腕時計をしていない私には、鞄に入れた携帯電話―所謂、ガラケー―が時計の代わり。そんな旧式は今、電池切れのガラクタだ。豆に時間を見る癖も無いので、三十分とは体感時間でしか無いのだが……。兎に角、涎を飲むのも飽きてきたので、姿の見えぬ店員に向けて声を掛ける事にした。
「いらっしゃいませ」
丁度その時だ。入口のベル音と、奥から出てきた店員の静かで上品な声が響いたのは。全く、タイミングが悪い。恥ずかしくも上げかけた手で、肩に掛かった茶色い長髪を払い、然り気無く来客の姿を窺う。見覚えのある制服を纏った二人組……近所の中校生だ。
『これは、困った事になりそうだ』
二人の雰囲気を見て、そう私は悟った。大人しそうなボブカット女子は何やら思い詰めた様子で、もう一人の活発そうなポニーテール女子は無理に笑顔を作っている感じだ。ポニーとボブ、か。ポニーが引っ張る形で、二人は私の斜め後ろの席に座った。私の視界で、ポニーの尻尾が可愛らしく揺れる。
「ご注文はお決まりになりましたら、お呼びください」
手早く席に着いた二人にお冷やを出すと、にっこりと笑って奥へと引っ込む。おい、私のコーヒーはまだか。なんて思っていると、ポニーがわざとらしく声高にメニューを広げた。
「ここの紅茶美味しい、ってマリーが言ってた! あ、ケーキも美味しそう……」
「……話しても、良い?」
それを、ボブが低い声で遮る。その声は僅かに枯れていて、目元は少し赤くなっていた。
「あぁ、その、ケーキでも食べながら……ごめん、えっと、何?」
ボブの鋭い視線に歯切れの悪い言葉を返し、ポニーはその尻尾を弄る。ため息を吐き、幾ばくかの沈黙を持って、ボブが口を開いた。
「正直に言って……私の事、どう思ってるの?」
私の予想は見事的中する。困った事になった。これではコーヒーを催促できない。そんな私の背中越しで、二人の修羅場が続いていく。
「………………と、友達だよ! 一番仲の良い友」
「どうして、そうやって嘘つくの……!?」
「嘘じゃ、ないってば」
「……私は、友達以上の存在になりたいと思ってるよ」
「……馬鹿っ、そういうのって、ダメでしょ」
「ダメなのは優の方だ!」
感情が高ぶり過ぎたらしいボブは、遂にテーブルを叩いて立ち上がった。私の視界で、ボブのグラスの水が溢れる。
「そんなにマリーが大事なの!? あの子に、女の子同士とか気持ち悪いって言われてから、急に余所余所しくなってさ! 自分の気持ちに嘘ついてまで、私を切ってまで関係を守りたいの!?」
「馬鹿、水面、声大きいって」
「またそれだ! 優は、何時も回りの目ばっかり気にしてる! 私が一番とか調子の良い事言ってさ、結局、自分が一番可愛いんでしょ!? 本当は、私なんてどうでも良いんだ! 最初から、都合の良い遊び道具とでも思ってたんでしょ!?」
「ッ……! 水面、いい加減にしろよ! 何時も何時も迷惑なんだよ!」
あーあ、やっちゃった。私は、思わず目を伏せて本を閉じた。渇いた音が尾を引く室内、啜り泣く音が静かに起こる。
「……ご、ごめん、水面……私、カッとなって……今のは、違っ」
「優の馬鹿ッ! もう、優なんて知らない!」
パシャンと弾けた水の音。それから走り去る足音と、乱暴に開閉された扉の音。勢い良く揺れたベルが、悲しく鳴いた。再び目を向けると、席に座ったポニーは頭を抱えていた。
「クソッ……私に、どうしろっていうのよ……!」
「選べば良いんじゃない?」
立ち上がった私は静かに歩み寄り、鞄から取り出したハンカチを彼女へと差し出す。苛立たしげな表情で見上げてくるポニーは、自らのハンカチを取り出して、ボブに掛けられたであろう顔の水を拭き始めた。
「……貴女に関係無いでしょ?」
「そうだね、確かに関係無い。偶々居合わせた赤の他人。それを承知で言わせて貰うわ」
持っているハンカチで口元を隠し、睨むポニーを見詰める。その姿が、何処か昔の“誰かさん”と重なった。だから、だろうか……言わずにいられなかったのは。
「ポニーちゃん、今の貴女はね、分岐点に立っている。世間一般で言う、所謂“普通”の道と、“異常”の道の前」
「そんな事、言われなくても……」
「だろうね、だから苦しんでる。怖がってる。異常な思いを抱く自分に、異常を良しとする彼女に」
「知った風に言わないで! お姉さんに何が分かるっていうの!?」
「……分かるさ、同じ道の前に立ったからね」
「……えっ?」
怒ったポニーの顔が、疑問に歪む。当然だろう……現実は残酷で、誰にも理解されず、打ち明けられず、ただただ“普通”の世界が壊れるのを一人恐れる……彼女も、きっとそんな女の子なのだ。だから、なろう……私が指標に、理解者に。私には現れなかった助け船、それが三途の川を渡る船だとしても……出して上げよう。選ぶのは、彼女だ。
「普通が悪いとは言わないよ、けどね、君の思いが本物なら……一生後悔するよ、選ばなかったこの日の事を。彼女の涙が、一生君に付きまとう事になる」
「………ッ」
「お姉さんの助言はここまで……選ぶのは君だよ。本当に大事なのは、果たしてどちらだったのかな……?」
「っ、水面っ!」
私の言葉に、ポニーは店を飛び出した。その尻尾を振りながら、大事な物を追い掛ける為に……って、ありゃ、鞄忘れてるよ。
「おーい、鞄……って、もう見えない」
私は、再び上げた恥ずかしい手で頭を掻いた。取りに帰ってくるだろう、多分。ひゅう、と吹き抜けた風が髪を揺らす。そう言えば、私のコーヒーはどうなったのか……まぁ、良いか。今は、背中も見えない彼女達の青春で胸が一杯だ。
「ご注文のコーヒー、入りました」
「……若いって、良いねぇ」
「は、い、り、ま、し、た!」
がいんっ。小気味良く鳴った金属音は、私の頭と何かがぶつかって生じた物である。痛みに振り向くと、銀色トレイを抱えて頬を膨らませたカフェ店員、綾香が立っていた。一度も染めた事の無い、美しい黒髪を後ろで纏めている―所謂、夜会巻き―彼女は、肌も白くてとても綺麗だ。
「……おい、綾香。私のコーヒー、出すの遅すぎやしないか?」
「何を言ってるんですか、どうせ店の経費で落とすのでしょう? そ、れ、に! 本を探しに行ったきり、三日も音信不通だった人には当然の対応です! 反省してください!」
「……ぐぅの音も出ませんわ」
「まぁ、別に良いんですが……もう閉店ですし、私も真綾と一緒に飲みたかったので」
「何か言った?」
「いーえ、何でもありませーん。早く入って、コーヒー飲んじゃってください」
そう言って背を向ける綾香に微笑みつつ、私は店を見上げた。カフェ『マーカーズ』。一度離れて、でも忘れられなくて、結局一緒になった私と綾香だけの世界であり、指標。もう二度と迷わない様に、帰る為の目印。
「あーやか!」
「ひゃ!? ちょっと、いきなり抱き付かないでください!」
「いやぁ、三日も離れてるとさぁ……やっぱり綾香が恋しくてね」
「もう、本当に馬鹿ですね真綾は……」
満更でもないらしい綾香は、私の手を握って小さく笑う。そんな彼女は、あっ、と何かを思い出したかの様に声を上げた。
「そういえば、例の本……“アヤノ”のダイナマイトなんとかは有ったんですか?」
「ん、あぁ、あったあった。まさか県を跨ぐ羽目になるとは思わなかったけど」
何処にでもライバルってのは居るもので、恋もまたしかり。ポニーとボブの間に入ったマリーの様に、私達の間に入ったのが彩乃だった。どういう因果か知らないが、彼女は今や百合専門の作家先生である。
「それで、今作の感想は?」
「予想以上に面白く無かったわ」
何時だって傷だらけのハッピーエンド。そんなの、とっくに見飽きてる。全てを捨てた私達の笑い声と、苦み走ったコーヒーの香りが、妙に現実を醸し出していた……。