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宝石戦争  作者: 東条カオル
断章 参
42/42

間話 予兆

「――以上が、現時点で確認できている被害です」


 赤地に鮮やかな模様が織り込まれた絨毯の敷き詰められた部屋。

 そんな絨毯に見劣りしない高級感を醸し出す濃茶色の執務机の前に、レウスカ人民海軍の軍服を着た男たちが立っていた。


 彼らの左胸には多くの略綬が輝いており、その肩章はいずれも大将ないし中将であることを示している。

 軍事国家であるレウスカにおいて間違いなく社会の上層――それもほんの一握りに該当するはずの彼らが表情を硬くするその目の前には、眠たそうな表情で報告書を見つめるミハウ・ラトキエヴィチ議長の姿があった。


 海軍総司令官クルシェフスキー上級大将を始めとする人民海軍の幹部たちが、国家評議会議長の官邸である(ニビェスキー)宮殿を訪れているのは、先日喫した皇海における無残な敗北についての詳細を報告するためである。


 ミハウ・ラトキエヴィチは気分屋として知られている。これまでは勝っていたため、ニビェスキー宮には常に彼の鼻歌が響いていた。

 ブリタニアで、今は亡き第2軍前司令官レヴァンドフスキー大将が醜態を晒した時でさえも、ミハウ・ラトキエヴィチ議長の表情から笑顔が失われることはなかった。


 だが、今回は完全なるレウスカ軍の敗北である。戦術的にも戦略的にも手痛い損害を受け、さらには議長肝いりだった空中戦艦(シチシガ)をも失っているのだ。


 そんな不愉快な報告を受けたこの独裁者がどんな反応を示すのか。

 人民海軍の幹部たちは、逃げ出したい気持ちを抑えてこの場に立っていた。


「……シチシガは? あれも墜ちたのか」

「はい、残念ながら」


 心臓を鷲掴みにされたような思いでクルシェフスキー上級大将が答えるが、ミハウ・ラトキエヴィチはこれと言った反応を示さない。


 幹部たちが戦々恐々とする中、しばらく報告書を眺めていたミハウ・ラトキエヴィチがようやくそれを机の上に置き、居並ぶ幹部たちに目線を向けた。

 誰のものか分からない、息を呑む音が聞こえるような緊張感が部屋を包む。


「貴重な艦艇戦力を失ったのは……残念なことであるな。海軍には今後も制海権の維持に努めてもらいたい」

「は、はっ。海軍一同、身命を賭して閣下のご命令に従います!」

「うむ、ご苦労だった。下がってよい」


 思っていたのとは全く異なる展開に困惑する海軍幹部たち。

 思わず顔を見合わせた彼らを、ミハウ・ラトキエヴィチが不審そうな目で見ると、クルシェフスキー上級大将は慌てて二つ指の敬礼をして、幹部たちと共に執務室を辞去した。


「ふぅ……」


 後に残されたミハウ・ラトキエヴィチは、背もたれに体を預けて深いため息をつく。丈夫なはずの革張りの椅子が、ギシリと軋む音を立てた。


 しばらく何をするでもなくボーッとしていると、ドアをノックする音が執務室に響いた。

 少しだけ奇妙な間を置いて、ミハウ・ラトキエヴィチが「入れ」と声をかける。


「失礼します」


 入ってきたのは、市街地用の戦闘服に身を包んだ壮年の男だ。ミハウ・ラトキエヴィチが絶大な信頼を置く秘書官兼警護官のピオトゥル・ヴォイトゥコ中将である。


 ヴォイトゥコ中将は執務机の前に来ると二つ指の敬礼をして、脇に抱えたブリーフケースから書類の束を取り出した。


「各省庁からの定例報告です」

「……中身は見たか?」


 ミハウ・ラトキエヴィチの妙な質問に、ヴォイトゥコ中将はわずかに眉を(ひそ)めると、首を横に振った。


「いえ、閣下へのご報告ですので」

「うむ……。これからは君が目を通して、私が判断する必要があると思ったら報告してくれ」


 その言葉を聞いたヴォイトゥコ中将が大きく目を見開いた。


「閣下? いかがなさいましたか? もしや、ご気分でも優れないのでしょうか?」

「心配はない。少し、疲れているだけだ。他に何かあるかね?」

「いえ、今のところはございません」


 ヴォイトゥコ中将がそう言うと、ミハウ・ラトキエヴィチは億劫(おっくう)そうに体を椅子から引き起こし、執務室から直接繋がっている私室の方へと向かう。


「閣下?」

「今日はもう休む。何かあれば、君の権限で決裁しておいてくれ」

「は、はぁ。かしこまりました」


 敬礼するヴォイトゥコ中将に答礼しながら、ミハウ・ラトキエヴィチは私室へと消えていく。


「……どういうことだ?」


 ヴォイトゥコ中将が見る限り、ミハウ・ラトキエヴィチは何事も自分で確認しなければ気が済まない性質(たち)の人間だった。

 わざわざ駆逐艦を出し、ポリツェ島の秘密研究所までシチシガを見に行ったのはその最たるものだろう。


 それがどうだ。報告書をこの俺に任せるだと? これまでのミハウ・ラトキエヴィチではあり得なかったことだ。

 あり得ないと言えば、シチシガを失い、貴重な艦艇戦力を失った海軍首脳陣に怒りの一つも見せずに帰したというのもそうだ。


 まるで別人のように、ミハウ・ラトキエヴィチから覇気が失われている。これは憂慮すべきことだった。


「ご病気か? いや、しかし侍医の定期検診では何も……」


 腕を組み、一人悩むヴォイトゥコ中将。

 しかし、彼自身も理解しているように、彼は腕っ節一つでのし上がってきた男だ。考えるのは彼の仕事ではなかった。


「侍医に相談するか。何事もなければいいのだが……」


 そう呟いたヴォイトゥコ中将の目線の先には、曇天に覆われたポモージェの街並みがあった。







 総力戦体制で東側に対する戦争を遂行しているレウスカ人民共和国だが、本当に国民の全てが戦争やそれを支える活動に従事している訳ではない。

 ポモージェ市内には日常生活を営む多くの人民がおり、戦争に勝っているという精神的な影響もあってか、彼らは以前の苦しい生活を忘れ去ったかのように消費活動に励んでいた。


 それもこれも、レウスカの占領地が拡大するにつれて占領地の市民を強制労働に動員していき、それまでレウスカ人民たちが従事していたそれを代替するようになったからだ。


 生活に余裕のできた人民は、ささやかではあるが贅沢をするようになる。

 それが停滞していた経済を活性化させるようになり、ポモージェでは小バブルと言っていい好景気が訪れていた。


 そして景気がよくなったのは、占領地の資産を収奪しているレウスカ政府も同様であり、崩壊寸前だった財政が何とか持ち直した政府は、凍結していた事業のいくつかをこの戦争中に復活させている。

 そんな再開された事業の一つに「人民宮殿」の建設計画があった。


 1980年にミハウ・ラトキエヴィチが政権を樹立した直後から建設が始まったこの人民宮殿は、ヴィシンスキー・ゴシック様式のポモージェ・インターナショナルホテルを取り壊した跡地にある。

 ポモージェの中心街に一際目立つこの巨大な宮殿は、工程の七割ほどを終えたところで西側諸国の「革命」を迎え、その煽りを受けて建設がストップしていた。


 1992年に入ってから建設が再開された人民宮殿だが、延床面積としては世界第二位の大きさを誇る巨大な建造物である。

 すでに完成している部分も大きく、人民議会や財務省などの政府関係機関がすでに入居していた。


 そんな政府関係機関の中の一つには、レウスカ国権の事実上の最高機関である国家評議会も含まれている。

 人民宮殿の三階、「シモン・ヴィエルキ(大王)の間」と名付けられた広間の円卓には、ミハウ・ラトキエヴィチ議長を除く国家評議会の面々が着席しており、深刻そうな顔を付き合わせていた。


「もうすぐ二ヶ月、二ヶ月だぞ。これ以上の停滞は我が国にとって致命的になる」


 たるんだ頬を振るわせて不機嫌そうに口火を開いた老人。

 と、その隣に座る若い――あくまで隣の老人と比べてだが――男があくびをしながら老人に答える。


「そうとも限りませんよ、同志ウティンスキー。ラピスを攻略した後もそんなことを仰っていましたが、結果は我が軍の圧勝でした」

「あの頃とは置かれている状況が違う。拡大した占領地のおかげで、補給線の構築が追いついておらんのだ。パルチザンの襲撃も日を追う毎に激しくなっている」


 老人――ウティンスキー軍需大臣の言うように、1992年5月中旬段階におけるレウスカ人民軍の補給線は崩壊寸前であった。


 レウスカ本土から前線までは鉄道や船によって軍需物資が輸送されていたが、鉄道はパルチザンによる執拗な攻撃を受けてしばしば途絶しており、海上輸送も2月の敗戦による制海権の不安定化に伴って供給が安定しない状況が続いている。

 ならば、前線に近い占領地で生産するのはどうかと言うと、これまた強制動員された占領地市民のサボタージュなどによって効率が悪く、前線に展開している大軍を維持できるだけの生産活動ができない。


 国民向けの消費財生産を切り詰めれば問題はいくらか解決するだろうが、そうすれば今度は不満を抱いた国民が反政府デモを再開させるだろう。

 それでは、何のためにこの戦争を始めたのか分からない。


 軍需省は補給線破綻までのタイムリミットを二ヶ月と考えており、その計算は後におおむね正確であったことが明らかになっている。


 ともかく、官僚たちの焦燥を目の当たりにしているウティンスキー軍需大臣としては、何とかして戦争を早期に終結させるべきだと考えていた。


「同志ウティンスキーの懸案はもっともなことですが、ではどうするんです? 東に講和を申し込みますか?」

「講和でもいいし、戦争継続でもいい。とにかく残された時間は少ないのだから迅速な決断が必要なのですよ、同志ウォンチニスキー」


 皮肉そうな笑みを浮かべて言い放った男――ウォンチニスキー評議員に答えたのは、ウティンスキー軍需大臣とは別の男性だった。

 ウォンチニスキー評議員とほぼ同年代らしきその男性は、政敵としてしばしば評議会で議論を交わすことの多いジェヴスキー評議員だ。


「そうは言うがな、同志ジェヴスキー。その決定をなさるべき同志議長はかれこれ二ヶ月も評議会に姿を見せておられないのだぞ」

「だからそのことについて話す必要があるのだ、マズール副首相」


 ポレスワフ・ラトキエヴィチ首相がようやく沈黙を破ると、議論をしていた評議員たちが静まり返る。


 ミハウ・ラトキエヴィチ議長が姿を見せない今では、彼が最上位の席次に来ることになる。

 評議会の流れを支配するのは、自然なことのように思えた。


「平時であってとしても、二ヶ月も最高指導者が姿を見せられないというのは国権の運営に支障を来す。ましてや、今は戦時中だ。指導者の不在は致命的と言っていいだろう。ウティンスキー大臣の言は正しい」

「しかし、議長交代となってもまずはご本人の意思表示がなければどうしようもありませんが」


 ポレスワフ・ラトキエヴィチ首相の隣に座るグラボフスキー外務大臣がそう言うと、言われた当人は笑ってこれを否定した。


「議長交代の必要はないだろう。議長閣下の意思を代行する者を選べばよいだけだ」


 その言葉に、出席者たちは困惑したように顔を見合わせた。


「議長代行、ということでしょうか? ですが、そのような規定は存在しませんが……」

「言っただろう。今は非常時なのだ、マズール副首相。非常の策が必要な時なのだよ」


 非常時であることを盾に、難色を示すマズール副首相を押し切るポレスワフ・ラトキエヴィチ。

 マズール副首相がその圧力に抗しきれずに頷くと、彼は満足げに頷いて口を開く。


「よろしい。では、異存がなければ私が議長代行として以降の議事を――」

「――お待ちください、兄上」


 議事を取り仕切る、と宣言しようとしたポレスワフ・ラトキエヴィチを制止したのは、彼の実弟にして内務省公安部(ABP)を率いる「恐怖公」こと、ミロスワフ・ラトキエヴィチであった。


 ミロスワフは意図の掴みにくいアルカイックスマイルを浮かべながら、蕩々(とうとう)と語り始める。


「共和国憲法第四条の規定では、国家評議会議長と首相の兼任は禁じられています。代行職は規定にないものですが、憲法四条を準用して代行と首相の兼任も許されないと考えるのが妥当ではないかと」


 ミロスワフがそう言うと、出席者たちの間からも「確かに」と言った同意する声が漏れてくる。


 一方、寸前で手厳しい指摘を受ける形となったポレスワフ・ラトキエヴィチ首相も、何とか反論を試みようとする。


「確かにその通りだ。だが、先ほども言ったように今は戦時で非常時なのだ。議長代行という規定外の職を設ける以上、それには一定の立場にある人間がつかなければ――」

「――非常時だからこそ、慎重になるべきでしょう。非常時を口実に憲法を無視するようなことが常態化すれば、政府の権威が揺らぎかねません」


 ポレスワフ・ラトキエヴィチ首相が焦りから不十分な理論武装で反論してしまったのとは対照的に、ミロスワフはあくまで冷静に指摘する。

 その光景を見た評議員たちもミロスワフへの同意を示し、ポレスワフ・ラトキエヴィチ首相に不審の眼差しを向け始めた。


 ミロスワフはさらにこう続ける。


「それから、一定の立場と仰いましたが、この場に列席の方々は皆『一定の立場』にあるのですよ? 何も兄上が危ない橋を渡って兼任なさる必要はないでしょう」


 笑みこそ浮かべているが、兄に対するミロスワフの指摘は実に辛辣だ。

 要するに、「父ミハウの病気を口実に、権力の奪取を図っているのだろう」と牽制しているのである。


 そして、それは一面において事実であった。


「ラトキエヴィチ長官、そこまで仰るからには首相閣下よりも相応しい人物に心当たりがあるのでしょうな?」


 嫌味な口調でクストロニュ国防次官が尋ねたことで、その疑惑がさらに深まる。

 彼は国防大臣を兼任するポレスワフ・ラトキエヴィチに代わって国防省を率いており、ポレスワフシンパとして彼の権勢に大いに貢献していたからだ。


 それを見たミロスワフは鷹のような鋭い眼差しを光らせた。


「ええ、もちろん。兄上とも私とも、グラボフスキー大臣とも距離を置いていて、マズール副首相のように何かの役職に就いている訳でもない人物がね」


 そう言って彼が向けた視線の先には、落ち着かない様子で議論の行く末を見守っていた一人の男性がいた。

 ミロスワフに釣られて全員がそちらの方を向いたことで、男性は目を泳がせる。


「え、な、何を……」

「私は同志コナースキーを議長代行に推薦します」


 その言葉に、列席する評議員たちは戸惑いの声を上げたが、それも無理のないことであった。


 共産党の内部には大きく分けて四つの派閥がある。主流派、公安派、国粋派、旧マズール派の四つだ。

 この内、旧マズール派は現在のラトキエヴィチ政権の母体となった派閥であり、「長老格」の政治家たちがここに分類される。

 しかし彼らはラトキエヴィチ政権の樹立に協力したことただ一点のみを理由に政界への残留を許されているに過ぎず、派閥の領袖であるマズール副首相からしてお飾りの立場であり、発言力は無視できるレベルだ。


 残る三つはそれぞれポレスワフ・ラトキエヴィチ首相、ミロスワフ・ラトキエヴィチ長官、グラボフスキー外務大臣に近しい人物たちの分類であり、政権内部の権力闘争は主にこの三派によって行われている。


 コナースキー評議員はこのいずれにも属さない極めて珍しい人物なのだが、それは本人に何か固い信念があるためではなく、どの派閥にもいい顔をしようとするためにどの派閥からも距離を置かれているだけだ。


 そんな政権の鼻つまみ者を、どうしてミロスワフが議長代行に推薦するのか。

 その意図を読めない他の評議員たちは、彼が悪名高きABPの長官であることを思い出し、何か裏があるのではないかと疑っていたのである。


「なぜ彼が適任だと?」


 ポレスワフ・ラトキエヴィチ首相のその質問に、ミロスワフは笑みを崩すことなくこう答えた。


「先ほども言ったように、彼はどの派閥とも距離を置いていて、役職も持っていない。さらに言えば、彼は自己主張が強い人間ではありません」


 決して褒めているとは言えないミロスワフの言葉に、しかし評議員たちは同意を示すように頷く。


「今、必要としているのは評議会の決定を認可する権限を持つ人物であって、自分の意思で果断に決定を下す人物ではない。故に同志コナースキーを適任と考えました」


 この最後の一言が駄目押しとなり、評議会の空気は議長代行職をコナースキー評議員に任せる方向へと傾いた。

 クストロニュ国防次官が反対し、ポレスワフ・ラトキエヴィチ首相が棄権したものの、その他の面々はミロスワフの提案に賛成。


 これによって、レウスカ人民共和国史上初となる議長代行が選出されたのである。


 だが、評議会が三派に分かれて政治闘争を繰り広げている現状が変わった訳ではない。

 自分の意思を持たず、ただ流されるがままの議長代行を選出したことは、むしろこれ以降の国家評議会を混沌へと導くこととなる。


 そんな決断とは夢にも思わず、「これで懸案が一つ解決した」と胸をなで下ろしている評議員たちを、提案した張本人のミロスワフは薄ら笑いで眺めていた。







「閣下、失礼します」

「ああ、バルテル君か。どうかしたのかな?」


 どこか陰気な部屋に二人の男の姿があった。

 一人はヤン・バルテル。泣く子も黙るABP防諜課の課長にして、「ミロスワフの蛇」と呼ばれ忌み嫌われるミロスワフの腹心である。


 そして、もう一人は何を隠そう、ABP長官にしてこの部屋の主、ミロスワフ・ラトキエヴィチであった。


「議長閣下の下にいる情報員から報告が上がりました。こちらをご覧ください」


 バルテル課長がアタッシェケースから紙を取り出してミロスワフに差し出す。

 ミロスワフはそれを底の見えない笑顔を浮かべたまま受け取った。


「ふむ、要点の説明を」

「はっ。議長閣下はどうも病気ではないか、とのことです」


 簡潔な報告だが、その内容は非常に深刻だった。

 ここ二ヶ月、評議会に姿を見せていないレウスカの最高指導者ミハウ・ラトキエヴィチ。その彼が、病気であるというのである。

 それはすなわち、レウスカの頭脳が病気であるというのと同じことであった。


「思い当たる節がないではないな。何故病気だと?」


 全て紙に書かれていることだが、重要なことは口頭でも説明をさせる。それによって、理解を確実なものとするのだ。

 バルテル課長もその辺りは心得たもので、「そちらをお読みください」などという馬鹿げたことは言わずに説明を続けた。


「その情報員の報告ではここ最近、議長閣下の侍医が毎日ニビェスキー宮を出入りしているとのことです。これまでになかったことなので、病気ではないかと」


 私もその判断を支持します、と続けるバルテル課長。

 その報告を聞き、ミロスワフは笑みを崩さずにこう言った。


「まああのお方が病気だろうが、評議会の方は手を打っている。そちらに関してはさほど問題がないはずだが、君が報告しに来たということは、他にも何かあるのだろう?」

「ご明察の通りです」


 バルテル課長はそう言うと、アタッシェケースからもう一枚の紙を取り出す。そこには、とある人物の顔写真とプロフィールが詳細に記されていた。


「ピオトゥル・ヴォイトゥコ。国家評議会議長護衛部長、国家評議会事務局長、国家安全保障会議書記長を兼任。ミハウ・ラトキエヴィチ議長の側近中の側近。このヴォイトゥコ中将が、議長閣下へのご報告を全て裁可しているとのことです」

「ほう。あの彼がね」


 彼らの言葉に侮蔑的な響きが混じっていたのは仕方のないことである。

 何故ならば、ヴォイトゥコ中将は「ミハウ・ラトキエヴィチの護衛隊長である」というその一点のみによって今の地位まで出世したのだ。

 「ラトキエヴィチ王朝」の「王子」であるミロスワフや、共産党のエリートであるバルテル課長などからすれば、彼は「成り上がり」も同然であった。


「いかがいたしましょう、閣下。執政の壟断(ろうだん)ということで、反革命罪での立件も可能かと思われますが」


 バルテル課長は、自らの上司であるミロスワフ以外にこのレウスカ人民共和国を統治できる人間はいないと考えていた。

 現議長ミハウ・ラトキエヴィチは時勢が味方してたまたまトップに立っただけの「幸運な素人」。首相にして後継候補ナンバー1の呼び声高いポレスワフも、バルテル課長に言わせれば「権力欲だけ立派な凡俗」であった。


 その点、ミロスワフは現ラトキエヴィチ体制を支える秘密警察ABPを取り仕切っており、警察総局長官を兼任することで、国土全域をカバーする警察網を構築している。

 また、政治的にも公安派の首領として評議会において隠然たる発言力を有しており、先日の評議会などに至っては、事実上ミロスワフが議長代行を指名するほどであった。


 そんなミロスワフに心酔するバルテル課長からすれば、議長の側近という立場を「悪用」するヴォイトゥコ中将は邪魔者以外の何者でもなかった。

 故に暗に排除を勧めたのだが、ミロスワフの答えは否だった。


「放っておきたまえ。そのような形式的権力など、欲しがる子どもに与えておけばいいのだよ。大事なのは、実質的な権力だ」

「実質的な権力、ですか」


 どこか不得要領なバルテル課長に、ミロスワフが見事なアルカイックスマイルを浮かべながらこう言う。


「そうだ。我々は警察権力を押さえている。体制の安定如何(いかん)は我々の双肩に懸かっていると言っても過言ではないだろう。すなわち、権力の座に就いた者は、我々の力を借りなければならないということだよ」

「なるほど」


 それは至極もっともなことだった。人民を「抑止」する警察権力の支援がなければ、独裁体制の維持など不可能である。


「我々は警察権力を押さえているだけでいい。それだけで、我々は権力の座にあるのと同じことなのだよ、バルテル君」

「閣下のご慧眼、誠に感服いたしました」


 バルテル課長が心の底からそう言うと、ミロスワフは苦笑を浮かべた。


「ありがとう。まあ君でも少し考えれば分かるはずのことだ。そこまで褒められるようなことではない」

「そのようなことはありません。小官には想像の及ばないところでした」

「まあいいだろう。この一件に関してはそれで以上だ。他に報告は?」


 バルテル課長の賞賛を半ば打ち切るようにミロスワフがそう言うと、バルテル課長が首を振った。


「ありません。ご報告は以上です」

「ならば下がって結構。ご苦労だったね、バルテル君」

「はっ。もったいないお言葉です、閣下」


 そう言うと、バルテル課長は二つ指の敬礼をして部屋を出て行った。


 後に残されたミロスワフは、しばらくバルテル課長が持ってきた書類を眺めていたが、おもむろにそれを廃棄書類用の箱に放り込み、立ち上がった。


「まだまだ甘いな、バルテル君」


 そう言いつつ、窓辺に立って首都ポモージェの街並みを眺めるミロスワフ。外はいつの間にか、雨模様の天気になっていた。


「警察権力だけ押さえていればいい。そんな訳がないのだよ、バルテル君。警察のトップはあくまでも警察のトップでしかない。評議会議長ではないのだ」


 ミロスワフは独り言を零しながら、薄らと笑みを浮かべる。それはそれまでのアルカイックスマイルとは異なり、どこか寒気すら感じさせる「蛇」のような笑みだった。


「さあ、私はキングを進めたぞ、PATOの首脳諸君。次は君たちのターンだ。次の一手はどう出る? ポーンか、ナイトか、それともビショップ? あるいはクイーン?」


――チェックメイトの日を楽しみにしているよ、諸君。


 その言葉は、雨のポモージェに溶けて消えていった。







 1992年4月14日、レウスカ人民共和国首相の「慈悲の一撃」演説


 諸君! 親愛なるレウスカ人民諸君! 我々は記念すべき日を迎えた。

 遂に、帝国主義者、資本主義者に対する、我々レウスカ人民の闘争が勝利を迎えようとしているのである!


 見よ、我々の東側人民解放のための闘争の成果を! 西はトゥールーズから、東はガンディアに至るまで、我々が解放した人民は三億に及ぶ!

 諸君ら五千万のレウスカ人民と合わせれば、三億五千万の怒れる人民が、今や声を一つにして叫んでいるのだ。帝国主義者を、資本主義者を倒せと!


 太平洋における我々の敗北は確かに痛手であった。しかし、これは勝利に浮かれる我々への警鐘である。完全なる勝利を遂げる日まで、我々は決して闘争の決意を鈍らせてはならないのだ。


 PATOの指導者たちは言う。レウスカは勝利の自信を失ったと。本当に? 諸君は本当に勝利の自信を失ったのか? 答えは否である!


 PATOの指導者たちは言う。レウスカはもはや戦争遂行のための力を失ったと。本当に? 諸君は戦争遂行のために全ての力を結集することを止めたのか? 答えは否である!


 PATOの指導者たちは言う。レウスカは親愛なる我らが指導者ミハウ・ラトキエヴィチ閣下への忠誠を失ったと。本当に? 諸君は議長閣下に誓った忠誠の心を失ったのか? 答えは否である!


 全ては追い詰められたPATOの指導者たちの虚言に過ぎない! このような虚言を弄することそれ自体が、もはやPATOが勝利の自信を失い、戦争遂行の力を失い、その指導者への忠誠を失ったことの明白なる証明である!


 諸君! 親愛なるレウスカ人民諸君! 我々は記念すべき日を迎えた。

 今こそ勝利の一撃を! 慈悲の一撃をPATOに与える時が来たのである!


 勝利を我らの手に! レウスカ万歳!

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