第十二話 三月政変
アキカワ首相が表明した衆議院総選挙は各方面に衝撃を与えた。
軍部が快進撃を続け、レウスカに打撃を与えている今、その勢いを減退させないためにもアキカワ首相は自由党と何らかの取引をするものと思われていたからである。
そして、何を隠そう一番の衝撃を受けたのはイチノセ公だった。
彼は保守党が自分と取引をすると信じて疑っておらず、総選挙の報が伝わるや、手に持っていた煙管を取り落としたという。
驚愕のあまり、イチノセ公は怒りを抑えられないでいた。
「おのれ、久河の小童め! この状況で総選挙に打って出るなど、何を考えておるのだ!」
側に置かれていた壺を投げ割りながら、イチノセ公がそう叫ぶ。
帝都烏丸七条の一等地にあるイチノセ家の邸宅には、イチノセ公とその息子タダハル、そしてさらにその息子――すなわちイチノセ公の孫である帝国公安局のタダトモ・イチノセ大佐が集まり、今回の事態への対応を話し合うはずだった。
しかし、イチノセ大佐が部屋に足を踏み入れてみれば、そこにいたのは傍若無人に怒りをあらわにする祖父と、それをおろおろと見るだけの父がいたのである。
父タダハルが助けを求めるような目をこちらに向けた瞬間、タダトモは言いようのない嫌悪感を父に覚えた。父親のくせに息子に縋るとは、何たる情けなさか、と。
そう思いつつ、しかし怒り狂う祖父を鎮めるのは容易ならざることだと、緊張しながら声をかけた。
「お祖父様、落ち着いてください」
「落ち着け? 誰にものを申しているのだ、忠知! そもそも貴様が早々に久方を立件しておれば、このようなことにはならなかったのだぞ!」
案の定、こちらに矛先が向き、嫌な気分になるイチノセ大佐。
だが、嫌だ嫌だと言っている場合ではない。目の前にいるこの老人は、気に食わない人間を「処分」できるだけの実力を持った厄介な御仁なのである。
「言い訳をさせていただけるならば、あの一件だけで久方の立件は不可能でした。玖代の娘も無事に帰還しておりましたし、何よりエルンスト少佐のスパイ疑惑自体が根拠の薄いものです。押し通せば久河が動くのは目に見えておりました」
「貴様、儂に口答えするか!」
「口答えではありませぬ、お祖父様。元よりもはや過ぎ去ってしまったことです。今、ああだこうだと言っても仕方ありませぬ。それよりも、今後の対策を考えねば」
怒り狂うのは結構だが、あの責任を自分ばかりに被せられるのは癪だった。
そもそもからして、軍部の重鎮たるヒサカタ家を反逆罪で立件しようなどと言うことそれ自体が馬鹿げた話なのである。
あの時は自分も上手くやらねば「処分」されるという恐怖感から見えていなかったが、冷静になればすぐに分かることだ。
それを、この老人は分かっていない。あるいは、分かっていないふりをしているのだろうか。
どちらにせよ、巻き込まれた挙げ句に怒りをぶつけられるタダトモの立場からすれば、うんざりすることこの上ない一件だった。
さて、そんな風にイチノセ大佐が自分の怒りにも動じた様子を見せなかったからだろうか、イチノセ公もようやく落ち着きを取り戻し、その目に普段の老獪な陰謀家の冷徹さが戻ってきた。
「ふん。未熟者が生意気な口を聞きおって。して、何か腹案でもあるのか?」
イチノセ公の問いかけに、イチノセ大佐は密かに緊張していた。ここからが勝負だ。この頑固な陰謀爺を、何とかして言いくるめなければならない。
「案はありませぬ」
「ハッ、ずいぶんと口達者に答えるものだから何ぞ腹案でもあるのかと思えば! 情けのうて儂は涙が出そうじゃ!」
ここまでは想定の範囲内だ。イチノセ公の罵倒を、イチノセ大佐はすまし顔で受け流す。
「そう言うお祖父様に策はお有りですか?」
「……」
イチノセ大佐が切り返すと、イチノセ公がこちらをキッと睨みつけたまま黙りこくる。
そう。クガが打ち出してきた衆議院総選挙に対して、対抗案がないのはイチノセ公も同じことなのだ。
「お有りでない様子。と、するならば我らは待つしかありませぬ」
「待つ、だと?」
イチノセ公の目元がピクリと動いた。
説得するのはここしかないと思い、イチノセ大佐が勢い込む。
「そうです。我らは七十年待ったのです。ならばまた七十年待てばいい。それでも足りなければもう七十年。我らは雌伏し、御三家の体制が崩れるのを待てばいいのです」
それは一面で的を射ていた。
御三家と称する政治のクガ、軍事のヒサカタ、経済のクオンという鉄のトライアングルは、第一次大戦以降、長きに渡ってこの日本を支配してきたが、その支配には綻びが見えつつあったのである。
特に、クガ家が担っていた政界においては、近年に入って貴族院の影響力が急速に低下しており、衆議院の力が強くなっていた。
今の内閣を見ても、貴族院出身の大臣はクガ国防大臣とサイオンジ外務大臣の二人のみで、その他は衆議院議員か民間登用の大臣ばかりだ。
クガ家は未だ保守党の隠然たる権力者として影響力を持っているが、もはや総理大臣を輩出する力はなくなっているのである。
ただしそれは、イチノセ家にも同じことが言えるのだった。
「待ってどうなる? 我らの手に政権が転がり込んでくる保障があるのか?」
「それは……ありませんが」
痛いところを突かれたイチノセ大佐が思わず言葉に詰まる。それを見て、イチノセ公が侮蔑するような笑みを浮かべた。
「保障などあるまい。今や政治は平民連中が好き放題しておる。クガですら、平民風情を首相に祭り上げねばならぬ時代。儂らとて、同じように自由党の阿呆共を担ぎ上げねばならんのだ」
その言葉に目を見張るイチノセ大佐。やはりこの陰謀家は侮れない。この爺は怒り狂いながらも、冷徹に現実を見据えていた。
「それでこの総選挙ではどうなる? この戦勝ムードに水を差す真似をした自由党の連中に、平民どもが票を入れると思うか? 思うまい。少し頭があれば思いつくことだ」
そう言いながら、父タダハルを忌々しげに見るイチノセ公。暗に、その程度も分からない馬鹿がこの父親だ、と言っているのだろう。これに関してはイチノセ大佐も同意見だった。
「自由党は大敗する。儂が七十年かけて育ててきた手駒は水泡に帰すのだ。そのようなこと、断じて認められぬ!」
再び怒り狂うイチノセ公を見て、イチノセ大佐は思い知った。
この目の前の老人は八十年の人生、そのほとんどをイチノセ家の復興に賭け、そしてその賭けが失敗に終わろうとしている。
すなわち、彼の人生その全てが無駄なものになろうとしているのだ。
イチノセ公はそれが認められずに、ここまで怒りをあらわにしているのだろう。
それに気づいた瞬間、イチノセ大佐は不意にこの老人を哀れに思った。
この老人は権力の魅力に取り憑かれた亡者になり果ててしまったのだと。
だが、イチノセ公の次の言葉を聞いた瞬間、そんな感傷はどこかへと吹き飛んだ。
「もはやクーデターしかあるまい。忠知、公安局は手懐けておるな?」
「な……! お待ちください、お祖父様! それは早計に過ぎます!」
「生意気な口を聞くでないわ、この小童が。それにもう準備は済んでおる」
イチノセ大佐は耳を疑った。準備は済んでいる?
「どういうことです、お祖父様」
「親切な友人が兵を貸してくれたのだよ、忠知。これと公安局の部隊があれば、帝都の主要拠点を押さえることくらいは容易いものよ」
その言葉に、イチノセ大佐の脳裏で警鐘が鳴り響いた。この老人は、何か手を出してはいけないものに手を出したのではないか?
「親切な友人、ですか?」
「ああ。ミロスワフ・ラトキエヴィチと言ってな。忠知、汝も知っておろう」
「ミロスワフ・ラトキエヴィチ!」
それは敵も敵、レウスカ人民共和国の陰の実力者と言われるスパイマスターの名前ではないか。
イチノセ大佐は目の前が真っ暗になる気分だった。敵と通じた一族に未来はない。まず間違いなく爵位は剥奪、イチノセ家は全ての名誉と力を失い、完全に没落するだろう。
それだけは防がなければならない。となれば、やることは一つだけだった。
短いこの時間に覚悟を決めたイチノセ大佐は、こう言った。
「それがお祖父様の決断というなら仕方ありますまい。ならば迅速な行動が必要になります」
「おお、分かってくれたか、忠知」
「ええ。お祖父様の意思は分かりました。私も為すべきことを為すまでです」
その言葉にイチノセ公が満足げに頷く。
「うむうむ。行くがよい、忠知。公安局は汝に任せたぞ」
「お任せくださいませ」
一つの決意を胸に秘め、イチノセ大佐は部屋を出て行く。窓の外の帝都は、イチノセ家の行く末を象徴するかのような曇天に包まれていた。
「状況はどうなっている?」
「はっ。この国防省を含め、御所、首相官邸、警視庁、憲兵本部が襲撃を受けましたが、いずれも短時間で撃退しました」
帝都新市街東部の千代田区にある国防省ビル。
その地下には、アキカワ首相、クガ国防大臣を始めとする政府要人、そしてダテ統合参謀総長を始めとする軍部高官が勢揃いしていた。
彼らがこの薄暗いオペレーションセンターに集結した理由。それは、謎の武装勢力による帝都主要拠点の襲撃にあった。
3月20日午前10時ちょうど、10時を告げるチャイムと同時に、皇居・首相官邸・国防省・警視庁・憲兵本部に対する同時攻撃が行われたのである。
政府高官は避難マニュアルに則って、即座に国防省地下の核シェルターへと集結し、事態への対応に当たっていた。
そして午前11時38分、警視庁からの敵勢力撃退の報告を最後に、敵の襲撃は呆気なく終わりを告げたのである。
すわ非常事態か、と戦々恐々としていた政府の面々は、あまりにもあっさりとした解決に拍子抜けの気分を味わっていた。
「どういうことだ? レウスカの襲撃にしてはあっさりと諦めているし、何より時機を外している。この騒動が皇海海戦の最中に起きれば、我が軍は大混乱に陥っていたはずだ」
「レウスカでないという可能性は? 例えば反体制派のゲリラ攻撃の可能性はありませんか?」
「これだけの大規模な襲撃を実行できる反体制組織は存在しませんよ」
政府高官たちが口々に、ああでもないこうでもないと憶測を重ねていく。
だが、見えてくるのはこの襲撃の不可思議さだけだった。
「本当にレウスカの仕業ですか? それにしてはあまりにもお粗末としか言い様が……」
「しかし、それ以外に考えられないでしょう」
「我々の対応がレウスカの想定を超えていたということではないですか?」
「それにしては出来過ぎだ。一人の高官も捕まったり殺されたりしていないのは、さすがに不自然だろう。完全な奇襲だったのだぞ」
そう。この襲撃は完璧な奇襲だった。関係各機関が全く予想だにしない攻撃であり、日本側は完全に出し抜かれたのだ。
だが、その完璧な奇襲と反比例するような襲撃のお粗末さは一体何なのか。彼らの疑問は尽きなかった。
「そう言えば、公安局の滝脇長官はどこに?」
「公安局からは無事だとの連絡が入っています。そちらにおられるのでは?」
「何故、公安局は無事なんだ? 襲撃の対象になってもおかしくない組織だぞ」
とある一人の高官が疑問を呈すると、シェルター内の空気が固まった。
この非常事態に、本来動いてしかるべき帝国公安局は一体何をしているのか、と。
情報の入らない中、よからぬ方向へと彼らの想像が働きそうになったその時、シェルターのオペレータが声を上げた。
「公安局より通信が入っています!」
「スクリーンに映せ」
高官の一人が指示を出すと、シェルターの壁面に設置された巨大なスクリーンに、若い男性の姿が映し出された。タキワキ長官ではない。
思いがけない事態に高官たちがお互いに顔を見合わせていると、一人の男性が進み出た。
「国防大臣の久河だ。君は?」
進み出た男性――クガ大臣がそう言うと、スクリーンに映る男性は敬礼をしてこう言った。
『はっ。小官は公安局防諜部第3課課長の市ノ瀬忠知であります』
「あの市ノ瀬公の……」
イチノセ大佐の自己紹介に、高官たちの中でひそひそと会話が交わされる。
権力にしがみつこうともがいている老人、イチノセ公の名前は政界で有名だった。
「市ノ瀬課長、公安局はどう動いている?」
『それについてご報告しなければならない点がいくつかあります。まず、公安局は現在、作戦部隊を動かして襲撃犯を追っています。何名かを捕らえましたが、いずれも自決しました』
「自決だと!」
思わず高官たちが顔を見合わせる。並大抵の覚悟ではできないことを、捕らえられた襲撃犯全員が行ったというのは衝撃的だった。
『はい。ですが、襲撃犯はレウスカ人です。おそらく、内務省公安部の手の者ではないかと』
「何か根拠があるのかね、市ノ瀬大佐」
そう言ったのは、公安局を管轄すべきオイカワ公安大臣だ。
彼は公安局の動きが見えなかったことについて、他の高官らからチクリと刺されており、いたたまれない思いでこの部屋にいた。
その憤りをぶつけるかのように、彼の口調は刺々しいものだった。
だが、画面の中のイチノセ大佐は気にした様子も見せず、オイカワ大臣の質問に応じる。
『今回の襲撃を手引きしたのは私の祖父、市ノ瀬忠隆です。祖父がレウスカの手を借りたと言っているのをこの耳で聞きました』
「何だと!」
イチノセ大佐の言葉に、高官たちが色めき立つ。彼の言葉が真実であれば、スキャンダルでは済まない一大事だ。
よりによって外患を招くような真似を、名門イチノセ公爵家の当主が行ったのである。
彼の政界への執着を知っているものたちも、イチノセ大佐の言葉には驚きを隠せなかった。
「市ノ瀬大佐、君の言葉が真実であれば、君は襲撃があることを知っていながら、それを関係各機関に通報せず、襲撃されるがままにしたということになる。その点について説明したまえ」
公安省はイチノセ家の息がかかった者が多く、オイカワ大臣も例外ではない。
言わば身内にメンツを潰される形となったオイカワ大臣の怒りようは尋常なものではなく、説明を要求するその言葉は怒りに震えていた。
『襲撃の話を聞いたのはつい先ほどです。襲撃開始までは時間がありませんでした。それにこの襲撃自体、公安局が同調してクーデターを起こすことが前提でした』
「クーデターだと!」
「馬鹿げている!」
高官たちが驚愕をあらわにし、口々に叫ぶ。その様子を冷静に眺めながら、イチノセ大佐はこう続けた。
『現在、市ノ瀬邸を監視中です。ご命令があり次第、いつでも緊急逮捕できます』
「すぐに逮捕しろ! 令状の手続きも忘れるな!」
『はっ』
イチノセ大佐が了解すると、オイカワ大臣は通信を切らせようとする。それを止めたのは、クガ大臣だった。
「大佐、私が言うのも変な話だが、あのご老人に引導を渡してやってくれ。もう貴族の時代は終わったのだと」
『……もとよりそのつもりです。他にご用件は?』
イチノセ大佐の口調がやや刺々しくなるのは仕方のないことだろう。クガ大臣は、仇敵とも言っていい相手なのだ。
それを分かっているクガ大臣もそれ以上のことは言わなかった。
「いや、いい。逮捕の報告を待っている」
『了解しました。では、これで』
その言葉を最後に、通信が切れる。
クガ大臣はしばらく映像の消えたスクリーンを眺めていたが、やがて頭を振ると、アキカワ首相の方を向いてこう言った。
「首相、官邸に戻り、記者会見を行いましょう。危機は去った、と」
結果から言えば、イチノセ公のクーデター計画は失敗した。
3月20日の午後12時19分、イチノセ公及びその息子は自宅においてIDPSに身柄を拘束され、野望に取り憑かれた老人の七十年に及ぶ闘争は幕を閉じたのである。
また、逮捕を指揮したイチノセ大佐も身内が起こした事件ということで、拘束した二名の身柄を検察に引き渡した段階で休職扱いとなり、同日辞表を提出してIDPSを離れている。
イチノセ家はトップとその後継者の逮捕と、イチノセ大佐の離職によってその政治的生命を完全に止めたのであった。
それに呼応するかのように、3月30日に行われた衆議院総選挙では、当初の予想通り保守党が圧勝を収め、保守党単独政権の成立という結果に終わった。
保守党が絶対安定多数を獲得する一方で、それを裏切った自由党には国民の厳しい目が向けられ、議席の実に四分の三を失う大敗を喫し、衆議院第二党の座から転げ落ちることとなった。
これにより、3月16日の内閣不信任決議から始まる一連の政治的動乱――後に言う三月政変は幕を引く訳だが、現実は続いていく。
その中で、第二次アキカワ内閣の頭痛の種となることが一つ存在した。
それは、イチノセ公のクーデター計画において実行者の役割を果たしたレウスカ特殊部隊と思わしき武装勢力が、帝都の包囲網を抜けて日本のどこかへと潜伏してしまったことであった。
日本からすれば、国内に危険な敵を抱え込んだ形となる訳で、当然その捜索並びに警戒には軍が当たることとなる。
その結果、陸軍を中心に行われる予定だった大陸反攻作戦「弩号」が無期限延期の憂き目に遭ったのであった。
弩号作戦は陸海空の共同作戦であり、動員される予定だった兵力も多岐にわたる。
そんな動員兵力の中には、ある意味当然と言っていいことだが、アイギス隊の名前もあった。
さて、弩号作戦はあくまでも無期限延期になっただけであり、中止という決定が正式に為された訳ではない。
そのため、作戦に参加する予定の部隊は待機を続けねばならず、当然のことながらアイギス隊も帝都空軍基地において待機を強いられることとなる。
そんな中、レオンハルトは帝都空軍基地の将校室で、ヒサカタ准将と向き合って会話に興じていた。
「君の部下はどうしているかな、少佐?」
「訓練する者、ゆっくりと羽を伸ばす者、何とかして外出許可を受けようと努力する者、色々ですよ」
緑茶をすすりながら言ったヒサカタ准将に、レオンハルトは紅茶の香りを楽しみながら答える。
「ちなみに君は?」
「ゆっくりと羽を伸ばす派ですね。待機時間まで訓練という柄ではないですし、やっても無駄なことはしない主義です」
「やっても無駄とは酷いな、少佐。案外、出したら通るかも知れないぞ?」
その休暇を決裁するのは、目の前で緑茶をすするこの貴族だ。当然、ヒサカタ准将に休暇を許可する腹積もりなどは毛頭なく、それをレオンハルトも分かっている。
レオンハルトはヒサカタ准将の言葉に、肩をすくめることで応じた。
「それで、いつになったら待機は終わるんです?」
「レウスカの特殊部隊を狩り出すまでだ」
にべもなく答えるヒサカタ准将。それはその通りだが、レオンハルトが求めているのはそういう話ではない。
「実際のところどうなんです? 捜索はどのくらい順調なんですか?」
レオンハルトがそう尋ねると、ヒサカタ准将は珍しく渋い顔をした。
「順調にはほど遠いな。帝都を襲撃した後の足取りは全く分かっていない。まるでかき消えたようだ、と捜索担当者が言っていたよ」
「作戦の再開は期待薄、ということですね」
レオンハルトはため息をつく。正直なところ、帝都空軍基地に釘付けになるのは勘弁願いたい話なのだ。
「作戦の再開は、な。ただ、情報部でちと動きがあった」
その言葉を聞き、レオンハルトは「やはりヒサカタ家の名前は大したものだな」と感心する。
ヒサカタ准将は公式には第6航空団の司令に過ぎない。当然ながら、情報部がどういう情報を掴んだのか、などということとはほとんど縁がないはずの役職だ。
だが、そこは軍の重鎮ヒサカタ家の当主という肩書きがものを言う。
本来得られないはずの情報をあっさりと手に入れてしまう辺り、政界においては失われつつある貴族の威光も、軍ではまだまだ現役ということなのだろう。
レオンハルトはそんなことを考えながら、続きを促した。
「動きと言いますと?」
「レウスカの兵站線だ。かなり限界に近いらしい」
「はあ、なるほど。まああれだけ占領地を拡大すればそうなるでしょうね」
戦略にそれほど詳しい訳ではないレオンハルトにも分かるほど、レウスカの兵站線が限界に近いことは分かっていた。
何せ、占領地は国土のおよそ三倍から四倍である。それだけの占領地を満足に統治できるはずもなく、結果としてレウスカ占領地はレジスタンスが跳梁跋扈する土地となったのだ。
レジスタンスが活発に活動する中で、前線に補給を行うのは並大抵の努力ではいかない。
このような広大な土地をカバーできるほどの能力を持たないレウスカの兵站組織では、早晩崩壊するのが目に見えていた。
「兵站が限界だから和平、という話もあるが、まあこれは望み薄だ。前回の和平交渉同様、占領地の返還で揉めるだろう」
環太平洋条約機構側は当然ながら無条件での全占領地返還を、レウスカは現状での講和を望んだのが前回の和平交渉であり、それは当然ながらまとまらずに決裂した。
兵站線の限界という事情があるとは言え、客観的に見て勝っているのはレウスカだ。こちらが要求する全占領地の返還など、呑むとは到底思えない。
ならばとレウスカが望む現状での講和を見てみても、これまた論外であった。
「となれば、レウスカの次の一手は……」
「ああ。我々にトドメを刺す、ということになるだろう」
講和が無理ならば、勝って相手に敗北を認めさせるしかない。レウスカがPATOに敗北を認めさせようとするならば、考えられる方法は一つだけだ。
すなわち――
「――オーヴィアス侵攻、ですか」
ローヴィス大陸東方の大国にして、東側諸国の盟主たるオーヴィアス連邦。
この大国を下すことが、レウスカ人民共和国の勝利条件となるのだ。
「ああ。だがまあ……」
そこまで言って、ヒサカタ准将は苦笑して言葉を濁す。後を引き取ったのはレオンハルトだった。
「まあ無理でしょうね。あの国を負かすビジョンが思い浮かびません」
世界最強を謳われるオーヴィアス国防軍は開戦以降、長きに渡って戦時態勢への改変を行っており、今まで前線に出てきた部隊はそのほんの一部に過ぎなかった。
そして開戦から半年以上が経過した今、オーヴィアス国防軍は完全な戦時態勢を整えており、来たるべき本土決戦に向けて準備は万端である。
そこに、補給線に不安を抱えるレウスカ人民軍がぶつかるなど、レオンハルトからすれば自殺行為にしか思えなかった。
「どのような勝ち方になるかは分からんが、まず間違いなくオーヴィアスが勝つだろう」
「私もそう思います」
レオンハルトはヒサカタ准将の言葉に同意しつつ、紅茶を口に運ぶ。やや冷めた紅茶に、レオンハルトが眉を顰めた。
「オーヴィアスへの派遣はあると思いますか?」
「あるだろうな。弩号は確かに延期になったが、それは陸軍を動かせないからだ。海軍と空軍なら動かせる」
すっかり冷めた緑茶の入った湯飲みを置き、ヒサカタ准将は言葉を続ける。
「戦後のことを考えれば、オーヴィアスに、PATOに恩を売っておく必要もある。我が国の発言力を維持するためにも、な」
「生々しい話ですね」
レオンハルトが顔を顰める。だが、ヒサカタ准将の言うことは正しかった。
国際社会において発言力を持とうとすれば、どれだけ国際社会に貢献したかが重要となる。そしてその分かりやすい指標が、「血を流す」ことであった。
レオンハルトからすれば反吐が出るほど不愉快になる話だったが、現実としてそうなっている以上、否定はできない。
彼が内心の不快を何とか抑えていると、ヒサカタ准将が不意に声を小さくしてこう言った。
「オーヴィアスへの派遣は十分に考えられる。派遣するとすれば、我が航空団が対象になるだろう」
「まあ、そうなるでしょうね」
肩をすくめるレオンハルト。一方、ヒサカタ准将は珍しく真顔になってこう続けた。
「気をつけろ、少佐。オーヴィアスは味方だが、仲間ではない」
「……どういうことです」
不意にレオンハルトは寒気を感じた。暖房は間違いなく効いているはずなのに、部屋の室温が下がった気がしたのだ。
「この戦争、明らかに不自然だ。我々は不自然に負け続けていた」
「それは……確かにそうです」
そしてそれはレオンハルトがスパイと疑われることになった要因の一つでもある。
「だが、よく考えてみろ。確かにPATOは負けていたが、オーヴィアスは負けていない。奴らが出した戦力は雀の涙で、その損害などたかが知れている。だが他の国はどうだ?」
それを聞き、レオンハルトは背筋を寒いものが通り抜ける感覚を味わった。
ラピスは占領され、ブリタニアも国土の半分を奪われて今なお戦っており、他の国々も占領されたり、必死の攻防戦を繰り広げたりしている。
その中で、唯一オーヴィアス連邦だけが被害を受けていなかった。
「レウスカの補給線は限界だ。後一押し、後一回負ければもう取り返しがつかないだろう。そんな時に出てきたのは、どこのどいつだ?」
「……」
それはオーヴィアスだった。なるほど確かに偶然かも知れない。たまたま、オーヴィアスの手番が回ってきた時に、レウスカが限界だったのだろう、と。
だが、それにしてはあまりにも上手く出来過ぎていた。
「准将は、オーヴィアスがこの戦争の黒幕とお考えですか?」
「そうは思わん。だが、この戦争を利用して漁夫の利を得ようとしているのではないか、とは思っている」
ヒサカタ准将の考えを、妄想だと片付けることがレオンハルトにはできなかった。
妄想で片付けるには、あまりにも話が真に迫っていたのである。
「国内であれば私が守ってやれる。だが、国外となればそうもいかん。お前の部下たちも含め、自分の身は自分で守ってもらわなければならんのだ」
そう言ったヒサカタ准将の表情は、見たこともない苦渋に満ちていた。
「その時が来たら注意しろ、レオンハルト。オーヴィアスでは敵地と思い行動するんだ。ただでさえお前は、スパイの容疑をかけられているんだからな」
その言葉を最後に、ヒサカタ准将が将校室を出て行く。
後に残されたのは、戦慄するレオンハルトと、陰謀の腐臭だけだった。




