第一話 開戦前夜
1991年5月28日
親愛なる同志へ
かの“金剛石”は打ち上げを待つばかりである一方、ラピスの警戒感はとても緩んでおります。
同志もご存じの通り、東は戦争は不可能だと考え、まともな動員を行っておりません。
ラピスに関しては、第3機械化師団が半数の戦力をようやく動かせるといった程度であり、他は三割に達しているかどうかでしょう。
サン・ミシェルのレーダー網には穴があります。同封した地図をご覧ください。
どうか同志に幸いのあらんことを。
エルンスト
『――以上のように、かくの如き軍事衛星は、我が国を初めとする「西側」への軍事的威嚇であり、平和共存への道を歩みつつある両陣営の関係を損なうものである! 平和を希求するレウスカ人民の代表たる者として、私、ミハウ・ラトキエヴィチは決して環太平洋条約機構の軍事的野心を見逃すことはできない!』
世界各国の代表団が集まる国連総会議場の中央、演壇に立つ肥え太った男の演説がヘッドセットを通して翻訳されると、議場の大半がその言葉に対して不快感を露わにする。オーヴィアス連邦のゼーリック国連常駐代表の隣に座った同僚も同様だった。
「何が軍事的野心、だ。第1軍が国境正面に展開したのは軍部の独断だ、とでも言う気か?」
「まあ、落ち着け。最後まで聞こうじゃないか」
ゼーリック常駐代表が窘めると、同僚はフンと不機嫌そうに鼻を鳴らして黙り込む。その間に、演説はクライマックスを迎えていた。
『――故に、PATOが“ダイヤモンド”打ち上げを中止し、我が国に対する軍事的野心なきところを明らかにしないならば、破局的事態に至るであろう!』
演説が終わると同時に、男が演壇を降り、そのまま議場から退場する。後に続いたのは、彼が指導者を務めるレウスカ人民共和国の代表団だ。
彼らの背中に投げかけられた拍手はまばらであり、「破局的事態」などという過激な文言に対しても冷笑を浮かべる者の方が多かった。
1991年6月1日、国連総会におけるレウスカ人民共和国国家評議会議長ミハウ・ラトキエヴィチの演説は、後に事実上の宣戦布告であったと記されることとなるが、この段階においては、むしろ追い詰められた独裁者の断末魔、と東側諸国の首脳には受け取られていた。
そして、その油断が取り返しのつかない事態を招くことを、彼らは未だ知らなかった。――知ったところで、どうしようもなかったことではあるが。
東西冷戦。人類史上、これほど大規模かつ長期間にわたって、二つの勢力が水面下で争った事例は皆無だろう。
「東側」と呼ばれるのは、ローヴィス大陸東部に栄え、民主主義の旗振り役と自認するオーヴィアス連邦共和国とその同盟国からなる資本主義諸国。対して、「西側」と呼ばれるのは、世界初の共産革命を成し遂げ、社会主義建設の祖国であると内外に喧伝するソヴィエト社会主義共和国統一連邦を始めとする社会主義諸国だ。
相反するイデオロギーを掲げ、第二次世界大戦が終わったその直後から熾烈な戦いを繰り広げた二大国であったが、1980年代後半から徐々に冷戦終結の兆しが見えてきた。
これは1985年に統一連邦共産党書記長に就任したゲオルギー・メニシチコフによる、行き詰まった社会主義体制の改革に起因する。
ペレストロイカと付随して進められた情報公開によって、西側諸国では民主主義革命の嵐が巻き起こった。ローヴィス大陸と地中海を挟んで隣接するセルシャ大陸では、1989年の間に七つの社会主義政権が崩壊し、民主化が達成されている。
もはや崩壊したも同然の統一連邦の勢力圏において、未だ社会主義政権を維持しているのは、ベルク民主共和国とレウスカ人民共和国の二カ国しかない。この内、前者はベルク連邦共和国との平和的な再統一を模索しており、実際に統一連邦の影響下にあったのは、レウスカ人民共和国だけであった。
レウスカ人民共和国は、ローヴィス大陸南西部に位置する国家で、地中海と太平洋を繋ぐグダニスク運河を領有している。そのため、統一連邦はここに大規模な軍を常駐させており、軍の監視が強い地域であった。
加えて、時のレウスカ人民共和国国家評議会議長、ミハウ・ラトキエヴィチは典型的な独裁者であり、反抗する者を粛清するなどして民主主義運動を抑え込んでいた。
だが、それも長く続けられるものではない。
国民の不満は大規模な民主化要求として噴出し、レウスカの首都ポモージェでは連日デモが行われ、警察隊が出動する騒ぎとなっていた。
そこでミハウ・ラトキエヴィチは国内の不満を国外へと向けさせる。矛先として選ばれたのは、軍事衛星ピースメーカーⅠ、通称“ダイヤモンド”だった。
“ダイヤモンド”は従来の偵察衛星としての機能だけでなく、全長およそ30メートルにも及ぶ巨大なレールガンを搭載した攻撃衛星としての機能を備えていた。これは、オーヴィアス連邦の前大統領であるジョージ・ジェファーソンが発表した「PATO統合宇宙軍計画」の目玉の一つとされたものであり、唯一実現したものでもある。
この“ダイヤモンド”が1991年の6月に打ち上げを控えており、ミハウ・ラトキエヴィチはこれを「西側諸国に対する軍事的野心の現れ」と主張して、国民の目を国外へと向けさせた。
そして、その結果として勃発したのが、戦後最大とも言われる被害をもたらした「宝石戦争」だったのである。
レウスカ人民共和国首都ポモージェは七百年以上の歴史を持つ古い都市だ。レウスカの偉大な君主ヴワディスワフ1世が宮廷を置いて以来、長くレウスカの中心として栄えた。
第二次世界大戦中、悪名高きナチス・ベルクによって一時は廃墟となった中心市街地は、戦後に樹立した社会主義政権によって広々とした政治空間に生まれ変わっている。
そんな中心市街地の一角に、重厚なヴィシンスキー様式の高層ビルが建っている。レウスカ国防省オフィスだ。
ミハウ・ラトキエヴィチ議長が国連総会で演説を行った翌日、この国防省オフィスの会議室に政府閣僚や軍高官が集まり、極秘の会議が開かれていた。
レウスカ人民軍参謀総長ヘンリク・ソビエスキー元帥も、その役職上、当然ながら会議に参加しており、またこの会議における主題の説明役ともなっていた。
「さて、全員揃ったな。元帥、始めてくれ」
国連総会で冷笑を買ったことなど微塵も気にした様子を見せないミハウ・ラトキエヴィチ議長が会議の開始を告げ、椅子にもたれ掛かる。肥満した彼がもたれ掛かったことで、丈夫なはずの椅子が軋んだ。
「はっ。それでは、まず参謀本部が策定した雪崩作戦の概要を説明致します」
ミハウ・ラトキエヴィチ議長に指名されたソビエスキー元帥が立ち上がると、円卓を囲む面々の前にホログラムディスプレイが浮かび上がった。ディスプレイには、レウスカ東部からローヴィス大陸西部までの地図が映っている。
「現在、グダニスク近郊には陸軍の第1軍と空軍の第1・第3戦術航空師団が展開していますが、これにシンボルスキー大佐率いる第7空中襲撃旅団が紛れています」
ディスプレイでは、拡大表示されたレウスカ東部の地形図に各部隊の詳細な配置が浮かび上がり、第7空中襲撃旅団の表示がハイライトされた。
「ラヴィーナ作戦は、第7空中襲撃旅団による山賊作戦の完了後、ラピス及びバーレンへの電撃侵攻、その後の西部戦線・東部戦線の構築を目的としています」
第1軍を示すシンボルが前進し、赤く塗られていた敵国領が占領地を示す水色に変わる。そして、新たなシンボルが占領地域に表示された。
「第1軍は現在再編中の第3軍と共にそのまま東部戦線でオーヴィアスを目指します。西部戦線には第2軍と第4軍を当て、第2軍はブリタニアを、第4軍はブランデンブルクの制圧を目標とします」
「作戦期間はどの程度を予定している?」
ソビエスキー元帥の説明が一段落ついたところで、ミハウ・ラトキエヴィチ議長によく似た恰幅の良い男が質問した。レウスカ首相と国防大臣を兼任するボレスワフ・ラトキエヴィチ首相だ。
彼はミハウ・ラトキエヴィチ議長の長男であり、レウスカの歴史上最も若い首相である。政府と軍を握っているため、事実上は父をも凌ぐ権力者であるが、今のところ父を追い落とすような動きは見せていない。
ボレスワフ・ラトキエヴィチ首相の質問に対して、ソビエスキー元帥は手元の資料を見ながら答えた。
「約一年です。ただ、統一連邦がどのような動きをするか分かりません。局地戦ならばともかく、今回は東側諸国征服を目的とするものですから――」
「――案ずることはない。政治は我々に任せて、軍人は東側の征服だけを考えておれば良いのだ」
皮肉るような言葉に、ソビエスキー元帥は思わず眉を顰めた。言葉の主は、グラボフスキー外務大臣。ミハウ・ラトキエヴィチ議長の夫人――バルバラ・ラトキエヴィチ。内務大臣を務めている――の兄であり、もっぱら縁故のみによって地位に就いたと嘲笑されている人物だ。
長年、軍でキャリアを積み重ね、反ラトキエヴィチ派でありながら排除できないほどの信望を集めるソビエスキー元帥に対抗意識を持っているという噂があったのだが、どうやら事実のようだ。
外交を含めた政治が軍の上にある、ということを主張し、自らが上位者である、と周囲に見せつけたいのだろう。
「元帥、外務大臣の言う通りだ。統一連邦を含めた諸外国の動きに関しては、我々に任せて欲しい」
ボレスワフ・ラトキエヴィチ首相が取りなすと、ソビエスキー元帥は表面上、不満を抑え込んだ。
ただ、元々ソビエスキー元帥は東側への侵攻作戦には反対だったのだ。政治家が何とかする、というのならば、戦争をしなくて良いようにして欲しい、と思っていた。
その後、質問が出なかったことでソビエスキー元帥の説明が終わる。次に立ち上がったのは、軍人ではなくスーツを着た男性だった。
「内務省公安部のミロスワフ・ラトキエヴィチです。現在、我々が進めている諜報作戦について説明致します」
姓から分かるように、彼もまたミハウ・ラトキエヴィチ議長の親族だ。次男なのだが、父や兄と違って細身であり、唯一、鷹のように鋭い眼差しだけが似ていた。
ミロスワフ・ラトキエヴィチ長官は内務省所属の秘密警察を取り仕切っており、母に代わる事実上の内務省トップとして、ラトキエヴィチ一族によるレウスカ統治において重要な役割を担っている。彼が指揮する秘密警察の苛烈さは国民から恐怖と怨嗟の的になっており、威圧感のある風貌も相まって、親しい付き合いをする人間はほとんどいなかった。
「十年ほど前から進めていたヒューミントの結果、PATOの内部情報は手に取るように分かっています。こちらをご覧ください」
という言葉と同時に、ディスプレイにPATOの内部資料が表示された。いずれも、最高機密に類するものであり、中には対レウスカ用の作戦計画もある。
「ABPは軍とこれらの情報を共有しております」
ミロスワフ・ラトキエヴィチ長官の言葉に、ソビエスキー元帥は同意の意を示した。
と、軍人の列に並ぶ一人の男性が手を挙げた。参謀本部の情報部長を務めるヘンデル中将である。軍情報部はABPとは対立関係にあり、何とかして落ち度を探そうとしているのだろう。
「情報のルートはどうなっている?」
「詳細に関しては伏せさせていただきますが、発覚する心配は少ないでしょう。仮に情報ルートが押さえられたとしても、PATOを撃破するに十分なだけの情報を収集済みです。ラヴィーナ作戦への影響は最小限と断言いたします」
きっぱりと言い切ったミロスワフ・ラトキエヴィチ長官に対して、それ以上の追求をすることができなくなったヘンデル中将が黙り込む。
「作戦部としても、現時点でPATOからの情報収集が途絶えたとしても、ラヴィーナ作戦への影響は無視できるレベルだと考えています」
ミロスワフ・ラトキエヴィチ長官を援護したのは作戦部長のクビツァ中将だ。作戦部長と情報部長は同格の中将が務めるということもあり、伝統的に対立している。クビツァ中将からすれば、敵の敵は味方、ということなのだろう。
思わぬ形で軍の派閥対立が噴出し、ソビエスキー元帥は顔を顰めた。軍部の仲間割れに、グラボフスキー外務大臣は厭みな笑いを見せている。
「ふむ。状況は我が国に有利、と考えて良いのかな?」
これまで黙っていたミハウ・ラトキエヴィチ議長が発言すると、全員がそちらを向いた。それぞれ周囲と顔を見合わせると、全員が頷く。代表する形で、ソビエスキー元帥が、
「閣下、ラヴィーナ作戦は閣下の命令を待つだけの状態となっております」
と言うと、ミハウ・ラトキエヴィチ議長が大きく頷いた。
「うむ。……ラヴィーナ作戦、発動だ! 作戦開始時期は、参謀本部に委任する」
「はっ」
ミハウ・ラトキエヴィチ議長の言葉と同時に、全員が立ち上がる。軍人たちはレウスカ独特の二つ指の敬礼をし、文民は胸に手を添える敬礼をしている。ミハウ・ラトキエヴィチ議長がそれに答礼することで、会議は終わりを告げた。
ミハウ・ラトキエヴィチ議長がラヴィーナ作戦の発動を決定したちょうどその頃。中央ローヴィス連邦首都バルドゥフォスにあるPATO本部ビルには、環太平洋理事会の理事たちが招集されていた。
PATO――正式名称、環太平洋条約機構は、オーヴィアスやブリタニアなどの資本主義諸国が、「西側」の軍事的脅威に共同して立ち向かうために設立された軍事同盟である。
主な加盟国はローヴィス諸国であるが、環太平洋、という名の通り、日本帝国やガリア王国のような太平洋に面する海洋国家、アトラントやシーニシア、フラヴィシアの太平洋岸諸国の一部も加盟する世界規模の同盟となっている。
第二次世界大戦の終結より始まった冷戦は、このPATOと統一連邦の水面下の戦いと言って良いだろう。
さて、そんなPATOの中央機関が環太平洋理事会である。理事会は加盟諸国の政府代表によって構成されており、議長を務めるのはPATO事務総長、議決は全会一致を絶対とする、というような特徴がある。
理事会は週一回に定例会議が開かれているのだが、今回の招集はスタウニング事務総長による臨時のものだ。
とは言え、レウスカが強硬姿勢を示しているという昨今の状況を思えば、議題は想像に難くない。
レウスカと国境を接し、緊張状態にあるラピス共和国のミュルヴィル常駐代表は、ミハウ・ラトキエヴィチ議長の国連総会演説を受けて、ようやく環太平洋理事会も重い腰を上げるのか、と内心でほっとしていた。
しかし、理事会開始早々のスタウニング事務総長の言葉は、そんなミュルヴィル代表の期待を裏切るものだった。
「さて、臨時に招集をかけて申し訳ない。昨日のラトキエヴィチ演説を受け、PATOとしても何らかの対応を見せなければならないと思い、招集させてもらった。まあ、彼に喧嘩を売る度胸があるとは思えないのだがね」
所々で笑いが起こっている。レウスカの動向に危機感を抱いているミュルヴィル代表としては看過しがたい光景だ。
早速、発言を求めると、スタウニング事務総長は、またか、という表情でミュルヴィル代表を指名した。
「ミュルヴィル代表、発言をどうぞ」
「はい。私の所感を述べさせていただきますと、レウスカの挑発を軽く見るべきではありません。我がラピスとの国境沿いにも多数の軍が展開しているのが確認されています」
熱弁を振るうミュルヴィル代表だったが、真剣に聞いている理事は少ない。レウスカが戦争を仕掛けることはあり得ない、というのが東側諸国の大方の見方であり、環太平洋理事会もまたそのような空気に包まれていたのだ。
「ミュルヴィル代表、あなたの国はレウスカと接しており、抱いている危機感もよく理解できます。だが、既存の戦力差を考えてみて欲しい。レウスカがPATOに戦争を仕掛けるのは自殺行為でしょう?」
半ば笑いながら反対意見を述べたのは、西部諸国と呼ばれる、ローヴィス大陸西部に位置する国家群の一つであるダルマティアのラクサ常駐代表だ。他の理事も、似たような表情をしている者が多い。
「しかし、油断するべきではありません。先の大戦が始まる前、我が国はベルクが攻めてくることなどあり得ない、と考え、国土を蹂躙されました。備えをしておくことは重要ではないですか?」
第二次世界大戦で、ラピスは油断と慢心からナチス・ベルクの侵攻を許し、国土を占領された、という苦い経験がある。そしてそれは、ローヴィス諸国共通の教訓であるはずだった。
しかし、終戦以来、冷戦という緊張状態にありながらも、ローヴィス大陸が戦火に見舞われることはなかった。オーヴィアスと統一連邦の首脳が、冷戦終結に向けて歩み寄りを始めていることもあり、戦争とはどこか遠い世界の話、と考えている者が多いのだ。
ミュルヴィル代表の必死の訴えにも関わらず、結局理事会は、ラトキエヴィチ演説に対する非難声明を近日中に出す、という消極的な対応を決定したのみで閉会した。
中には、日本やガリア王国の常駐代表のように、自国の情報機関が掴んだ不確定情報という形を取り、「レウスカ人民軍に大規模な動きがある」という報告をすることでミュルヴィル代表を援護する理事もいたのだが、大半の理事は、戦争はあり得ない、という希望的観測によってスタウニング事務総長の消極姿勢を支持したのだ。
6月1日に開かれたこの臨時理事会の二週間後、レウスカ人民軍参謀本部から第7空中襲撃旅団に対して、一通の緊急電文が送られる。
東側諸国の油断は、手痛い、というにはあまりにも大きすぎる代償となるのであった。
1991年6月15日午前11時
発 レウスカ人民軍参謀本部
宛 第7空中襲撃旅団長
雪面を崩せ1130。




