第一話 「故郷」へ
1992年1月28日
親愛なる同志へ
ライカンゲル、そしてヴィール島の陥落、お慶び申し上げます。これで日本へ侵攻する目処が立ちました。
日本に潜入する我が手の者は多くありませんが、上陸さえしてしまえばその防備は極めて脆弱です。
日本軍は海上戦力の撃滅を主目的とし、大陸に派遣した陸上兵力の引き上げは検討しておりません。そして、シチシガさえ投入すれば、日本海軍の撃退も不可能ではないでしょう。
日本占領の暁には、一度同志のお目にかかりたいと思っております。
どうか同志に幸いのあらんことを。
エルンスト
1992年の年明け早々、統一連邦軍の空挺部隊の奇襲攻撃によって始まった太平洋戦線はグランヴェリア島における地上戦が中心となったが、一方で国土の北に位置する島々が次々に攻略されていき、1月25日には北東端のヴィール島が陥落した。
これが何を意味するのか。
地図を見れば明白であり、環太平洋条約機構の楼州連合軍最高司令部は、これが日本侵攻を意図する動きであると結論づけた。
その結論を裏付けるかのように、2月初めにはライカンゲル要塞にレウスカ海軍太平洋艦隊が入港。さらにヴィール島へ一部の部隊が移動し、潜水艦隊も太平洋での活発な活動を始めている。
日本政府は本土決戦の危険性が高まったと判断し、国外に展開していた海軍・空軍の本土帰還を決定し、その結果としてブリタニアに派遣されていた第6航空団も、二ヶ月ぶりに日本の土を踏むこととなったのであった。
帝都。日本帝国の首都であり、政治・経済の中心である日本最大の都市だ。
千年以上の長きにわたって都が置かれており、それ故に地名はなく、ただ単に「帝都」とのみ呼ばれている。
碁盤の目状に区画整理されたいわゆる「条坊制」の旧市街には、至尊を戴く皇居を中心に、何百年という歴史を誇る古い街並みが広がっており、翻ってそれをぐるりと取り囲む新市街には、ニューリーズと並び称される高層ビル群がそびえ立つ。
新市街西部は大陸と列島との間に広がる皇海に面しており、その反対側の新市街東部には首相官邸や国会議事堂といった政治中枢機構が集中している。
そして、新市街南部のさらに南には広大な天ヶ原台が広がり、帝都を含めた畿内地方の防空を司る帝都空軍基地の敷地となっており、その中央を貫く滑走路に、一機のF-18Jが着陸しようとしていた。
『インペリアル・コントロールよりアイギス1。チェック・ギアダウン。クリアード・トゥ・ランド』
「了解。クリアード・トゥ・ランド、アイギス1」
ブリタニアから帰還命令を受けた第6航空団。
その隷下にある第231飛行隊の隊長であるレオンハルト・エルンスト少佐は、長いフライトを終え、ようやく懐かしのホームベースへと帰ってきたのだ。
ランディング・ギアを降ろして着陸態勢に入ったレオンハルトは、ゆっくりと機体を着陸させる。ゴンッという衝撃と共に、甲高い車輪の音が聞こえてきた。
『誘導路A5からエプロンへ移動せよ。ウェルカム・バック、アイギス1』
「誘導路A5へ向かう。オーバー」
誘導に従ってエプロンに機体を駐機してキャノピーを開くと、冬の突き刺すような冷たい空気がレオンハルトを包む。
この時期の帝都は雪が降ることもあり、そうなると除雪隊がフル稼働で滑走路の除雪作業に動員されることとなるのだが、今日は幸いにも晴天だ。
そんな晴天の中をレオンハルトが搭乗員待機室へ向かおうとすると、エプロンでパイロットたちの到着を待っていたらしいヒサカタ准将が、ナラサキ中佐と共にレオンハルトを出迎えた。
「やあ、お帰り。ブリタニアではご苦労だったな、少佐」
「いえ、任務ですので」
レオンハルトが敬礼しようとすると、ヒサカタ准将は「構わん。楽にしていい」と言って手を振る。
「それで、どうしたんです? わざわざパイロットの出迎えなど」
「ん? まあ、私から君たちを労うという面もあるのだが、伝えておきたいニュースがあってね。いい方と悪い方、どっちもあるんだが……どちらから聞きたい?」
ヒサカタ准将は内心を掴みかねる曖昧な笑みを浮かべている。レオンハルトが密かに苦手としている表情だ。
ヒサカタ准将とは、東ヴァイスブルクの日本領事館でスカウトされて以来の長い付き合いになるが、この表情をしている彼からはろくな話を聞いた記憶がない。
「いい方からでお願いします」
「よかろう。君たちのブリタニア戦線での功績を受けて、第6航空団のパイロット全員に空軍武功章が授与されることとなった。戦時につき、授与式は残念ながら行われないが、後で私が全員に渡すのでブリーフィングルームに集まるように」
空軍武功章は「武功抜群たる者」に授与される軍事勲章であり、空軍徽章をあしらったメダルに赤いリボンがついていることから、「レッド・イーグル」などと称される――空軍徽章のモチーフは鷲であるため――こともある。
ラピス戦線での功績を評価されてすでに一度授与されているレオンハルトにとっては、今回で二度目の空軍武功章となる訳だ。
それほど珍しい勲章という訳でもないため、二度目の受章となるレオンハルト当人はさほど感銘を受けた様子もない。
「了解しました。それで、悪い方のニュースは?」
「うむ。空軍武功章に付随して与えられる一ヶ月の休暇だが……まあ、分かっているとは思うが、そんな余裕もない。残念ながら、休暇はなしだ」
これも仕方のないことだろうとレオンハルトは半ば諦めの気持ちで頷く。
ラピス戦線の終結後に受章した際にも、「戦時である」ことを理由に休暇が短縮されているのだ。
本土決戦を間近に控える今の状況で、休暇を与える程の余裕はないだろう。
「まあ、とは言っても君たちは遠路はるばるブリタニアから帰国したばかりだ。三日間の休暇は与えられる。非常招集には応えてもらわねばならんから帝都は離れられんが、ゆっくり羽を伸ばしてくるといい」
そういうと、ヒサカタ准将はナラサキ中佐を連れて去って行った。
「何かあったんですか?」
カエデの声に振り向くと、いつの間にやらアイギス隊の面々が勢揃いしている。
「我々に空軍武功章が授与されるという話だ。後でブリーフィングルームに集合しろ」
「はい」
わいわいと騒ぎながら待機室へ向かう部下たちを見ながら、レオンハルトはため息を一つこぼし、ゆっくりとその後を追った。
「失礼します」
ドアのノックも忘れて飛び込んできた部下を、帝国公安局防諜部第7課のサトウ大佐は驚きの目で見た。
無礼を問うよりも、常にない興奮ぶりを見せる部下がどんな情報を持ってきたのかが気になったサトウ大佐は、手元に置いてあったペットボトルのお茶を勧めながら、部下に座るよう命じる。
「一体何があった?」
「こ、これをご覧ください」
そう言って彼が差し出したのは、一枚の写真だった。空港の監視カメラの映像をキャプチャしたのか解像度は今ひとつだが、写真の中央にいる人物の顔ははっきりと分かる。
そしてその顔は、日本の防諜を一手に担うIDPSの人間にとっては、自分の目を疑うほどの衝撃を与えるものだった。
「カール・シュペングラーだと!」
カール・シュペングラー。悪名高き西ベルクの国家保安省のインテリジェンス・オフィサーで、二十年以上にわたって東ベルクに潜伏していた大物スパイだ。
彼の名を有名にしたのは、何と言っても1972年から74年まで、当時の東ベルク首相であったヴァルター・ジックスの秘書を務め、東ベルクの最高機密を西ベルクへと送り続けたことだろう。
逮捕後、東西ベルクのスパイ交換で西側へと戻った彼が、何故今になって日本へやって来たのか。
彼の経歴から考えれば、あまり楽しくはない想像ができるところである。
「監視は?」
「すでにつけています。現在、桂のホテルに滞在しているようです」
新市街南部にある桂区は、帝都でも一、二を争う歓楽街のある街だ。IDPSや帝都憲兵隊ですら把握し切れていない裏社会が形成されており、スパイが紛れ込むにはもってこいの場所でもある。
「一線を退いているはずの男だ。変装もせずにやって来たことを考えれば何らかの任務ではないとは思うが……。いや、待て。陽動の可能性もあるな」
ぶつぶつと呟きながら、考え込むサトウ大佐。しばらくすると、頭を振ってこう言った。
「とにかく、シュペングラーから目を離すな。些細なことでも必ず報告するよう監視員に徹底させろ。奴に接触した人間も全てマークだ。特に、西ベルクの人間には警戒するように。俺は今から部長に報告してくる」
「かしこまりました」
部下が敬礼して部屋を出て行くと、サトウ大佐は手早く書類や写真をファイルにまとめ、防諜部部長の執務室へと向かった。
IDPSの帝都本部ビルは新市街でも数少ない戦前の建築であり、かつてはIDPSの前身に当たる特別高等警察の帝都本部が入っていたこともあって、いわくつきの部屋も多い。
政治犯の「尋問」を行っていたと噂される取調室の横を通り、突き当たりを曲がったところが防諜部部長の執務室だ。
ノックをすると中から「入れ」という声が聞こえる。扉を開けると、そこには頭の禿げ上がった強面の男性が、革張りの椅子にふんぞり返って葉巻を吹かしていた。
「失礼します」
「佐藤君か。何かあったのかね?」
IDPSの核の一つである防諜部を率いる猛者、ミヤベ少将は葉巻を消そうともせず、うろんな目つきでサトウ大佐を見やる。
この二人、実はあまり関係がよくないのだが、これはいささか複雑で歴史のある派閥対立が理由だった。
1868年、いわゆる光明維新によって日本に近代的な政府が成立した際、その中心となったのは長州や相馬、吉野などの雄藩出身者であり、この藩閥体制は徐々に衰退しつつも第一次世界大戦の敗戦まで続いた。
一方、維新によって倒された側の旧幕勢力、すなわち旧将軍家たる久河家や白州を根拠地とする久方家などは第一次世界大戦の敗戦後、かつて自らを打倒した維新勢力に取って代わり、再び日本を主導する立場へと返り咲いた。
第二次世界大戦が終わると、旧来のような閥族政治に一応の終止符が打たれたものの、未だ中央政界では維新勢力と旧幕勢力がしのぎを削っており、政界のみならず財界や軍部にもその争いは広がっている。
そんな争いの中で、IDPSは旧相馬藩――市ノ瀬家とその旧家臣団の牙城となっており、ミヤベ少将はその系譜に連なる主流派の人物であった。
対してサトウ大佐はと言うと、IDPSでも数の少ない白州閥の人間であり、局内ではどこか敬遠されがちなところがある。
部下を大切にすると評判のミヤベ少将も、対立する派閥に属するサトウ大佐の扱いには手を焼いており、職務上の付き合いのみで敢えて近づけようとはしていなかった。
そんなサトウ大佐が、わざわざ自分の執務室までやって来たとなると、大事に至る内容しか思い浮かばない訳である。
「これをご覧ください」
そういう理由で、サトウ大佐から書類を渡されても変わらなかったミヤベ少将の胡散臭そうな目つきだが、その書類を読み進めていく内に視線が細まっていき、やがて鷹を思わせるような鋭い眼光へと変化した。
「カール・シュペングラーか……。厄介な時期に、厄介な人間が来てくれたものだ。レウスカの侵攻に合わせて、国内で何らかの破壊工作に従事するつもりか?」
「顔を晒しているので、あるいは陽動かも知れません」
サトウ大佐の言葉に、ミヤベ少将の表情が曇る。
「可能性はある……と言うか、そちらの方があり得るな。となると、国内にはすでに破壊工作の準備を進める工作員が侵入しているということになる」
ミヤベ少将の脳裏には、破壊工作の懸念と同時に、みすみす敵の工作員を国内へ入れてしまったIDPSに非難が向けられる可能性が浮かんでいた。
「憲兵隊や各警察本部にも連絡を入れましょう。連携して対策を――」
「――いや、駄目だ。憲兵隊や警察本部に内通者がいる可能性もある。こちらが企みに気づいたと知れば、行動を早めるかも知れん。工作員を徹底的に洗い出すのが先決だ」
その発言が、ミヤベ少将の保身から来るものであることはサトウ大佐にも分かっていたが、それを指摘することはできなかった。
指摘したところで方針を変えるとも思えなかったし、第一、サトウ大佐が課長を務める第7課の担当は、港湾や空港における工作活動の監視・摘発だ。国内に潜伏する工作員の摘発は職掌の外であった。
「とにかくご苦労だった、佐藤君。以降の監視業務は第3課に引き継がせよう。引き続き、工作員が国内に侵入する危険性がある。入国監視を強化するように」
「はっ。了解しました」
ミヤベ少将が頷き、「下がっていい」と言うと、サトウ大佐は敬礼し、執務室を後にする。
その後ろ姿を見送ったミヤベ少将は、しばらく書類を眺めると、おもむろに受話器を取り、とある内線番号を押した。
「部長の宮部だ。市ノ瀬課長に、執務室へ来るよう伝えてくれ」
帝都旧市街の上京区、烏丸通と三条通が交差する烏丸三条には、旧白駒藩主である久方家の帝都別邸が鎮座している。
この帝都久方別邸の周辺には、久方家の分家筋や旧家臣団にあたる諸名士が屋敷を構えており、分家筋の一つである玖代家も同様に帝都別邸を構え、本家のそれほどではないものの、男爵家たるに相応しい風格を備えていた。
冬の夜の寒さの中、玖代別邸の日本庭園に面する縁側には、三日間の休暇をもらったカエデと精悍な風貌の男性が座っている。
カエデが空軍の常装冬服であるのに対して、男性の方は和装だ。だが、男性の風貌は苛烈で知られる憲兵将校よりも厳めしい。
この男性こそ、カエデの父にして帝国海軍第1艦隊司令長官を務めるユキタカ・クシロ中将である。
二人はカエデが淹れたお茶を飲みながら、庭園を静かに眺めている。不意にクシロ中将が口を開いた。
「ブリタニア戦線でのお前の活躍を聞いた。良くやったな。さすがは私の娘だ」
「もったいない言葉です。お父様」
二人の会話は少しぎこちない。元々、クシロ中将自身が寡黙だということもあるが、カエデが父の方針に反して空軍に入隊したことも理由の一つだ。
海軍に入れようとしていたクシロ中将に対して、「中将の娘」という色眼鏡で見られることを嫌ったカエデは、国防大学在籍時にパイロットコースへ進んだ。この一件以来、父娘の間には微妙なすれ違いが生じている。
とは言え、同じ空間に居づらいといったほどではなく、会話の切り口に困っている程度のものだ。
父親への反抗期が終わったものの未だに距離を掴みかねている娘と、そんな娘にどう接したものかと戸惑っている父という、さほど珍しくはない関係である。
ちなみに、カエデが海軍中将の娘であるということは、外国人パイロットの多い第6航空団ではほとんど知られていない。
無論、日本人構成員の中には薄々気づいている者もいるし、ヒサカタ准将に至っては縁戚であるために当然ながら知っているが、それでもカエデを「中将の娘」として扱う者はいなかった。
カエデがレオンハルトに懐いているのも、彼女が「中将の娘」であると知ってなお、態度を変えることがなかったのが一因である。
閑話休題、クシロ中将は少しの沈黙の後、再び口を開いた。
「楓、少し話がある。お前の所属している隊についてだ」
明快な物言いを好む父にしてはいささか歯切れの悪い言葉に、カエデは嫌な予感を覚えた。
何かよくないことがあったのだろうか。
カエデが黙ったまま言葉の続きを待っていると、クシロ中将は腕を組み、こう言った。
「お前の所属する部隊の現隊長――エルンスト少佐に、スパイ疑惑が持ち上がっている」
一瞬、目の前の父が何を言っているのか、カエデは理解することができなかった。
否、脳が理解することを拒んだ、と言うべきだろうか。
ようやくその言葉の羅列を意味のある文章として理解できたカエデは、普段の温厚な姿からは想像もできない程に狼狽し、激しく首を振った。
「そんな……そんなはずがありません! どうして少佐が!」
「落ち着きなさい、楓」
クシロ中将の声は静かであったが、不思議と静謐な縁側に響き渡り、困惑していたカエデの心を落ち着けた。
「まだ、疑惑の段階だ。確定した訳でもない」
「しかし、何故少佐がスパイ疑惑を? 一緒に戦っていて、全くそのような気配は感じなかったのですが」
それに、司令部勤務の参謀であるならばともかく、前線で戦うパイロットがスパイというのもしっくり来ない話だ。
その点を指摘するとクシロ中将もそれを認めつつ、しかしこう言った。
「IDPSが日本に入国した西ベルクの工作員を監視していたところ、その工作員とエルンスト少佐が会っていたそうだ。エルンスト少佐は現在、IDPSの監視下にある」
「そんな……」
IDPSに監視されるというのは、反体制派として睨まれているも同然だ。
「あるいはエルンスト少佐はただの取っかかりに過ぎないのかも知れぬ。捜査を主導しているのは、あの市ノ瀬の御曹司だ」
「市ノ瀬の……?」
ショックを受けていたカエデだが、クシロ中将の言葉にきな臭いものを感じ、目を細めた。
「うむ。エルンスト少佐は楓の隊長、それもパートナーだ。その少佐がスパイだったとなれば、お前の経歴にも傷がつくだろう」
そうなれば相州の者どもは笑いが止まらんだろうな、とクシロ中将が吐き捨てる。
「いずれにせよ、少佐の動向には注意せよ。何かあれば御前の下にいる式部に伝えよ。あれに任せておけば、大抵の問題は片が付く」
それだけ言うと、クシロ中将は謹厳な家長としての顔を引っ込め、娘とぎこちない会話を試みようとする不器用な父親の顔になる。
「難しい話はここまでにしようか。楓、ブリタニアでの話を聞かせてくれないか?」
「それは手紙に書きましたが……」
「お前の口から聞きたいのだ」
父が自分と会話したいと思っていることに気がついたカエデは、レオンハルトのスパイ疑惑について考えることを一旦止めて、ブリタニアでの出来事を思い返し始めた。
一方その頃、IDPSによってスパイではないかという疑いをかけられたレオンハルト本人は、桂区の歓楽街に姿を見せていた。
彼は黒のジャケットと濃紺のジーンズというラフな服装に身を包み、ティアドロップ型のナイトサングラスをかけている。
場所が場所だけに、さながら遊び人のような雰囲気を醸し出しており、道行く女性の中には彼に声をかける者もあった。
レオンハルトはその全てを笑顔で断りながら、スイスイと人波をかき分けて、目的地へと向かうように真っ直ぐ歩いていく。
やがて、大通りから少し入り込んだところにある小さなバーに入って行った。
「こちら、ラット2。タンゴ1が建物内に入りました」
『レッドブリックよりラット2。その場で待機。ラット7、ラット2と合流し、ターゲットを追え』
『了解。ラット7、ラット2と合流する』
レオンハルトの少し後ろ、人混みに紛れるような遊び人風の男が、脳内に直接聞こえてきた声に「了解」と応答する。
インプラントされた無発声型通信装置による通話だ。
インカムをつけず、また声を出すこともなく通信が可能になるため、オーヴィアスや日本のような技術先進国では一部のインテリジェンス・オフィサーへの配備が始まっている。
欠点と言えば、せいぜい10メートルほどの距離でしか通信できないため、それ以上離れたところとは中継機を介して通信しなければならない点くらいで、その欠点も国内であれば、無数の中継地点を設置できるためにそれほど問題にはならない。
そんなテレパスをインプラントするこの男こそ何を隠そう、IDPSがレオンハルトの動向を監視するために放った監視員であり、彼はラット7というコールサインを持つもう一人の男とコンビを組んで任務に当たっていた。
通信から一分もせずに、スーツに身を包んだ中年の男が姿を現す。街を歩いていても、おそらく誰の印象にも残らないだろう地味な風貌をしている。
その地味な男は遊び人風な男と一瞬だけアイコンタクトを交わすと、レオンハルトが入って行ったバーの扉を開けた。
『こちら、ラット7。店内に入った。ヴィクターの姿なし』
『了解。状況が動くまで、その場で監視を続けろ。ラット2、店の外を監視。相手は凄腕だ。監視が露見しないよう、細心の注意を払え』
「ラット2、了解」
コードネーム「ヴィクター」ことカール・シュペングラーは、二十年以上にわたって東ベルクの人間を欺き続けた大物スパイだ。
注意してもしすぎるということはないだろう、と考えたラット2は、バーが面する通りを一望できる建物の中へ入り、非常階段でタバコを吸う振りを始めた。
「こちら、ラット2。建物内から通りを監視する」
『了解。こちらでも確認した』
しばらくの間、レッドブリックからもラット7からも報告がなく、通りにも動きが見られない「待ち」の時間が続く。
あまりに長い待ち時間にラット2が退屈を覚え、あくびが出そうになったその瞬間、ラット7からの通信が入った。
『ラット7よりレッドブリック。タンゴ1が動いた。店に外へ出る模様』
『ラット2、通りにも動きはないのか?』
本部からの通信に慌てて通りを見回すが、シュペングラーらしき人影は見えない。
「こちら、ラット2。ヴィクターの姿は発見できず。指示を」
『……ラット2、タンゴ1の追跡を再開せよ。ラット7は追って指示を出す』
少しだけ沈黙があり、本部からの指示が出る。
ラット2は非常階段を降りると、店を出たレオンハルトの後ろについた。
レオンハルトは気づいた様子もなく、入ってきた方とは反対側の交差点へと向かう。
とりあえずホッと一息ついたラット2が何気なく目線を交差点の向こうへ目を向けると、そこには見覚えのある姿があった。
「ヴィ、ヴィクター……!」
驚きのあまり、一瞬だけ硬直してしまうラット2。
その時、シュペングラーとラット2の目が合い、シュペングラーがニヤリと笑った。
――気づかれた!
そう思った次の瞬間、シュペングラーとレオンハルトが同時に交差点を曲がった。もちろん、同じ方向にだ。
そして、慌ててラット2が角を曲がると、そこに二人の姿はなかったのである。
「ラット2よりレッドブリック。ヴィクターを発見しましたが、こちらに気づかれ、巻かれました」
『事実か?』
「はい。申し訳ありません」
ラット2が叱責も覚悟で正直に報告すると、本部はしばらく沈黙した後、ため息を一つこぼしてこう言った。
『了解した、ラット2。再捕捉のための非常線を張る。ラット7と合流し、次の指示を待て』
「了解」
本部からの叱責がなかったことを意外に思いつつも、「藪をつついて蛇を出す必要もないか」と思い、素直に従うラット2。
彼はその後、合流したラット7と共に非常線に加わったのだが、不可思議なことに、レオンハルトとシュペングラーの二人が見つかることはなかったのである。
そして、IDPSがレオンハルトのスパイ疑惑を解明しきれないままに、日本は戦後最大の国難へと突入していく。
ガリア最東端のヴィール島。
人口二千人ほどの小さなこの島は、今やレウスカ人民軍の日本侵攻作戦における前線基地として島の人口をはるかに超える兵士が駐留し、作戦開始の時を待っていた。
港の外には、港湾施設に入りきれなかった太平洋艦隊の主力艦が遊弋し、その上空を守るように艦載機が警戒飛行を行っている。
その艦載機の母艦たる空母「ヴィエルコレウスカ」の艦橋に、太平洋艦隊司令官にして日本侵攻作戦の総司令官であるクレツキー大将がいた。
「第3戦術航空師団は? 準備を終えたのか?」
「はい。すでに戦爆連合の編成を終え、作戦開始時刻を待つと報告が上がっています」
参謀の報告に頷くクレツキー大将。
「よろしい。では、予定通りに0500《マルゴマルマル》より作戦を開始――」
「――失礼します。総司令部からの通信が入っております」
申し訳なさそうに言葉を遮ったオペレータの方を向き、クレツキー大将が憮然とした表情をする。
「こちらに繋げ」
そう言うと、クレツキー大将たちの目の前にあるスクリーンに、海軍総司令官クルシェフスキー上級大将の姿が映った。
「いかがなさいましたでしょうか、同志クルシェフスキー閣下。『落陽』作戦は問題なく予定通りに開始できる見込みですが」
『同志クレツキー、その件についてなのだが、議長閣下から一つご提案があってね』
そう言ったクルシェフスキー上級大将の強張った表情に、クレツキー大将は嫌な予感を覚えた。
「ご提案、でありますか?」
『うむ。修理改装中だったシチシガが試験航海でグランヴェリアにいるだろう? それを「スウォンツァ」に動員してはどうかというお話をいただいたのだ』
その瞬間、後方の参謀たちが困惑する気配を、クレツキー大将は感じた。
ブリタニア侵攻作戦において、回廊要塞突破に大きな役割を果たした空中戦艦シチシガは確かに太平洋艦隊の所属である。
しかし、実質的には艦長のキェシェロフスキー大佐が議長――海軍総司令部ではなく――の直属部隊として独立した指揮権を行使しており、クレツキー大将ら艦隊司令部にとっては一種の「厄介者」だった。
ただでさえ、「義勇軍団」を名乗る統一連邦軍によって指揮権に混乱を来たしているというのに、この上、独立行動を起こして混乱を招くような部隊と行動を共にするのは、クレツキー大将にとっても参謀たちにとっても避けたいところだ。
「増援ということでしたら、断る理由もありませんが、今から動いても作戦開始に間に合わないのではありませんか?」
『そうなのだが……議長閣下はその、作戦開始時刻を遅らせればよいだろうと仰ってな』
クルシェフスキー上級大将はすっかり弱り切った表情だ。彼としても、ミハウ・ラトキエヴィチ議長の「思いつき」に手を焼いているのだろう。
「ですが、日本に潜入した工作員にはすでに予定通り決行との連絡を入れてあります。作戦を遅らせると、レーダー網が復旧する可能性が」
『分かっている。議長閣下もそれを分かった上で、そう言っているのだ』
その瞬間、クレツキー大将は全てを悟った。
議長からの「提案」は提案などではなく実質的な「命令」であり、クルシェフスキー上級大将はそれを断りきれなかったのだ。
「……シチシガはいつ到着しますか?」
『明後日、15日にはそちらへ到着するはずだ』
「かしこまりました。スウォンツァ作戦の開始を2月16日の0500に修正いたします」
クレツキー大将がそう言うと、クルシェフスキー上級大将は「すまん」と一言だけ言って、通信を切った。
残されたクレツキー大将は扉へと向かいながら、オペレータにこう命じた。
「……全部隊に、作戦開始時刻を2月16日の0500に修正すると伝達しろ」
そして、司令部の扉は荒々しく閉じられた。




