第十一話 月の間作戦(後編)
正午に始まったムーンチェンバー作戦は、レウスカ人民軍が謎の沈黙を続けるという予想だにしない幸運にも恵まれて、想定以上のペースで進んでいた。
特に、バークロー空港から輸送機で兵員を脱出できるようになったのは大きく、本来であれば遺棄していく予定だった装甲車なども、一部がブロムフォードへと後送されている。
作戦開始から四時間が経過した午後4時の段階で、キングストンから脱出したのはおよそ一万六千人。
残るは四千人であり、その内の二千人はすでに輸送機への搭乗を開始している。
最後までキングストンに残存しているのは一個連隊規模の二千人あまりであり、彼らはキングストンの港で、自分たちを乗せてくれる船を今や遅しと待っていたのである。
彼らさえ乗船してしまえば、ハーマン中将率いる特別集成旅団はその装備を破壊した上で、レウスカ軍に投降することができる。
しかし、事はそう上手くは運ばないものだ。
バークロー空港で二千人の将兵を乗せた輸送機の一便目が離陸を開始したちょうどその時、カトゥコフ少将率いる統一連邦陸軍第634自動車化狙撃兵師団が遂にキングストンへの攻撃を開始。
それに合わせて、第634師団の上空を守るために制空権奪取の任務を与えられた第71戦闘機連隊――通称「ソーンツェ隊」が、占領直後のイートン空軍基地を飛び立ち、キングストン上空へと侵入した。
そして、彼らに指示を下す管制官のレーダーには、バークロー空港から飛び立とうとする輸送機の群れが捉えられていたのである。
『こちら、グラーフ。各機、聞こえるか? これより作戦空域に入る。気を引き締めていけ』
通信越しのカザンツェフ中佐の声を聞きながら、ソーニャは操縦桿を握る自分の手が汗ばんでいることに気がついた。
初陣でもないのに、柄にもなく緊張しているようだと心の中で自嘲する。
ソーニャの所属するソーンツェ隊は、つい先日まで東部戦線で中央ローヴィス連邦東部の攻略作戦に参加していたのだが、そちらにある程度の目処が立ったこと、そしてブリタニア戦線に派遣されていた戦闘機連隊が損耗のために後方へ下げられたために、急遽ブリタニアへ回されることとなった。
彼らがブリタニアに到着したのは一昨日であり、息つく間もなく戦場へ投入されたことを不満に思う者も中にはいる。
だがソーニャとしては、そんなことよりも気になっていることがあった。
『報告によれば、ここでは例の「魔女部隊」の姿も確認されている。気を引き締めろ、というのは冗談じゃないぞ』
そう。ラピス戦線でソーニャの部下を二人墜とした、あの「魔女部隊」がブリタニアに姿を見せているというのだ。
開戦から半年が経って、「魔女部隊」に関する情報は少しではあるがソーニャの耳にも入っている。
日本空軍に所属するアグレッサー部隊であり、外国人を中心とする強者揃いのパイロット集団。
ソーンツェ隊の間で「魔女部隊」と呼んでいるのは、第231飛行隊という部隊であり、魔女と恐れられたあのマークは、神話に出てくる都市の守護を司る女神の意匠らしい。
そして、中でもソーンツェ隊では「悪魔」と、レウスカ空軍の間では「鬼神」や「魔女」などと呼んで恐れられるあの凄腕は、おそらくラピス戦線のトップエースであるレオンハルト・エルンストなる人物だろう。
彼の名、そして彼が西ベルクからの亡命者であることを聞いて、ソーニャは五年前のある出来事を思い出していた。
1986年、すでに崩れかけていた西側同盟を維持するために、軍事的な威圧を見せつけようと統一連邦軍が実施した大演習。
この演習には衛星国からも部隊が参加しており、ソーニャは西ベルク空軍第14飛行隊との模擬戦闘を行った。
判定は、ソーニャが当時所属していた部隊の勝利であったが、彼女は性能に劣る西ベルク空軍のパイロットに撃墜寸前のところまで追い詰められており、勝利自体も演習統裁官による恣意的な判定に過ぎなかった。
真っ赤に塗られたSt-27の巧みな空中機動は、今でも目に焼き付いている。
そして、西ベルク出身のレオンハルト・エルンスト。
十中八九、彼があの時のパイロットだろうとソーニャは考えており、それならば自分は彼に勝つことができないのではないかと恐れていた。
性能に劣る機体ですら、彼は敗北寸前まで自分を追い詰めた。
そして今、彼は東側の優れた技術の集大成であるF-18に乗って、目の前に立ちはだかっているのだ。
自分が勝てないだけならまだ良い。技量が足りなかったのだと諦めもつく。
だが、今の彼女には僚機がいて、守らなければならない部下がいる。
そのプレッシャーが知らず知らずの内にソーニャを追い詰め、彼女に極度の緊張をもたらしていた。
『――リヤ、おいリーリヤ!』
「っ! な、何?」
いつの間にか思考に没入していた彼女は、どうやらカザンツェフ中佐に呼ばれていたらしい。
呼ばれていることに気づかないほど考え込んでいたのかと、ソーニャは背筋を冷たいものが走るのを感じた。戦場において、あまりに無防備すぎる行いだ。
『しっかりしてくれ、リーリヤ。もうここは敵地なんだぞ』
「ごめんなさい。少し考えごとをしていたの」
ソーニャがそう言うと、カザンツェフ中佐がため息をつくのが聞こえた。
もしや、呆れられたのだろうか。そんな不安がソーニャの胸をよぎる。
『考えていることは何となく分かる。リラックスしろ、リーリヤ。君は一人で戦っている訳じゃないんだぞ』
『その通りだ、リーリヤ。俺のバックアップじゃ不安か?』
通信を聞いていたらしいヴァローナ――僚機のヴィクトルが通信に入ってくる。
「そんなことないわ、ヴァローナ」
『ならどっしり構えていれば良い。君の背中は俺に任せておけ』
彼の言う通り、一人で戦う訳ではない。守らなければいけない部下は、同時に頼りになる部下だ。
「そうね……。ごめ――ううん、頼りにしてるわ、ヴァローナ」
『ああ』
『お喋りは終わったか? こちら、ヴァルトールナ。貴隊の管制を担当する』
感情の読めない無機質な声の男が通信に入ってくる。早期警戒管制機に乗った要撃管制官だ。
『グラーフよりヴァルトールナ。敵の情報が欲しい』
『現在、敵空軍による地上攻撃は確認されていない。おそらく、ありったけの爆弾を投下して撤退したものと思われる』
ハヴァント上空を飛んでいるはずのBe-40早期警戒管制機にはデータリンク用の装置が積まれているはずなのだが、ヴァルトールナを名乗る管制官はそれをせず、言葉で説明する。
これは統一連邦軍の予算不足から来る整備不足のために、データリンクが使えない状態になっているからだ。
むしろ、「格納庫の女王」とまで呼ばれたBe-40が飛んでいるだけマシとも言える。
そんな懐事情の寒い空軍を嘆くでもなく、ヴァルトールナは感情を見せずに説明を続ける。
『第634師団からのオーダーは敵の航空部隊を排除すること。それと、バークロー空港から撤退を試みている敵地上部隊及び輸送部隊の撃滅だ』
『逃げる部隊を叩くのか?』
カザンツェフ中佐の声には、わずかではあるが嫌悪感が滲み出ている。戦場から逃げようとする敵に追い討ちをかけるのが、彼の美学に反するのだろう。
『そうだ。彼らはキングストンを脱出し、あくまでも抗戦を続けるつもりのようだ。ここで叩き、敵の数を減らしておかなければ、後々こちらの将兵が苦労することになる』
『……了解した』
ヴァルトールナの言葉は正しい。敵はただ逃げるだけではなく、後々の戦いを見据えて撤退するのだ。
ここで逃がした敵は、いずれこちらへ牙をむくだろう。そう考えれば、情けをかける必要はどこにもない。
だが、それはあくまでも戦争を仕掛けたレウスカの理論だ。
援軍として来たソーニャたち統一連邦の軍人が考えることではないし、する必要もないことである。
釈然としないものを感じつつも、しかし命令は命令だ。カザンツェフ中佐が命令に従う以上、ソーニャもこれに異議を唱えることはしない。
『ソーンツェ・カマーンド各機。方位320へ』
『了解。方位320へ向かう』
先頭のカザンツェフ中佐が旋回するのに合わせ、ソーンツェ隊の十二機が次々に指示された方位へと機首を向ける。
『おい、下を見ろ。すごいことになってるぜ』
ヴィクトルが興奮気味に通信を入れてきたので、何事かと言われた通りに下を見ると、凄まじい砲煙と炎が大地を覆っていた。
『あれはブリタニアの戦車隊か? こっちはレウスカだな。酷い有様だな……』
同じ光景を見たらしいトロヤノフスキー大尉が呟いたように、地上の戦況は惨憺たる様相を呈していた。
『第2軍が妙な命令を出すからさ。「総司令部は駄目と言っているが攻撃せよ」なんて言われて、前線が混乱しない訳がない』
ヴィクトルが皮肉ったように、第2軍司令部は攻撃再開を命じているものの、同時にこれがレヴァンドフスキー大将の独断であり、総司令部の攻撃中止命令が依然として有効であることも伝達している。
このため、前線部隊では第2軍司令部の命令に従う者と総司令部の命令を遵守する者とが分かれて混乱し、反撃どころか指揮統制すらままならない状況になっていたのだ。
これがブワシク中将による画策などとは露知らず、ソーンツェの面々は口々に司令部の対応を愚痴っている。
『レウスカのことはレウスカが何とかする。諸君らは自分の任務に集中したまえ』
「でも、友軍が危ないのよ? 目の前で戦ってる友軍くらい――」
『――ニェット。もう一度言うが、君たちは自分の任務に集中すればそれで良い』
不機嫌そうな管制官の声に、ソーニャは思わず押し黙ってしまう。彼の管制で戦うのは初めてだが、どうにも気難しい性格の人物らしい。
仕方なく、地上の苦境を横目に空港を目指すソーニャたち。やがて、St-37のレーダーが敵機の姿を捉えた。
『こちら、グラーフ。敵影確認』
『ヴァルトールナよりグラーフ。こちらでも確認した。高度18000。方位120に向かって飛行中』
『こっちに来てるな……』
この空域を飛ぶ友軍機は、彼ら以外にいない。脱出する輸送機であれば、反対方向に向かうはず。
すなわち、レーダーが捉えたのは地上部隊を攻撃しに来た敵攻撃機部隊か、あるいは制空権確保のために哨戒飛行をしている敵戦闘機部隊だろう。
敵戦闘機部隊であるとすれば、当然ながら「魔女部隊」の可能性もある。
『こちら、ヴァルトールナ。第634師団の一部が有力な敵部隊との交戦状態に入った。前方の敵影が攻撃機であれ、戦闘機であれ、地上部隊が捕捉されれば厄介なことになる。確実に殲滅せよ。ソーンツェ・カマーンドの交戦を許可する』
『こちら、グラーフ。敵航空部隊の殲滅に入る。交戦許可、了解』
カザンツェフ中佐はそう言うと、高度を上げて23000フィートの高さまで上昇した。ソーニャたちもこれに続く。
『距離30000。ミサイル射程圏内』
『撃て!』
カザンツェフ中佐が命じると同時、ソーニャはトリガーを押し込み、St-37の抱えた中距離ミサイルが母機から切り離されてマッハ4での飛翔を始める。
『くそっ、もう気づきやがった! 敵の応射が来るぞ、気をつけろ!』
前方を飛んでいた敵編隊が散開したのがレーダー上で確認できる。
ソーニャたちが放ったミサイルは発射母体――すなわちSt-37のレーダー誘導を受けて目標へ向かっていくタイプであるため、命中を期すためには敵機を前方に捉え続けなければならない。
しかし、それは同時に敵からの応射に対応しづらくなることを意味するものであり、あまりこだわり過ぎるとミサイルが命中する前に、こちらが撃墜されかねないのだ。
『ECM確認。どこかに強力なジャマーが存在するぞ。レーダーに干渉あり』
『探している暇はない。ソーンツェ・カマーンド、敵編隊の排除を急げ』
ミサイルはすでに敵の電子妨害を受け、あらぬ方向へと飛び去っている。中距離でのミサイル戦闘は難しいだろう。
と、なれば、残るは近距離での格闘戦である。
『ソーンツェ各機、格闘戦に入るぞ。「魔女部隊」の可能性がある。666のサイドナンバーをつけたF-18を見たら警戒しろ』
カザンツェフ中佐がそう言った次の瞬間、ソーニャのコックピットに警報が鳴り響いた。
「レーダー照射確認! 回避、回避!」
ソーニャが叫び、フレアとチャフを撒き散らしながらソーンツェ隊が四方八方へブレイクする。
その直後、ミサイルが彼らの中央を突っ切っていき、爆発した。
『敵機急速接近! 立て直せ!』
ソーニャたちが慌てて回避している間に、敵編隊は猛スピードでこちらへ迫っていた。高度のアドバンテージも、いつの間にか失われている。
『奴だ、奴がいたぞ!』
誰かが叫んだ直後、ソーニャの視界を一機のF-18が横切っていく。一瞬の間のことだったが、ソーニャの目は確かに「666」のサイドナンバーを捉えていた。
「悪魔……!」
ソーニャの前に幾度も現れ、二人の部下を撃墜し、ソーニャ自身をも苦しめた仇敵。
その姿を目にしたソーニャは、無意識のうちにラダーペダルを踏み込み、スロットルレバーを全開にして彼を追っていた。
『リーリヤ、無茶するな!』
ヴィクトルの制止も無視して、ソーニャはF-18の後方につく。相手もソーニャが後ろについたことに気づいたらしく、F-18とSt-37は互いに旋回を繰り返し、交差し合うシザーズ機動に突入した。
二機はトップスピードに近い速度で旋回を繰り返しており、この速度域での旋回性能ではF-18に軍配が上がる。
いずれソーニャが敵機の旋回について行けず、前に押し出されるのは目に見えているのだ。
「……ここっ!」
そのため、ソーニャは勝負を焦り、敵機が機軸に入ると確信したその瞬間にトリガーを押した。
St-37の機関砲が放った30ミリ弾はしかし、F-18が見せた神がかり的な回避によって空振ることとなる。
「な――!」
『リーリヤ!』
目の前からF-18の姿が消えたと思った瞬間、ヴィクトルの叫び声が聞こえ、そして激しい衝撃がソーニャを襲った。
『アイギス1、ブレイク、ブレイク!』
「分かっている、慌てるな……」
右に左に旋回を続けるコックピットの中、レオンハルトは襲いかかるGに耐えながら、その機会を待っていた。
攻撃機のエスコートを終え、特別集成旅団が戦う郊外へ戻ろうとしたアイギス隊は、一部の敵地上部隊が攻撃を開始したことと、前線の偵察部隊がキングストンへ向かう戦闘機部隊を確認したことをスカイベースからの通信によって知った。
狙いは空港から地上部隊を運び出そうとしている輸送部隊だろうというスカイベースの分析に従って空港へと急行していたアイギス隊は、果たしてその道中で突然のミサイル攻撃を受け、統一連邦空軍が誇るSt-37の編隊との空中戦に突入したのであった。
『不意を突いたのに、反応が良い!』
『手練れだな、アイギス10、俺から離れるな』
『は、はい!』
撤退支援のために港へ入っていたブリタニア海軍のフリゲートによる電子支援を受けて反撃に出たアイギス隊であったが、敵部隊が態勢を崩したのは一瞬のことであり、すぐにアイギス隊と互角の戦いぶりを見せていた。
その中の一機は、レオンハルトが敵編隊の中央へと割って入った一瞬の隙を突いて、その後方を取っている。
『アイギス1、離脱を急げ』
「大丈夫だ」
傍目からではレオンハルトには危機が迫っているように見えるのだが、レオンハルト自身はそれほど焦っていない。
むしろ、彼を追っている敵機の方に奇妙な焦りがあるのを感じていた。
「急いては事をし損じる。君の国には良い格言があるな、アイギス2」
『何を暢気なことを言ってるんですか!』
レオンハルトの呟きに反応するカエデの声には心配の色がありありと浮かんでいる。
だが、心配されている側のレオンハルトはそれを気にする様子もなく、虎視眈々と敵機が見せる隙をうかがっていた。
そして、機体がトップスピードに乗ったその瞬間、敵の機関砲が発砲する予兆を見せた。
「そこだ!」
瞬間的にスピードブレーキを展開させて急減速し、機体を斜め下方向へとスリップさせる。
機銃弾が機体のすぐ上方を掠めていくのを横目に見ながら、レオンハルトは再び機体を加速させながら旋回し、攻撃が空振ったSt-37を真正面に捉えた。
「――ちっ!」
レティクルの中央に敵機を捉えた瞬間にF-18Jの機関砲が火を噴いたが、同時にこちらへ突っ込んでくる別のSt-37の姿が見えた。
反射的に回避行動を取ったため、敵機を捉えていたはずの30ミリ弾はわずかに逸れ、機体の側面部――ちょうど百合の意匠が描かれていた部分を掠めるに留まった。
『な、何が起きたんだ……?』
「回避して、回避された。それだけだよ」
一瞬の内に目まぐるしい攻防を見せたレオンハルトの姿をたまたま見ていたジグムントが、信じられないという様子で通信を入れてきた。
それに事実のみを軽く答えたレオンハルトは、逃した敵機が僚機と合流し、距離を取るのを眺める。
『アイギス1、あの敵機は』
「ああ、間違いない。ラピスで戦った、あいつらだろう」
妙な隙を見せていたが、それでもレオンハルトの攻撃を躱している。実に手強い敵だ。
『こちら、アイギス6。敵編隊、距離を取っている』
『反転して向かってくるぞ、気をつけろ』
しかし、そんなアイギス隊の予想とは裏腹に、敵はそのまま来た道を戻って空域を離脱していった。
「どういうことだ?」
『あの百合が隊長機だったのでしょうか』
『隊長機がやられたからって撤退するか?』
『理由は不明だが、とにかく撃退した。それで良いだろう。追う程の余裕もない』
色々と疑問は尽きないが、スカイベースの言う通りだろう。
『間もなくムーンチェンバー作戦は終了する。後のことは我が空軍に任せてくれ。アイギス隊の奮戦に感謝する』
『最後がちと大変だっただけで、おおむね楽だったな。下の奴らの方が大変だったろ』
「まあ、そうだろうな。……ま、とりあえず任務完了だ。帰投するぞ」
レオンハルトが旋回して機首をブロムフォードへと向けると、カエデ以下の隊員たちがそれに続く。
午後5時29分、アイギス隊はSt-37の部隊を撃退した後、キングストンの作戦空域を離脱し、ムーンチェンバー作戦における全ての任務を完了した。
そして、その三十分後。最後の部隊を乗せた客船がキングストンの港を離れ、キングス湾へと出港。先にバークロー空港からの撤退を完了していた部隊と合わせ、二万人の及ぶ将兵の撤退がこれで完了した。
これにてムーンチェンバー作戦は成功、ということになるのだが、さらにこの後、ハーマン中将率いる特別集成旅団を中心とする最終局面が展開される。
キングストンの奇跡の、その本番が幕を開けたのである。
「閣下、第7軽騎兵連隊、第15ロイヤル・ハッサーズ連隊、第3ノーサンブリア・ガーズ連隊、集結を完了しました」
「よろしい。方針の伝達は?」
「すでに」
キングストン北部のプリムローズ・ガーデン。王立植物園の近くに広がる野原に、三百両近くの戦車と自走砲が群れを成し、彼らの指揮を執るハーマン中将の指示を待っていた。
すでに十分前、ハーマン中将はムーンチェンバー作戦の完了を知らされており、囮作戦の終了とプリムローズ・ガーデンへの集結を麾下の部隊に告げ、司令部を引き払っている。
作戦に従うならば後は降伏するだけだったのだが、ここへ来て参謀長のウィンタートン少将がとある提案をしたのだ。
曰く「我々もキングストンから撤退してみるのはどうでしょうか」と。
囮を引き受けて三方に散っていた特別集成旅団だが、反撃らしい反撃を一切受けず、終盤になって一部の部隊が動き出したという報告があっただけだった。
キングストンを包囲していたレウスカ人民軍はそれまでの快進撃が嘘のような沈黙を続け、こちらの攻撃をなすがままに受け続けていたのである。
このため、特別集成旅団は目立った損害を受けておらず、三個連隊規模の戦車が無傷のまま手元に残っていたのだ。
この状態でレウスカに降伏してしまうのは、確かにもったいない。
そこで、ハーマン中将は特別集成旅団の脱出を決定。プリムローズ・ガーデンに集まった部隊にその方針を伝え、今まさに撤退を開始しようとしていたところだった。
だが、希望が見えてくると、同時に悪いこともやって来るものだ。
「閣下、偵察に出していた部隊から、敵が動き出したとの報告が入りました」
「このタイミングで、か……」
何とも間の悪いことだが、出した方針を撤回するつもりもない。ハーマン中将はあくまでも、撤退決行を指示した。
「特別集成旅団麾下の全車両に告ぐ。これより、我が旅団はブロムフォードへ向けて撤退を開始する。敵がようやく動き始めたようだが、諸君らであれば必ずこれを打破し、撤退を完遂できるものと信じている」
そしてその言葉を合図に、特別集成旅団の撤退作戦が始まった。
『11時方向、敵部隊発見!』
『2時方向、さらに敵戦車部隊を確認しました! 連隊規模と思われる!』
撤退を始めて五分と経たずに、早速敵と遭遇する特別集成旅団。どうやら、偵察部隊の報告は正しいようだ。
「閣下、空軍からの報告ですが、敵部隊が市街地に侵入を開始した、と」
『3時の方向、敵部隊がこちらへ向かってきています!』
参謀たちの表情は蒼白だ。先ほどまでの有利な戦況が嘘のように、敵は包囲網を狭めつつある。
「近づいてくる敵にだけ対処しろ。市街地のことは考えなくて良い。我々が目指すのは、北だ」
不安そうな表情をする参謀たちを励ますように、ハーマン中将は言葉を続ける。
「断じて諦めてはならない。市街地に侵入した敵がいる、ということは、敵は全力で我々に当たっている訳ではない。必ず、どこかに綻びがある」
そう言うと、ハーマン中将は敵味方の配置が分かる限りに表示された戦術ディスプレイを睨む。
参謀たちも半ば諦観しつつ戦術ディスプレイを見ていたが、一人の参謀が何かに気づいたように声を上げた。
「これは……」
「どうした?」
「あ、いえ。我々の進行方向に位置する敵は、西に移動する一団と南西に移動する一団に分かれています。おそらく、我々の脱出を阻止しようとする部隊と、市街地に侵入する部隊でしょう」
ハーマン中将は何かに気づいたようだったが、黙ってその参謀の話を聴き続ける。
「ここを見てください。二つの部隊の分かれ目ですが、ここが手薄になっています」
1時の方向、確かにレウスカ人民軍の配置が薄くなっている地点があった。
「推測ですが、ここは穴となっているのではないでしょうか? ここを中心に、二つの部隊は反対方向へ動いています」
「……そこだ。そこを突破するぞ」
全員がハーマン中将を見る。戦術ディスプレイの前で説明していた参謀は、慌てた様子でハーマン中将を止めようとする。
「か、閣下。あくまで私の考えに過ぎません。敵の罠という可能性も――」
「――今さら、罠を仕掛ける必要もあるまい。平押しで十分だ」
ハーマン中将はそう言うと、1時方向への転進を命じた。
参謀たちは慌てて麾下部隊へ通信を入れ始める。ハーマン中将、一世一代の賭けが始まったのである。
十分後、自走砲部隊が残弾を撃ち尽くす勢いでの砲撃を始めた。こちらへ向かっていた敵戦車部隊の足が鈍る。
同時に、戦車の群れが進路を変え、戦域情報システム上に設定された突破地点を目指して速度を上げ始めた。
「敵の動きはどうだ?」
「停滞しています!」
「速度を上げろ! 今のうちに距離を稼ぐぞ」
ハーマン中将はそう言うと、指揮車の上部ハッチを開けて顔を出した。
砲撃を終えた自走砲部隊は指揮車のすぐ後方を疾走している。そして指揮車前方には三百両に及ぶ、特別集成旅団の全戦力たる戦車部隊が射撃しつつ前進していた。
『10時方向、目標敵戦車。撃て!』
『ブラックドラゴン4-1より5-1。残弾、ありません!』
『前方、窪地あり。全車警戒せよ!』
ヘッドセット越しに麾下部隊の通信が聞こえる。各部隊は混乱しつつも果敢に戦闘を繰り広げていた。
「コマンダーより各車。射撃準備。友軍の奮戦に負けるな」
『イエス、サー!』
指揮車の周囲を走るキャヴァリアー戦車が、砲塔を敵へと向ける。
「目標を設定。目標、0時方向の敵野戦陣地」
進行方向に見え始めたのは敵の野戦陣地だった。敵部隊のいずれかが司令部を置いているのだろうか。
「撃て!」
ハーマン中将の命令と共にキャヴァリアー戦車の戦車砲が火を噴いた。放物線を描いた砲弾は敵の野戦陣地に見事突き刺さり、大爆発を起こす。
『目標への着弾を確認!』
「大きいな。弾薬庫でもあったか?」
観測員の報告を聞きながらつぶやく。その時、緊急通信を告げるアラームが鳴った。
「何事だ!」
『敵攻撃機の接近を確認!2時方向!』
双眼鏡で2時方向を見ると、確かに攻撃機の機影が見える。対空戦力を持たない集成部隊としては危機敵状況だった。
「空軍の支援機はどうした!」
『こちらに向かっていますが、間に合いません!』
絶望的な状況だ。撤退には致命的だが、戦車搭乗員への緊急降車を命じようとしたその時、別の通信が割り込んできた。
『――えますか? こちらはHMSウールストン』
「海軍……?」
『ハーマン中将ですか? こちらはHMSウールストン艦長のモンタギューです』
突如として割り込んできた通信の主は、脱出作戦支援のためにトーヴィー大将が派遣した駆逐艦の艦長だった。
『今から、そちらへ接近している攻撃機に対してミサイル攻撃を行います。誘導への協力を』
「構わないのか? 我々の脱出は作戦に予定されていない独断行動なのだが」
『セシル=フィッツモーリス大将閣下たってのお願いですから。集成部隊が動き始めた、と聞いてすぐに支援を要請してこられたんです』
思わぬ朗報だ。慌てて指揮車や偵察車からのレーザー誘導を開始する。
『ミサイル発射。着弾まで40秒』
発射から少しして、キングス湾の方から数十発のミサイルが猛スピードで飛来する。
攻撃機部隊は慌ててフレアを射出しながら回避しようとするが、地上からのレーザー誘導によって、ミサイルは惑わされることなく攻撃機へ直進した。
ミサイルが次々に攻撃機へと命中し、空中に爆炎が咲き乱れる。
『着弾確認。そちらではどうです?』
「こちらでも確認した。貴艦の支援に感謝」
『北でお会いするのを楽しみにしていますよ』
通信が切れる。攻撃機を撃退し、もはや彼らを阻むものはない。
「空の脅威は消えた。怯むことなく前進を続けよ!」
ハーマン中将は全部隊に命令を下すと、再び指揮車から顔を出して戦場を見つめ始めた。
その後、レウスカ人民軍の攻撃は不自然に沈黙。これに乗じて、特別集成旅団は設定された突破地点から次々に包囲網を脱出することに成功した。
ハーマン中将は、脱出に成功した後もしばらくは信じられない様子で警戒を続けていたのだが、脱出から三日経った12月26日に北部の主要都市バルモラルに到着。
ここで、ブロムフォードから撤退してきたセシル=フィッツモーリス大将率いる二万名の将兵と再会した。
こうして後世に「キングストンの奇跡」として語り継がれることとなるムーンチェンバー作戦は、ハーマン特別集成旅団のキングストン脱出を以て、呆気ない幕切れを見せたのである。




