第十話 月の間作戦(中編)
『親愛なる国民諸君。私はブリタニア連合王国国王エドワード8世である――』
エドワード8世のラジオ演説が始まると同時、キングストン市街を包囲するレウスカ人民軍に向けて、第一撃が放たれた。
これと時を同じくして、キングストンの港からはケンプシャー連隊を乗せた客船マジェスティックが脱出作戦の先陣を切って出港している。
ハーマン中将率いる特別集成旅団は三個戦車連隊を基幹として、それに撤退を拒否した少数の歩兵部隊を組み込んでいる。
北・東・南の三方へ展開した集成旅団は、不意打ちに成功したためか作戦開始から十分ほど経っても、未だ反撃を受けていない。
とは言え、彼らだけでは荷が重いのも事実で、それをカバーするために動員されたのが、王国空軍の残存する攻撃機部隊であり、その護衛として動員された第6航空団であった。
「アイギス1より各機。聞こえるか? これより我々はムーンチェンバー作戦に参加する。日本とブリタニアの友好のためだ。存分に役立つとしよう」
キングストンの空の玄関口であるバークロー空港を飛び立ったアイギス隊の面々は、レオンハルトの言葉に苦笑を漏らしていた。
別に、レオンハルトが笑われているという訳でもない。
彼の言葉は、ムーンチェンバー作戦への協力を申し入れた司令部に対して、強い不満を抱いていたパイロットたちに向かってヒサカタ准将が放った言葉を揶揄しているものだからだ。
それにしても、「君たちパイロットの多くは亡命者、すなわち我が国が特別の庇護を与えている者だ。君たちには我が国に貢献する義務がある。日本とブリタニアの友好のため、存分に役立ってくれたまえ」という言葉はどうだろう。
事実とは言え、あまりにもあからさま過ぎる話だ。実際にそれを聞いたパイロットたちも毒気を抜かれたように反論する気力を失い、作戦に参加している。
『キングスコントロールより上空に展開する全ての空軍機へ。全作戦機の出撃を確認した。これを以て我々の業務を終える。以降の戦闘指揮に関しては早期警戒管制機の要撃管制官に任せる。諸君の武運を祈る。オーバー』
最後の戦闘機が離陸したのだろう。バークロー空港に急遽移動していた空軍の管制官が上空に展開する部隊に向けて最後の通信を入れる。
包囲された首都に残って防空戦闘を指揮するのは誰がどう考えても無理な話であり、管制官の撤退に文句を言う者はいない。
さらに、ブリタニア空軍はその代わりとして保有するAWACSの内、作戦への参加が可能な四機全てをこの戦闘に投入している。
そして、レオンハルトたちを担当する管制官は、何の縁があるのだろうか、これまで何度もアイギス隊の管制を担当してきた男性だった。
『スカイベースよりアイギス1。こんな事態になってしまったが、君たちには期待しているよ』
「あまり期待され過ぎても困るのだがね。まあ、我が国と貴国との友好のためだ。ひと踏ん張りするさ」
戦術コンピュータがデータリンクし、現在の戦況がディスプレイに表示される。
地上部隊の先制攻撃が効いているのか、今のところはレウスカ人民軍からの反撃はないようだ。
『レーダーと地上偵察の両方から敵の動向を把握しているが、先の空中戦艦の例もある。君たちも周囲の確認を怠らないようにしてくれ』
「了解」
通信を切り、キングストン東部の警戒飛行へと戻る。
しばらくは気の休まらない状況が続くだろう。レオンハルトはそう思っていた。
だが、しばらく飛んでいても敵がやって来る様子がない。ブリタニア空軍の攻撃機が近接航空支援を開始しても尚、レウスカ人民軍からの反応はなかったのである。
『ブラウニー1よりアイギス1。これより攻撃を開始する。援護は任せたぞ』
「任せておけ」
攻撃機がレーザー誘導による中高度からの爆撃を開始する。
周囲を警戒する役割のレオンハルトはレーダーだけでなく、自分の目でも周囲を確認するが、敵戦闘機の姿はどこにもない。
『投下、投下』
『良いぞ、命中確認! 上空の支援機、もっと敵に爆弾を落としてやってくれ!』
『あっちの対空砲を潰せ! 攻撃機を援護するんだ!』
航空支援は至って順調だ。偵察では対空砲や対空ミサイルの存在も確認されていたはずなのだが、地上からの反撃は一切ない。
レウスカ軍はそれまでの戦いぶりが嘘のように、されるがままに爆撃を受けていた。
『スカイベースよりアイギス1。方位100より敵編隊が接近中。高度10000、機数は十二。おそらく戦闘機部隊だ』
「ようやくお出ましか。アイギス各機、戦闘準備!」
地上部隊が散々爆撃され、もはや部隊としての体を為さなくなり始めた頃、ようやくレウスカ空軍の部隊がやって来た。
『妙に動きが鈍いですね』
「ああ。まあ、それについて考えるのは後でも良いだろう」
カエデの言う通り、レウスカの動きはとても鈍い。まるで手足を縛られた囚人のようだ。
「ふっ、後でも良いと言っておきながら自分が考えていては、世話はないな」
ともすればレウスカ軍の奇妙な動き――動いていないのだが――に向きがちな頭を戦闘モードに切り換えるレオンハルト。
敵機に異常はない。いつも通りのBol-31が相手だ。
「各機、周囲を警戒しろ。このような状況下でファントムに襲撃されることが多い」
『了解』
St-37はこのブリタニアにも姿を現しており、レオンハルトもすでに交戦済だ。
ラピスの時に戦ったあのパイロットではなかったようだが、いないと決まった訳ではない。
こちらが勝っていると出てくるような敵なので、警戒しない訳にはいかなかった。
『アイギス1、可能ならドッグファイトで撃退してくれ。燃料の補給は海上に空中給油機を飛ばしているからいくらでもできるが、兵装の補給は難しい』
「無茶を言ってくれるな、スカイベース」
『すまない。可能ならばで構わない』
スカイベースの言葉を聞いて、レオンハルトは笑った。
「良いだろう。数も同数、相手はフォックス。アイギス各機、管制官殿はドッグファイトでの撃退をお望みだ。期待に応えようじゃないか」
『良いじゃねぇか。燃えてくるぜ!』
真っ先に乗ったのは、やはりと言うべきかジグムントだった。彼に釣られて、他のパイロットたちも続々とレオンハルトの言葉に乗っかる。
『良いんですか、アイギス1?』
「ああ。可能な限りミサイルを取っておきたいのも事実だ。何があるか分からんからな」
レウスカの奇妙に鈍い動きは不気味だ。彼らが妙な動きを見せた後は、必ずと言って良いほどこちら側に不利な状況が形成される。
この鈍さも何かの罠なのではないか――
レオンハルトがそう思うのも無理な話ではなかった。
『敵機なおも接近中。距離20000』
「おっと、話してる場合じゃないな。アイギス各機、高度を上げろ。上から叩き潰す」
『了解』
そう言って、レオンハルトは20000フィートまで高度を上げ始める。カエデたちがそれに続いた。
『距離15000』
「敵がこちらに気づいた様子は?」
『今のところはないな』
この距離で気づいていないなら、奇襲で一気に沈めるのも可能だろう。
そう考えている間にも、敵との距離が縮まっていく。
10000、5000、2500……。そして、AWACSが「距離2000」と告げた次の瞬間、レオンハルトは攻撃開始の宣言と同時に、滑り落ちるような機動で敵機へと肉薄した。
「アイギス1、フォックス3!」
トリガーを押し、機軸上に捉えた敵機に20ミリ弾を叩き込む。
抱えていたミサイルに命中したのか、機銃弾の直撃を受けたBol-31は誘爆を起こしてその場で爆散した。
味方が突然爆発したことに動揺する間もなく、Bol-31の編隊は次々にF-18Jに搭載された20ミリ機関砲の餌食となり、火達磨になっていく。
アイギス11が仕留め損ねた一機だけが生き残ったが、それも誤差のようなものだ。
たちまち後ろに占位したレオンハルトがブレイクしようとする敵機の両翼を撃ち抜き、哀れなBol-31はくるくるときりもみ回転して、最後は地上に叩きつけられて爆発した。
『素晴らしい仕事だ、アイギス1』
「ああ、ありがとう」
スカイベースの賛辞に礼を言いながらも、どこか釈然としないものを感じるレオンハルト。
今までのレウスカは圧倒的な物量で押し切るか、そうでなくとも狡猾な罠を仕掛けてきたのだが、今回の敵はどうだ?
無警戒に突っ込んできて、あっさりとやられてしまう。それでいて、それを囮にする敵がいた訳でもない。そっくり中身が入れ替わったかのような無策ぶりだ。
『こちら、ブラウニー1。全弾投下完了。アイギスの支援に感謝する』
『スカイベースよりブラウニー1。よくやってくれた。帰投せよ』
「海上まで護衛する」
ともかく、今は任務に集中だ。こちら側の攻撃機の護衛を終えた後も、敵の攻撃機に備えて空中哨戒を続けなければならない。
「アイギス1、当空域を離脱する」
そう言うと、レオンハルトはラダーペダルを踏み込み、機首を港の方へと向けた。
レオンハルトが攻撃機の護衛任務を完了した頃、キングストンの港には撤退するブリタニア陸軍の将兵が溢れかえっていた。
エドワード8世やベケット首相などの政府高官、セシル=フィッツモーリス大将を始めとする軍高官、そしてオーヴィアス連邦のバーンスタイン国防長官補佐官など市内に残っていた外交官らは、王室ヨットのブリティッシュ・エンパイア号に乗船しており、すでに出港している。
この他、およそ五千名に及ぶ将兵が手配された船舶で、ブロムフォードへの途上にあった。
だが、依然として一万五千名ほどの将兵がキングストンの港に残っている。
ブリティッシュ・エンパイア号の一室では、セシル=フィッツモーリス大将が参謀たちと撤退計画の見直しを進めていた。
「予想より船が足りません。往復しようにもおそらく時間が足りないでしょう。三回目の往復便は確実に捕まります」
「だが、他に手はない。囮部隊の奮闘に期待したいところだが……」
「今のところ、レウスカ人民軍が攻撃を開始したという情報は入っていません。向こうも混乱しているのでしょうか?」
急遽持ち込んだ司令部用のディスプレイには戦域情報システムの情報が表示されている。敵を示す赤色の分布は徐々に後退している様子だ。
「いずれにせよ、囮に期待するのもどうでしょうか。今すぐに破られてもおかしくないほどの寡兵ですよ」
「一万五千の兵を見捨てるしかないのか……?」
「撤退作戦自体も急いで立案したものですから、不備があったとしか言えません」
次第に責任逃れのための自己弁護へと議論の方向が変わり始める。
表情にこそ出してはいなかったが、セシル=フィッツモーリス大将が部下の醜態に嫌悪感を示し始めた時、電話のベルが鳴った。参謀の一人が電話を取る。
「はい。――え? あ、はい。分かりました」
参謀は、ブリッジからです、と小声で言いながら、電話をセシル=フィッツモーリス大将に渡した。
「セシル=フィッツモーリスだ」
『船長のグリーニングです。海軍本部から通信が入っていますのでブリッジまでお越しください』
「分かった。すぐにそちらへ向かう」
電話を切ると、セシル=フィッツモーリス大将は参謀たちに待機を命じてブリッジへと向かう。
ブリッジに入ると、グリーニング船長が笑顔で迎え、通信用のヘッドセットを渡された。
「トーヴィー大将から通信が入っています」
「艦隊司令長官から?」
艦隊司令長官とは、数多い海軍軍人の中でも実戦部隊のトップに立つ役職であり、その上には制服組トップである第一海軍卿しかいない。
形式上ではあるが、海軍が先任軍とされているブリタニア王国軍にあっては事実上の王国軍ナンバー2と言っても過言ではない存在だ。
現在の艦隊司令長官はサー・アルフレッド・トーヴィー海軍大将であるが、彼はとても気難しい人物として身内の海軍軍人からも恐れられていた。
そんな人物から通信が入っているというグリーニング船長の言葉に「何事だろうか」と身構えつつ、セシル=フィッツモーリス大将は通信に応答した。
「陸軍大将、セシル=フィッツモーリスです」
『艦隊司令長官のトーヴィーだ。先ほど海軍卿経由でムーンチェンバー作戦の詳細を聞いた。こちらからも援護を回す』
「ですが、海軍は地中海での対潜作戦で手一杯なのでは?」
セシル=フィッツモーリス大将がそう聞くと、トーヴィー大将は不機嫌そうに鼻で笑った。
『海軍を舐めてもらっては困るな。友軍が危機に瀕しているのを見過ごすような海軍ではない』
「いえ、そういうわけではなかったのですが」
『ともかく、だ。フリゲート三隻とトライアンフを派遣する。輸送機も空港へ回すから、将兵の輸送に使ってほしい』
トライアンフはヘリコプター搭載型の揚陸艦で、「エール海の悲劇」の際は本国に残っていたために難を逃れている。
無理をすれば、千名近くの将兵を収容可能だろうというのがトーヴィー大将の意見だった。
「陸軍の失態に対する海軍の尽力に感謝いたします」
『……海軍とてエール海で醜態を晒している。名誉を取り戻すためにも、何としても勝たねばならん』
トーヴィー大将はそう言うと通信を切った。通信の内容が聞こえていたグリーニング船長が苦笑いしている。
「トーヴィー大将としても、首都陥落という事態に責任を感じておられるのでしょう。責任感の強いお方ですから」
「責任で言えば、陸軍の方が重いだろう。我々の最重要任務は国土を守ることだったにも関わらず、首都を失ってしまったのだからな」
セシル=フィッツモーリス大将が肩を落とす。
これまで、どんな苦境に立っても表情に出さなかったが、周りにいるのが海軍の職員だけという今の状況がセシル=フィッツモーリス大将の心を緩めたようだ。
すでに撤退が完了した後、地上部隊司令官の地位を返上し、責任を取って退役するつもりであった彼としては、勝利に向けて執念を燃やしているトーヴィー大将が眩しく見えたのだ。
「船長、この後もよろしく頼む」
「お任せください。必ずや、皆様をブロムフォードまでお連れいたします」
グリーニング船長が胸を張ってそう言うと、セシル=フィッツモーリス大将は彼に礼を言ってヘッドセットを返し、参謀たちが待っている客室へと戻って行った。
そして客室に戻り、参謀たちに先ほどのトーヴィー大将との会話を伝えると、参謀たちは喜色も露わに撤退作戦の見直しを進め始めた。
「海軍から船が出せるとなれば、少しは撤退速度も上がりますね」
「だが、それでも一度に運べる人数が千人増えるだけだ。時間の不足という問題の根本的な解決にはならんぞ」
「飛行機を使ったらどうでしょうか?」
参謀の一人がそう言うと、全員の注目が彼に集まった。
「飛行機を?」
「はい。バークロー空港は幸い、今も敵の手に落ちていません。航空支援に当たっている空軍からの情報でも、敵空軍の動きは非常に鈍いとの報告が上がっています」
「輸送機を動員できれば撤退速度は飛躍的に上がるな」
参謀たちの言う通り、空港が陥落していないならば、そこから撤退させた方が時間も短縮できるだろう。
撤退作戦立案時には、空港は真っ先に攻略されるだろうからと考慮していなかった撤退方法だが、敵の動きが鈍い今ならば可能だ。
「空軍に打診してみよう」
セシル=フィッツモーリス大将がそう言うと、参謀たちが頷いた。
その後、セシル=フィッツモーリス大将からの打診を受けた空軍打撃軍団司令官のアヴァロン中将はこれを快諾。
国内に駐留する全ての輸送機が撤退作戦に投入されることとなり、一万五千の将兵が救出できる見込みが立った。
残る問題は「レウスカ人民軍がいつ攻撃を再開するのか」という一点に絞られたと言える。
ムーンチェンバー作戦に従事する全ての将兵が持っていた「何故、レウスカは攻撃を仕掛けてこないのか」という疑問。
その答えは、彼らの予想だにしないところにあったのである。
「総司令部からの返答はまだ来ないのか!」
野太い怒号が響き渡り、部屋にいた軍人たちが首をすくめる。若いオペレータは怯えた様子で怒鳴り散らす老人を見ていたが、他の大多数は白けきった顔でその様子を見ていた。
「返答は来ております、閣下。攻撃再開は許可できない、と」
「そういうことではない! ブワシク中将、君は私を馬鹿にしておるのか? 私が聞きたいのは、いつになったら攻撃再開の命令が出るのかということだ!」
老人――レヴァンドフスキー大将の怒りを真正面から受ける形となったブワシク中将は、表向き神妙な表情をしながらも、内心では怒ることでしか威厳を示せないレヴァンドフスキー大将を軽蔑していた。
「目の前で敵が逃げている! 囮と思わしき部隊は我々に攻撃を仕掛けている! これで、何故攻撃再開が許可されない! 総司令部は勝つつもりがないのか!」
レヴァンドフスキー大将が言っていることは全て正しいにも関わらず、こうも同意する声が上がらないのは、やはり彼の人望のなさ故なのだろうか。
キングストンを包囲する第2軍は、撤退作戦を始めたブリタニア軍に対して圧倒的優位に立てる戦力を有している。
攻撃を再開すれば、二時間程度でブリタニア軍は戦力を喪失し、降伏を余儀なくされただろうという分析が、後に環太平洋条約機構によって為されている程だ。
にも関わらず攻撃を再開しなかったのは、軍事とは関係のない極めて政治的な横やりによるものであった。
当時、レウスカ人民軍には三つの大きな派閥があり、それぞれ「ラトキエヴィチ派」「ソビエスキー派」「旧ベルリンク派」と呼ばれていた。
ソビエスキー派はソビエスキー元帥を中心とする派閥で、開戦に反対するなどラトキエヴィチ政権に対して批判的な軍人が多く、ラトキエヴィチ派はその逆に政権に迎合する軍人が多かった。
三つ目の旧ベルリンク派はラトキエヴィチ政権に対して批判的なところはソビエスキー派と足並みを揃えているものの、戦争には積極的でラトキエヴィチ派と共に開戦を主導するなど、どちらの派閥とも一定の距離を置いている。
レヴァンドフスキー大将が属するのは旧ベルリンク派であり、かつての主導者だったベルリンク上級大将が失脚した今ではその主導的な立場に立っている。
レヴァンドフスキー大将が仮にキングストンを攻略したとすれば、当然ながらその功績を評価して上級大将へ昇進させなければならない。
上級大将ともなれば西部戦線を統括する立場に就くこととなるだろうが、そうなると戦線を統括する二人の上級大将がどちらも非ラトキエヴィチ派ということになる。
内務省――そしてその事実上のトップであるミロスワフ・ラトキエヴィチへの対抗上、軍の掌握を絶対的に必要とするボレスワフ・ラトキエヴィチ首相にとっては、このような状況は望ましくない。
このような複雑な政治事情が絡んだ結果が、第2軍の攻撃中止命令となって現れているのだ。
後世、一般には攻撃中止はミハウ・ラトキエヴィチの気まぐれとされているが、実際の所はこのような背景があって、極めて政治的に出された命令だったのである。
そうとは知らないレヴァンドフスキー大将は、「クラトフスキーの陰謀だ」などと騒ぎ立てて怒りをばらまいていたが、そんな司令部へさらに事態をややこしくすることとなる人物がやって来た。
「レヴァンドフスキー大将、一体どうなっているのです? PATOの連中がこちらを攻撃しているのに、前線部隊は何もしておらんではありませんか」
レヴァンドフスキー大将やブワシク中将、そして周囲の参謀たちとは違う軍服に身を包んだ小太りの男。
統一連邦から「義勇軍団」という形で派遣されてきた事実上の援軍、第634自動車化狙撃兵師団を率いるカトゥコフ少将だった。
まるでレヴァンドフスキー大将を少し小さくしたような容姿のカトゥコフ少将は、その中身までレヴァンドフスキー大将の縮小再生産であり、司令部の面々からは厄介者扱いされている存在だ。
当のレヴァンドフスキー大将もたびたび指揮権に介入するカトゥコフ少将を蛇蝎の如く嫌っていたが、口さがない参謀は「同族嫌悪だろう」と言っており、ブワシク中将もそれに同意していた。
「カトゥコフ少将か……。攻撃中止命令は継続中だ。前線部隊が動かないのは当然のことだろう」
先ほどまであれだけ怒っていた癖に、嫌っているカトゥコフ少将の前ではさも当然のように言い放つレヴァンドフスキー大将。
司令部の面々もさすがに呆れたように見ていたが、話題の中心となる二人はそれに気づいていない。
「攻撃中止命令が継続中と言っても、黙ってやられろと言われた訳ではないのでしょう? 反撃するべきです。そもそもその中止命令自体がおかしい話ではないですか。こちらは戦力で圧倒しているのだから、とっとと踏み潰してしまえば良い」
「……少将、攻撃中止命令は高度な政治判断によるものだ。たかが一軍人如きが云々して良い問題ではない」
攻撃中止命令への怒りとカトゥコフ少将への嫌悪を天秤にかけた上で、嫌悪の方へ傾いたのか、レヴァンドフスキー大将はそれまでの怒りが嘘のように攻撃中止命令を擁護する。
もっとも、その表情は苦渋に満ちてはいたが。
そんなことに気がつかないカトゥコフ少将は、あくまで持論を曲げずに反撃を主張する。
「政治的判断? そのようなもので、前線で戦う将兵の命が左右されることがあって良いのですか? 危機にさらされているのは、我々なのですぞ!」
お前は前線に出ていないだろう、と冷ややかな目でカトゥコフ少将を見据えるブワシク中将。
普段の傲慢なカトゥコフ少将の様子からは、その言葉はあまりにも空々しく聞こえた。
「総司令部の決定だ。勝手に動く訳にはいかん」
苦虫を噛み潰したような表情でレヴァンドフスキー大将がそう言うと、カトゥコフ少将は嫌味な笑みを浮かべた。
「総司令部の決定ですか。回廊でそれを無視して動いた方とは思えぬお言葉ですな。それともあの独断専行で懲りたのですかな?」
「貴様……私を愚弄するつもりか」
怒りを目に湛えたレヴァンドフスキー大将に、カトゥコフ少将は「とんでもない」と言って微笑んでみせる。実に嫌らしい笑みだ。
「ま、そんなことはどうでも良いのです。あなた方はレウスカ軍人ですから総司令部の決定に従わなくてはなりませんが、私は統一連邦の軍人だ。指揮権も独立している。我が師団は反撃に動かせていただきますよ」
「何だと!」
なるほど、とブワシク中将は少しだけ感心する。
ブリタニアは攻撃を仕掛けてきてはいるが、それはあくまで撤退を援護するための陽動に過ぎない。
市街に突入して空港と港さえ押さえてしまえば、こちらが攻撃中止命令を受けているなど知るはずもないブリタニア軍は降伏するしかなくなるだろう。
そうなれば、キングストン陥落の功績はカトゥコフ少将に帰すこととなる。本国に戻れば昇進は確実、一気に出世の道が開けるに違いない。
政治的な嗅覚だけは鋭いことと言い、やはりレヴァンドフスキー大将に似ている。
惜しむらくは、軍事的な視野に欠けることだろうか。
「少将、我が軍は動けません。すなわち、航空支援もないのです。敵空軍の制空権下で満足に動けるとは思えませんが」
仲間割れは大いに結構だが、それでブリタニア軍の撤退が上手く行かなくなっても困る。
ブワシク中将は制空権が敵の手にあることを説いて何とかカトゥコフ少将を思いとどまらせようとしたが、彼はそれに対しても嫌味な笑みでこう答えた。
「ご心配なく、参謀長殿。我らがサプチャーク中将閣下より、St-37の一個連隊をお借りしています。彼らがいれば、軟弱なブリタニア空軍など鎧袖一触です」
St-37は確かに強力な戦闘機だ。敵のレーダーに捕捉されにくく、空戦能力も高い。
鎧袖一触かどうかはともかく、制空権の奪取に自信を持つのも理解できる。
厄介なことになったな、と思うブワシク中将だったが、これ以上の説得はできない。
ブリタニア軍が奮闘してくれることを祈りつつ、彼はカトゥコフ少将の単独出撃を見逃すことにした。
「では、私から言うことはありません。第634師団に対する指揮権がこちらにないのも事実。どうぞお好きに行動なさい」
「ええ。そうさせていただきますよ。それでは」
堪えきれないとばかりに高笑いしながら、カトゥコフ少将が司令部を出て行く。
扉が閉まった直後、今度はレヴァンドフスキー大将が怒気を発した。
「おのれカトゥコフ! 私を散々に愚弄しおって! お前たちも何故言い返さない!」
八つ当たりのように怒りをぶつけられた参謀が何も言わずに顔を伏せる。萎縮からではなく、不満を露わにした表情を見られないようにするためだ。
「――撃だ」
「は? 閣下、今何と?」
「反撃だと言っている! カトゥコフだけに功を上げさせてなるものか! 全軍に命じろ! ただちに反撃を開始し、キングストンを火の海にするのだ!」
狂ったように喚き散らすレヴァンドフスキー大将。
ブワシク中将が取りなそうとするが、彼は聞く耳も持たず、足音も荒々しく部屋を出て行った。
「参謀長、いかがいたしましょうか」
困ったようにブワシク中将を見るのは、ガボフスキー大佐だ。
「……総司令部の命令に違反する訳にもいかんだろう」
「ですが、レヴァンドフスキー大将が反撃を命令したのです。責任は大将閣下にあるのではないですか?」
いい加減、愛想を尽かしたのだろう。ガボフスキー大佐がそう言うと、周囲の参謀たちも同意するように頷いている。
レヴァンドフスキーめ、余計なことをしてくれる――
内心で罵りながらも、周囲の様子から説得は困難だと見たブワシク中将は、命令にわざと曖昧なニュアンスを加えることにした。
すなわち――
「分かった。第2軍はこれよりブリタニア軍の攻撃に対して反撃を開始する。ただし、これがレヴァンドフスキー司令官の独断による命令であることを必ず伝えよ。総司令部の命令は未だ攻撃中止を維持することであり、レヴァンドフスキー大将はそれを無視したのだ、と」
周囲には「総司令部から責任を問われた際に、証言に混乱を生じさせないため」というもっともらしい理由をつけたこの曖昧な命令。
これにより、レウスカ人民軍第2軍はさらなる混乱を引き起こすこととなる。




