第七話 鮮血の平原(後編)
1991年12月5日午後1時、王立放送協会の臨時ニュース(一部抜粋)
番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします。
12時50分頃、ハヴァントシャー州グリンプトンで戦闘が発生したとのことです。えー、12時50分頃、ハヴァントシャー州グリンプトンで戦闘が発生したとのことです。
詳細については不明ですが、レウスカ軍が侵攻を開始した可能性があります。ハヴァントシャー州にお住まいの皆さんは、周囲の安全を確認した上で、速やかに最寄りの避難所へ避難してください。
――えー、新しい情報が入りました。
国防省の発表によりますと、12時10分、コリドー地区で戦闘状態にあった陸軍が敗北、撤退を開始したとのことです。陸軍が撤退を開始したとのことです。
現在、ハヴァントシャー州南部では撤退する陸軍とレウスカ軍との間で戦闘が行われています。
付近の住民の方々は、周囲の安全を確認した上で、速やかに最寄りの避難所へ避難してください。
――また、新しい情報です。
たった今、ハヴァントシャー州全域に非常事態宣言並びに戒厳が発令されました。繰り返します、ハヴァントシャー州全域に非常事態宣言並びに戒厳が発令されました。
当該地域にお住まいの皆さんは、軍の命令に従い、行動するようにしてください。軍の命令に従わない場合、大逆罪に問われる可能性もあります。軍の命令に従い、行動するようにしてください。
1時27分、ハヴァントシャー州全域に非常事態宣言並びに戒厳が発令されました。
続いて、国防省のハモンド報道官による記者会見をお送りします。
回廊要塞を脱出して二時間。
ハヴァント近郊のハンプルトン空軍基地に移動した第6航空団司令のヒサカタ准将は、首都キングストンを含む南アングリア一帯を管轄する第3飛行群のハンフリー少将と面会していた。
「ようこそ、ヒサカタ准将。狭い基地ですが歓迎しますよ」
「ご配慮痛み入ります。第6航空団は現時刻を以て、少将の指揮下に入ります」
基地の応接室で固い握手を交わす二人。回廊要塞のハーマン中将とは違い、ハンフリー少将はヒサカタ准将に隔意を抱いていない様子だった。
「来ていただいて早速で申し訳ないのですが、回廊要塞から撤退する陸軍の支援に従事していただきたい」
「もちろんです。そのために、回廊要塞を脱出したのですから」
ヒサカタ准将が第6航空団をハンプルトンへと移したのは、何も戦力の温存だけが理由ではない。
回廊要塞を崩壊させたレウスカの新兵器を見たヒサカタ准将は、十分な情報もないまま攻撃を行うことに危機感を覚え、撤退時の航空支援に当たる戦力を残すために陥落寸前の回廊要塞から引き上げたのである。
ハーマン中将はこれを自らが行った仕打ちに対する報復と捉えたが、それはいささか見当違いであり、結果から見ればヒサカタ准将の行動は正しかったことになる。
ハンフリー少将もそのことを理解しているようで、ヒサカタ准将に感謝の言葉を述べた。
「今となっては、准将が回廊要塞を見切って撤退してくれたことが非常にありがたい。お恥ずかしい話ですが、あのよく分からん船のために、我が飛行群は半身不随の状態なのです」
「結果として回廊要塞とその将兵を見捨てたのは事実です。その分、ここでは働かせていただくつもりですよ」
生真面目な表情でヒサカタ准将が言うと、ハンフリー少将は何度も頷きながら机の上に地図を広げた。
「我が軍の現状について、説明は必要かな?」
「現状は把握しているつもりですが、認識を共有する必要はあるかと。お伺いしましょう」
ハンフリー少将が「よろしい」と頷いて、現在の状況についての説明を始めた。頭が軍事に切り替わったためか、口調も客人に対するそれではなく、部下に対するものになっている。
「現在、回廊要塞から撤退する部隊はここ、A20号のウィラージー付近をハヴァントに向かって北上している」
回廊要塞とハヴァントを繋ぐA20号線のちょうど真ん中辺りに青いピンが刺される。
「一方、遅滞戦闘に当たっていた部隊はここ、グリンプトン付近で敵の大軍と交戦しているとの通信を最後に、消息を絶った」
ハンフリー少将が青いピンと回廊要塞の間に赤いマジックでバツ印を書き込む。
「通信が途絶えたのは13時20分頃。レウスカ軍がこの部隊を撃破して北上を続けていると考えれば、現在位置はこの辺りになるだろう」
「近いですね……」
赤いピンが刺されたのは、バツ印と青いピンの間。その距離は30キロもない。
「撤退中の地上部隊はまず間違いなく、ハヴァントに到着する前に追いつかれる。陸軍は第3師団をハヴァントの南に展開してレウスカ軍を迎え撃つ予定だが、展開に時間がかかっている。援護のために動くのは不可能と考えて良いだろう」
「つまり、要塞から撤退する地上部隊はハヴァントまでの100キロを独力で突破しなければならないということですね」
「そういうことだ」
厳しい状況に、ハンフリー少将の表情が硬くなる。
「独力で突破するなど、どだい無理な話だ。第5飛行群――攻撃機隊を出したいところだが、我々はそれを護衛するための戦闘機を喪失している」
「そこで我々の出番という訳ですね」
ヒサカタ准将がそう言うと、ハンフリー少将は頷き、地図に三つの大きな丸を書き込んでいく。
「今回の任務では空域を三つに分ける。そう広くない回廊だ。一つの空域につき、一個飛行隊も出してくれれば十分だろう」
「指揮はどちらが?」
「現地の指揮は攻撃機隊に執らせる。だが、それとは別に早期警戒管制機が出る予定だ」
AWACSは後方から戦場を見通して部隊に指示を出すという、いわば空飛ぶ司令部だ。
「AWACSのエスコートはどうしますか?」
「それはさすがにこちらで準備させていただくよ。何から何まで世話になるのでは、王国空軍の面子が立たん」
そう言ってハンフリー少将が苦笑すると、ようやく緊迫していた部屋の空気が緩んだ。
「他に質問はあるかな?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。……頼む、友軍を救ってくれ。色々と厄介な諍いはあるが、それでも誇るべき我らが戦友なのだ」
ハンフリー少将が頭を下げる。階級が下の、それも他国の軍人に頭を下げるのは、あり得ないことだ。
慌ててヒサカタ准将がなだめる。
「頭をお上げください、少将。我々は微力を尽くすとお約束いたしましょう」
「感謝する」
こうしてヒサカタ准将はハンフリー少将と握手を交わすと、応接室を後にした。
『こちら、スカイベース。ようこそ戦場へ。歓迎するよ』
「アイギス1よりスカイベース。できればご遠慮願いたいパーティだったがな」
午後2時ちょうど。
ハンプルトン空軍基地を飛び立ったレオンハルト率いるアイギス隊は、作戦開始時刻と同時にAWACSの管制下に入った。
ヒサカタ准将がハンフリー少将から請け負った空中護衛任務に当たることとなったアイギス隊は、三つある空域の内の真ん中、ブラボーエリアを担当することとなった。
アイギス隊が護衛する攻撃隊の第52飛行隊は、このブラボーエリアに侵入する敵地上部隊を撃破するのを目的としている。
『バーチ1よりアイギス1。ケツは頼むぜ』
ドスの効いた野太い声の男が通信を入れてくる。第52飛行隊の飛行隊長であるハリソン中佐だ。
出撃前のブリーフィングで少しだけ話をしたが、よそ者のレオンハルトたちにも隔意なく接してくれた好人物である。
「任せてくれ」
レオンハルトとカエデのF-18Jが、ハリソン中佐とその僚機のTempest GR.1攻撃機と編隊を組む。
アイギス隊と第52飛行隊は、それぞれ二機編隊単位に分かれ、臨時編成の混成部隊を構成している。
この混成部隊がブラボーエリアのあちこちに散らばり、侵攻してくる敵地上部隊への対地攻撃に当たることとなるのだ。
『スカイベースよりアイギス1。こちらのレーダーでは何も捉えられていないが、そちらはどうだ?』
「こちらも視認できていない」
『了解した。確認したら、情報を送ってくれ』
「了解」
レオンハルトが「軍人には似つかわしくない、朗らかな声の管制官だな」とぼんやり考えていると、戦域情報システムの情報がアップデートされ、仮想ウインドウがポップアップした。
『こちら、アイギス9。前方に未確認機を確認』
『アイギス10より各機。こちらも確認した』
『こちら、ヴァンダル1。同じく確認』
別の空域を飛ぶ部下から通信が入る。まだまだ経験の足りないアイギス10の声は緊張していたが、アイギス9――ディミトロフ大尉は至って冷静のようだった。
『敵味方識別装置にも反応がない。未確認機を敵性機と判断する』
ディミトロフ大尉の通信と同時に、にわかに状況が緊迫する。
「こちら、アイギス1。アイギス9、やれるか?」
『問題ない。任せてくれ』
テンペスト攻撃機はマルチロール機として開発されているので、対戦闘機戦闘ができない訳ではない。
ただ、地上攻撃のために爆装しているため、あまり機敏な動きはできないはずだ。
ディミトロフ大尉は実質的にアイギス10と二人で敵と対峙しなければならない。
それを心配したレオンハルトの発言だったのだが、無用の心配だったようだ。
『スカイベースよりアイギス9。交戦を許可』
『了解。アイギス9、交戦』
『あ、アイギス10、交戦!』
アイギス9とアイギス10が交戦を宣言する。
と、その時、その交戦宣言とほぼ同時のタイミングで、レオンハルトのコックピットにアラームが鳴り響いた。
とっさの判断で機体を横滑りさせながら、通信機に向かって叫ぶ。
「ブレイク、ブレイク!」
『くそっ、どこにいやがった!』
四機がバラバラに散らばり、フレアを射出する。先ほどのアラームはレーダー照射、すなわちミサイルによって狙われていることを警告するものだからだ。
敵がどこにいるのか分からないままに回避行動を続けていると、ハリソン中佐の僚機バーチ2が叫んだ。
『上だ! 上から突っ込んでくるぞ!』
横向きになった機体から上空――左を見ると、はるか広がる蒼空に二つの点が見えた。
点は徐々に大きくなり、そして見慣れたあの宿敵の姿をとる。
「ファントム!」
ラピス戦線で何度もレオンハルトの前に現れ、苦杯をなめさせられ続けてきたあのファントムを、彼の視界に捉えたのだ。
開戦から早半年。ラピスで戦っていた頃は新型としか分からなかった戦闘機だが、今では解析が進んでおり、分かっていることも多い。
正式名称「St-37」は、統一連邦のストリャロフ設計局で開発された、いわゆる第4.5世代型のジェット戦闘機だ。
PATOコードネーム「フランカー」を与えられた――しかし、現場からは一貫してファントムと呼ばれるSt-37は、PATO諸国よりも進んだステルス性能、高い空戦能力、そして低速域での非常に安定した飛行性能を有している。
東側最強と称されるF-18よりも、一歩抜きん出た性能を持っているというのが、St-37の解析に当たった技術者の評価であった。
これでパイロットがラピスで戦った時と同じならば苦戦は免れ得ないところだったが、幸いと言うべきか、因縁の相手ではなかった。側面部に百合の意匠がなかったのである。
「アイギス2、相手は奴らじゃない。冷静にやるぞ」
『了解』
『アイギス1、そいつらの相手は任せるぞ。機体が重くて、こっちは回避で精一杯だ』
任せてくれと通信を入れ、スロットルを開ける。追尾が容易なトラッキング・ゾーンで後方を占位するSt-37も、加速してレオンハルトに追随する。
右へ左へ、敵の機軸に入らないように注意しながら機体を小刻みに旋回させ、反撃のタイミングを計るレオンハルト。
そして、敵機が発砲の兆候を見せたその瞬間、レオンハルトは右のラダーペダルを思い切り踏み込み、機体をスリップさせた。
タイミングを外された敵機はレオンハルトの後を追うことができず、レオンハルトは敵の追尾から離脱する。
「ぐっ……」
そして、操縦桿を思い切り引き上げ、強烈な下向きのGに耐えながら急旋回し、ようやく方向転換を始めた敵機の後方に食らいついた。
多くの面でF-18に抜きん出た性能を持つSt-37。その中で、数少ないF-18のアドバンテージの一つが、高速域での機動性だった。
「フォックス2、フォックス2」
敵機を射程圏内に捉えたレオンハルトがミサイル発射ボタンを押す。主翼の下に取り付けられた短距離ミサイルが、パシュッという音を立てて発射され、体勢を立て直せないでいるSt-37へと迫る。
かなりの近距離でミサイルを放たれたSt-37は誘導を妨害することもできず、為す術なくミサイルの直撃を受けて爆散した。
「敵機撃墜」
『グッドキル、グッドキル』
撃墜を確認し、カエデの援護に向かおうとするレオンハルト。
だが一足遅かったようで、レオンハルトがカエデの機体を視界に捉えた時には、すでに勝負は決していた。
後方についたカエデから逃れようと、ランダムなロール機動でジンキングを続けるSt-37。
しかし、カエデはその小刻みな動きに惑わされることなく、冷静に敵を追尾し続けていた。
そして、敵機が迂闊にもカエデの機軸に入った瞬間、過たずF-18Jの機関砲が火を噴き、敵の機体をバラバラに引き裂いた。
『アイギス2、スプラッシュ1』
「ナイスキル、アイギス2」
炎を上げながら墜ちていく敵機を横目に、レオンハルトはカエデと合流する。
『やるじゃねぇか、アイギス1!』
『助かりました』
ハリソン中佐とその僚機が感嘆の声を上げる。
『スカイベースよりアイギス1。良くやってくれた。さすがはラピス戦線のトップエースだ』
「あまり持ち上げないでくれ。後が怖い」
『謙遜してるくらいだから調子には乗らねぇだろう。この後も頼むぜ』
そう言って豪快に笑うハリソン中佐。
彼の言葉通り、この後も敵機の襲撃を難なく退けたレオンハルトたちは、予定されていた敵地上部隊への対地攻撃を見事に成功させ、上々の戦果を手にハンプルトンへと帰還した。
しかし、彼らの戦果は最も大きな――そしてほとんど唯一と言っていい――ものであり、他の空域では護衛がやられて攻撃機が帰還せざるを得なかったり、また逆に攻撃機を失って帰還したりとあまり芳しい戦果は得られなかった。
レオンハルト以外のアイギス隊の面々も、無事に帰還することこそできたものの、やはり敵の妨害に遭っており、任務が成功したとは言えない。
レウスカ軍の追撃を押し止めることに失敗し、そして追撃部隊を削ることも上手く行かなかったブリタニア軍は、ハヴァントに撤退するまでの間に戦力の20パーセントを失うこととなる。
そして、勢いに乗るレウスカ人民軍第2軍は、回廊要塞を突破した勢いもそのままに、ハヴァントに展開したブリタニア陸軍第3師団と真正面から衝突したのであった。
「駄目です、閣下。現時点でもおよそ五万人の民間人が避難を続けています。民間人の避難を優先すると、戦線の維持ができません」
「分かっている。空軍は? 何をやっている?」
「第2飛行群も第5飛行群も作戦機の数が半分を切っています。全力稼働してはいますが……」
ハヴァント市の北にあるバンカーヒルと呼ばれる丘陵地帯に、バンカーヒル陸軍基地がある。
普段は第2/15歩兵大隊が駐屯しているこの基地には、キングストンから進出してきた第3師団の司令部が野戦司令部を置き、レウスカ第2軍との戦闘を指揮していた。
第3師団の師団長はバーリング少将で、回廊要塞司令官のハーマン中将より階級が低い。
そのため、本来であればハーマン中将が指揮を執るのだが、回廊要塞から撤退してきた部隊が第3師団と合流した時点で、彼は全ての指揮権を剥奪されていた。
「ハーマン中将があの船に無茶な攻撃を仕掛けなければ――」
「――口を慎め、少佐。敗軍の将とは言え、上官だぞ」
バーリング少将が苦々しい顔で注意すると、愚痴をこぼした幕僚は真っ青な表情で謝った。
「それに、あの時点での判断としては決して間違っていたとは言えん。要塞を破壊した後、あれが撤退するとは予測できなかったのだからな」
回廊要塞陥落の主たる原因である「空飛ぶ船」は、回廊要塞の主要施設を砲撃で破壊した後、悠々と地中海の方へと飛び去っていった。
あれがレウスカ第2軍の侵攻に同調して動いていれば、その時点でブリタニア軍は戦線を放棄していただろう。
かと言って、現在の戦況が良い訳でもない。
ブリトン地峡のブリタニア側の付け根、その中央部に位置するハヴァント。
第3師団はこのハヴァントの南に展開し、野戦陣地などからなる防衛ラインを構築している。
本土を守る唯一の師団として完全充足の三個機械化旅団を擁する第3師団は、歩兵部隊による戦線維持と戦車部隊による敵攻勢の頓挫によって、およそ五時間もの間、この防衛ラインを守り抜いていた。
しかし、戦力ではレウスカ人民軍がこれを圧倒しており、シチシガとの交戦で作戦機の多くを失った空軍は制空権を掌握し切れていない。
これらの理由によって、第3師団の防衛ラインは徐々に崩壊しつつあった。
そして、その決壊は突如として始まったのである。
「閣下! ポイントC3より救援要請! 敵の主力が集中しています!」
「ポイントA5、通信途絶!」
「くそっ、どうなってやがる! あちこちで戦線に穴が!」
突然、戦況図に異変が発生し、防衛ラインを構築していた部隊の反応が次々に消えていく。
数秒後、観測員による情報が更新され、戦線の三ヶ所に敵の戦車部隊が集中して攻撃を始めたことが判明する。
「閣下、王室騎兵連隊を前に出して戦線を穴埋めさせましょう」
「ああ。それと、航空部隊の対地支援をその三ヶ所に集中させろ。……これはチャンスだぞ」
敵が集中したということは、戦力が低下している空軍にとっては悪い話でもない。敵が集中した点にこちらも戦力を集中させ、一気に叩くことができるからだ。
「空軍に支援要請を出せ。敵の機甲戦力を叩き、一気に押し返すぞ!」
時間も戦力も足りない中、上手く部隊を配置してレウスカ軍の攻勢をしのぎ続けていたバーリング少将だったが、この時ばかりは爪が甘かったと言うほかない。
十分後、第3師団の支援要請に応じて駆けつけた空軍の攻撃部隊は、これを待ち構えていたレウスカ空軍の奇襲攻撃を受けて全滅したのである。
死に物狂いで逃げるテンペスト攻撃機が散っていく様子を呆然とモニターで見ていたバーリング少将を始めとする第3師団司令部の面々は、自らの敗北を悟ったのである。
「全部隊に告ぐ。ただちに戦闘を止め、キングストンまで撤退せよ」
沈痛な面持ちで全軍に告げたバーリング少将の言葉によって、ハヴァントシャー撤退戦はブリタニア軍の大敗に終わった。
ハヴァントを占領したレウスカ人民軍第2軍は、回廊要塞突破から続いた戦闘の損害を補充するために一旦進撃を停止。
激動の二日間と呼ばれたレウスカ軍の猛進が終了したのである。
対するブリタニア軍は、満身創痍の状態で首都キングストンへと撤退。首都の間近まで迫ったレウスカ軍を何としても撃退すべく、キングストン防衛ラインの構築を始めた。
しかし、回廊要塞陥落から続く消耗は著しく、国内の戦力はすでに底をついている。
そこで陸軍参謀本部は、東ベルクに展開していた第1師団から第7機甲旅団を引き抜いて本土の防衛に当てることを決定。
その第一陣として、第7旅団に属する二個大隊が二隻の揚陸艦に分乗し、同じく二隻のフリゲートを護衛につけて、ブリタニアの西に広がるエール海を航行していた。
エール海はブリタニア半島まで遮るものがなく、吹き付ける偏西風によってしばしば荒れる。
12月8日の深夜も同様で、揚陸艦ラーストンベイの艦橋では艦長のラッセル大佐が荒れ狂う夜のエール海を眺めていた。
「定時報告。レーダーに異常なし、見張りからも異常なしとの報告です」
「ご苦労。引き続き監視に当たってくれ」
当直航海士の報告を受けたラッセル大佐は、内心で異常など起こるはずがないと考えていた。
エール海は地中海の北に位置しており、レウスカ海軍の行動範囲にも入っている。
だが、華々しい戦歴とそれに見合った装備を持つ王国海軍の前では、レウスカ海軍など赤子同然である。
ラッセル大佐はそう考えており、そしてそれは事実であった。
レウスカ人民海軍は潜水艦隊こそ脅威として考えられているが、それ故に地中海では昼夜を問わない対潜作戦が展開されている。
オーヴィアス連邦も加わるその対潜網を突破し、はるばるエール海までやって来るのはほとんど不可能だ。
レーダーに映りにくい新型機が空軍を苦しめていることはラッセル大佐も知っていたが、良くも悪くも海軍軍人である彼は「何と不甲斐ないことか」と馬鹿にするだけで、その脅威についてはほとんど無視しているも同然だった。
そろそろ寝るかとラッセル大佐があくびをしていたその時、レーダーを見ていた観測員が叫んだ。
「レーダーに感あり! 方位265! 数は八! 巡航ミサイルと思われます!」
「くそっ、対潜部隊は何をしていたのだ? バーンハム、ボーダーに通報! 対空戦闘用意!」
にわかに艦橋が騒がしくなる。とは言え、揚陸艦であるラーストンベイにできるのは、ミサイルが至近距離まで接近した場合の最終迎撃くらいだ。
「バーンハム、ボーダー、対空ミサイル発射しました!」
ラーストンベイと共に航行していた二隻のフリゲートが、前後して巡航ミサイル迎撃のために対空ミサイルを発射する。
五秒、十秒、十五秒……。レーダー上で双方のミサイル群が接近し、やがて激突する。
「迎撃! なおも三基が接近中! 当艦に一基向かっています! 距離、10000!」
「バーンハム、ボーダー、砲撃を開始!」
フリゲートの主砲が、接近する三基のミサイルを狙って発砲する。パシューンという音が聞こえてきた。
「二基、迎撃! なおも一基、当艦に接近中です!」
「カウント開始せよ!」
ミサイルがラーストンベイに到達するまではあと一分もない。艦を守る最後の砦は、近接防御火器システム――通称「CIWS」だ。
「間もなくCIWSの迎撃圏内に入ります! 10、9、8――」
観測員がカウントダウンを始めると、艦橋に緊張が走る。ラッセル大佐も、思わず手に汗を握っていた。
「5、4、3、2――」
「――チャフ、デコイを射出! 緊急回避!」
チャフとデコイが射出され、パンッという乾いた音が響く。
そしてラーストンベイを赤と銀の煌びやかな光が包むのと同時、艦首に設置されたCIWSが迎撃圏内に入った巡航ミサイルを捉え、射撃を開始した。
毎秒七十発、毎分にして四千二百発ほどの発射能力を持つCIWSが火を噴き、猛然と迫る巡航ミサイルに30ミリ砲弾の雨が襲いかかる。
永遠にも思える数秒間。祈るような気持ちでミサイルが飛んでくる方向を見つめていると、不意に鮮やかな火球が咲き、遅れて爆音が聞こえてきた。
「迎撃、成功しました!」
興奮気味に観測員が叫ぶと同時、張り詰めていた艦橋に歓喜の声が響く。
ラッセル大佐はその輪に加わることこそしなかったが、ほっと胸をなで下ろし、艦長席に着いた。先ほどまでの眠気はどこかへ吹き飛んでいる。
『こちら、タルボット。潜水艦による対艦攻撃を確認した。これより対潜攻撃に入る』
付近を飛んでいたらしい対潜哨戒機から通信が入ると、ラッセル大佐は通信機のマイクがオフになっていることを確認し、「来るのが遅い」と毒づいた。
しかし、それとほぼ同時に、事態は急変した。
『ソノブイ投下。これより敵潜水艦の探知を――何だ? ぐわあぁぁぁ!』
奇妙な叫び声と同時に、何かが炸裂したような激しい雑音が聞こえ、通信が途絶する。
「タルボット? 何かあったのか? 応答せよ、タルボット!」
通信を受けていた通信士が呼びかけても、対潜哨戒機がそれに応答することはない。
不気味な沈黙が落ちる中、今度はレーダー観測員が叫んだ。
「なっ……! レーダーに反応! 数は四! 至近距離です!」
「何だと!」
風切り音のようなものが聞こえたと思った直後、バーンハムとボーダーの二隻がほぼ同時に轟音を上げ、爆発した。
「バーンハム、ボーダー、被弾!」
「通信繋がりません!」
「敵は、敵はどこにいるんだ!」
目の前で激しい炎を上げるフリゲートの姿。信じられない光景だ。
世界に誇るロイヤルネイビーが、小さな護衛船団とは言え、こうもあっさりと防空網を突破されるとは――
「最大戦速でこの海域を脱出しろ!」
ディーゼルエンジンをフル回転させ、何とかこの脅威から逃れようとするラーストンベイ。
だが、護衛を失った揚陸艦が逃げられるはずもなかったのだ。
「ミサイル、来ます!」
観測員が叫ぶと同時、二発のミサイルがラーストンベイに突き刺さり、凄まじい爆音と共に艦を揺らした。
激しい揺れに耐えきれなかった船員たちが倒れ、机の上に置いていたペンが転がる。
何とか起き上がったラッセル大佐が被害報告をさせようとしたその時、航海士が叫んだ。
「艦長、あれを!」
ラッセル大佐の視界に映ったのは、こちらへ猛スピードで迫る戦闘機の姿だった。
「いかん、総員――」
戦闘機の機関砲が火を噴き、ラーストンベイの艦橋を粉々にする。ラッセル大佐は、艦橋にいた乗務員と運命を共にした。
12月8日、エール海を航行していた二隻の揚陸艦と、その護衛を任されたフリゲート二隻が撃沈され、乗員と兵員あわせて二千名余りの犠牲を出した惨事。
後に「エール海の悲劇」と呼ばれたこの事件は、不敗を信じていた海軍上層部に大きな衝撃を与え、増援の到着が見込めなくなった陸軍に絶望を与えた。
そして、ブリタニア軍がこの衝撃から立ち直ることのできない中、戦力の補充を終えたレウスカ人民軍第2軍は、12月21日の夜明けと共にキングストン攻略作戦を開始した。




