第五話 慢心の代償(後編)
それはちょうどハーマン中将が、自室で参謀本部委員会議長のクレイグ元帥に報告している時だった。
自信満々の表情で「想定外の事故は起きたが、反撃は無事に開始された」と報告した直後、激しい揺れと音がハーマン中将を襲った。
『中将? 何だ、今の音は?』
電話口の向こうのクレイグ元帥が不審そうな声で尋ねるが、それに対応する余裕はハーマン中将にはなかった。
「な、何事か!」
「分かりません!」
あまりの揺れに立っていられなかった従兵が怯えた様子で答える。
彼らに解答を与えたのは、司令部から走ってきた参謀長のウィンタートン少将だった。
「閣下! 敵の砲撃です! 出撃したロイヤル・ドラゴンガーズ連隊とプリンセス・オブ・グウィネズ第1大隊は直撃を受け、壊滅! 要塞司令部も被弾しました!」
「な、何だと!」
わずか一撃で二個大隊相当の戦力が壊滅し、要塞司令部にも被害があったという報告は、反撃の成功を信じて疑わなかったハーマン中将に衝撃を与えた。
それはハーマン中将が持った電話の向こうにいるクレイグ元帥も同様だったようで、かの老将は普段の紳士ぶりをかなぐり捨てた様子でハーマン中将に言い募った。
『中将、今の報告は本当か! 一体どういうことだ! 君が必ず成功する、と言ったから、私は首相閣下に無理を通して反撃を許可したのだぞ!』
「そ、それは……」
クレイグ元帥の言葉通り、回廊要塞からの反撃は本来であればオーヴィアス連邦との協議後、環太平洋条約機構と連動して西部戦線全体で行われるはずだった。
しかし、回廊要塞正面にいるレウスカ人民軍の戦意が低いと見て取ったハーマン中将は、参謀団と会議を重ねた上で反撃作戦を立案。
奪われた大陸領を取り戻すという大義名分を前面に押し出すことで、渋るクレイグ元帥を説得し、反撃作戦をベケット首相に承認させたのである。
『ハーマン中将、この一件は君の責任で解決したまえ。私の言っている意味が分かるな?』
そう言われた瞬間、ハーマン中将は自身が呆気なく切り捨てられたことを悟った。
クレイグ元帥は、この反撃作戦の承認が表沙汰になっていないのを良いことに、現地部隊の暴走として片を付けるつもりなのだろう。
そしてそれは、一面として事実であった。
「……了解しました。何としても、回廊要塞で敵軍を食い止めます」
『軍法会議だけは避けると約束しよう。それ以上は、君の運次第だ。君の悪運が強いことを祈っているよ』
心にもない口調でクレイグ元帥がそう言うと、電話が切れた。
正直なところ、ハーマン中将の側にも言い分はあった。
反撃作戦を最終的に承認したのはクレイグ元帥であり、ベケット首相だ。ハーマン中将の主張を突っぱねることも彼らにはできたはずで、決断の責任をハーマン中将に全て被せるのはいささか理不尽と言える。
だが、ハーマン中将はそれを口にしなかった。
彼らの決断は全て口頭で行われており、それを聞いたのもハーマン中将しかいない。
極端な話、ハーマン中将がベケット首相やクレイグ元帥の決断をでっち上げ、独断で反撃に打って出たと言われても、ハーマン中将には反論するだけの材料がないのだ。
だから、彼は上層部の無慈悲を糾弾するのではなく、自らの力で窮地を脱することを選んだのであった。
「司令部へ行く。参謀長、詳しい状況の説明を」
「は、はっ!」
勢いよく立ち上がると、ハーマン中将は司令部へ向かって歩き始めた。ウィンタートン少将と従兵が、慌ててそれに付き従う。
司令部は司令官室の隣だ。司令部に入ると、激しい揺れの影響で書類や機材が散らばった惨状が目に入った。怪我をしているオペレータもちらほらと見受けられる。
「敵の砲撃とはどういうことだ? レウスカの水上艦隊が動いたか?」
司令官席に座りながら、先ほどから疑問に思っていたことを尋ねる。
野戦砲であれば、レウスカ軍の位置から前線はともかく、要塞司令部まで届くはずがない。警戒線は現時点でも密であり、地上部隊が突破した様子もないのだ。
考えられるとすれば、海軍が封鎖線を突破されてレウスカ海軍の艦艇が肉薄した場合くらいだが、それも非現実的だ。
海軍に対して良い感情を持っていないハーマン中将も、彼らの実力だけは認めており、そう易々と突破されるとは考えていない。
「航空部隊からの報告です。北海上空に、空飛ぶ船が出現した、と」
「は? 空飛ぶ船だと?」
思わず素に戻って聞き返してしまうほど、参謀長の言葉は突飛なものだった。
だが、彼がある画像をモニターに表示させると、ハーマン中将も唸りながら、それを認めざるを得なかった。
「うむ……。確かに、これは船だな。これが砲撃を?」
「はい。距離はおよそ15マイル。確認できた着弾数は二十四発で、七発が致命的な損害をもたらしました」
参謀長の言葉通りであれば、15マイル――25キロの向こうから、30パーセント程度の命中率で攻撃できる船が北海を飛んでいることになる。
「被害状況は?」
「こちらをご覧ください」
そう言って参謀長がコンソールを操作すると、目の前のモニターに戦域情報システムの戦力表が表示された。
「これは……」
思わず絶句するハーマン中将。
反撃作戦に投入する予定だったロイヤル・ドラゴンガーズ連隊とプリンセス・オブ・グウィネズ第1大隊は、わずかな部隊を残して壊滅しており、それぞれの本部も直撃弾を受けて吹き飛んでいる。
ハーマン中将に残された地上戦力は両部隊の生き残りと要塞常駐の一個大隊、そして警戒線に張り付いた監視部隊だけだった。
敵が地上部隊だけならば、この戦力で要塞を守り抜くことも可能だが、あの船をどうにかしなければ、要塞の主要な設備が破壊されて突破されてしまうだろう。
事実、あの敵艦は要塞司令部の地上階だけでなく、要塞北門も無残な姿に変えており、要塞南門もあのような姿になるであろうことは容易に想像が付いた。
「地中海側に海軍が展開していなかったのが残念です。一隻でも警戒に当たっていれば、接近に気づけたはずなのに」
悔しそうにそう言う参謀の肩に、ウィンタートン少将が手を置いた。
「たらればの話をしても仕方あるまい。それよりも、あの船への対抗策を考えなければ」
「その通りだ、ウィンタートン少将。叩くとすれば航空部隊だが……飛行場は? 滑走路はいつ使用可能になる?」
問われたオペレータがコリドー飛行場との間に通信を開く。すぐに、飛行場管理担当のランバート大佐がモニターの向こうに姿を現した。
『飛行場事務局のランバートです』
「要塞司令官のハーマンだ。大佐、滑走路はいつ使用可能になる?」
『間もなくです、閣下。すでに航空部隊が出撃準備を整えております』
ランバート大佐の説明を聞き、ハーマン中将が出撃後の指示を出そうとしたところで、モニターの向こうが騒がしくなった。
『大佐、これを』
『何だ、今は通信中――何だと?』
「どうしたのかね、大佐?」
ハーマン中将が尋ねると、ランバート大佐は恐縮した様子でこう答えた。
『は、はっ。それが、出撃予定だった日本の飛行隊が、上層部からの命令でハンプルトンへ向かうと』
「ハンプルトン?」
ハンプルトンは回廊要塞の北にある小さな町で、郊外には南ブリタニアの防空を司るハンプルトン空軍基地がある。
コリドー飛行場に待機していた日本の飛行隊が、そこへ向かうと言い出したというのだ。
「どういうことだ?」
『それが、回廊要塞司令部の指揮権はあくまで作戦行動中に限るもので、部隊の配備に関して決定権は我々にある、と。一体何のことやら』
汗を拭きながらそう話すランバート大佐を見ながら、ハーマン中将は「やられた」という悔しさに、思わず唇を噛んでいた。
第6航空団は回廊要塞司令部の指揮下にあり、その作戦行動に関しては回廊要塞司令部が指揮権を完全に握っている。これは事実だ。
しかし同時に、それはあくまでも第6航空団が回廊要塞に増援として籍を置いているからであり、彼らが他の基地へ動いてしまえば、指揮権はその基地の上級司令部へと移ることになるのだ。
回廊要塞の危機に際して彼らが基地を移すということは、すなわち回廊要塞の陥落は不可避と考え、戦力の温存を優先したということなのだろう。
まさか土壇場で見捨てるような真似をするとは思っていなかったが、彼らを冷たくあしらい、扱き使おうとしたのはこちらだ。
見捨てられても、文句は言えなかった。
憤懣を押し隠しながら、ハーマン中将が口を開く。
「大佐、日本空軍には好きにさせてやれ。ただし、出撃は我が軍の部隊を先に。最優先事項は敵の『空飛ぶ船』への対処だ」
『はっ。了解しました』
このくらいの意趣返しは許されてしかるべきだろう。
そう思いつつ、ハーマン中将は通信を切った。
『スターバック1、クリアード・フォー・テイクオフ』
「了解。スターバック1、クリアード・フォー・テイクオフ」
管制からの発進許可を受けて、スロットルを開ける。ターボファンの甲高い音がコックピットに響き、機体がぐんと加速した。
ブリタニア王国空軍第11飛行隊のスターバック分隊を率いる、スターバック1ことトレスコット少佐は、北海上空に出現した敵新型兵器の迎撃任務を与えられ、ようやく復旧作業が完了したコリドー飛行場から飛び立とうとしていた。
彼が率いるスターバック分隊は迎撃部隊の最後尾であり、その後には回廊要塞を脱出する日本空軍の部隊が北へ向けて飛び立つ予定だ。
自分たちを見捨てて逃げるかのような彼らにはいささか複雑な感情があるが、自分が彼らの立場でも同じようにするだろうなと思ったトレスコット少佐は、とりあえずそのことについて考えるのを止めた。
『バレル1よりスターバック1。ようやく上がってきたな』
スターバック分隊の四機が離陸を完了すると、近くを飛ぶ編隊から通信が入る。トレスコット少佐の上司に当たる、飛行隊長のエリス中佐だ。
『任務の再確認をする。我々の持ち場は「空飛ぶ船」の右舷前部。とりあえず、脅威となっている砲塔を潰せとのお達しだ』
「了解。問題ありません」
そう応答しながら、トレスコット少佐は辺りを見回した。北海上空は、なかなか賑やかなことになっている。
第11飛行隊を始めとする回廊要塞に駐留していた戦闘機部隊は全て空飛ぶ船の迎撃に動員され、本土から来た部隊がそれに加わっている。
近接航空支援用の装備しか積んでいなかった攻撃機部隊は日本空軍の護衛で北へと帰っていったが、残った部隊だけでも、まず間違いなく戦後最大規模の航空作戦である。
『コリドー・コントロールより各機。管制を移行する。チャンネル04』
管制塔からの指示を受けて通信機のチャンネルを変更すると、爽やかな男性の声が聞こえてきた。
『こちら、早期警戒管制機。コールサイン、スカイベース。これより、君たちの管制を担当する』
軍人と言うよりは保育士、といった雰囲気のある朗らかな声だ。女性受けは良いだろう。
『スカイベースより各機。間もなく、ミサイル射程圏内。敵のレーダー照射に警戒せよ』
半円状に包囲するように接近するブリタニア空軍の戦闘機部隊。トレスコット少佐もその一角を担いながら、「空飛ぶ船」を見据える
『ミサイル射程圏内。総員、全兵装使用許可。繰り――』
ザッという雑音と共に、通信が途絶える。明らかに不自然な切れ方であった。
「スカイベース? こちら、スターバック1。応答せよ」
『――』
通信機は酷い雑音を発しており、返答が返ってくる気配はなかった。
データリンクで繋がっているはずのWAISを確認するが、こちらも僚機さえもがNo Signalと表示されており、敵の電子妨害があることは明らかだった。
通信が途絶えた状況だが、最後の指示はあくまでも「空飛ぶ船」への攻撃だ。
支援がない状況でも、何とかして戦わねばならない。
トレスコット少佐がそう思った瞬間、空域のあちこちで爆炎が咲いた。
「くそっ! 今度は何だ!」
通信が繋がらないため、何が起こっているのか把握することができない。トレスコット少佐に分かるのは、突如として複数の友軍機が爆散したことだけだ。
状況をなるべく把握しようと辺りを見回した彼の視界に、一瞬だけ何かが映り込む。
反射的にラダーペダルを踏み込み、操縦桿を倒して機体をスライドさせると、直近を機銃砲火が駆け抜けていった。
「いつの間に……!」
まだレーダーやWAISが正常に機能していた時には、敵の気配など微塵もなかった。目視すらできなかったのだ。
いつの間に敵機はトレスコット少佐たちの後ろへ回り込んだのか。
その答えは、敵機が彼をオーバーシュートしたことで見つかる。
「な、何だ、あれは?」
人が乗り込むには余りに小さく、薄すぎる機体。
灰色の小さな航空機は、不規則かつ小刻みな動きでトレスコット少佐の前を飛んでいた友軍機に急接近し、機銃掃射でこれを屠った。
無人航空機。
オーヴィアスでは偵察機として実用化されつつあるそれが世界で初めて実戦使用され、戦果を挙げたのが肉眼で確認された瞬間である。
そこまでは理解し切れていないトレスコット少佐も、あの不気味な小型機が通信とレーダーを奪われたブリタニア側にとって大きな脅威であることは理解できた。
このまま「空飛ぶ船」に接近しようとしても、あの小型機によって撃墜されることは目に見えている。
ならば、せめて情報だけでも持ち帰るべきだと考えたトレスコット少佐は機体を反転させ、未だ無残に狩られていく友軍機を見捨て、通信妨害の圏外へとスロットルを全開にした。
「あれは……よし、追いついては来ないな」
後方を確認すると、トレスコット少佐を追跡しようとした小型機の姿が目に入ったが、ぐんぐんと離されていく。
機体の機動性能ではあちらの方が格段に優れているが、スピードならば彼の駆るSpitfireⅡの方が上のようだ。
『――ちら、スカイベース。誰でも良いから応答してくれ』
ようやく電子妨害の圏外に出たらしく、管制官の焦り声が聞こえてきた。
レーダーやその他の電子機器も、通常通りの動きを見せている。
「こちら、スターバック1。スカイベース、聞こえるか?」
『スターバック1、聞こえる。何があった? 突然、君たちの姿がレーダーから消え、通信が繋がらなくなったぞ』
「敵の電子妨害だ。通信が繋がらなくなった後、敵の妙な小型機が出てきて、皆やられた」
そう言いながら、手元のコンソールを操作する。機体が収集した情報を、AWACSに送るためだ。
「今から映像とデータを送る。これを解析して――」
データの送信が開始されたことを確認した直後、トレスコット少佐の機体を凄まじい衝撃が襲った。右の主翼が砕け散り、コックピットにアラームが鳴り響く。
撃墜された、と気づいたトレスコット少佐は、データの送信が完了したことを確認し、座席の横にある緊急脱出用のレバーを引く。
だが、座席はぴくりとも動かなかった。
「くそったれ……!」
制御の効かない機体はどんどん高度を下げ、北海の荒れ狂う海面へと近づいていく。
最期の一瞬、上空を見たトレスコット少佐が見たものは、戦果を挙げて悠々と飛び去っていく二機の戦闘機だった。
「――護衛部隊より通信が入りました。最後の一機を撃墜した、とのことです」
「ふん。それくらいはしてもらわねばな」
若い兵士の報告に、皮肉るような笑みを見せる男性。
彼はレウスカ人民海軍の制服に身を包んでおり、四本線の肩章は彼が海軍大佐であることを示している。
彼がいる部屋は、少し船に詳しい者が見ればすぐにブリッジと分かる部屋であったが、そこから見える風景は普通の船とは大きく異なる。
艦橋から見えるのは、海は海でも「雲海」と呼ばれるに値する光景であり、これはすなわちこの船が「飛んでいる」ということだ。
彼の名はスタニスワフ・キェシェロフスキー。レウスカ人民海軍太平洋艦隊に所属する海軍大佐であり、レウスカが満を持して投入した空中戦艦「シチシガ」の艦長である。
「それにしても愚かな奴らだ。たかが戦闘機にこのシチシガが墜とされるとでも思っていたのか。そうは思わんかね、航海長」
「はっ。とは言え、我が艦の装備を知らない状況では致し方ないのではないかと」
そんな航海長の言葉を、キェシェロフスキー大佐が鼻で笑う。
「ふっ、それこそ愚の骨頂というものだ。得体の知れないものに近づくなど、子ども以下の危機察知能力だよ」
そう言うと、彼は首を振り、手元の通信機を手に取った。
「砲術長、応答せよ。こちら、艦長」
『こちら、戦闘指揮所。砲術長のオルシェフスキーです。いかがなさいましたか?』
キェシェロフスキー大佐は遠くに見える回廊要塞を睨みつけながら、口元には不気味な笑みを浮かべてこう言った。
「オルシェフスキー中佐、全砲門開け。これより、我が艦は敵要塞に対する制圧射撃を開始する。……コントロヤンスキー作戦の総仕上げをして、さっさと帰るぞ」
『了解しました!』
コントロヤンスキー作戦。
古い伝承に基づいた名を与えられたこの作戦は、難攻不落を謳われた回廊要塞攻略を最大の目標としている。
第2軍の平凡な攻撃によってブリタニアに回廊要塞の堅牢さを確信させた上で、新兵器シチシガを投入、回廊要塞を突破することで、主に精神面に打撃を与える作戦だ。
そして、シチシガはその「死を告げる者」という名にふさわしく、それを可能にするだけの威容を誇っていた。
前部甲板に鎮座する40.6センチ三連装砲二基を中心に、両舷には四基ずつの15.2センチ連装速射砲が搭載され、かつての戦艦並みの砲火力を備えている。
対空機銃に至っては艦の各所に自動照準仕様のものが配備されており、濃密な対空弾幕の形成を可能にしている。
そして、さらに対空戦闘能力を高めるために搭載されているのが、ブリタニア空軍の戦闘機をいとも簡単に葬った無人戦闘機Bol-300である。
通常は無線誘導によって戦闘指揮所の飛行士官がこれを操作するが、先ほどのように電子妨害を行っている際にも運用できるよう、ある程度の自律行動を可能にしたプログラミングがなされている。
これら直接的な武装に加え、ブリタニア空軍機のレーダーや通信機を使用不能にせしめた電子妨害装置などによって、シチシガは空中要塞とでも呼ぶべき強固な戦闘システムを構築していた。
その戦闘システムが、遂に回廊要塞へと向けられるのである。
『砲戦準備、整いました。艦長、ご命令を』
戦闘指揮所からの通信が入る。後は、砲撃命令を下すだけだ。
「良かろう。……目標、敵要塞。主砲、撃て!」
キェシェロフスキー大佐が手を振り下ろすと同時、回廊要塞へと向けられた40.6センチ砲が火を噴く。
それは、「ブリタニアの門」の崩壊を告げる号砲であった。
レウスカ首都ポモージェのヴァツワフ街は、中央省庁の立ち並ぶレウスカの政治中枢だ。
そして、ヴァツワフ街の三十番地には戦後すぐに統一連邦軍司令官の住居として建造され、占領軍が撤退するとレウスカに引き渡された「セルスキー・ドム」という名の屋敷がある。
このセルスキー・ドムこそ、レウスカ人民共和国国家評議会議長の公邸であり、現議長であるミハウ・ラトキエヴィチの根城だ。
かつてレウスカに進駐し、社会主義政権の樹立に一役買ったセーロフ元帥が執務を取った部屋には、東側で作られた高級家具が並べられ、反革命的として糾弾されて表舞台から去ったとある画家の絵が飾られている。
これらは全てミハウ・ラトキエヴィチ議長が東側を訪問した際に買い集めたものであり、彼の社会主義に対する情熱度を表していると言って良いだろう。
そんな豪奢な調度品に囲まれたこの部屋に、レウスカ人民海軍総司令官クルシェフスキー上級大将の姿があった。
「それで上級大将、シチシガは順調に作戦を進めているのかね?」
葉巻を吹かせたミハウ・ラトキエヴィチ議長が、本革張りの椅子にもたれ掛かりながら問いかける。
その姿は、国家元首と言うよりはむしろマフィアのボスのようだ。
「はっ。委細順調との報告を受けております」
まるで詰問されるコンシリエーリのような風体のクルシェフスキー上級大将が、額をハンカチで拭きながら答える。
「うむ。今後の報告は、何か問題が起きた時だけで良い。それとここに出向かず、通信で十分だ」
「かしこまりました。では、私はこれで」
二指の敬礼をしたクルシェフスキー上級大将に手を挙げて答礼する。
葉巻を吹かしながらで、明らかに誠意のこもっていない答礼だったが、クルシェフスキー上級大将はそれに対して表情を変えることもなく、そそくさと執務室を後にした。
「クルシェフスキーか……。私に従順なのは良いが、どうも頼りなくていかん。クレツキー辺りと交替させるのも手かも知れんな。――博士はどう思われるかな?」
ミハウ・ラトキエヴィチ議長が虚空に向かって何かを問いかけた――と、見えたその時、部屋の隅に座っていた男性がのっそりと顔を上げた。
整えられた気配もなく、伸び放題に伸びてカールしている白髪。何度も洗濯をしても落ちない汚れでくすみ、すり切れた白衣。
しかし何よりも、髑髏を思い起こさせるような窪んだ眼窩と、ギラギラ妖しく光る眼光が、彼の異様な風体を強調している。
この部屋を監視している者がいたとすれば、何故その異様な存在感に気づかなかったのかと度肝を抜かれたことだろう。
博士と呼ばれたその男性の名は、ミハイル・ムラロフ。
元々は統一連邦の設計局で働いていた技術者で、祖国で廃止となった空中戦艦プロジェクトの設計図を持ってレウスカへと亡命した経緯がある。
ミハウ・ラトキエヴィチ議長は突拍子もないその空中戦艦プロジェクトを気に入り、地中海に浮かぶレウスカ領のポリツェ島を与えて空中戦艦を実際に建造させていた。
空中戦艦「シチシガ」が完成してからは、ムラロフ博士は褒賞として与えられたポモージェの豪邸で休暇中だったのだが、シチシガが戦線投入されたこの日、ミハウ・ラトキエヴィチ議長は彼を自分の執務室に呼び出していたのだった。
そんなムラロフ博士が顔をミハウ・ラトキエヴィチ議長の方へ向け、口元を歪めた。
「私は一介の技術屋に過ぎませんので……。軍の人事に関してご相談されるなら、ソビエスキー元帥閣下などがよろしいのではないですか?」
どこか虚ろさを感じさせるムラロフ博士の言葉に、ミハウ・ラトキエヴィチ議長は鼻で笑った。
「あの男をここに呼びつけるとしたら、それはあいつを解任する時だよ、ムラロフ博士」
「それは失礼しました。……それで閣下、一体どのようなご用件で私を? シチシガの実戦投入で私はお払い箱になったものとばかり思っておりましたが」
そう自嘲しながら、ムラロフ博士が再び口元を歪める。どうやら、これは彼なりの笑みのようだ。――あまりにも禍々しいために、そうとはなかなか分からないが。
「いやいや、博士のような優秀な技術者にはもっと活躍してもらわねば」
「お褒めにあずかり、光栄です」
全くそうは思っていないようなムラロフ博士の口調にも気分を害することなく、ミハウ・ラトキエヴィチ議長が笑顔で口を開く。
「それでここに博士を呼んだ理由だがね、何か必要なものはないかと思って呼んだのだよ。博士ときたら、私が与えたもの以外には何も望まないではないか」
一旦そこで言葉を切ると、体を乗り出し、下卑た笑顔を浮かべる。
「金でも、女でも、地位でも、私が与えられるものなら何でも与えようじゃないか。博士、何が欲しいかね?」
その言葉を聞いたムラロフ博士は、ほんの一瞬――ミハウ・ラトキエヴィチ議長が気づかないほどの瞬間――だけ鋭い目つきになると、初めて声を上げて笑った。
「くははっ……! 私が欲しいものは一つだけですよ、議長閣下」
「……それは何かな、ムラロフ博士」
枯れ果てた老木という雰囲気を漂わせていたムラロフ博士が、突然生き生きとした表情で語り始めたことにどこか寒気を感じながら、ミハウ・ラトキエヴィチ議長が尋ねる。
するとムラロフ博士は立ち上がり、執務机に両手をついて、恍惚の表情でこう言った。
「私の子が街や人を薙ぎ払い、この大陸に破壊をもたらすことです。あの子にその場さえ与えてくだされば、欲しいものなど何もない!」
言い終わるや、ムラロフ博士は狂ったように哄笑し始める。
気圧されたミハウ・ラトキエヴィチ議長は手に持っていた葉巻を取り落とし、塵一つ落ちていない深紅の絨毯に小さな焦げ跡がついた。
いかなる偶然によるのか、はたまた神の悪戯か。
ムラロフ博士が狂ったような笑い声を上げたちょうどその瞬間、ポモージェから遠く離れたブリトン地峡で、彼の作り出したシチシガが回廊要塞の南門をその主砲で吹き飛ばし、ブリタニア本土への道を切り開いた。




