間話 紅の帝国
1991年7月7日、ソヴィエト社会主義共和国統一連邦大統領の声明
現在、国際社会、主にローヴィス諸国ですが、これらが直面している事態は、第二次世界大戦以降で最大の危機であるという認識を持っております。この認識が安保理理事国の間で共有され、本日の会合が開かれたことは我が国として歓迎します。馬・大漢人民連邦外務大臣におかれましては、この重要な会合の開催と議長を務めておられることに謝意を表明しますと共に、スタウニング・環太平洋条約機構中央理事会事務総長の包括的なブリーフィングに感謝いたします。
安保理として、目下最大の懸案事項であるレウスカ事変に関しまして、アームストロング・オーヴィアス連邦外務大臣からご提案のありました対レウスカ非難声明が理事国全体の賛意を以て可決されましたことは、事変の早期終結に向けて安保理が強いメッセージを打ち出したものであり、決議案採択におけるアームストロング外務大臣の卓越したリーダーシップに敬意を表明したいと思います。
しかしながら、レウスカ事変は依然として予断を許さない状況が続いており、事変の早期終結のためには即時の平和的対話が不可欠であります。そのために、主に環太平洋条約機構加盟国の政治指導者が、ラトキエヴィチ・レウスカ人民共和国国家評議会議長との和平交渉に入ることを期待します。
我が国は、先ほどの対レウスカ非難声明に賛成いたしましたが、これはレウスカ事変が早期にかつ平和的に解決するものであると考えたためであります。
我が国としては、引き続き国際社会の平和共存のため、安保理がリーダーシップを取って、事態の打開が為されることを期待しております。
ソヴィエト社会主義共和国統一連邦 大統領 ゲオルギー・ヴァシーリエヴィチ・メニシチコフ
1991年7月10日。この日、統一連邦の首都ブレスクグラードは、気象予報士が言うところの「千年に一度」の大寒波に襲われ、観測史上最速となる初雪に見舞われていた。
「東側の学者は今頃、頭を抱えているのではないかな。地球温暖化がどうの、と叫びだした途端にこの有様だ」
7月だというのに暖房が入れられた部屋に、さざ波のような笑いが起きる。
「冗談はさておきだ。ずいぶんと思い切った手に出たじゃないか、ゲオルギー・ヴァシーリエヴィチ。ロトチェンコがぼやいていたぞ。出番を取られた、とな」
「あれを彼に任せる方が無責任というものだろう、オレグ・ボリソヴィチ」
革張りの豪奢な椅子に座ってタバコを吹かす男性と、執務机の前にこれまた絶妙な具合のクッションを備えた椅子を持ってきて座る男性の二人が会話している。
部屋の豪華さを除けば特に珍しい光景でもないのだが、会話しているその二人の立場はそれこそ歴史の教科書に載るくらいのものだ。
ソヴィエト社会主義共和国統一連邦大統領ゲオルギー・メニシチコフと、同外務大臣オレグ・シルアノフ。
統一連邦共産党の中で、いわゆる改革派と呼ばれるグループに属する大物政治家であり、統一連邦の現在の政治基調である「改革」を推進する人物でもある。
そんな二人が揃えば、茶飲み話と言い張っても誰も信用しないだろう。
事実、彼らの話は多分に政治的なものだった。
「我々はいい加減に現実を見つめるべきなのだ。“紅の帝国”と呼ばれた我らがソヴィエトはもう存在しない。我らがソヴィエトはもはや、痩せ衰えた瀕死の病人に過ぎないのだ」
「理解はしても納得はできんだろう。大戦以来、統一連邦は世界の半分を率いてきたんだ」
シルアノフ外務大臣が苦々しい顔をする。
彼らの言うように、統一連邦はすでに国家としての限界を迎えていた。
すでに二十年近く経済は停滞しており、国民生活は苦しくなっていく一方なのだ。
統一連邦が西側の盟主たる所以であった軍事力も、ハザラスタン紛争における実質的な敗北をきっかけとしてその威信が揺らいでいる。
事実、政治体制が動揺を来していた衛星国を威圧する目的で行われた1986年の統一連邦軍大演習は、衛星国を同盟に繋ぎ止めることができず、結果として1989年以降の西側民主化を導くこととなった。
現時点で西側に留まっているのは西ベルクとレウスカの二つだけだが、西ベルクは東ベルクとの統一を模索しており、レウスカは暴走とも言える侵略行為によって国際情勢を不安定化させている。
つまり、統一連邦が衛星国の手綱を握れなくなった、ということだ。
「レウスカを放置するのは危険だ。ソヴィエトに深刻な影響を及ぼしかねない」
「すでに影響は出ているだろう、ゲオルギー・ヴァシーリエヴィチ。サプチャーク中将は義勇軍などと称しているが、誰がそんな世迷い言を信じるものか」
義勇軍の派遣。統一連邦が戦争に巻き込まれることを考えれば、何としても避けたいことだったのだが、国内政治の都合上、妥協せざるを得なかった。
「どうせ戦うならば、勝ってもらわなければ困る、だったか。オセニエフやスクリャービンの言葉も理解できるのだがね」
オセニエフは副大統領、スクリャービンは国防大臣を務める政治家だ。いずれも共産党において保守派と呼ばれる者たちで、メニシチコフ大統領が進める政治改革に猛反発している。
厄介なのはその保守派が党内で一定の勢力を占めていることであり、また軍部とも深い関わりを持っていることから、どうしても政治問題では配慮しなければならない。
レウスカが起こした今回の戦争に関しては、外交面ではレウスカに和平を結ぶよう圧力をかけつつ、軍事的にはレウスカを支援してPATOに対抗する、という妥協が結ばれていた。
「その点、さっきも言ったが、今回は思い切った手に出たな」
「あのくらいしなければ、レウスカも交渉のテーブルに着こうとしないだろう」
シルアノフ外務大臣が言うところの「思い切った手」とは、つい先日に国連の安全保障理事会で採択された、安全保障理事会決議680号のことだ。
この680号決議は、レウスカのラピス・バーレンへの侵攻を国際法違反と認定し、即時の無条件撤退を要求し、さらに事態打開のための協議を要請する、という極めて踏み込んだ内容となっている。
だが、国際社会の注目はその内容よりも、むしろこの決議案に統一連邦が賛成を表明したことに集まっていた。
従来、安保理の決議において東西の両陣営――とりわけオーヴィアス連邦と統一連邦は、同盟国が非難決議などの対象となった際には拒否権を行使することが通例であった。
これは安保理の機能不全を招く行為であったが、同時に同盟国を守る、という意思を表明するものでもあると考えられてきた。
しかし今回、メニシチコフ大統領は拒否権の行使を選択せず、東側に同調してレウスカを非難する、という驚くべき手段に出たのだ。
「分かっているのか? あの決議はいわば国連からレウスカへの最後通牒だ」
「……分かっているとも。全て覚悟の上だ」
レウスカが決議に従わない場合、国連はレウスカに対する武力制裁を認定することとなる。
統一連邦はレウスカへの武力制裁を支持しながら、一方でレウスカに「義勇軍」として事実上の増援を送り込む、という難しい立場に立たされることとなるのだ。
「国連が武力制裁を認めた程度で、保守派は引かんぞ。むしろ、良い機会とばかりに東側との対立を煽るだろう」
「そうだろうな」
メニシチコフ大統領の返答に、シルアノフ外務大臣が思わず目をむいた。
「おいおい、ゲオルギー・ヴァシーリエヴィチ。ずいぶんあっさりと答えてくれたが、本当に大丈夫なのか?」
その言葉に、メニシチコフ大統領は苦笑しながらこう答えた。
「大丈夫さ。私にも考えはある。だが、今はそれを明かすべき時ではない」
胡散臭そうなものを見る目をメニシチコフ大統領に向けるシルアノフ外務大臣。
「明かすべき時、ねぇ……。まあ、君がそう言うなら、その言葉を信じよう。どうか私の信頼を裏切らないでくれよ?」
「分かっているさ、オレグ・ボリソヴィチ。……さあ、仕事に戻ってくれ。あまり君が長居していると、保守派の奴らの目を引くことになる」
程良く話題が区切れたところで、シルアノフ外務大臣を追い出す。
ヒラヒラと手を振りながら部屋を出て行く彼の背中を見送りながら、メニシチコフ大統領は机の上の電話を手に取り、ダイヤルを回した。
「ジューコフ少将? 私だ。相談したいことがある。近日中に私の執務室まで来てくれ」
ちょうど同じ頃、ザハロヴォ広場に面する国家保安委員会の本部ビルの地下一階に、共産党の保守派と呼ばれるグループの重鎮たちが集まっていた。
革命勃発当時、数多の貴族を拷問・処刑してきたと言われるザハロヴォのKGBビルは、昼間でも不自然に暗い雰囲気を漂わせており、統一連邦の負の側面を体現している。
保守派の重鎮たちが集まったのはそんなKGBビルの地下一階、政治犯収容施設の看守の休憩室を兼ねた会議室だ。
この部屋に彼らを集めた人物――KGBのマルティノフ議長が口火を切る。
「さて、同志諸君。狭いところだが、良く集まってくれた」
「全くだ。腐臭が漂ってくる気分だよ、同志マルティノフ」
皮肉っぽい笑みを浮かべながら言ったのは、ゲンナジー・オセニエフ。統一連邦の副大統領だ。
この他、ピトヴラノフ内務大臣、スクリャービン国防大臣ら保守派の政府首脳や、大統領顧問を務めるコーネフ元帥、さらには国営企業連合会のブハーリン会長のような民間人も参加している。
彼らはメニシチコフ大統領の改革路線に反感を持っており、メニシチコフ体制の打倒と統一連邦による西側同盟の再建を目標としていた。
「冗談を言っている場合かね。メニシチコフの演説は大きな痛手だぞ」
ピトヴラノフ内務大臣が嫌悪感も露わに吐き捨てる。
すると、隣に座るコーネフ元帥も同意した。
「同志ピトヴラノフの言う通りだ。あの演説は、軍事同盟を放棄する、と明言したようなものだぞ」
退役しているとは言え軍人であるだけに、軍事的覇権を打ち捨てるようなメニシチコフ大統領の演説が許せないのだろう。その言葉には怒りがこもっていた。
「まあ落ち着きたまえ、二人とも。同志マルティノフが我らをここに集めたのは、それに対処するためだろう?」
コーネフ元帥の向かいに座るスクリャービン国防大臣が葉巻を吹かしながらそう言うと、マルティノフ議長が頷く。
「その通りだ。まずは、レウスカの現状について説明しておきたい」
そう言うと、マルティノフ議長はそこそこの厚さがある紙の束を列席者に配った。
「詳しいことを読んでもらえば分かるが、レウスカは進撃を停止し、ラピス・バーレンの国境でPATOとの睨み合いを続けている。本来であれば一昨日には侵攻作戦を再開するはずだったが、安保理の非難決議が採択されたために、情勢の変化を見極める、という理由で作戦再開を延期している」
書類にはレウスカの最高会議がずいぶんと紛糾したことも書かれている。
軍部が早期の侵攻再開を主張したのに対し、ミハウ・ラトキエヴィチ議長がそれを拒んだことなど、具体的な会議の内容まで記されていた。
「ふむ。戦争前は軍部が慎重派でラトキエヴィチが主戦派だったはずだが。戦争が始まって入れ替わったのかね?」
ブハーリン会長が顎をさすりながら尋ねる。彼は根っからの企業人であり、軍事や政治にはそれほど詳しくない。ここにいるのも、彼が経済を握っていることに対して、他列席者の配慮が為された結果に過ぎないのだ。
「そういう訳ではない。少しややこしいことにはなっているがな。要は、一旦始めたものは、勢いのある内に進めておきたい、ということだ」
そう言ってブハーリン会長に説明したのはコーネフ元帥だ。前参謀総長ということもあって、軍事だけでなく政治にも明るい人物である。
また、トルナヴァ条約機構軍の司令官を務めていたこともあり、レウスカの内部事情には比較的詳しい方だった。
「彼我の戦力差で言えば、PATOが優位だ。レウスカが勝っているのは、PATOの態勢が整わない内に、電撃的に軍を進めたからに過ぎない。そのアドバンテージを失えば、勝利はPATOに転がり込むだろう」
「同志スクリャービンの言う通りだ。だが、ラトキエヴィチは圧力に屈して和平会談に出るだろう。決裂してくれればそれで良いが、それを期待するだけ、というのも芸がないな」
ピトヴラノフ内務大臣の言葉に、マルティノフ議長がニヤリと笑った。
「決裂させるように仕向ければ良い。そうだろう?」
「そうできれば、苦労はない。何か策があるのか?」
オセニエフ副大統領が不審げな表情で尋ねる。
「チェキストの手は広いのさ、同志オセニエフ。PATOの世論を煽って、過剰な制裁を科すようにしてやる。そうすれば、あの短気なラトキエヴィチのことだ。顔を真っ赤にして、PATOの征服を命令するに違いない」
「いささか迂遠だな。メニシチコフほどの決定力がない」
自信満々の表情で語ったマルティノフ議長の言葉を、ピトヴラノフ内務大臣が鼻で笑いながらバッサリと切って捨てた。この面々で集まった際、しばしば見られる光景である。
権限の重なるところの多い内務省とKGBは伝統的に険悪な関係だ。彼らの仲の悪さも、個人間の感情よりは属する組織の関係性によるところが大きい。
「確かにそうだ。迂遠で、時間もかかるだろう。それが何か問題があるのかね、同志ピトヴラノフ?」
「何だと?」
普段ならば、毒舌の応酬に発展するはずのところ、開き直るように笑ったマルティノフ議長を、ピトヴラノフ内務大臣は思わず目を丸くして見た。
「同志マルティノフ、どういうことかな? 時間をかければかけるほどレウスカは不利になる。これまでの話から、私はそう考えたのだが」
「簡単なことだよ、同志ブハーリン。そもそも、レウスカが勝つ必要などない。そういうことだよ」
マルティノフ議長の言葉に、ブハーリン会長はなおも納得がいかないという表情で首を傾げた。
「どういうことだ? レウスカが負ければ、東側は自分たちに都合の良い政権を立てるだろう。それは、我々の勢力圏が犯されたということになるのではないかね?」
「すでに我々の勢力圏は犯されているよ、同志ブハーリン。メニシチコフが国外に目を向けないおかげで、我らが同盟はもはや解体寸前だ」
「同志オセニエフの言葉通りだ。現在の同盟を取り巻く状況は、結局のところメニシチコフが政権の座に着いていることに起因する。我々が目指すべきは、メニシチコフを大統領の座から引きずり下ろすことだ」
オセニエフ副大統領に続けて、マルティノフ議長は薄い笑みを浮かべて言った。
「メニシチコフを引きずり下ろし、ソヴィエトを立て直す。そうすれば、民主化しつつある国々も動揺するだろう。PATOがレウスカに手一杯であれば、威圧をかけるだけで不安定な民主政権など吹き飛ぶ」
「PATOの動きは鈍い。彼らも、戦争が起きるとは思っていなかっただろうし、起こして欲しくもなかっただろう。我々としても、望むのは勢力圏の維持であって、勢力圏を広げることではない。お互いに戦争をしたくないのなら、手の打ちようはあるだろう」
オセニエフ副大統領の「PATOは統一連邦との戦争には踏み切れない」という見通しは、いささか楽観的ではあるが、PATO諸国に漂う空気感を捉えたものだ。
マルティノフ議長もその言葉に同意した。
「と、なれば、我々が優先すべきはメニシチコフを引きずり下ろすことだ。レウスカはそのための駒の一つに過ぎん」
「簡単に言うが、駒にも意思があるのだぞ? せいぜい足をすくわれないようにして欲しいものだな」
ピトヴラノフ内務大臣の皮肉はいささか精彩に欠けており、出席者たちはそれほど感銘を受けなかったようだ。
「レウスカが勝つならば、東側の勢力は大きく後退する。そうなれば、同盟の再建は十分に可能だ。負けたとしても、勢力圏の失陥を理由としてメニシチコフを追い落としてしまえば良い。一番悪いのは、中途半端な形でさっさとこの戦争が終わってしまうことだ」
「ならばこそ、当面の方針は迂遠であったとしても、和平会談を決裂させるために動く……。そういうことかね?」
ブハーリン会長が尋ねると、マルティノフ議長は満足げに微笑んだ。
「そういうことだ、同志ブハーリン」
「では、国外の対応は引き続き同志マルティノフに委ねるということで異存はないかな、同志諸君?」
マルティノフ議長が全員を招集した用件があらかた片付いたと見るや、オセニエフ副大統領は会議の締めに入った。
ピトヴラノフ内務大臣がやや不服そうな表情をしているが、内務省ではなくKGBが中心となって動いていることへの組織的本能からの反発だろう。異議を唱えることもなかった。
「では、解散だ。同志マルティノフ、万事頼むよ」
「お任せあれ、同志オセニエフ」
オセニエフ副大統領の言葉に、マルティノフ議長が仰々しく一礼する。
その光景を見た出席者たちは、メニシチコフ大統領が政権の座から引きずり下ろされた後、彼ら二人が主導権を握ることを確信した。
「このままではまずい。しかし、こちらには手が……」
陰謀の匂いが染みつくKGBビルの地下から、フルンゼンスカヤ通りに面する内務省ビル最上階の大臣執務室に帰ってきたピトヴラノフ内務大臣は、どこか焦燥したような表情でぶつぶつと独り言を呟いていた。
しばらく呟いていると、扉がノックされる。
ピトヴラノフ内務大臣が「入れ」と言うと、扉が開かれ、妙に疲弊した印象を受ける中年の男性が入ってきた。
「失礼します」
入ってきたのは内務省のナンバー2であるアンドレイ・フリステンコ内務次官だった。
ピトヴラノフ内務大臣の腰巾着と陰口を叩かれている政治家で、事実、彼が内務省における勢力基盤を確固たるものとするため、体の良い駒として扱われている。
「アンドレイ君か。どうかしたのかね?」
ノックされた瞬間に表情を切り替え、如何にも余裕のある大物政治家といった様子で葉巻を吹かし始めたピトヴラノフ内務大臣が尋ねる。
「レウスカ内務省公安部からの情報提供です」
そう言うと、フリステンコ内務次官は脇に抱えていた書類を執務机の上に置いた。
葉巻を灰皿に置いたピトヴラノフ内務大臣がそれを手に取り、読み始める。
「ほう。やはりチェキストも一枚岩ではないようだな。アンドレイ君、見たかね?」
「いえ。どのようなことが書かれていたのでしょうか」
フリステンコ内務次官が眠そうに細められた目で尋ねると、ピトヴラノフ内務大臣がニヤニヤしながら書類を彼に戻した。
「第15局のチェルカスキー局長だ。マルティノフとは仲が悪いらしい」
第15局は政府施設の保安を担当する部局だ。この内務省ビルも、第15局のエージェントが常駐して保安任務に当たっている。
「マルティノフも情けない男だな。部下の手綱も取れんとは」
「KGBは巨大な組織ですから。それより、いかがなさいますか?」
ピトヴラノフ内務大臣が少しだけ考え込み、フリステンコ内務次官の顔を見た。
「今のところは手をつけなくて良いだろう。接触すれば、マルティノフに警戒されかねん」
「かしこまりました。ABPの方には、引き続き情報提供を依頼しておきます」
「うむ。任せたよ」
そう言うと、ピトヴラノフ内務大臣は興味を失ったように再び葉巻を吸い始める。
フリステンコ内務次官は何事かをメモ帳に記すと、「それでは」と言って扉の方へ向かった。
「失礼します」
部屋を出たフリステンコ内務次官の眠そうな瞳が、扉を閉めた瞬間に鋭い目つきに変わる。
「部下の手綱も取れん情けない男、か。痛烈な皮肉だな、同志内務大臣」
低く呟いたフリステンコ内務次官が、内務省ビルの暗い廊下を歩く。予算不足の煽りを受け、電球交換が後回しにされた結果としてこのビルの廊下はどこも電気が付いていない。
フリステンコ内務次官は携帯電話を取り出すと、専属の運転手に電話をかけた。
「内務省ビルの正面玄関に車を回してくれ」
五分後、フリステンコ内務次官は寒々しいブレスクグラードの大通りを、黒塗りのリムジンで走っていた。
季節外れの初雪に見舞われたブレスクグラードは人影もまばらで、大通りには数えるほどの車しか走っていない。
そんな大通りを走っていたリムジンが、「子どもの王国」という名の百貨店に面した交差点で右へ曲がる。曲がる時、車は止まるのではないかという程の速度まで減速した。
曲がりきったリムジンが再び加速しようとしたその時、リムジンの右側の扉が開かれ、黒いコートに身を包んだ男性がフリステンコ内務次官の隣に座った。
「やあ、同志。失礼するよ」
「ようこそ、同志。外は寒かっただろう?」
黒いコートを脱いだ男性の服装は、KGBの制服だった。肩には少将であることを示す一つ星が刺繍されている。
彼こそ、つい十分ほど前のピトヴラノフ内務大臣とフリステンコ内務次官の会話で出てきた、KGB第15局局長ニキータ・チェルカスキー少将だ。
保守派の内務官僚と改革派のKGB高官という、敵対要素しか持ち合わせていない二人は、しかしまるで十年来の友人のように、笑顔で挨拶を交わした。
「マルティノフ議長はどうだった?」
「ずいぶんとご機嫌だったよ。メニシチコフ大統領を追い落として政権の座につくのは、彼の中ではすでに既定路線らしい」
骨張った顔立ちのチェルカスキー少将が、唇を歪める。
「私の上司は焦っていたようだな。葉巻を吹かして余裕を装っていたが、ずいぶん早口だったし、しきりに髪をいじっていたからな」
「まあ、焦りもするだろう。副大統領と議長の二頭体制が会議の中で主流になりつつあるらしい」
「詳しいな。君はマルティノフ議長に嫌われているはずだが?」
ニヤリと笑ってフリステンコ内務次官がからかうと、チェルカスキー少将は肩をすくめた。
「第2総局のトレチャコフ中将とは仲が良いんだ。同志議長は政府施設での密談をさっさと止めた方が良いと思うね」
第2総局は国内の保安や防諜を担当している部局であり、盗聴による国民の監視なども担当している。
局長のトレチャコフ中将は現行のメニシチコフ体制に必ずしも好意を持っていないが、保守派のように政権転覆を目論む輩にも嫌悪感を抱いている。
そのため、保守派の密談内容はトレチャコフ中将の腹心の手配によって盗聴され、それとなく改革派へと流されていた。
「トレチャコフか……。あまり信用しすぎるなよ? 彼はあくまでも現状維持を良しとするだけで、改革派への好意でやっている訳ではないはずだ」
「分かっている。こちらの動向も漏れているだろう。……保守派の方も、情報漏れは織り込み済みのはず。その上で、あの会談だ。よほど自信があるのだろうな」
それまでニコニコと笑っていたチェルカスキー少将が表情を険しくした。
フリステンコ内務次官も同様に、苦虫を噛み潰したような表情をする。
「……やはりクーデターか?」
「分からん。クーデターでは先行きが不透明だ。不確実な手段に頼るとも思えないが……」
「アルファ部隊は? あそこが動けばブレスクグラードの主要施設は抑えられる」
アルファ部隊――正式名称「破壊工作課Aグループ」はテロリストや過激派に対抗するために設立されたKGBの特殊部隊である。
彼らの任務の中には過激派によって占拠された国家施設の制圧なども含まれており、彼らが協力すれば、まず間違いなくクーデターは成功するだろう。
「アルファ部隊のザイツェフはどちらの側にもつかないが……いや、状況次第では分からんか」
ため息をつくチェルカスキー少将。
二人が黙りこくり、気まずい沈黙が降りようとしたその時、リムジンがどこかの地下に入った。リムジンが止まり、運転手が降りてきて扉を開く。
「ん、着いたか。ご苦労だった、ミーチャ」
気まずい雰囲気を打ち消すように、そそくさとリムジンを降りるフリステンコ内務次官。
チェルカスキー少将がそれに続いて降りると、運転手はリムジンに戻り、地上へと走り去った。
残された二人は薄暗い地下にぽつんと据え付けられた扉を開き、中に入る。
扉を開けた向こうは階段になっており、それを上がると統一連邦では極めて一般的なアパートの一室に出た。
二人の内のどちらかの家だとすればいささか貧相と言えるだろうが、もちろん彼らの家ではない。
ここは彼らの雇い主が用意したセーフハウスだ。何の変哲もないアパートのようだが、本棚に収められたいくつかの本をある順番で抜くと、本棚の向こうにある隠し部屋が現れる仕掛けになっている。
二人はその隠し部屋に入り、本棚を元に戻すと、フリステンコ内務次官が据え付けられていた通信機の前に座った。
「……こちら、ラムゼイ。フルンゼンスカヤ駅から定刻通り出発。ベラセルツキー駅からの特等電車を待つ」
それだけ言うと、フリステンコ内務次官は通信機を切る。
「相変わらず間の抜けた暗号文だ」
「仕方ないだろう。ドヴィナ駅からの電信ということになっているんだから」
呆れたようなチェルカスキー少将の声にフリステンコ内務次官が答えると、通信機の横にあったファクシミリのような機械が、無造作にパンチで穴の開けられた細長い紙を吐き出し始めた。
「ベラセルツキー駅からの返信か。ずいぶん早いな」
「いつも通り、異常なしだ。向こうも指示は変わらんさ」
そう言ったフリステンコ内務次官が、パンチ穴の開いた紙を別の機械に読み込ませる。すると、その機械が整然とした文章を記した一枚の紙を吐き出した。
そこには、レウスカ人民共和国が誇る情報機関ABPの長官であるミロスワフ・ラトキエヴィチからの通信文が記されていたのである。
「ふむ。和平会談を順調に進めさせるためには、サプチャークの義勇軍団がどうにも邪魔らしい」
「当然だな。奴はスペツナズを使ってPATOとレウスカが睨み合う前線を引っかき回している」
KGBを通じて遥か東方の状況に精通するチェルカスキー少将が吐き捨てるように言った。
「それで? 同志長官はどうしろと言っている?」
「保守派を適当に内部分裂させて欲しいそうだ。さて、どうするか」
腕を組んで考え込むフリステンコ内務次官。
と、チェルカスキー少将が何かを思いついたように顔を上げた。
「政治将校はどうだ? 義勇軍団には確か派遣していなかったよな?」
チェルカスキー少将の言葉に、フリステンコ内務次官が渋い顔をする。
「そんなことをすれば、我が国の介入色が強まるだろう」
「保守派がやるなら、むしろ好都合さ。少なくとも同志内務大臣は賛成するはずだ」
前線で功績を挙げているサプチャーク中将は、中央に帰還すれば保守派の中でかなり有力な立場を得ることになる。
現時点でさえ、保守派の主導権を握ろうと躍起になっているピトヴラノフ内務大臣が、彼を疎ましく思うことは確実だ。
政治将校を派遣することで、その頭を何とか押さえつけよう、という提案に乗る可能性は高い。
そのことをチェルカスキー少将が説くと、フリステンコ内務次官も頷いた。
「……それもそうか。やってみても損はないな」
「俺も同志議長に提案してみる。上手く行けば、KGBが派遣した政治将校と国内軍から派遣した政治将校が義勇軍団を引っかき回してくれるだろう」
方針を決めた二人は、本棚を押して隠し扉を開き、抜いていた本を戻して部屋を元の状態にして、通りを一周して地下駐車場に帰ってきているはずのリムジンへと戻っていった。
彼ら二人は、レウスカとPATOの戦争を早期に終結させ、統一連邦が戦争に巻き込まれることなく現状を維持することを望んでいる。
そのために、同じ志を持っているABPのミロスワフ・ラトキエヴィチ長官に協力し、ABPのエージェントとして内務省やKGBで暗躍していた。
しかし、彼らなりに祖国を案じて取ったその行動は、ミロスワフ・ラトキエヴィチの秘めた思惑によって思わぬ事態を巻き起こすこととなる。
1991年7月10日。「千年に一度」の大寒波に襲われたブレスクグラードでは、様々な思惑が入り乱れ、「紅の帝国」を軋ませていた。




