夫が暇さえあればローマ風呂に通う理由〜男湯の壁の向こうはパクス・ロマーナでした〜
「ちょっと、テルマエ行ってくる」
日曜の昼下がり、夫の修二は、生成りのキャンバス地のバッグを肩にかけて玄関に立った。バッグの中身は見なくてもわかる。吸水性の高い粗品タオルが二本、オリーブオイル配合の固形石鹸、そしてなぜか使い古した木製の櫛だ。
「またテルマエ? あそこ、うちから歩いて二十分もかかるじゃない。駅前の炭酸泉のほうが近いのに」
アイロンがけの手を止めずに言うと、修二は靴べらを鳴らしながら、まるで教壇に立つ教授のようなもったいぶった調子で振り返った。
「佳乃、あそこはただの銭湯じゃないんだ。『クアハウス・テルマエ・ローマ』だ。浴場の天井を見てみろ。漆喰で塗られたドーム型穹窿の美しさ、そして中央に鎮座するアポロン像の威厳。あそこには、帝政ローマの魂が宿っているんだよ」
「ただの昭和五十年代に建てられたスーパー銭湯の生き残りでしょ。アポロン像の鼻、欠けてるじゃない」
「あの欠け方がヘレニズム期のリアリズムを想起させるんだ」
真顔でわけのわからないことを言って、修二は軽やかな足取りで出ていった。
結婚して四年。修二は普段、食品商社の総務部で書類の山と格闘しているごく地味な男だ。愚痴も言わず、ギャンブルもせず、酒も嗜む程度。しかし半年前、近所の路地裏にある老朽化した健康ランド「クアハウス・テルマエ・ローマ」の暖簾をくぐって以来、彼の休日はすべて古代ローマに侵食されていた。
暇さえあればローマ風呂。
雨が降れば「雨の日のカラカラ浴場もまた一興」と出かけ、残業で遅くなれば「チルコ・マッシモ(満員電車)で削られた精神をカルダリウム(高温浴室)で再生する」と消える。
一体、男があそこで何時間も何をしているというのか。まさか、怪しい社交場にでもなっているのではあるまいか。
胸に小さな疑念が芽生えた私は、アイロンの電源を落とし、財布と手拭いを引っ掴んで家を出た。
◇
「クアハウス・テルマエ・ローマ」の看板は、赤と白のネオンが半分切れていた。入り口には申し訳程度のイオニア式円柱が二本、ひび割れたコンクリートの壁を支えている。
下駄箱に靴を預け、番台で入浴料を払う。女湯の脱衣所を抜け、ガラス戸を引いた。
中はもうもうたる湯気だった。壁面には色褪せたモザイクタイルでコロッセオとトレビの泉が描かれ、中央の丸い浴槽の真ん中には、確かに鼻の欠けた石膏のアポロンが立ち尽くしている。
客は私の他に、腰に湿布を貼った近所のおばあさんが二人だけ。湯船に浸かりながら、私は男湯との境にある高いタイル壁に耳を澄ませた。
――男湯からは、驚くほど活気のある声が響いていた。
「おい、マルクス! 今日のフリギダリウム(水風呂)は何度だ?」
「報告します執政官殿、十六度です! チベリス川の雪解け水を思わせる引き締まり具合です!」
「うむ、大義である。まずはテピダリウム(中温浴室)で毛穴を開かせ、しかるのちに熱気浴へと進軍するぞ!」
……マルクス? 執政官?
湯気に煙る壁の向こうで交わされているのは、我が夫の声と、もう一人、野太い老人の声だった。
私は息を潜め、タイルの通気口の近くへじりじりと擦り寄った。
「修二さん、いや失礼、フラウィウス殿」
別の、少し若そうな男の声がした。
「今日の午後、サウナ室の最上段を確保したいのですが、あの常連のハゲタカ……いや、元老院の長老がすでに陣取っておりまして」
「焦るな、ブルータス」
夫の声だ。いつになく低く、落ち着き払った、威厳に満ちた声だった。
「力押しは蛮族のやり方だ。まずは薬湯の香りを胸いっぱいに吸い込み、汗腺のウォーミングアップを図れ。長老とて人間だ。十分も経てば、冷水を求めて陣を退く。我らはその間隙を縫って、第三波の熱波を浴びるのだ」
「ははっ! さすがは歴戦の浴者!」
バシャーン、と豪快な湯の音が響く。
「さあ市民たちよ、身体を清めよ! オリーブ石鹸を泡立てるのだ! 背中を流し合うことこそ、パクス・ロマーナ(ローマの平和)の礎である!」
「おおーっ!」という野太い男たちの歓声が、ドーム型の天井に反響した。
私は湯船の中で、あんぐりと口を開けた。
何をしているのかと思えば――ごっこ遊びだ。
大の男たちが、素っ裸で、真面目くさった顔をして「古代ローマの市民ごっこ」に興じているのだ。
さらに聞き耳を立てていると、夫はどうやらこの「テルマエ・ローマ」における精神的指導者、すなわち皇帝あるいは執政官のようなポジションに祭り上げられているらしかった。
「フラウィウス殿、我が家の家庭菜園で採れたイチジク……ではないが、美味いプチトマトがあるんだ。風呂上がりにロビーで食わんか」
「ありがたく受け取ろう、カエサル殿。私は冷えた瓶牛乳の調達を命じておこう」
「あ、フラウィウスさん、背中流しましょうか?」
「すまないね、ブルータス。だが裏切るなよ? 『ブルータス、お前もか』と叫ぶ羽目になるからな」
「あっはっは、歴史的ジョークですな!」
笑い声がドッと湧き上がる。
男湯の男たちは、仕事の肩書きも、年収も、家庭の鬱陶しい現実もすべて脱衣所のロッカーに脱ぎ捨て、ただの「湯を愛するローマ市民」として、互いの背中を流し、サウナの熱気に耐え、水風呂の冷たさを讃え合っていたのだ。
会社で中間管理職として上と下に挟まれ、胃を痛めている修二。
家では私の顔色を窺い、控えめにテレビのチャンネルを変える修二。
そんな彼が、ここでは胸を反らし、トガならぬ白い温泉タオルを肩にかけ、見ず知らずの男たちを率いて平和を統治している。
……なんだか、馬鹿らしくて、そして少しだけ愛おしくなった。
◇
一時間後、服を着替えてロビーのベンチに座っていると、男湯の暖簾をくぐって修二が出てきた。
顔を上気させ、髪をオールバックに撫で付けた彼は、実に晴れやかな、征服事業を成し遂げた将軍のような顔をしていた。隣には、ランニングシャツ姿の見知らぬおじいさんと、ジャージ姿の若い男が従っている。
「では市民諸君、また来週の安息日に」
「うむ、良き湯であったな、フラウィウス殿」
満足げに頷き合い、自販機へ向かおうとした修二の足が、ピタリと止まった。
ベンチに座り、冷たいコーヒー牛乳のストローをくわえて彼を見上げる私と、目が合ったからだ。
「……よ、佳乃?」
将軍の威厳は、コンマ一秒で霧散した。
修二の肩がキュッと縮み、いつもの情けない、小心者の夫に戻る。
「な、なんでここに……」
「テルマエの視察よ、執政官殿」
私が静かに言うと、修二は「ヒッ」と喉を鳴らし、みるみるうちに耳の先まで真っ赤にした。どこから聞かれていたのかを頭の中で高速シミュレーションしているらしく、視線が泳ぎまくっている。
「あ、あの……これは、その、サウナのコミュニティというか、いわば男たちのロールプレイングであってだな……!」
「いいんじゃない?」
立ち上がり、空になったコーヒー牛乳の瓶をゴミ箱に捨てる。
「何が?」
「パクス・ロマーナ。平和で結構なことじゃない」
私は呆気に取られる修二の横を通り過ぎ、下駄箱へ向かった。
「ほら、帰るわよ、フラウィウス。今日の夕飯は、あなたが大好きなアクアパッツァ……じゃなくて、サバの味噌煮だから。早く帰って米研ぎなさい」
修二は一瞬ポカンとした後、脱衣所で見せたのとはまた違う、年相応の少年のように相好を崩した。
「ははっ! ただちに馳せ参じます、我が妻!」
少し誇らしげに胸を張った夫と並んで、私たちは秋風の吹き抜ける夕暮れの道を、家に向かって歩き出した。




