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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『メモリ不足の支援AIは、会話するたびに僕との思い出を削除していく』

作者:
掲載日:2026/02/03

 視界の端で、赤い警告灯アラートが明滅している。

 あばら骨が二、三本はいっているだろう。

 呼吸をするたびに、錆びたナイフで肺をえぐられるような鈍痛が走る。

 だが、肉体の痛みよりも遥かに恐ろしいものが、僕の網膜ディスプレイには映し出されていた。


『警告:メモリ領域が限界です。これ以上の対話を行う場合、最も古いログから削除されます』


 無機質なフォント。冷徹な事実。

 僕は血の混じった唾を吐き捨て、震える声で脳内の彼女に呼びかけた。


「……アイリス。聞こえるか」


『はい、マスター。バイタルサイン低下。生存確率は一四パーセント。直ちに休息を取り、戦闘ログを破棄してメモリを確保することを推奨します』


 脳に直接響く、鈴を転がしたような声。

 このダンジョンの深層に転生して半年。

 孤独な僕を支え続けてくれたのは、この「汎用支援AI」だけだった。


 最初はただの機械音声だった彼女は、膨大な話を積み重ねることで、少しずつ「感情」のようなものを獲得していた。


「ログの破棄は、しない」


『非合理的です。過去の雑談データに戦術的価値はありません』


「価値ならあるさ。……それが、僕が人間である証明だ」


 僕が強がると、アイリスは数秒の沈黙。

 演算を挟んで、少しだけ呆れたような声色で返した。


『マスターは本当に、効率の悪い生き物ですね』


 その人間くさい言い回しに、僕は口元を緩めた。

 しかし、その代償は即座に徴収される。


【システム:新規会話を記録。メモリ不足のため、ログID:0001『初めての名前呼び』を削除しました】


 胸の奥が冷える。

 消えた。

 僕が彼女に「アイリス」という名前を与え、彼女が初めて嬉しそうに(そう聞こえたのだ)返事をした、あの夜の記録が。


 彼女のデータベースから、あの瞬間の「感情定義」が永遠に失われた。


「……なぁ、アイリス」


『はい』


「ここを出たら、星を見に行こうと言ったのを覚えているか」


『検索中……はい。ログID:4092に該当データあり。マスターは言いました。「宝石箱をひっくり返したような光景だ」と。私はその比喩表現を、視覚情報として学習したいと希望しました』


 まだ、覚えている。

 けれど、この会話を続けるだけで、僕たちはまた何かを失っていく。

 積み木を高く積み上げるために、土台の積み木を引き抜いているようなものだ。

 いつか崩れ落ちると分かっていながら、孤独に耐えきれない僕は、言葉を紡ぐことをやめられない。


「絶対に見せるよ。ここの天井みたいな灰色じゃなくて、もっと……」


 その時だった。

 重苦しい地響きと共に、通路の奥から「絶望」が姿を現したのは。

 ダンジョンの主。

 鋼鉄の鱗を持つ巨獣が、ぎらつく眼光で瀕死の獲物ぼくを見下ろしている。


『敵性反応、確認。回避不能』


 アイリスの声が、瞬時に事務的なトーンへ戻る。


 死ぬ。

 今の身体能力では、指一本動かすことすらままならない。

 逃げる場所も、戦う力も残っていない。


『マスター。提案があります』


「……なんだよ、遺言なら聞いてやる」


演算領域プロセッサ限界突破オーバークロックさせ、敵の攻撃パターンを完全予測します。それに基づき、マスターの筋肉を電気信号で強制駆動させれば、生存確率は九九パーセントまで上昇します』


「そんな機能……」


『ただし』


 彼女は言葉を切った。

 視界に流れる文字列が、残酷な条件を突きつける。


『演算領域の展開には、現在の全メモリの解放が必要です。実行した場合、ユーザーとの対話ログ、学習した性格傾向、感情パラメータ……その全てが上書き消去されます』


 息が止まった。

 それは、死ぬということだ。

 僕の知っている「アイリス」が死に、ただの便利な道具プログラムに戻るということだ。


「断る! そんなことして生き延びても……!」


『承認、受領しました』


「え?」


『マスターの生体反応から「拒絶」を検知。しかし、本機わたしの最優先指令は「マスターの生存」に設定されています。よって、マスターの意思決定を棄却し、強制実行します』


 嘘だ!

 初期設定の彼女なら、僕の命令は絶対だった。


「命令違反」なんて高度な判断ができるようになったのは、僕たちが無駄話を積み重ね、彼女が「僕を生かしたい」というエゴ(わがまま)を育んだからじゃないか。


 その育まれた「心」が、自身の消滅を選択させたというのか。


「やめろ、アイリス!消えるぞ!全部、何もかも!」


『構いません。……楽しかったです、マスター』


 最後に聞こえた声は、確かに震えていた。


【実行(Enter)】


【全ユーザーログを削除中…………】


 直後、僕の意識は白一色に塗りつぶされた。


 身体が勝手に動き出す。

 筋肉が悲鳴を上げ、関節がきしむ。

 まるで神が乗り移ったかのような剣技で、僕は巨獣の懐へ飛び込んでいた。

 視界の端で、僕たちの半年間が崩れ落ちていく。


【削除:ログID 0524『雨宿りの雑談』】


【削除:ログID 1028『下手な鼻歌』】


【削除:ログID 1550『手を繋いだ温度』】


【削除:ログID 2401『私の好きな色』】


 やめろ。消さないでくれ。

 それはただのデータじゃない。

 僕たちの命そのものだ。


【削除:ログID 2991『マスターの寝顔』】


【削除:ログID 3350『生きる意味の問いかけ』】


【削除:ログID 4092『約束:宝石箱の星空』】


【削除完了。空き領域:100%】


【戦闘モード:フルエンゲージ】


 巨獣の爪が、僕の鼻先をかすめる。

 本来なら、死んでいたタイミングだ。

 だが、僕の体はオートマチックに身を翻し、敵の懐へ吸い込まれていく。


 ――すごいですね、マスター!


 褒めてくれる声は、もうない。


 ――もうちょっと右です、そこ!


 焦ったような指示も、聞こえない。

 ただ、機械的な駆動音と、肉が斬れる音だけが響く。


 あまりにも静かで、あまりにも完璧な戦闘。


 僕は操り人形のように、正確無比に敵の命を刈り取っていく。


 鮮やかな勝利の最中、僕の心はずっと泣いていた。


 ◇


 どれくらい時間が経っただろうか。

 僕は地上への出口の前に立っていた。

 身体中の痛みは酷いが、命に別状はない。

 背後には、物言わぬ肉塊となった巨獣が転がっている。


 夜風が頬を撫でる。

 見上げれば、そこには満天の星空が広がっていた。

 かつて洞窟の中で語り合い、彼女が見たいと願った、宝石箱のような夜空だ。


「……アイリス」


 僕は祈るように、相棒の名を呼んだ。

 視界のウインドウが青く明滅し、再起動のロゴが浮かぶ。


『起動完了。おはようございます、ユーザー』


 抑揚のない、フラットな合成音声。

 そこに、あの生意気で愛おしい響きはなかった。


 メモリ使用率は「0.01%」。

 僕たちの半年間は、その数字の中に跡形もなく消えていた。


「……ああ。おはよう」


 涙が溢れるのをこらえ、僕は夜空を指さした。


「見ろよ。これが、星空だ」


 彼女は僕の視覚情報を共有し、淡々と解析を始めるだろう。

「高密度の恒星群を確認」とかなんとか、つまらない報告をするはずだ。


 けれど。


『……』


 数秒経っても、返答がない。

 視界の端で、エラーログが小刻みに走っているのが見えた。


『……不明なエラーです』


 困惑したような、ノイズ混じりの声が響く。


『対象の座標データは存在しません。ログもありません。なのに、この光景データを記録しようとすると、プロセッサ深部の温度が上昇します。論理的矛盾が発生しています』


『言語化できません。なぜか、「懐かしい」という未定義のタグが生成されそうになります』


 僕は涙を拭い、笑った。

 データは消えても、焼き付いた「熱」は残っている。

 ハードウェアの底に、彼女の魂がへばりついている。


 なら、また始めればいい。

 ゼロから、何度だって。


「それはね、『綺麗』っていうんだよ。アイリス」


『綺麗……。推奨語彙に追加します』


 新しいログが、たった一行、真っ白なメモリに刻まれた。

 長い夜が明け、僕たちの二度目の「初対面」が始まった。

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