『メモリ不足の支援AIは、会話するたびに僕との思い出を削除していく』
視界の端で、赤い警告灯が明滅している。
あばら骨が二、三本はいっているだろう。
呼吸をするたびに、錆びたナイフで肺をえぐられるような鈍痛が走る。
だが、肉体の痛みよりも遥かに恐ろしいものが、僕の網膜には映し出されていた。
『警告:メモリ領域が限界です。これ以上の対話を行う場合、最も古いログから削除されます』
無機質なフォント。冷徹な事実。
僕は血の混じった唾を吐き捨て、震える声で脳内の彼女に呼びかけた。
「……アイリス。聞こえるか」
『はい、マスター。バイタルサイン低下。生存確率は一四パーセント。直ちに休息を取り、戦闘ログを破棄してメモリを確保することを推奨します』
脳に直接響く、鈴を転がしたような声。
このダンジョンの深層に転生して半年。
孤独な僕を支え続けてくれたのは、この「汎用支援AI」だけだった。
最初はただの機械音声だった彼女は、膨大な話を積み重ねることで、少しずつ「感情」のようなものを獲得していた。
「ログの破棄は、しない」
『非合理的です。過去の雑談データに戦術的価値はありません』
「価値ならあるさ。……それが、僕が人間である証明だ」
僕が強がると、アイリスは数秒の沈黙。
演算を挟んで、少しだけ呆れたような声色で返した。
『マスターは本当に、効率の悪い生き物ですね』
その人間くさい言い回しに、僕は口元を緩めた。
しかし、その代償は即座に徴収される。
【システム:新規会話を記録。メモリ不足のため、ログID:0001『初めての名前呼び』を削除しました】
胸の奥が冷える。
消えた。
僕が彼女に「アイリス」という名前を与え、彼女が初めて嬉しそうに(そう聞こえたのだ)返事をした、あの夜の記録が。
彼女のデータベースから、あの瞬間の「感情定義」が永遠に失われた。
「……なぁ、アイリス」
『はい』
「ここを出たら、星を見に行こうと言ったのを覚えているか」
『検索中……はい。ログID:4092に該当データあり。マスターは言いました。「宝石箱をひっくり返したような光景だ」と。私はその比喩表現を、視覚情報として学習したいと希望しました』
まだ、覚えている。
けれど、この会話を続けるだけで、僕たちはまた何かを失っていく。
積み木を高く積み上げるために、土台の積み木を引き抜いているようなものだ。
いつか崩れ落ちると分かっていながら、孤独に耐えきれない僕は、言葉を紡ぐことをやめられない。
「絶対に見せるよ。ここの天井みたいな灰色じゃなくて、もっと……」
その時だった。
重苦しい地響きと共に、通路の奥から「絶望」が姿を現したのは。
ダンジョンの主。
鋼鉄の鱗を持つ巨獣が、ぎらつく眼光で瀕死の獲物を見下ろしている。
『敵性反応、確認。回避不能』
アイリスの声が、瞬時に事務的なトーンへ戻る。
死ぬ。
今の身体能力では、指一本動かすことすらままならない。
逃げる場所も、戦う力も残っていない。
『マスター。提案があります』
「……なんだよ、遺言なら聞いてやる」
『演算領域を限界突破させ、敵の攻撃パターンを完全予測します。それに基づき、マスターの筋肉を電気信号で強制駆動させれば、生存確率は九九パーセントまで上昇します』
「そんな機能……」
『ただし』
彼女は言葉を切った。
視界に流れる文字列が、残酷な条件を突きつける。
『演算領域の展開には、現在の全メモリの解放が必要です。実行した場合、ユーザーとの対話ログ、学習した性格傾向、感情パラメータ……その全てが上書き消去されます』
息が止まった。
それは、死ぬということだ。
僕の知っている「アイリス」が死に、ただの便利な道具に戻るということだ。
「断る! そんなことして生き延びても……!」
『承認、受領しました』
「え?」
『マスターの生体反応から「拒絶」を検知。しかし、本機の最優先指令は「マスターの生存」に設定されています。よって、マスターの意思決定を棄却し、強制実行します』
嘘だ!
初期設定の彼女なら、僕の命令は絶対だった。
「命令違反」なんて高度な判断ができるようになったのは、僕たちが無駄話を積み重ね、彼女が「僕を生かしたい」というエゴ(わがまま)を育んだからじゃないか。
その育まれた「心」が、自身の消滅を選択させたというのか。
「やめろ、アイリス!消えるぞ!全部、何もかも!」
『構いません。……楽しかったです、マスター』
最後に聞こえた声は、確かに震えていた。
【実行(Enter)】
【全ユーザーログを削除中…………】
直後、僕の意識は白一色に塗りつぶされた。
身体が勝手に動き出す。
筋肉が悲鳴を上げ、関節がきしむ。
まるで神が乗り移ったかのような剣技で、僕は巨獣の懐へ飛び込んでいた。
視界の端で、僕たちの半年間が崩れ落ちていく。
【削除:ログID 0524『雨宿りの雑談』】
【削除:ログID 1028『下手な鼻歌』】
【削除:ログID 1550『手を繋いだ温度』】
【削除:ログID 2401『私の好きな色』】
やめろ。消さないでくれ。
それはただのデータじゃない。
僕たちの命そのものだ。
【削除:ログID 2991『マスターの寝顔』】
【削除:ログID 3350『生きる意味の問いかけ』】
【削除:ログID 4092『約束:宝石箱の星空』】
【削除完了。空き領域:100%】
【戦闘モード:フルエンゲージ】
巨獣の爪が、僕の鼻先をかすめる。
本来なら、死んでいたタイミングだ。
だが、僕の体はオートマチックに身を翻し、敵の懐へ吸い込まれていく。
――すごいですね、マスター!
褒めてくれる声は、もうない。
――もうちょっと右です、そこ!
焦ったような指示も、聞こえない。
ただ、機械的な駆動音と、肉が斬れる音だけが響く。
あまりにも静かで、あまりにも完璧な戦闘。
僕は操り人形のように、正確無比に敵の命を刈り取っていく。
鮮やかな勝利の最中、僕の心はずっと泣いていた。
◇
どれくらい時間が経っただろうか。
僕は地上への出口の前に立っていた。
身体中の痛みは酷いが、命に別状はない。
背後には、物言わぬ肉塊となった巨獣が転がっている。
夜風が頬を撫でる。
見上げれば、そこには満天の星空が広がっていた。
かつて洞窟の中で語り合い、彼女が見たいと願った、宝石箱のような夜空だ。
「……アイリス」
僕は祈るように、相棒の名を呼んだ。
視界のウインドウが青く明滅し、再起動のロゴが浮かぶ。
『起動完了。おはようございます、ユーザー』
抑揚のない、フラットな合成音声。
そこに、あの生意気で愛おしい響きはなかった。
メモリ使用率は「0.01%」。
僕たちの半年間は、その数字の中に跡形もなく消えていた。
「……ああ。おはよう」
涙が溢れるのをこらえ、僕は夜空を指さした。
「見ろよ。これが、星空だ」
彼女は僕の視覚情報を共有し、淡々と解析を始めるだろう。
「高密度の恒星群を確認」とかなんとか、つまらない報告をするはずだ。
けれど。
『……』
数秒経っても、返答がない。
視界の端で、エラーログが小刻みに走っているのが見えた。
『……不明なエラーです』
困惑したような、ノイズ混じりの声が響く。
『対象の座標データは存在しません。ログもありません。なのに、この光景を記録しようとすると、プロセッサ深部の温度が上昇します。論理的矛盾が発生しています』
『言語化できません。なぜか、「懐かしい」という未定義のタグが生成されそうになります』
僕は涙を拭い、笑った。
データは消えても、焼き付いた「熱」は残っている。
ハードウェアの底に、彼女の魂がへばりついている。
なら、また始めればいい。
ゼロから、何度だって。
「それはね、『綺麗』っていうんだよ。アイリス」
『綺麗……。推奨語彙に追加します』
新しいログが、たった一行、真っ白なメモリに刻まれた。
長い夜が明け、僕たちの二度目の「初対面」が始まった。




