第一話
荒野の乾いた大地を、一人の華奢な影が進んでいた。ボロボロのフードを深く被り、隙間から覗く漆黒の髪が風に揺れている。点在する巨岩を避けるように、ゆっくりと、それでも確かな足取りで目的地へと向かっていた。
突然、背後の岩の一つから微かな気配。少年は立ち止まり、振り返る。振り向いても、そこにあるのはただの岩のはずだった。しかし少年は巨大な岩を睨みつける。
「気付いてるよ。出てきな。」
刹那、巨大な岩が爆ぜるように砕け、砂塵が舞う。中から黒く靄がかった『者』が現れた。
「أيها الغريب، من تكون؟」
目の前に立ちはだかる『者』を無表情でただ見つめる。ギラギラとした赤い目を向ける『者』に少年は訊く。
「何か言い残すことはある?」
しかし背丈の大きな『者』はニヒルな笑みを滲ませて、少年を煽る。
「من أي أرض أنت؟」
その瞬間、その姿は少年の踵落としを喰らい、霧となって掻き消えた。
「普通、最期に出身地を訊くかな?」
足元にはまだ蠢く妖気が残っている。少年は静かに唱える。同時に印を結ぶ。左腕の血管が鼓動を打つように浮き出ていく。
「بسم الله، أعوذ بالله من الشيطان الرجيم」
アッラーの御名において、呪われたシャイターンからアッラーに保護を求める。
少しずつ散るように、静かに、確かに、そして美しくその気配は消え去った。
彼は砕けた岩の一つに手を添え、その破片を避けるように歩みを進める。何事もなかったかのようにただ静かに。
ゆっくりと歩幅を広げ速度を上げていく。蹴り進む乾いた砂は小さな砂埃を立てていく。ほぼ真上にある太陽は少年の黒髪を熱する。彼が目指しているのは、たった一つの帰り道である。
時を変えずして、場所は日本。列島の中心に位置する土地。
今日も、朝が来た。いつものように目を覚まして、軽く山を登って怜利の屋敷へ向かう。そこで食べる朝ご飯が美味しくてたまらない。
同級生の友達が作っているとは思えない味なんだ。それが毎日食べに行く理由だよ。
「おはよー彩~!」
屋敷の門の下をくぐって、いつもの入り口を開けていく。
皆集まってくる。
「成羅様、おはようございます、私どもが開けますので、中へお上がりください。」
門番のはずなハルがそう言ってくれる。怜利の式神だ。
「ありがと!じゃあ、失礼します~!」
毎日のように出入りするこの屋敷は私の家みたいなもんなんだ。
食堂へ向かって、朝ご飯を食べさせてもらおう。
食堂の襖を左右二人の妖が開けてくれる。その奥に『毒消し』の術を使うフユが待つ。
美味しい香りが漂っているんだ。
日課の話はさておき、怜利が任務に出てから、もう今日で四日が経つ。学校でもトップクラスの腕だから大人が任される任務に呼ばれわけだけど、怜利がいないと皆張り合いがなくて、何となく空気が緩む。
怜利がいるときの授業なんてほぼケンカ状態なはずなのに、いなければただのダルダルとした遊びになっているんだ。
私も怜利がいると不思議と元気が出る。ずっといてほしいくらいなのだけれど我儘は言えない。
怜利がいるだけで困難な任務もパパッと終わってしまうのだから。先生たちも「早く帰ってこーい」なんて任務の準備をして待ってるし、どれだけ人気者なのだか。
あぁーうちの班も怜利がいないと任務がもらえなくて困るよ。
大きな金をたたくチャイムが鳴った。八時三十分。まだ先生は来ない。
机の中からざんねんな何とか図鑑を取り出して読み始めようとした。昨日はペンギンまで読んだところだったっけ。
「成羅さん~。今日、時間ある?」
声をかけてきたのは彩。怜利の屋敷の料理人で、とんでもなく美味しいご飯を作る天才だ。今日の朝は、忙しそうで会えなかったけど。
「もちろん!暇でしょうがないよ~」
本当に暇。怜利がいない日は特に。勉強しようにも集中できないし、ボーッとしてしまう。
「どこか遊びに行くの?」
行くとしたら、いつもの商店街だろうか。最近はシャッター街みたいになってきてしまっている。ただ、その先にある大きなお寺が私たちの遊び場になっている。
彩は横髪をくるくると指に巻き、目を閉じているのかというほど細める。考えるときの動きだった。この仕草は小さい時から変わらない。
「それもいいけど、今日も怜利くんがいないから、肉屋さんで和牛買って、すき焼きでもどうかなーって」
ああ……八神家の財布で飯を決めると。ふむ、迷うな。怜利が帰るまで我慢すべきなのかもしれないな?でもすき焼きは……食べたい。欲望に負けちゃうか?。むむ。
迷ったが、帰ってこない怜利が悪いんだ!
「いいね!疾風も呼ぶ?」
疾風は風術の達人。任務でも心強い仲間。でも、まあ……とにかくバカ。いや、うん、バカ。
「いいですね~!こなっちゃんも呼んでいい?」
「もちろん!呼んでみよう!」
最近こなっちゃんは太鼓で忙しくて中々遊べていない。遊べるといいな。こなっちゃんは彩の親友で、すごく仲が良い。羨ましいくらいに。
その日の授業をちゃんと受けた後、彩と一緒に近所のスーパーへ行くことになった。一度家に戻って準備して、それから八神の屋敷で待ち合わせ。
「こんにちは~……」
静寂。まるで時が止まったかのような屋敷だった。いつもなら訓練の声が響いているはずなのに、怜利がいないだけでこれほどまでに静かとは。
ここは怜利の家だけど、家業『祓い屋八神』の本家でもある。
怜利の両親は私たちが六歳のとき、テロで亡くなった。詳しいところは聞いたこともないけれど、多分怜利は元々ここに住んでなかったと思う。
親族間は不仲で祓い方の違いで分かれる『八神派』と『神威派』に分裂しているらしい。この本家に住んでいる八神は、怜利一人きりなんだ。
まあ、私たちからすればそんなのどうでもいい。屋敷の皆は仲が良いし。
怜利がいない今、私はいつも通り料理所へ直行する。
この屋敷、何度来ても迷う。子供の頃からの遊び場だったのに、まったく覚えられない造りをしている。
長い渡り廊下があって、意味不明な場所にある部屋、そして地下室付きの謎空間。どこに行ってもそんな部屋ばっかり。
中庭に出る。中庭に埋まっている桜を左手に進む。めちゃくちゃな手順を踏まないと目的の場所へは辿り着けないようになっているのだ。
迷路みたいな屋敷を持つ八神家といえば『始祖八家』の一つ。その辺の棚にある瓶一つでさえ、鎮めた霊を封じた代物だったりする。小さい頃に一つ落っことして、大変なことになったんだよね……あぁ懐かしい。
「彩~?準備できた?」
調理棟の扉を開ける。夕陽の温もりが差し込む調理室は、やけに静かだった。なぜだか心がウキウキしていたのだが、彩の返事がない。
しかし、あまりにも静かすぎる。
「彩……?」
一歩踏み込んだ瞬間。微かに怜利の匂いがした。いないはずなのになんでだろう、そんなことを考えた。
しまった、段差を気にしていなかった。この台所には、扉を開けてすぐに段差があったんだ。
落ちる感覚がして、同時に視界が真っ黒に塗りつぶされていった。
次の瞬間には意識が、闇に落ちていった。




