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ラッキーストライク

作者: 海野もずく

「世界は甘めに採点してやってもゴミ」

バンドをやっている姉妹の、喫煙所ベランダでの口喧嘩の様子です。



「等身大って言葉も随分陳腐になったね」

「あ?」

 妹が吐き捨てる言葉に、普段ならいちいち反応してやったりはしない。けれど等身大って言葉を妹に歌わせたばかりの私は、思わず反応してしまう。

 体温とさして変わらない温度の風が肌を撫でて、副流煙を運んでいった。夜とは思えない気温にしかし、二人で住むには狭すぎる部屋の中で、出来る限りエアコンは使いたくない。その意見に決して妹も反対しないのは、それほど私たちは困窮していて、扇風機だって止めてやりたいのだ。だから、風の吹く夜のベランダは私達二人の喫煙所かつ、避難場所になっていた。

「あんたには言ってない。独り言だよ、独り言」

「あぁ。そう」

 ベランダの柵にもたれかかって、妹はどこ見ているのだろう。目が痛くなるような金髪が揺れて、ピアスが三つ覗いた。人と話すときはその人の目を見るべきだって、私達は教わっていて、どうしても私はそういうことが苦手だったけれど、妹は話すとき、それで会話に集中できるのかって程、他人の目をまっすぐに見据える。黒目がブレないから、長くいっしょに居る私ですら時々怖くなる。

 ただ、そんな妹が今は私を見ずに、雲か向かいの一軒家のカーテンか、干しっぱなしの洗濯物を眺めている。だから、本当にどうでもいい話であるのか、面倒くさい話かの二つで、どちらにせよ反応したのはやはり私のミスでしかない。

 どうでもいい話ならばこれでお仕舞。けれどそうでなかったならば、こいつはかまってほしくてそういうことを言っている。そうやって始まった会話は、大抵掴み合いに発展する。

 座り込んで、窓ガラスに背を預ける私は、妹のスマホに視線をやった。地面に捨てられたように置かれた、罅だらけのそれ。私の妹は物を大切に出来ず、浪費癖もある。よく一緒に暮らせているなと、しみじみ思う。ただ、そこに映るのは私らの音源ではなく、名前しか聞いたことのない流行りのバンドのアルバムジャケットだったから、向こうが余計なことを言わなければ、私から喧嘩腰になる理由も、ぶん殴る理由もない。

「聞いてらんない」

 そう言って耳から外されたイヤホンは、窓ガラスに当たって跳ね返って、絡まったケーブルが轢死体みたい。

「投げるな。あんた、そうやっていくつイヤホン失くした?」

「私、算数苦手」

 思わず天を仰いだのは、間違いなく面倒なことになる事を確信したから。わざわざ挑発するようにイヤホンを投げることも、クソみたいな返答も、私の温度を上げるためにやっていることで、自分と同じ温度になって欲しいのだろう。コイツは、コミュニケーションを根本的に履き違えている。怒りには怒りで返して欲しいし、悲しみには悲しみ、歓びには歓び。それが誠実さだと思っているし、他者から尊重されることだと勘違いしている。

 ため息をついて、手にしていたラッキーストライクの灰を地面に落とす。私は人差し指を使うけれど、妹は親指で、ケツを叩くみたいに灰を捨てる。メンソールを吸っているくせにって、見るたびに思ってしまう。

「次の曲はいつできんの?」

 急かすような声色で、けれど宙に浮かぶほど軽薄な調子。

 催眠音声というのが、私たち二人組の名前。作詞作曲編曲、おしなべて私。コイツのやっているのはボーカルだけで、だからこれだって、私の温度を上げるための薪。

 私は体育座りを崩したその格好で器用に貧乏ゆすりを返してやった。

「何をそんな悩んでいるのか、私にゃあ分かんない」

 横顔の唇は挑発的に歪んでいる。全く持って分からないのは、温い風も、コイツのクソ生意気な言動も、どうして私が我慢せねばならないのか。ということで、昔からずっとそうだ。姉あるあるだなんて簡単に言う奴の口は縫い付けてやりたい。

「なんでもいいから早く書いてよ」

 思わず舌打ちが漏れた。「黙れ」って言葉も、勝手に口から飛び出した。なんでもいいなんて、絶対に言わないで欲しい言葉で、そんなのコイツだってよくわかっているはずだ。

 けれど妹は嬉しそうに私の方を向き直る。黒目が大きい特徴的な目が私の瞳とピタリと合って、それから歪む。

「私の声が無きゃあなんも出来ないあんたが? 私に何か言えるの?」

 壁を殴りつけた。幸いにも痛みは私の冷静さを取り戻すための一助になって、けれどちょっとだけだ。ニコチンに鎮静効果があるのならば、どうしてヤクザやギャングが煙草を吸うのだろう。チルとかなんとかはゴミの言う事だ。これは武器だ。いつだって私はコイツをぶち殺せる。そうやって人間は落ち着きを取り戻すものなのだ。

「何がそんなに気に食わない?」

 気を紛らわすために煙を吸って、吐いて、それから仕切り直そう。妹は実家から持ってきた見慣れたバンドTシャツを着ていて、テロテロの安っぽい質感のそれは、コイツの容姿が今の何倍綺麗だろうと、マイナスにしか働かないようなもの。ベランダの隅っこに重なるゴミ袋は、確か今週の当番は妹の筈で、辛抱しないと、また舌打ちが漏れそうだった。

「全部だって。ずっと言ってるでしょう?」

 妹は長くなった灰を柵の外側に落として、それから煙草に口をつける。夜風に揺れる煙は曇り空に溶けた。

「そう」

 私から漏れた音は、言葉というより感情がそのまま出て行ってしまったみたいなもので、ずっと言っている。って言うのは本当だ。それは思い返せば小学生のころから。だって私らの周りは全部、ずっとカスみたいだったから。母親も、父親も、二軒先が飼っている犬も、あの街全部が、私達を閉じ込める何かで、高校卒業して直ぐに、私は一人、逃げるように東京に出た。

 コイツを置いていったのは、申し訳なかったと思う。けれどだからと言って、高校を卒業する前に東京に乗り込んでくるとは思わなんだ。私は名前を書くだけで受かった専門学校に一切顔を出さなくなって、だってやりたかったのは音楽だけだった。イヤホンは世界から私を守ってくれる盾で、私と世界を繋げる糸でもあった。ロックが好きだった。ずっと昔から。

 親が車の中でかける曲が嫌いだった。テレビを見るのは禁止されていて、スマホを持てたのは高校に上がってから。けれどどういう経緯か私はラジオだけは持っていて、確か、あれは災害用だったか。部屋なんて無い、ただ仕切りがあるだけのマンションの一室。押し入れの中がお気に入りの場所だった。妹と二人、イヤホンを片耳ずつでラジオを聞いた。でもやっぱり繋がる電波の全部が、というよりラジオってその物が何処かバタ臭くて、けれど運ばれてくる楽曲だけは違った。東京とも違う、もっと遠くから響くようで、それでいて私の心の中だけに届いた何かで、音楽は私にとって自由だったり、強さの象徴で、未来の象徴だった。

 そしてそれはロックだった。

 学校でだれ一人として聞いていない曲。親だって教師だって、きっとこの街の皆が聞いていない曲。私だけの曲。それは何にも汚されていない、私だけの宝物で、気が付けばそれは私達の宝物になった。先ずは直観的にかっこいいと思って、メロディーを歌うのが楽しくて、中古のCDを買って付いてきた歌詞カードで歌詞の良さに気が付いて、ある日唐突にギターの音色に、ベースの振動に、ドラムの切れ味に、震えるようになった。その感動を一人で噛み締めるか、カラオケで一人熱唱して発散するか、時々妹と共有した。ただ、あいつが親に内緒でiPod touchを買っていたのはムカついた。だから最終的には借りパクした。大喧嘩したけどあれは私が悪かった。それもまぁ、申し訳なかった。

 そんな青春を送ったものだから、友達は居なかったけれど、中学の卒業文集に、夢はミュージシャンって書いたし、高校生でバイトを始めて、初任給で中古のギターを買った。

 ただ、案の定そのギターは、父親の不安定な機嫌によってへし折られ、私は初めて父親に反抗し、拳を振り上げ、しかし簡単にぼこぼこにされて、終いには真冬にTシャツ一枚で外に放り出された。扉をいくら叩いても無駄なことは知っていたし、もう、そんなことすらしたくなかった。人間は案外死ねないもので、ゴミ袋の隙間でもいい。まだマシだ。ただ寒くて、素足だったから指先の感覚が痛みから違う何かに変わって言って、それでも一晩眠れる場所を探して歩き回っていたら、どうしてか妹が私を追ってきた。「謝ろう」「お母さんも一緒に謝ってくれるって」ってさ。アイツはもうボロボロ泣いていて、足はよく分からないし、それどころか顔も、もう全部痛いし、本当に全部がカスみたいだった。高校を卒業して、もうそれでこの街を出ようってとっくに決めていて、東京でバンドをやろうって、その時の為に買ったばかりのスマホに作曲アプリを入れて、曲を作り始めた。学校の音楽室に、吹奏楽部が時々使うベースを見つけたから、放課後はそれを盗み出して練習した。

 けれど、東京に出て直ぐに、SNSでメンバーを集めて、結成したバンドは、結成一週間の時点でもうギシギシって異音が響きだしていた。思い描いていた姿とは遥か遠い現実。もう全員がこんな乗り物じゃあ限界があるって、分かっていた。それなのに継ぎ接ぎで走り続けて、およそ一年。とっくにマンネリになってしまった惰性だけのライブ中、私のベースだけがイカしているライブ中。女みたいな声を出そうとして、鶏の命乞いみたいな声になっている細身のボーカルに、私はいい加減ウンザリしていて、そんなボーカルに惚れ込んだピアスの数しか誇れない女どもが数人いるフロアは、曲よりもボーカルのMCの方が喜んで聞きやがるから、ぶち殺してやりたくなった。呼ぶなら私の名前を呼べ。ギタリストは音さえ出ていればいいと思っているゴミだから、とりあえず歪ませればいいんでしょって、そういう態度が見え見え。

 それなのに私はそんな言葉を全部飲み込んで、ステージに立っていた。黙々とベースを弾いた。リズム感のないドラムを心の中で睨みつけて、歪になりつつある祈りをどうにか形にしようとする。

 編曲まで終えたトラックをライングループに投げて、スタジオで合わせる。それで時々ライブに出る。でもほとんどの時間は居酒屋のバイトに消えて、その繰り返しがこの一年で、その繰り返しをずっとしていく。それもまた相当にカスなのに、自ら手放そうなんて、思えるわけがなくて、選択肢として形になる事すら恐ろしくて、もう自分でもよく分からないまんまに、ステージの上では、ひたすら俯いてルート弾きしていた。

 それだから気が付けなかった。演奏中、フロアに入ってきた馬鹿野郎に。

 ボーカルの歌が止まって、微かに金属製の軽い音。ハイハットとも違う音で、だから私は顔を上げた。ステージ上に転がった空き缶はほろよい。

 ギターが止まって、ドラムが止まった。小さい会場だ。足音はやけに響く。人もまばらなフロアを疾走する彼女の姿がようやく私の目に入って、けれど頭には入りそうにも無くて、だから私だけは演奏を止めなかった。辞められなかった。半自動的に染みついた動きを繰り返していただけで、頭の中は大パニック。ベースラインだけが浮き彫りになる中、彼女はボーカルの困惑顔にコークハイをぶちまけて、ステージから突き落として、「私が歌った方が幾億倍もマシ」マイクを通して響いた声は、やはり私の良く知っている物で、しかし惚れ惚れする程、手際のよい見事なハイジャックだった。

 どうしてか彼女を止められるものはきっとこの世に何もなくて、だって私への目配せ一つで、口から出かけた「殺すぞ!」って罵声を引っ込ませて、「そのまま」って彼女の唇の動きだけで、なんかやる気になってしまった。

 意識的なダウンピッキングが空気を震わせる。彼女は一つ叫んだ。嗄れた声が混乱した空気を打ち壊した。未だ困惑したまんまのトロいギターに蹴りを飛ばしたのは私。ドラムを睨みつけて、中断された曲が初めから。

 ベースイントロは大概名曲なんだ。それでいて、この私が作っているのだ。間違いなんてどこにもないんだ。高音を出したがるくせにロクに出ない元ボーカルに合わせたキーと我が妹のハスキーボイスは完璧にマッチしている。ライブハウスの閉塞感を際立たせるような歌い方は、むりやり相手の心臓を掴みに行くような勢いで、カラオケとライブは違う。ただのボーカルとフロントマンは違う。別に上手い下手じゃない。良いか悪いかだ。高音がどれだけ出ただとか、こぶしとかビブラートとか、知らなくていい。どれだけ震わせたかだ。

 ていうか、なんで私の曲歌えんだよ。コイツはさ。

 東京に出る前、私は自分で作った曲を本当に誰一人にも聞かせなかった。両親、クラスメイトなんて論外だけれど、妹にだって。それなのにコイツは一発で完璧に歌って、勿論歌詞だって間違いなく頭に入っている。抑揚の付け方も、間の取り方も、私が本当に望んでいたもので、私はなんだか泣きたい気分になって、でも、笑いたい気分でもあって、だって誰かに届けるなんて傲慢だ。誰かを歪まそうなんて傲慢だ。けれど、コイツとならって、そう思ってしまった。私の祈りが誰かに届くんじゃないかって、夢を見させられて、つまりコイツは天才だった。

 彼女は声が止んだのは、ほかの音が鳴りやんで、それからようやくで、けれど彼女のシャウトは見事だった。全員に手ごたえがあった。これがバンドだと初めて知った。これがライブだと実感した。ずっと昔から思い描いていた何かだった。拍手は無かった。ただ確信はあった。

 荒れた呼吸。妹は肩を大きく振るわせながら、ようやく振り向いて、私に笑いかけた。私が静かに頷くと、「じゃ、このクソバンドは解散で」マイクを通して響き渡った。

 違う。そういう意味で頷いたんじゃない。

 けれどもうなんか全部は決まってしまったのだろう。

 焦ったのか、再び舞台上に這い上がらんとする元ボーカルに、妹は蹴りをぶち込んで黙らせた。再び騒然となる会場。もういいか。って、とっくに決まっていた覚悟を直視した私は、客席に飛び降りて、諦めずにステージに手を掛けている元ボーカルに飛び蹴りを食らわせた。

 例えば遅刻が多かったとか、普段から明らかにワンチャンを狙いに来ているとか、居酒屋での下ネタとか、フラッシュバックみたいに全部を思い出して、もう止まらなかった。舞台上ではなぜか妹が、逃げようとするドラムの髪を引っ張って引きずり回していた。この女もなかなかムカつく野郎だったんだ。泣き喚くそいつがドラムスティックで反撃してきやがったから、妹はもうヒートアップ。私だってヒートアップ。結果、どうしてか機材がいくつもお釈迦。客からの罵声が聞こえて、もう我を忘れた私は、客だろうとお構いなしにぶん殴っていて、そしたら警察がやってきた。もちろんライブハウスは出禁。借金の桁がすごいことになった。

 まぁともかく、私は半年前に色々失って残ったのはコイツだけ。

 基より一人で編曲までしていたから、二人でバンドを組み直しても何ら問題は無かった。ライブやる時はちょっと頭を悩ませたけど、妹がサポートメンバーを簡単に連れてきた。どういうツテなのだろう。

 でも、それだって才能なのだと思う。

 私にはない才能。

 一人で生きてきた私と、いつも人に囲まれていたコイツ。それでも今は同じステージに立って、同じベランダで煙草を吸っている。不思議なようでもあって、当然なようでもあった。

 妹の吐いたため息には、もう色が混じっていない。蝉の声は夜の方がよく響く。彼女の空っぽの右手がぷらりと宙をなぞった。

「私たち、最高のEPを作ったよね」

 ようやく口を開いた妹の声色は、さっきまで抱えていた挑発だとか、嘲笑だとか、そういうものを何処に捨ててきたのか、まるで小さな子供みたいで、煙草の匂いがまるで似合わなかった。

「あぁ間違いない」

「じゃあ、なに? これ」

 妹の指が地面に横たわったままのスマホの画面を指した。私達のバンド、催眠音声が処女作のEPをリリースできたのは、たった一週間前の事。

 ただ、それでも彼女の言いたいことは、そんなわざとらしい動作をせずとも伝わっていて、だって私も妹も同じことを思っている。

「最高の曲、最高の歌詞。そこに超最高の私の声が乗ってる」

「超最高の曲に、超最高の歌詞。間違いなく世界一のEPだ」

「何か間違いがある?」

「無い。断言できる」

 およそ半年間の地獄みたいな日々を思い出す。主にコイツのせいだ。作詞作曲できないくせに、いくつもいくつも私の作った曲を没にしやがった。それでいてその理由もあやふやというか要領を得ないモノばかりで、罵り合い、掴み合いは日常茶飯事。ただ厄介なのは、時間が経てば確かに私にも没になった理由が朧気ながらに理解できてしまうところで、コイツの審美眼は正しい。時間を掛けたか否かではない、技巧を凝らしたか否かでもない。ただ、良いものと悪いものを、確かにコイツは嗅ぎ分けていた。

 だからその末に完成した作品は、なにも間違ってはない。私もコイツも作品も、全ては正しい。それだけは保証できる。

 ライブだってそうだ。コイツは相も変わらず傍若無人で、サポートメンバーにも私にも、客にだって罵声を浴びせることがある。けれど、やっぱりコイツのパフォーマンスは圧倒的で、時々本当にいいと思えるライブがあるんだ。それにファンだって数十人とは言わないけれど、毎回来てくれる人は何人かいて、それはどうしても思い描いていた姿とはやっぱり違うけれど、それでも進んではいる。

「じゃあなんで私たちはロックスターになれてないの? わざわざ金払ってライブに出る必要があるの? なんで音源審査に落ちた上に、エゴサしてもなんも引っかからないの?」

「この世の全部の物事は、人に伝わるには時間がかかる」

「本当にそれで納得してる?」

 そう言われたら舌打ちを返す事しか出来ない。もどかしさを感じているのは私だって同じで、不安なのだって。いつまで? と、どうやって? がずっとずっと頭を巡る時間がある。

 私は灰皿に煙草を放り投げて、その右手で新しい煙草を摘みだして、火をつけた。

「私らの曲を聞いたことない奴らが多すぎるんだ」

 会話は随分テンポダウンした。だから、ラッキーストライクの苦みが嫌にはっきり感じられた。

「邦ロック好きと繋がりたいって言っているやつらが、私らを無視してるのだって、やっぱり何かおかしい」

 娑婆いなれ合いのハッシュタグ。けれど、一聴すれば私らの名前を出さないわけにはいかないはずで、そういうものを作った自負がある。私らの音楽を聴いた奴らが、語り合いたくなるのは必至なはずで、そうじゃないのだとしたら、それはもう、どうしようも無いような気がする。

「どう聞かせるの? 私が脱げばいい? 踊ればいい? 曲を切り刻んでネットの海に放流する?」

「全部却下」

 全部ゴミ。どうしてそんなことをする必要がある? 私たちが救われた音楽は、そんな小細工なんて必要なかった。お前だってそんなこと知っているからそうやって笑うのだろう。

「じゃあさ、それなら新しいのを作るしかないじゃん?」

「うるせぇな。なんで一週間も待てねぇんだお前は」

 妹も二本目に火をつけた。

「本当に魅力的なものは一瞬で伝わらないとおかしい。女も男も音楽も総じて全部がそう。惚れた腫れたの問題は零コンマ一秒が全てで、一週間も半年も一年も先延ばしにする問題じゃないと思う」

 私だってそう思っている。だから同意の言葉が、口から出かけて、けれど脳みそがストップをかけた。喧嘩を売られた気がした。

「惚れた腫れた?」

「何か間違ってた?」

 そのニタニタ笑いで確信した。

「全部。全部が間違ってる」

 吸いかけの煙草を地面に落として踏み潰す。その足で、妹の眼前に詰め寄った。

「私への対抗意識なのかなんなのか、直ぐに男をとっかえひっかえして、寝たとか、寝とられたとか、なぁ、お前は自傷行為する猿と何が違うんだ?」

 唾が飛んだ気がした。それでもコイツの黒目も目尻に作った皺もブレないまま。

「あんたみたいに惚れた腫れたの問題を先延ばしにしているうちに、別の女に取られて、それを繰り返し見せられてみなよ? 昔からだよ?」

「出てけよ」

 妹は甘ったるい煙を私に吹きかけた。

「あぁ。まだ引きずってるんだ。どの男? あのバンドのベーシスト? アイツのバンドクソゴミなのに見る目ないなって思ってたんだよね」

 灰皿を蹴り飛ばす。酷い音が鳴る。それは家を借りて、初めて買ったものだった。実家で煙草を吸うと親から殴られた。服から匂いがするだけでも殴られた。

 妹は未だニタニタと笑いながら、見せつけるように煙草を唇で上下させて、コイツは上手くやっていた。どうしてかコイツが煙草を吸っていることを親は知らないでいて、どうしてか私よりも殴られないで叱られないでいた。ムカついてムカついてしょうがない。けれど分かってしまう。コイツはこんなことを私に言いたいわけじゃないことを。コイツには今、むしろ切実に聞いてほしいことがあって、どうしても吐き出したいことがあるんだって。

 姉って言うのはつくづく損な役回りだ。甘え方すら不器用なコイツに気を使わなきゃならない。それは、もう論理じゃない。例えばこんな奴ぶん殴ってしまえって、第三者から言われたら、私は迷わずそいつの顔面を凹ませる。そういう風になってしまったし、私はそういう生き物なのだ。それは耐え難いけれど、それを許せない程、もう私はガキじゃなかった。

 大きく呼吸をしてその場にしゃがみ込む。今一度、煙草を咥え直して火を点ける。天に向かって煙を吐き出すと、丁度妹の顔にヒットして、彼女の顔が歪んだ。それが少し愉快に思えた。

 肩を鳴らして、もう一度立ち上がる。お前の目をこっちからだって見据えてやる。

「わかったよ。なんだ? 何がそんな我慢ならない? お前がそうやって荒れるときは大抵ろくでもない理由がある。また男がらみなのか? この時間にベランダにこうやっている時点でおかしいもんな」

 そういえば部屋のテーブル上には空き缶がいくつか転がっていた。度数は高くない、甘い酒ばかり。そういうところがコイツのダサい所で、けれど、憎めない所だった。

「だけどな、一つだけ言いたいことがある。自傷行為がしたいなら私を巻き込むな。手に持ってる煙草だろうと、シンクにあるカミソリでも好きに使えばいい。ただ、私を巻き込むな。私が言いたいのはそれだけだ」

 くだらない話をしたいわけじゃないんだろ。って、そういうことを私はこんな捻くれた言い方でしか伝えられない。本題に入れだとか、そんなストレートでなくてもいい。ともかくもっと適した言葉はあるはずなのに。

 妹はゆっくり私から目を逸らした。それでも私は彼女の事を見据えたままで、ベランダの柵に肘をついた。口を開くまで、またいくらでも待ってやるつもりではあった。都合よく煙草に火も点けたばかりだった。けれど案外彼女は、呼吸二つ分の後に口を開いた。

「世界は甘めに採点してやってもゴミ」

 その言葉は吐き捨てるというより、そっと手渡すような響きだった。

「あぁ。それで?」

 なんだか懐かしい記憶が頭の中で煌めいて、それはけれど記憶と呼べるほど鮮明じゃなくて、こんなことがきっと昔にあったような気がしたのだ。

「でも、少なくとも音楽だけは違う」

「あぁ」

 妹の右手に煙草は既に無くなっている。私の方を見ないままに、お前は何を見ている? ちんけなプライドが理由で、私にその表情を見せたくないんだろうが、どんな表情をしているかなんて、見なくともわかる。小学校の頃、クラスメイトに陰口を叩かれていたって、その程度の事を言葉にするのに、こいつは三時間もかけた。そのうちの二時間は殴り合いだった。こちとら陰口なんか日常茶飯事。そんなので落ち込んでいたら生きていけなかったって言うのに。私が父親から殴られた後、決まってコイツは泣きそうな目で私を見た。何でお前がそんな顔するんだよ。って思って殴ったら殴り返された。

 私の方を見ないまま、妹は左手を差し出した。レギュラーの味は嫌いっていう割に、時々こうやって吸いたがるのは、味が理由じゃないのだろう。こんなのだってもう慣れっこなんだ。私は箱を手渡した。確か残り一本だったから。妹は中身覗いて舌打ち一つ。それでも文句は言わず、ポケットに空き箱を捻り込んだ。

 けれどライターに手を伸ばす気配はなく、ただ煙草を唇に挟んで、弄んで、雲の向こうの何かを見つめて鼻で呼吸をする。そうやって煙草に火をつけるまで、数分かかった。それは再び彼女が口を開くまでの時間と同じで、だから私の妹は、わざわざ煙草に火をつけながら、器用に、でも不明瞭に言葉をおっこどした。

「音楽すら信じられなくなりそう」

 東京の夜は深い。私らの実家の夜の方が暗いはずなのに、静かなはずなのに、どうしてかそう思う。繋がりなんて息苦しいだけで、実際それは間違っていないと思う。子供のころから、あの街で私の周りにあったすべては本当にウンザリする程に救えないモノばかりだった。けれど何にも寄りかかれなかった独りぼっちの東京は、暗くて、重くて、解放感なんてすぐにしぼんで、そんな自分だって最悪だった。売れるわけのないって、どこかで解っていたバンド。モチベーションの差があった。大学生のメンバーだっていたし、いつまでたっても上達しなかったドラムも、女と寝る事だけが目的だったボーカルも。けれど辞めるわけにはいかなかったんだ。

 私は悲しいのか、寂しいのか、きっと悔しくて、そして今まで言われたどの言葉よりも妹のその言葉は、聞きたくなかったもので、これは怒りなのかもしれない。

「本当にお前はめんどくさいな」

 私は妹のハイライトメンソールのパッケージから、一本引き抜いた。妹は片目を寄こしただけで、何も言わない。火をつけるとクソみたいな味がして、そりゃあメンソールの中ではましな方かもしれないけれど、こんなものを好んで吸う人間の気が知れない。私は舌打ちをして、煙を吐き出して、それから改めて肺の中の空気を吐ききって、煙草はサンダルの底で踏み潰した。

「なぁ」

 私は口に残った不快感をそのままに、妹に話しかける。

「音楽がどうだろうと、世界がどうだろうと、私らの音楽だけは間違いなく最高だろ?」

 大人しく、無言で頷きやがった。

 そうだ。私たちは間違いのない音楽を作っている。お前は天才だ。私だって。それなら簡単なはずで、そうじゃなきゃいけないだろうと思う。だからそんなことを言わないで欲しい。そんなことを言わせてはいけないのだ。

 私に不安を思い出させないでくれ。

 お前はそんな感情抱かないでいてくれ。

「最高って言うのは全部を塗り替えられるもんだ。時間がかかるかもしれない。だけれど、確実に塗り替えられる」

「じゃあ何が問題なの?」

 その声が、少しだけ明るくて、それに救われたような、けれど、どこまでも沈んでいく底なし沼に足を取られたような。

 でも問題なんて無いんだ。

 初めてのライブで感じたあれは、夢じゃなかった筈だ。

「私が聞きたい。私らに問題なんて一つでもあるか?」

 妹は何かを鼻で笑って、首を横に振った。いつの間にか彼女の手からも煙草がなくなっていて、背伸びなんかするもんじゃないぜって思う。

「いいんだよ。どうにかなる。きっと、絶対、どうにかなるからさ」

 それは私一人じゃ言えそうにもないことだったし、お前に向けてしか言えないことだと思う。

「信じろ」

 信じていてくれ。

「何を? 世界を?」

 妹はやっとこっちを向いた。わざわざこっち見なくてもさ、やっぱりそんな顔していやがった。

「愚問。私らをだ」

 それで、なによりも、私を。

 私も、信じるから。

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