りんご飴が大きすぎて食べられない
一
夏祭りの雑踏の中。
光と音に包まれた境内の片隅で、赤城は“それ”を見た。
――白い浴衣。金魚柄。
夜風に揺れる髪と、目を伏せた横顔。
それは学校で有名な“高嶺の花”だった。
笑わない。誰ともつるまない。
噂ばかりが一人歩きしていた、隣のクラスの――白瀬真白。
「……りんご飴、大きすぎて無理かも」
ぽつりと漏れた独り言に、思わず赤城は足を止めた。
彼女の手には、色鮮やかなりんご飴。
けれど、その顔には困ったような、でもどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「……食べられないなら、持って帰れば?」
不意に声をかけた自分に驚いたのは、たぶん真白より赤城自身だった。
真白は、くるりと振り返る。
赤城をまっすぐ見つめて――そして、ふわりと笑った。
「それじゃ、りんご飴の意味がないじゃない」
その瞬間、夏の空気が変わった気がした。
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真白はまた視線を飴玉に戻す。
淡い光が浴衣の袖を透かしていた。
……どうしよう、と思った。
まさか、話が続くなんて。
「……赤城くん、で合ってるよね?」
不意に名前を呼ばれ、赤城の心臓が跳ねた。
「えっ、あ、うん……!」
「よかった。……体育のとき、大きな声で応援してたでしょ?あれ、聞こえてたよ」
赤城は喉が詰まるような感覚に襲われて、言葉が出てこなかった。
あのときの声援なんて、自分でも忘れかけていたのに。
まさか、真白に届いていたなんて――。
「……そっか…聞こえてたんだ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
真白は、また少し笑った。
浴衣の袖がふわりと揺れて、金魚の模様が夜の光に浮かび上がる。
「なんだか楽しそうだった。……そういうの、ちょっと羨ましいなって思ったの」
「え?」
「ううん、なんでもない」
小さく首を振って、真白はりんご飴を見つめ直す。
けれど、その表情はさっきまでより、ほんのわずかにやわらかくなっていた。
「……やっぱり、ちょっとだけ頑張ってみようかな」
そう言って、真白はりんご飴にそっと歯を立てた。
ぱきん、と飴が割れる音が、夏の喧騒の中で不思議とよく響いた。
赤城は、その横顔をただ見つめていた。
ぱきん、ぱきん、と、飴を割る小さな音が続いた。
真白は一口かじるたびに、ちょっとだけ顔をしかめて、けれど口元はどこか楽しそうで。
その様子に、赤城はなんとも言えない気持ちになる。
真白のことを「高嶺の花」だと思っていた。
手が届くわけがない。視界の外の人間だと、勝手に決めつけていた。
なのに今、目の前で笑っている。
ちょっと不器用で、頑張って、りんご飴をかじってる。
それだけのことなのに、なぜか胸の奥がぐっと熱くなる。
「……なんか、変な気分だな」
ぽつりと漏らすと、真白が不思議そうに首をかしげた。
「なにが?」
「いや、その……俺、白瀬さんのこと、もっと完璧な人だと思ってたから」
「ふふ。……完璧な人なんて、いるわけないでしょ?」
笑いながら、真白が飴をもう一口かじった。
今度は少し大きめに欠けたそれを、ちら、と赤城に向ける。
「いる?」
真白は、手のひらに小さな飴の欠片をのせて、赤城の前にそっと差し出した。
「大きいとこ、赤城くんにあげる。」
無邪気とも、少しいたずらっぽいともとれる笑みが、その唇の端に浮かぶ。
一瞬だけ、赤城の喉が鳴った。
返す言葉が見つからずに、彼はただ黙ってその飴の欠片を受け取る。
ほんのりと甘く、そして少し、体温を帯びたその飴は――彼の胸のどこかを、じんわりと熱くさせた。
「……あっ」
不意に、真白が声を上げた。
見ると、彼女の指先にあった飴のかけらが、つるりと滑って地面に落ちていた。
「あっちゃあ……」
赤城は思わず吹き出しそうになったけど、慌てて堪える。 真白はほんの一瞬だけ、しょんぼりと肩を落とし――けれど、すぐにふっと笑った。
「……なんか、ごめん。あげたのに、なくしちゃった」
「いや、俺が受け取るの遅かったから……って、いや、まあ、りんご飴ってこんなに難易度高いんだなって思った」
「ほんと。…あれ、なんでこんなにベタベタするんだろ」
真白が指先をぺたぺたさせる。
そこに、ふいっと夜風が吹いて、浴衣の袖が揺れた。
赤城は、咄嗟にポケットからハンカチを取り出して差し出した。
「……よかったら、使って」
真白は、少し目を見開いたあと、控えめにそれを受け取る。
「ありがとう。赤城くんって、優しいんだね」
「え、あ、いや……そういうんじゃ……」
なんだか急に暑くなってきた気がして、赤城は目をそらした。
真白はそんな様子を見て、くすっと笑う。
ぱちん、と遠くで花火の音がした。
夜空に咲いた色が、ふたりの影をほんのり照らす。
「……ねえ、赤城くん」
「ん?」
「今度、りんご飴じゃなくて、わたあめにしよっかな。そっちなら……たぶん、私でも食べられるかも」
「……ああ、それなら、俺も手伝えるかもしれないし」
「…欲しいの?」
「やっ…もし!もし食べきれなかったら……!」
ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑い合った。
何も約束しない。でも、何かがそこに芽生えたような気がした。
境内に、最後の花火が打ち上がる。
夏の匂いと、甘い飴の残り香。
浴衣の袖が風に揺れ、ふたりの距離は少しだけ近づいていた。
――数年後の、夏祭りの夜。
夜風が熱を帯びた人混みをすり抜けていく。
赤城は、ひとりで歩いていた。
祭りは昔とあまり変わらない。
けれど、自分の背丈も、見下ろす景色も、あの頃よりずっと変わっていた。
ふと立ち止まる。
そこにあったのは、わたあめの屋台だった。
……何年経っても、この匂いだけは、変わらない。
目を逸らしかけたそのとき――
「……それ、買うの?」
声がした。
聞き覚えのある、でも少しだけ大人になった声。
振り向くと、
そこに立っていたのは、あの夏の夜の――白瀬真白だった。
「……えっ……」
赤城の喉がひくりと動いた。
目の前の現実を理解しきれないまま、視線が彷徨う。
真白は変わっていた。
けれど、そのまなざしは――確かに、あの夏の夜と同じだった。
「久しぶり。……元気、だった?」
「……なんで……」
言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。
目の奥がじんわり熱を帯びて、まばたきが追いつかない。
「本当に……いたんだ。夢じゃ、なかったんだな……」
真白は、少しだけ目を伏せた。
「……ごめんね、何も言えなくて。
あのあとすぐ、引っ越しが決まってて……。
ほんとは、次のお祭りも、一緒に行きたかった」
赤城は、うつむいて息を吐いた。
「……ずっと、思ってた。あの夜のこと。
たった一晩だけだったのに……ずっと、心に引っかかってて」
一拍、置いて。
「……会えたら何を言うか、何度も何度も考えて……
なのに、いざとなると何も出てこないんだ」
真白は、そっと笑った。
その笑みに、少しだけ“ごめん”が混じっていた。
そして、わたあめをひとつ買うと、
ほんの少し躊躇してから、赤城に差し出した。
「今日なら、食べきれそうな気がする。……一緒に、どう?」
赤城は、その白いかたまりを見つめたまま、手を伸ばしかけて止まる。
「……これ、本当に……今度こそ、“また来年”って言っても、いいのかな」
真白は、しっかりとうなずいた。
「うん。今度は、ちゃんと約束できるよ」
その一言で、胸がじんと熱くなった。
言葉にならなくて、ただ黙って、赤城はわたあめにそっと触れた。
夜空の下。
甘い香りに包まれて、ふたりは並んで歩き出した。
“何も始まらなかった夏”。
でも、あの夜に置き去りにしてしまった約束が、
今、ゆっくりほどけていくようだった。